意味不明
意味不明で奇妙な文章を前にして純粋に困惑した経験のある方がここには多くいらっしゃることでしょう。そんな文章に向かって思わずこう言いたくもなるでしょう。もっと分かりやすく書けよと。いくら書いたところで読者に伝わらなかったら仕方ないだろと。至極真っ当な意見です。私もあれらの文章を読んだらきっとそう思います。全然分からんってバチバチにキレ散らかすと思います。それが普通の反応でしょう。しかし、ひとつ覚えておいて欲しいのです。前提として読者の前に提示された文章は嘘偽りなく読者のものです。作者のものではありません。作者の手を離れた時点で作者に口出しする権利はないです。なので好き勝手言って構いません。少なくとも私は。他の方がどうかは分かりませんが。しかし、そうである前に、作者自身にとっては作者のものなのです。これがどういうことか分かりますか? つまり作品は両者にとって鏡なのです。読者にとって、眼前の文章は読者自身の姿を映す鏡の役割を果たし、作者にとっても同様です。すると、読者にとっては文章を読むことで作者と対話しているつもりになったとしても、実は自分の映った鏡にひたすらジャブを打ってただけだったってことが良くあります。笑えますよね。滑稽で。でもそんなことはしょっちゅうです。
基本的に文章を「正しく」読むことは不可能です。なんせ作者ですら出来ないのですから。作者は自分の姿が映る鏡を見て文章を書きます。いいえ、この言い方は適切ではないです。どういう訳かなんか適当に書いていたらどこかからかひょっこり出てきた鏡の中に意図せず何かの影を発見するのです。あれっ? 今なんか通ったような……? 気のせいか。書き進めるとまた表れます。ひゅん。今度は目にも止まらぬ速さで駆け抜けてしまいました。不思議に思い手を止めます。目を凝らして鏡をじっと見つめます。そこに映るのは何の変哲もない自身の姿。いつもと同じ、変わり映えしない自身の姿です。時折すれ違う得体の知れない影の正体を突き止めようと格闘しますが、なかなか上手くいきません。虫取り網を持って影が通った瞬間にパサッと捕獲しようとしますが、空気以外何も捕まりませんでした。姿をはっきりと確認しようと懐中電灯で照らしますが、おちょくるようにぼや〜っと浮かび上がるだけで掴みどころがありません。奴らは幽霊の類なのか? いまひとつ釈然としません。ですが、万策尽きたので、諦めて書くことにしました。書くことに夢中になっていて、鏡にはっきりと映り込んでいるものに気がつきません。筆を進める度に、鏡の中で影は生き生きと楽しそうに踊っているように見えます。しばらくして筆を置きました。どうやら書き終わったみたいです。鏡に映っている影のことなんてすっかり頭から抜け落ちていました。ふっと思い出したように鏡の方をチラッと見やるのですが、影はどうやら恥ずかしがり屋なのかサッと姿を眩ませてしまいました。完全に忘れていた。書いている最中ならはっきりと見られたのだろうに。そんな気がする。軽く歯噛みしますが、しかしもうどうにもなりません。何かがいることは確信していますが、それが何なのかはおそらく作者自身にも分かりません。作者自身の精巧な複製なのか、作者に若干似た影なのか、全く似ても似つかないような幽霊なのか。想像もつきません。これぞまさに神のみぞ知るです。
このようにして文章は作者の何某かを投影しております。それが読者に届けられる訳ですね。読者はそれを元に作者の影を追うもよし、独自の解釈を加えるもよし、くろやぎさんみたく読まずに食べるもよし、好きなように調理できる訳です。読者の想像する像が作者の想像する像に酷似していたらそれが正しい読みだと呼ばれるのかも知れないですが、それが「正しい」だなんて果たして誰が分かるんでしょうか? 仮に読者の想像する像と作者の想像する像が一致していたとしましょう。しかし、作者の鏡の中に映る像と作者の想像する像が一致することは万一にもないでしょう。作者は無限にも思えるその距離を楽しんでいるのですから。実際彼らはその姿を見てもないし聞いてもいないのですから無理もないでしょう。綱渡りの曲芸師なら時々可能なのでしょうが、それでも微かにぼんやりと分かる程度です。作者は基本的に作品を作り上げることは得意ですが、影を追うことは、ましてやそれをきちんとした像に仕立てあげることは概して不得手です。だから書いているのですから。その為に書くとすら言えるのですから当然です。読者においても混迷の度合いはさして変わりないでしょう。作者は分かりそうで分からないのに対して、読者は全くとっかかりがないみたいな状況になりやすいですから、より苦しいとも言えます。迷子にならない為に読み進めたのに、余計に迷子が悪化するみたいな状況にならないことを祈りますが。迷子になったら鏡をよく見ることです。そして影と像のことなどすっかり忘れてよく眠ることです。このように作者、読者の両者ともに「鏡よ鏡、あそこに映っているのは何? 」っていう状態なのです。なので、こうした場においてはその不器用な迷子こそが良さであるという言説は一定の価値を持つでしょう。作者の意味不明な像を追うということは文学の醍醐味であると言えるでしょう。
個人的な話に移ると、私が事物を事細かく詳細に記述しないのは、私が面白いと思う余地を残しておかなくちゃならないからなのです。文字のジャングルを探検するのが好きだからです。全文が一文一意みたいにカチッとしてたら神様もきっと退屈してしまうでしょう。八百万の神様をも悉く迷子にさせてやりましょう。私は解釈の幅を持たせた作品の方が好きです。なのである程度のばらつきを持たせています。その幅が一般よりもかなり広めなのでしょう。広げ過ぎて恣意的な解釈や勘違いに苦慮することもありますが、それはそれでご愛嬌と言えるでしょう。もちろん文句は言えません。ばらつかせるのは、そうしないと途中で飽きてしまうからです。単純に怠惰だということの方が大きいですが。だって結末が分かっているのですから。書く必要もないですし、読む必要もありません。車輪の再発明みたいなものです。改めて何の為に書いているかと言われたら、一つにはそれを一種の踏み絵として機能させる為です。怠惰な迷子であることの証として。自戒の意味も込めて。
最後に。高望みし過ぎと言われるかも知れないですが、貴方の意味不明を探って欲しいのです。私のではなく。正確に言えば、作者の意味不明を探ることを通じて、自身の意味不明に触れることをです。それが何よりの糧となるでしょう。迷子である我々にとって。その為にこの文章を書いたと言えるのですから。