こんな好青年に育つなんて思わなかったんです……
『必ず、貴女の元へ戻ってくる』
年上の婚約者は、そう慈愛のような優しい笑みを浮かべて、戦地へ旅立った。必死に背伸びをしていても、幼い私は待つことしかできなかった。
そうして終戦と共に結婚できる年になった時、彼はとうに亡くなってしまっていたことを知った。
*
カーライル辺境伯爵に住み込みで働く家庭教師こと、私クレアの朝は早い。
「おはよう、今日も綺麗ね」
まず起きて、花に水をやる。今育てているのは、勿忘草だ。小さくて可愛い水色の花が健気に咲いている。日当たりと風通しのいい庭先は、育てるのにうってつけだった。
「旦那様には感謝しかないわ」
最初は本邸の部屋に住まわせてもらっていたのだけれど、ある朝散歩していたら、この使われていない小屋を見つけた。住んでいいか聞いたところ許可を貰えたので、それ以来この素敵な小屋で寝起きしているのだった。
「田舎の子爵令嬢には、本邸はちょっぴり恐れ多かったのよね」
花に水をあげたところで井戸から水を汲み上げ、顔を洗う。
地味な黒いワンピースに袖を通し、汚しても大丈夫なように襟もつける。髪は三つ編みにして後ろで巻き上げて。
「よし」
鏡で身だしなみを確認する。
朝日を浴びて、ストレートティーのような色の髪が光った。ペリドットのような瞳がそれを追う。
人から見たら地味だとしても、私は祖母譲りのこの髪色と、母譲りの瞳の色を気に入っていた。
「今日も頑張りましょう」
そもそも家庭教師は華美ではいけない。家族として受け入れてもらえる反面、あくまで教師として恋仲などには絶対になってはいけないからだ。そのため妙年の婚期を逃した女性や容姿の悪い女性の受け皿となっている。
「……今日も、バレないようにしないと」
十歳も年齢詐称していることが。
これには深い理由があった。私が十歳の時、九つ上の婚約者が戦争へ行き、十八の時に戦死を知った。つまり、結婚適齢期になってから婚約者を失ったのである。
「はぁ……」
そして我が子爵家は田舎も田舎で、婚約を結べそうな貴族は周りにおらず、社交界に頻繁に参加することも難しい。おまけに財政難だった。
そこで年齢詐称してでもと、本当は二十歳なのに、三十歳を装い雇ってもらったのだった。大人っぽい顔つきでよかった。これで実家に仕送りができる。
「さて、今日は坊ちゃんをどう勉強させようかしら」
*
「勉強なんて誰がするか!」
坊ちゃんはそう言って、訓練用の短剣を振る。これから勉強の時間だというのに服の裾が泥だらけだ。
「しなければならないんです。ほら、剣を置いてペンを持ってください」
坊ちゃんことルーカス・カーライル辺境令息は大の勉強嫌いだった。幼い頃にお母様を亡くされて、辺境ということでなかなか家庭教師が雇えずにいたのもあるかもしれない。でも、流石に酷すぎる。
「嫌だ。俺は騎士学校に入学する。勉強はなんて不要だ」
綺麗な金髪を揺らして嫌々と首を振る坊ちゃん。十歳にしては幼すぎる。だからこそ、男性の家庭教師ではなく私なのだけれど。
「貴族として、一般教養は身につけなければなりません。算数もダンスも貴族として必要なことです」
こうやって諭して勉強を始めるのが、毎回毎回一苦労だった。
「これはですね、勿忘草といいます」
すぐに勉強に入るのではなく、まずは世間話のような知識について教える。
「花言葉は、私を忘れないで。昔川に落ちて死んだ恋人の忘れ形見として有名です」
「……花言葉なんか何になるんだ」
つまらなそうな顔をしている坊ちゃん。やれやれ。
「あら、坊ちゃんはご令嬢に花も送れないような貴族になるのですか?」
「……」
そう言うと黙った。私はしてやったりな気分で、今日の授業を始めた。
「な、なんだこの美味しそうな匂いは」
「フロランタンですよ。坊ちゃんが真面目に勉強したらご褒美に差し上げようと思っていたものです」
今度はご褒美作戦だ。昨日厨房を借りて腕によりをかけて作ったパリパリサクサクなフロランタン。
「……っ別に厨房にいけば」
「これは私の手作りなのでここにある分しかありませんよ」
それも想定済みだ。すかさずそう言うと、坊ちゃんは悔しそうに口をへの字に曲げた。
「卑怯だぞ」
「何も卑怯ではありませんよ。では二十ぺージから始めましょうか」
坊ちゃんは座学が嫌いだから、このくらいしなければ。ペンをとった坊ちゃんを見て上がりそうになった口角を押さえながら、私も教材のページを捲る。
「ほら、足が間違っていますよ。そこは右です」
「……こうか?」
「そうそう、上手上手」
ダンスは特に大事だ。万が一でも女性の足を踏むなんてことがあってはいけない。
だからこそ褒めると嫌そうな顔をした。少し頬が赤くなっている。
「子供扱いするな」
「はいはい」
子供扱いされたくないお年頃ですものね。と微笑ましく思っていると、それに気付いたのか坊ちゃんはより不機嫌そうにため息をついた。
「婚約者様は、すごく優しくて優秀な人でした。私と同じ田舎の貴族なのに立ち振る舞いが優雅で。私は追いつこうと必死でした」
ある日、急に婚約者について聞かれた。坊ちゃんにも婚約の話が出ているのだろうか。
坊ちゃんは苦々しそうにこう言う。
「だから、今も想っているのか?」
「いいえ、ただただ大好きだったんです」
それからというもの、坊ちゃんはより真面目に授業を受けるようになった。こんな田舎娘の婚約者に負けているというのが耐えられなかったのだろうか。
「凄い、全部あってますよ」
つい頭をわしわしと撫でてしまう。ふわふわとしていて気持ちいい。
「っおい、頭を撫でるな!」
「いいじゃないですか。素晴らしいですよ坊ちゃん」
頬を膨らませてそっぽを向く坊ちゃん。少しは大人っぽくなったと思いましたが、まだまだなようですね。
「……いつか覚えとけ」
捨て台詞のようなものを吐くものだから笑ってしまった。
「坊ちゃん」
「……坊ちゃんと呼ぶな」
「ついに、騎士学校に入学ですね」
「ああ」
そうして、いつのまにか四年が過ぎ、坊ちゃんは十五歳になった。
まさに成長期という感じで、どんどん身長が伸びていっている。私より低かったのに、いつの間にか追い越されてしまった。
「待っていて欲しい」
待っていて欲しい、とはどういう意味だろうか。
坊ちゃんが育つということは、別れを意味する。私は家庭教師で坊ちゃんは生徒だからだ。
「必ず、会いに行く」
それは、昔聞いた言葉にそっくりで。言葉に詰まってしまった。
「……期待せずに、待っていますね」
あの時とは違う。教え子が、成長を見せにきてくれるだけ。だから、大丈夫。
そうやって、あの時の自分を押さえ込んだ。
*
「クレア」
その後、私は実家に帰り、手伝いをしながら静かに暮らしていた。
昼下がりに花を摘みながら、ふと昔のことが記憶に蘇った。優しくて楽しかった日々と、かわいい教え子のこと。最後の言葉を思い出して、小さく笑みとため息が溢れる。
後ろから声がした。記憶よりもずっと低い、けれど、
「……坊ちゃん?」
振り返れば、すっかり背も高くなって大人びた坊ちゃんが優しい笑みを浮かべてそこに立っていた。
「約束通り、会いにきた」
それは、本当は、ずっと待ち望んでいた言葉で。
「な、なんで泣いてるんだ?」
「え? あの、これは、ちがっ、違くて」
そう言われて顔に手を当てれば頬が濡れていた。拭っても拭っても濡れたまま。
「なあ、クレア。笑って」
「っ!」
違う、違う違う違う違う違う。だって、あの人は、戦争で死んだ。
「クレアは、もっと明るく笑う人だったと思うんだが」
嗚呼、神様は酷い。こんな、どうして。わかっているのに。この人は坊ちゃんで、クリストファー様ではないと。なのに、なのに。
温かい涙がとめどなく流れて、私は家庭教師でいられなくなっていた。
「いつ、から」
「本格的に思い出したのは、騎士学校に入学してからだな」
「どう、して」
「おそらく、クリストファーの気持ちと連動してしまったんだと思う」
年齢が合わないと思ったら……と言って坊ちゃんは笑う。バレてしまったらしい。ハンカチで涙を拭ってくれる。
まさか、あの坊ちゃんがこんな好青年になるなんて思わなかった。
「俺はルーカスだ。あと、もう坊ちゃんじゃない」
「そうですね、ルーカス様」
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ちょうど最近長編を完結させました。読んでいただけたら嬉しいです。おばあちゃん令嬢が野菜を作るほのぼの小説です。
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追記 誤字報告ありがとうございます