3 それは突然に
大きな扉をくぐり抜けて廊下を2人並んで歩き出す。ニルの表情は依然として変わらず、無表情のままだ。
この感情を抱えたまま奥様に会いに行っていいのかと思う。僕に本当に良くしてくれた奥様のことを思うと目の奥が痛む。
そんなことを考えながらとぼとぼと歩いていくと不意にニルが後ろを振り返った。
「坊っちゃま?」
「…」
ニルはそのまま動かなくなり後ろを凝視している。僕もニルと同じところを見たがこれといっておかしなところは何も無い。
「ノヴァ、走って!!」
突然、ニルに背中をすごい力で押される。転びかけそうになりながらニルの言う通りに走り出す。
その瞬間、聞いた事のない禍々しい声が聞こえた。
「せぃ、、、、こ、、う、、う」
背筋が冷えた。おぞましい声、この世のものとは到底思えない音。耳を塞ぎたくなるような恐怖。
僕はその声に引かれて声の方に顔を向けてしまった。
「せ、、、れ、、を、、、、ば、、」
そこにいたのはまさに化け物だった。
人間の形をしていない黒い物体が、手のようなものを床につけて体を引きずりながらこちらに向かってくる。禍々しい雰囲気を纏いながら何か言葉を発している。
僕は足がすくんだ。恐怖を自覚した瞬間に震えが襲ってくる。足はガタガタと震え出し、体が思うように動かない。
「あ、あ…」
「ノヴァ!ノヴァ!!」
すぐ近くでニルが僕に声をかけてくれている。分かっているが、答えられない。唇から漏れるのは声にならない声だ。ニルに腕を引っ張られても足が動かなかった。
「きゃああああああぁぁあ」
叫び声が耳に響く。それは良く知る声だった。
|(メイド長!!)
メイド長が怪物を見て叫び声をあげたのだ。メイド長は僕と同じく体が言うことをきかないようで尻もちをついて怪物の近くから離れられていない。
ーその瞬間、鈍い音がした。
僕が瞬きを終えた時にはもうメイド長の首はなかった。赤い飛沫がメイド長だったものから溢れている。先程まで大きな叫び声を上げていた声はもう聞こえない。
僕を叱ってくれた彼女はもういない。
何が起こったのか分からなかった。怪物が何かしたようにも見えなかった。ただ、ほんの一瞬でメイド長の首は飛んだ。なにか見えない斬撃に当てられたかのように。
怪物は何事も無かったかのようにこちらに向かってくる。僕は直感した、次は僕たちの番だと。
「ノヴァ!逃げるよ!!」
ニルの声が頭に響く。ニルの顔を見るとさすがに焦っているようだ。僕の手を引っ張りながら僕に声をかけ続けてくれている。
|(このまま怪物に襲われたら、坊っちゃまも僕もいなくなるんだろうな。メイド長みたいに…。メイド長、僕が小さい頃から面倒見てくれたよな。僕にとって母みたいな人だった。奥様…最期に会いたかった。ご主人様は無事かな、無事だといいな。僕の大切な人たちが死んでしまうのは嫌だから)
僕はもう、逃げることを放棄しようとした。頭は冷静に物事を考えている。怪物に殺られる最期だなんて誰が想像しただろうか。僕を捨てた本当の両親はどこにいるのだろう、会いたいとは思わないけれど会いたくないと思ったこともない。ただ、こんなに早く死んでしまうなんて思ってもみなかったから、ちょっと複雑。
でも、坊っちゃまだけは生きて欲しいな。坊っちゃまは僕なんかよりずっと優秀だから、生きてた方が絶対いい。
ニルは僕を引きずってでも逃げようと考えているようだ。そうこうしているうちに怪物はもう目の前まで来ていた。
|(近くで見ると、もっと気持ち悪いな。ぐちゃぐちゃしてて、一体なんなんだろう。これが坊っちゃまの言ってた悪魔ってやつなのかな。奥様を呪った悪魔なのかも…)
僕は僕を掴んでいたニルの手を力強く掴み返した。それに驚いたニルに構うことなくニルの手を僕から離し、さっきニルにされたようにニルの背中を突き飛ばした。ニルは突き飛ばされて体制を崩し遠くで転んだ。
|(あぁ、僕ってこんなに力強かったんだ)
ニルは一瞬愕然としていたがすぐに立ち上がってこっちに来ようとする。それを阻むように僕は声をかけた。精一杯の笑顔で。
「死んじゃダメだよ、僕の分まで生きてニル」
「ノヴァ!!」
「大丈夫。僕はニルの家族だから」
僕は後ろを振り返った。怪物は僕に手のようなものを伸ばしてくる。
|(僕を殺している間にニルが逃げればいい。だから抵抗せずにゆっくり殺られなきゃ)
僕は目をつぶってその怪物に無防備な状態で向き合った。
来る痛みに備えていてもそれは一向に来ない。その代わりに頭の中に声が響く。
『諦めちゃダメ!!! 死んじゃダメ!!!』
『ノヴァ! 諦めたらダメ! ノヴァなら悪魔を倒せるのに!!』
『死んだらダメだ! また、森が荒れてしまう!』
『気づいて! 力に! ノヴァ!』
『頑張って!!』
『悪魔に奪われてはいけない。その力はノヴァの為のものだ』
『…愛しい子。ごめんね、頑張って』
その声に弾かれて僕は目を見開いた。目の前には不気味な怪物。
|(からだが熱い…燃えてるみたい)
体の奥底から燃えるような熱さを感じる。僕はそれに体を預ける。
「うわあああああぁぁぁあ」
気づけば叫んでいた。ボクの周りから眩い光が放たれる。それは次第に燃える炎に変わった。その炎は一瞬にして怪物を取り囲んでしまう。
「う、、せ、、か、、せ、、あああぁぁがぁ」
怪物は耳をつんざくような呻き声を上げている。体からは何かが溶けたようなものが流れてくる。
それを視界の端で捉えながら僕の視界は狭窄していった。
真っ暗になりかけている視界の中で見たものは、驚きと興奮が入り交じった見たことの無い顔をしたニルだった。
「ようやく目覚めた…やっと」
ニルが何かを言った。その言葉が僕の耳に届く前に僕の視界は暗転した。