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寂寥の蠱毒

私は、闇の深淵で何時も考えている。

『自分』という存在を―。


ソコに答えは無くて在るのは苦痛だけ。

闇の深淵、彼方に針の先の様な光が刺し込むのを、見つめながら、私は膝を抱えて蹲っている。

 私は、何の為に生まれたのか? 如何して生かされているのかを。答えの無いモノを常に追い続けている。

闇の深淵は、静かで良い。孤独は識らない。ここには、私独りしか存在していない。だから、孤独というものが、そもそも如何いうモノなのか、よくワカラナイ。―そう、闇の深淵に居る限りは……。



 一


 蠱毒と云う呪術がある。壺や瓶の中に、複数匹の毒虫を入れて閉じ込める。そして、共食いをさせて、生き残った一匹を、呪術の道具として使う。或いは、

その毒を使う。最凶の毒として。


 唯一匹、生き残った、勝ち残った蟲は、何を想うのだろうか?

自分が王者だと思うのか? それとも“仲間”を喰い殺した事に、罪悪の念を抱き苦悩するのか? そして、唯一匹、閉ざされた世界に残され、孤独に苦しむのだろうか?


蠱毒と孤独は、同音異義語。でも、『状況』は似ていると思う。だって、蟲は、その場所に、唯一匹。共に居た仲間を殺して、唯一匹になった。誰もいない世界。私は、その蟲は、きっと孤独だと思う。存在自体は別のモノだけれど。

私も、その蟲も、唯独りっきりなのだから。蟲は、呪術の役に立つかもしれないけれど、私は、何も出来ない。その存在の意義すらワカラナイ。不必要な存在なのだから。

 ユングだったかな。人類には、国や宗教に関係無く、全てに共通する普遍的無意識で、繋がっているという。また、『深淵を覗けば、深淵も此方を見ている』と云う言葉がある。その『深淵は』共通する、普遍的無意識だとか。専門的な事は解らない。だけど、それが、真実かは、人それぞれなのかもしれない。

光が在れば、影が生まれる。だけど、影すら存在出来ない光もある。無影灯という手術室などで使われているライトだ。だから、闇よりも光の方が、強いのだ。真の暗闇などは、存在しないし出来ないのだ。物理的に作り出しても、完全密封で無い限り、闇は存在出来ない。物理的だから、何時かは綻びが生じる。だから、闇は、完全ではない。

 どんな闇の中にも、何処からか光が刺し込む。例え、針先の様な光が刺し込んで来る。そして、その『光』は、私を傷つける。闇の深淵に蹲っている私には、幽かな光でさえ苦痛なのだ。光は救いでは無く、絶望をもたらすモノだ。でも、『絶望』という言葉を使うのなら、私はナニかに『希望』を抱いているのだろう。心の深淵深く、奥底で。

希望を抱いたら、裏切られる。期待すれば裏切られる。だから、私は、それらのモノを棄てた。始めから、そんなモノを抱かなければ傷つかずに済むと、棄て去った筈なのに。棄てて、空虚な存在になったのに。なのに『絶望』という言葉を使ってしまう。希望と絶望は、二つで一つのモノなのに。だから棄て去れば、空虚。そのつもりで、いたのに。

本当の、孤独は己の中に在り、また外的にも、私は孤独。でも、孤独だとは想っていない。


 何時から?

物心ついた時には、よく解らなかったけれど、自分だけ違った存在だと識っていた。

「なんで?」

繰り返し言っていた言葉。その答えは、未だに返ってこない。

だから、私は周りから、孤立していった。周りの人間から離れて行った。孤立していて、安心出来た。『寂しく無かった』でも、それは、嘘だ。

私は、フツウの人達とは、掛け離れた存在。社会でいう、『弱者』として、ターゲットにされてきた。

私の様な、稀有な存在は、社会に溶け込めない。人間は、群で生きる。同じ様な人間同士が集まり、一つの群になり、それに共ない、群は広がり社会となる。

その群、多数派に入れない者は、群には入れない。そして、ソコに偏見や差別、イジメが生まれる。

私は、多数派には入れない。少数派の中の更に、少数派以下だから。

だから、こちらから、社会世間との関わりを絶てば、余計なキズを作らなくて済む。独りで、いればいいだけ。何かと言いがかりを付けて来るのは、圧倒的多数派。私と、その多数派。そこには、見えない溝と壁が存在している。

それは、決して超える事も、埋める事も出来ないモノ。

社会のカテゴリー。多数派と少数派。何故、何もしていないのに、少数派は、多数派に、遠慮して生活していかなければ、ならないのか?

私や、その他の少数派の人達は、別に犯罪者でも無いのに。偏見、差別されてしまう。社会的少数派は、弱者。多数派は、強者。そんな、世の中で、私の様な者が、生きていくのは苦痛でしかない。


―こんな躰に生まれ堕ちた理由。生かされている意味。幾ら考えても“答え”は、見つからないし、出てこない。

だから、私は空虚な心で、闇の深淵に蹲っていて、幽かに刺し込む光に憧れながら、怯えている。

「光なんて、邪魔。私には、闇だけでいい」

虚しい呟きは、何時も心の奥底で響き渡っている。


 私は、私に問い掛ける。

「自分は何者なのか?」と。

やはり、答えは返ってこない。

だって『自分は自分でしかなくて、それは全て私自身』なのだから。

それじゃあ、私は、何の為に存在しているのか? 如何して、こんな躰に生まれ堕ちて、何の為に生かされているのか?

私は弱者。少数派の中の、更に少数派以下。なのに、なんで生きていないといけないのかが、解らない。その理由が解ったなら、この苦しみから解放される時が来るのだろうか? だけど、多数派の存在が、私の存在を認め無い。

何時か、多数派の存在を、その意見や思考を覆す事が、出来るのだろうか? そんな力が、欲しい。

“声無き者の声を聴き、言葉に出来ない者の声となる”そして、多数派に立ち向かえるのだろうか?

それこそ、呪術の蠱毒を、最後まで残った蟲の力を借りなければ、ならないのかもしれない。

多数派は集団で群れてないと、何も出来ない。きっと独りだと、何も出来ない。でも、少数派ならば、行動を起こすなら、例え独りでも実行出来る。

 私は、何がしたいのだろう?

社会を恨み呪う事しか、出来ないのか。それとも、闇の深淵で蹲り、幽かな光に『憧れ』ながら、生き続けるしかないのか。

―人類共通の普遍的意識。

難しい事は、解らない。でも、一つだけ全ての人間にとって共通し平等なモノは『死』だ。『死』だけは、生きているモノ全てに必ず訪れる平等かつ絶対的なモノ。だから『死』は、人類共通のモノだ。

そう、それが『救い』 

少なくとも、私は、そう思っている。

『死』は、全ての人間に必ず訪れる。私は、闇の深淵で、その事を、ずっと考えている。

しじまなる、闇の深淵で。


 蠱毒の呪法で、勝ち残った蟲は、嬉しかったのか? それとも、虚しかったのだろうか? そして、その蟲は、孤独を感じていたのか、そうではなかったのか? その事ばかり、考え続けている。

蠱毒の呪術の様に、出来るのであれば、多数派の人間達を、蠱毒の呪術の様に一か所に閉じ込めて、殺し合いをさせて、最後に生き残った人間に、その気持ちを聞いてみたい。その時、既に正気を失い廃人になっているのか? それとも、理性を保ち正気であるが故に、己の犯した事を死ぬまで後悔し続けるのか?

もし、後者だとすれば、その人間は、多数派では無くて、少数派の中でもレアな存在なのかもしれない。

要するに、多数派の『真面』な人間は、後者にはならない。人間には、罪悪感なるモノがあるから。でも、ソレを持って無い人間は、少数派だ。サイコパスや人格障害な分類に入るのだろう。ワイドショーとかで“人間を殺してみたかった”という事件は、『フツウ』の人間で人格を持っていたら、そんな事を思わない。怨恨でなら、在るかもしれないが“殺してみたかった”と“積年の恨みで殺してしまった”とでは、同じ殺人でも意味が違う。

そう、幾ら多数派と言っても、細かく分析分類していけば、多数派は保てない。

グループ、カテゴリー別けの様に。そこでまた、多数派・少数派と別れていく。

だから、今、世間の多数派を、何かの切っ掛けで崩せる事が出来るかもしれない。そして、バラバラになった元多数派の人間が、どんな風になるのか?

私は、闇の深淵で、その様なコトばかり考えて、気を紛らわせている。孤独感は無いのに、孤独な私。そうでもしてないと、自分が生きているという理由が無い。私が、こんな躰に生まれ堕ち、苦悩と苦痛の日々の中、自殺をしないで生きている事を選んだのは、何時か、この社会が崩壊し、その時、多数派の人間達が、どうなるのか、多数派を率いている中心人物が如何なるのかが知りたいのだ。社会という箱の中で、多数派の人間達が、蠱毒の呪術の蟲の如く、殺し合うのかを。

 私の心は、既に均衡を失ってしまっているのだろう。そんな事ばかり、考えているのだから。でも、そんなコトを考えながら、私は孤独であり、何処かに救いを求めている一面もある。どちらも、私である。

それを認識すれば、改めて自分自身に絶望する。何処かで希望を抱いているのだろう。希望を棄てたと同時に絶望も棄てた、空っぽに空虚になったと思ったのに。どうしても、心の片隅で、そのコトを想うのは何故なんだろう?

その答えは、私にしか出せないモノ。自分でしか見つけられないモノ。

 自分の出生を呪い、周囲を恨み、そして、自分自身を闇の深淵へと沈めている。光の中よりも、闇の中の方が、ずっと居心地が良い。

人間でありながら、人間を恨んでいる。人間を憎んでいる。私自身をも、恨み呪っている。私は、その様な存在。

なのに、何時も心の片隅で『救い』を求めている。つくづくオカシナ存在だ。




   二


 恨み辛みだけで、生きてきた。世間社会を呪いながら。何時か、この社会に復讐したいと考えながら。でも、実際には出来ないから、私は、闇の深淵に居場所を見つけた。もちろん、それは、心の居場所。生身の私は、ただの心を病み、気が狂い掛けた、先天性の難病を抱えた、ただの引きこもりの様な存在だ。それ故に、ワイドショーとかで“犯人の心の闇”について語っているのを見ては、そんなモノは『闇』を識らない者にとって、他人の心の『闇』など理解出来るワケが無い。何故、そうなってしまったのかを、誰も考えない。犯人の心の『闇』を、多数派達が、自分達の目線でしか見てないから、理解出来ないのだ。多数派達の言葉に、『闇』を識る少数派は、傷付き苦悩する。その事でさえ、多数派達は、知る由も無いのだから。ワイドショーとかで、自称専門家なる多数派の人間の話すことなど、笑い話にしか聞こえない。

 心の闇は、その人生において共感できる者でしか、視る事が出来ないのだ。それを、ワイドショーの人達は理解していない。私が、ソレを指摘したところで、世論が如何にかなるとも思わない。

 私は、ただの傍観者でありながら、心の片隅で『救い』を求めながら、世間社会を恨み呪う。哀れな呪術者の様な者。世の中の価値観なんて、あてにならない。少しの事で一八〇度変わる。だから、私にとって、多数派なんかは何時でも、何時かバラバラになり、また別の多数派へと変化するモノだと考えている。所謂、無常。一時として同じモノは存在しない。

そう考えていれば、少しだけ、闇の深淵にも光が刺し込んで来る。だけど、やっぱり『光』は恐い。

 光は、自分の姿を露わにする。私には、それが嫌で堪らない。如何するコトも出来ないと頭で、理解していても、心はソレを受け入れない。私は、闇の深淵で、『光』に憧れながら『光』を恐れているという矛盾する感情を抱えている。

それは、手枷足枷の如く、私を縛っている。

 もし、この社会から、全ての人間が消えてしまい、私一人だけが、取残されたとしよう。そう、たった独りだけ。そこで、私は、何を想い何を感じるのだろうか? 解放感か? それともやはり、孤独を感じるのか? 誰もいない。私を蔑む人間は誰一人として存在していない。地球上に、唯一存在している人間は、私だけ。他の生命体も消えてしまったとして、残っているのは、私だけ。

そこに、孤独感は存在するのか?

―ワカラナイ。

人は人と接して初めて自分を知るというが、それすら無い。地球上に私だけが存在している。

そもそも、孤独とは何だろう? 誰からも、自分の存在を認められない事なのか? 元々、差別偏見の中で生きてきたから、私には孤独がワカラナイ。文法的な意味での孤独を言っているのではない。精神的な孤独感。初めから、独りっきりならば、そこに孤独と云う概念は存在しない。社会の中で、多数派と少数派に分類され、差別偏見に晒されて、群から孤立していくのが孤独なら、その様な立場の人は、孤独を感じるのだろう。そもそも、群を嫌い、社会を嫌って、あえて独りでいるのは、孤独では無い。独りっきりが良い人間もいるのだから。

 私は、その『答え』を、本当は探しているのかもしれない。ソノ『答え』の中に『救い』なるモノが在る事を無意識に考えているのかもしれない。

“だろう” “かもしれない”は、あくまで、私の考えと、その仮説だから、その様な表現になってしまう。単に、無知なくせに求めているモノが、余りにも大きすぎるからなのかもしれない。

弱者が強者を覆すには、如何すればいいのか? 弱者は、息を殺しヒッソリと生きていくしかないのか? それとも、世の中の価値観が一八〇度変わるのを待つしかないのか。

どう頑張っても、多数派には勝てない。でも、そういった連中を、苦痛に満ちた闇の中へ沈めてやりたいという、憎しみにも似た感情が消えない。

誰かをあてにして、期待する。でも、裏切られる。そこに、絶望と孤独が存在しているのかもしれない。

これは愚痴。私の憎悪の塊を明文化したモノ。だから、文体はグチャグチャなのだ。

少数派・弱者は、どう生きていけばいいのか? 他の同じ様な立場の人は、如何考えているのか知りたい。でも、他人と関わるのは面倒。

だから、私は識りたい。蠱毒の呪術で最後に生き残った蟲の気持ちを。

蟲の『想い』を識る事が出来たなら、私は変われるのか?

試してみたいが『蟲』の立場を考えると、きっと、おぞましい状況に違いない。

だから、『蟲』の『想い』は、想像するしかない。

王者を誇るのか。それとも、孤独を呟くのかを。



 風が吹き抜けていく。秋も終わりに近づき、木枯しの時季。これからの季節は、肌を出す様な服装では無くなるので、醜いこの躰を少しは隠せる。

世間を騒がせている、連続殺人事件。テレビや新聞などでは報道されていないが、ネットや週刊誌などには、被害者は皆『顔』を切り刻まれていると、書かれている。真偽は不明。ネットやゴシップ雑誌のネタだから。でも、本当なら、ワイドショーのネタには充分だ。報道されていないだけなら、報道規制な事件なのだろう。

でも、真実なら。この犯人もまた、少数派の人物。そして、なんとなく同じ『闇』を抱いていると。犯人は、孤独である事も。同類では無いにしろ、解る時は解るし、心の深淵に蟠る『闇』が同じかもしれないと、ネットとかの情報から読み取れた。解る者にしか理解出来ない、心の闇。そこを世間は、知ろうとしない。結果だけだ。そこに至る心情を、考える事をしない。だから、ワイドショーは、笑い話でしかない。


 この病気について綴ったサイトを、通して知り合った、仲條千景も、とてつもない孤独を抱いていた。私も、鏡など姿が映る物は嫌いだけど、彼女は恐怖だと言っていた。身体は服で隠せても、『顔』は隠し様が無い。髪の毛や帽子で、出来るだけ隠すけれど隠し切れはしない。私も『顔』に症状が出ていて、隠したいけれど隠せ無い。よって、偏見差別、蔑みを受ける。彼女は、私よりも症状が重い。だから、昼間は必要以上に外出しないと言っていた。例え人混みに紛れ込んでも、『顔』の症状は隠し切れない。だから、『太陽や光』を、姿を映す物は恐怖でしかない。同じ病気、似た場所に出る症状。だからと言って、慣れ合う程、生易しい病気ではない。この病気は、特に。

それに“人間は皆、違う存在”だから。

この病気について少し説明しておこう。この病気は、個人差が激しい。一見、正常に見えるけれど染色体レベルで、この病気という人。なんか見た目が皆・多数派とは違う。人には見せたくない肌。そして、重度になると見るも無残な姿になる。中には、寝たきり状態の人もいる。この病気は『容姿・容貌』を損なう。なので、世間からは、偏見差別的扱いを受ける。心無い言葉や蔑みの言葉を投げ掛けられる。だから、外見に症状が出ていて隠しきれない人は、人目を避ける暮らしを余儀なきされる。また、この病気は個人差が激しい。同じ病気で交流があっても、そこに症状とかで派閥が出来てしまう。この病気は、殆ど健常者・正常な人と変わらないタイプから、見るも無残な症状まである。外見的症状が無い人の方が、多い。なのに『不幸だ』と、自分より重い症状の人の前で言う。価値観の問題だから、本人が『不幸だ』と思えば『不幸』なのだろう。そして、この病気は難病だから公費を受給できる。それが出来る人に対して「公費が使えて良いな」と言う。私は、その様な発言をする同じ病気の人は、遠巻きに重度の人を、下に見ていると感じた。患者同士の諍いも、あった。

『不幸自慢』『自分は恵まれている』とか。

だから、同病者との交流会から、去った。関わりたくなかったから。

オカシナ話しだ。同じ病気と云うのは変わらない。だけど、無症状から軽度の患者の方が多く、容姿容貌を病に侵されている人は少ない。そこでも、多数派と少数派に別れているし、そこで対立し合っている。

例えて言うなら、ピラミッドの図を逆さまにした様な図をイメージして欲しい。

ピラミッド図の一番上が、頂点として、世間でいう勝ち組なら、その逆。逆さピラミッド図は一番下が、頂点になる。そこに、少数派の中の少数派がいる。この病気でいえば、重度の患者がいる場所。

普通のピラミッド図は、社会の勝ち組で、社会的地位や資産家・容姿端麗・高学歴・エリートなどが入る。だけど、逆さピラミッド図の頂点は一番下。そこには、弱者。もしかしたら、その逆さの頂は地中に埋まっているのかもしれない。視えない場所に、より弱い弱者の人達や、この病気で言うなら、視るも無残な症状の人が入るのかもしれない。

私は、逆さピラミッドの下にいるけれど、多分『頂』の部分では無い。

 同じ病気でも、症状や生まれ育った環境、周囲の理解によって、この病気の患者は、違ってくる。恵まれ理解ある環境、比較的軽い症状の人と、環境に恵まれず理解される事なく蔑みの対象として生きてきた患者とでは、この病気に対する『価値観』が違う。だから、同じ病気だとしても、二者の間には、視えない壁と深い溝がある。それは、少数派の中で生じたモノ。だから、世間社会との間には、とても例え様の無い軋轢がある。

人間は、外見が全てだという、この社会において。ソレは、同じ病気を抱える者同士でも、あるのだから。


 仲條千景も、私と同じタイプだ。症状は彼女の方が重いけれど。価値観が近いし、境遇も似ている。

『光』を恐れ、姿が映る物を恐れ、人目を避けて息を殺して生きている。

「太陽は残酷だ」と、よく言っていた。千景とは、気が合ったので、良く話をしていたけれど、だからといって仲良しでは無い。

たまに『価値観』とかの話をしていたり、近状交換のメールを時々交わしていただけ。

 千景は、家族の中で孤立し実家を出た。キレイゴトを言う両親が、赦せないと。兄妹との折り合いも悪かった。家族親族の中で、この病気は自分だけ。だから、独りの方が『心』が楽だと言っていた。

仲條千景は、孤独でありながら孤独を必要としていた。

私は、どちらなのだろう?

孤独に悩み絶望している。だけど、他人とは関わりたく無い。

闇の深淵が、とても居心地が良いのだ。誰にも踏み込ませない、心の闇の深淵が、好きなのだ。そこに、独りいるのが安らぎ。その反面、そこから、世間社会を多数派を、恨み呪っている。

私は、何時でも穴に入る覚悟がある。この社会を呪い続ける代償に。

この想いは、何処から来て何処へ向かうのだろう?

 この病気についてのサイトを運営していた、林夕菜は、自分の思考を病気によって奪われるのを恐れて、自殺した。理解ある優しい両親や友人。恵まれた環境で育って来た彼女でさえ、自殺を選んだ。その恵まれた環境を、羨ましく思った。……だけど。

林夕菜の心は、深く傷付いていたのかもしれない。思考が消える意識が無くなる事は『自分』が、消えるのと同じ様なモノだから。

彼女は、表向きは闘病するサイトを運営していたが、裏サイトでは、自殺について持論を語っていた。それは、健常者が些細な事で自殺や殺人を犯す事に対して、ある種の憎悪を抱いていたからだと思う。それを、詩に綴り、遠巻きに健常者や正常な人間に対して、呪いの様な想いを向けていたのかもしれない。

健康で正常。なのに、生きる事に対していい加減な者達に。彼女なりの、恨み辛みだったのかもしれない。

 心の闇は、解らないという人間の方が多いと思う。気付かないだけで、全ての人間は、心の中に闇を持っている。それが、浅いか深いか、大きいか小さいかは、別として。

人間は、醜悪な存在だ。それは、世論であり、また自己愛からくるもの。仲良くしていても、仲間だとしても、何処かで相手のアラを探して、自分の方が優れていると、内心思っているのだから。まぁ、それを表に垂れ流している事に周りの人間が気付いていて、冷ややかな目をしていても、当の本人は気付いていないのだから。笑い話である。

闇の深淵からだと、ソレらが、よく視える。人間は、醜悪で滑稽な存在なのだと。裏表の無い人間なんて、稀な存在。悪く言えば、超鈍感。或いは自己中心である事に気付かない、他人を気にしない関わりを一切持たない人間くらいか。自己中心は、認識出来て無いなら、その言動で周囲を巻き込み迷惑を振り撒く。

本当に、裏表の無い人間は、如何いう人間だろう? 偽善者? 自己犠牲感だけが取り柄の人間?

どちらにしても、私には関係無いコトだ。私は、闇の深淵から、世間社会を見つめて、呪う事しか出来ないのだから。そして、私は私自身をも呪っている。

 他人を見れば、惨めに想う。フツウの人間を見ると、私は存在を否定されている感じがする。孤立と孤独。様々な負の感情が渦巻いている。

よく漫画とかである、自分の中に在る天使と悪魔のキャラクター。良心と悪意かな。私の中には、様々な性格のキャラクターが存在していて、ソレらは話し合いをしたり、対立しあったりしている。その思考キャラクターを、蠱毒の蟲の代わりにしてみる。最後に残る“キャラクター”は、一番弱くて最も憎しみが強く、孤独を抱えた『私』だろう。

自分の中に存在している様々な、キャラクター。それら全てを喰い尽くすのは『私』であり、ソレらを失ってしまった私は、希望も絶望も無い。ソコにあるのは、空虚でカラッポの私と、生きている限り続く『孤独』のみ。

涙は、出ない。そんなモノは、もう存在しない。

私は、世間を社会を他人を呪い続け、自分自身も呪い続けている。哀れで歪に狂った、孤独な存在。

―何も期待しない。何も望まない。

もし望むのであれば、世界の終焉。地球の消滅。

闇の深淵。その更に深く遠い場所で、何時も想っている。

『その想いと、私の存在する意味』を。



  三


 物心ついた頃から、周りとは違っていた。それは、この病気の事だけでなく、内面的なモノも。今思えば、発達障害だった。最近の情報では、この病気は、発達障害や学習障害が発症する。知能的な事も、多少なり影響すると。それらを含めて、私は同級生とかに溶け込めず、またイジメの標的となっていた。だから、何時も孤立していた。他人と距離をおけば少しはマシだから。あえて孤立を選んだ。仲良く会話に花を咲かしている人を見ると、モヤモヤとした感情、羨ましさ? の様な感情は確かにあった。

私は、病気と内面的な事が故に、孤独だった。

でも“病気では無い私”は、存在しない。こんな病気だからこそ『私』なんだ。

そうでも想っていないと、自分が存在している意味が無い。

 林夕菜の自殺は、ショックだった。私は、死にたい自殺したいと思うが、そんなコトより、世間を社会を圧倒するコトをしてから、その結末を見届けるまでは死ねない。独りでやれる事は、限られている。無差別殺人やテロみたいなことはしたくない。

私が望むのは、今の社会を根底から覆す『ナニ』かだ。

ソレは、探しても見つからない答えと同じ。

例え、私が声を上げても、逆効果だし届きはしない。私の様な存在は、社会から、ソノ存在を否定された様なモノ。

復讐したいけれど、出来ない。したところで、ナニも変わらない。きっと、今より惨めになるだけ。

だから、闇の深淵で、多数派の人間がお互いに殺し合う事を考えている。そして、最後に生きて勝ち残った人間に『その時』の気持ちを問いたい。

「王者になって、嬉しいか?」

「独りっきりになって、寂しいか?」と

なんで、こんな考えばかりが浮かぶのだろう。社会も自分自身をも憎み切って、もはや狂人の思考だ。それでいて、幽かな期待と希望を抱いている。第三者視点で視れば、これはきっと、笑い話だ。

このような話を、千景と何度か話した事があるが、同じ様な価値観でありながらも、彼女は、ソノ感情を剥き出しにはしなかった。内に秘めたまま、ただ静かに他人との関わりを持たず、息を殺して生きる方が良いと。その千景と、このところ、メールのやり取りすらしていない。愚痴り合う仲でも無い。お互い男気が向けば、語り合うくらい。それ以上の付き合いは無い。精々、病気についての近状報告くらい。千景の抱えている孤独感と、私の抱いている孤独感は、似ていて非なるモノだ。孤独と言っても、同じ孤独は存在しない。

 私には、極々僅かな友人がいる。たまにしか会わないけれど。少なくても、私の病気の事を頭で理解してくれた上で行動してくれる。だから、その時は、私は友人に合せる。

友人は、健常者だけど、生まれ育った環境が世間から見れば、恵まれてはいない。それだろうか、友人となれたのは。まあ、趣味とかも少し似ていたからなのか。友人は結婚していて、二児の母。その子供の二人とも発達障害と聞いた。子守りを手伝った事があるが、共に行動していて、なんとなく感じていたし、そう思ったから、何度か助言した。それから随分経ってから、発達障害だと診断された。結婚して暖かな家庭に憧れていたらしいけれど、現実は違う。姑と義姉に振り回されていると、会う度に愚痴を聞かされてた。

それで、彼女がスッキリするなら、私は別に構わない。だからと言って、私が自分の現状を愚痴にする事は無い。愚痴ったところで『何も』変わらないのだから。むしろ虚しくなるだけ。会話は、世間話程度だ。

考えてみると、やはり私は、独りなのだ。むしろ、独りでいる方が楽なのかもしれない。

世間・社会から、はみ出している者・浮いている者・溶け込めない者。そういったカテゴリーにすら入らない。

嫌いの反対は、無関心。希望の反対も、無関心。反対は『無』でしかない。

嫌いという感情は、好きという感情があるから存在するし、好きだから嫌いが存在する。希望も同じで絶望が在るから、希望も在る。そのどちらも無ければ『無関心・無感情』

無関心、無感情であれば、傷付く事は少なくて済む。空虚であれば、最小限で済むから。そう想うようにしている。

だけど、心の片隅では『救い』なるモノを求めている。

―そんなモノ、私には存在しないのに。

私は、孤独が好きでありながら、孤独の痛みに耐え切れない時がある。

「ナゼ、自分だけ」

どんなに、世の中が変わったとしても、ソレは消えない。私自身が変わったとしても、この病気である限り、やはり孤立する。社会には、溶け込めない。そうしようとしたところで、偏見や差別に晒されるのは確実だ。

自己否定すればする程、自分がハッキリと視えてくる。そして、ソレは更なる自己嫌悪に繋がっていく。だから、闇の深淵の更に深い場所で、空虚な心で蹲っている方が、ずっと良いのだ。静かな闇の深淵が、物理的に存在してくれればどんなに、良いコトか。光の中で、生きるのは苦痛。自分の惨めさを、ヒシヒシと感じるから。光の中には、私の存在出来る場所など無い。

だから『心』は、常に、闇の深淵に在る。いっそ、蠱毒の蟲達を閉じ込める様な、静かな闇の中がある壺の様な、場所が在ればいい。私自身が、その『壺』に入ってもいいかもしれない。


 相手がそうであるように、私には、今、流行っているインスタ映えとか、キラキラ女子というものが、理解出来ない。風景や動物のインスタ映えは理解できるが、キラキラ女子という存在が理解出来ない。本当に現実が充実している人間は、わざわざブランド物を着飾ったり、高いコースメニューのお店の写真をSNSにアップする事はしない。ネットという、架空にも近い世界の中で

『自分が一番、充実しているし、綺麗』と、写真を加工したり借金までしてブランド物を買い、写る。そして、自己満足に浸る。虚栄心も愚か成り。

そうまでして、ナニが在るのだろう? 現実に戻れば、ソコには『現実』しかないのに。本人が気付かないだけで、陰では、お互いを嘲笑っているのだから。そして、本人は、その事に気付いていない。

人間は常に、他人のアラ探しをして下に見て、自分の方が優れていると自分を納得させる生き物。そう考えると、滑稽な生き物に見える。


 そもそも、人間は何で在るのか?

古くから、考え続けられているコト。でも未だにその『答え』は、見つかっていない。人種・宗教・文化・価値観が全て違う。だから『答え』は、人類の終焉になっても出ないのかもしれない。

『答え』とするなら、多数派の意見が『答え』となるのだろう。そして、少数派は『意見』すら聞いてもらえない。

―人間という答えが、見つかったならば―

私や、夕菜・千景の様な存在もまた少数派も、何時か、社会の『枠』の中に入れるのだろうか?

……ワカラナイ。

少なくても、孤立していれば、他人と関わりを最小限にしていれば、これ以上、心が傷付く事は無い。それが、孤独だとしても。その孤独は、安らぎ。

そして、闇の深淵から、社会の多数派を呪う。蠱毒の蟲の様に。

声にならない叫びは、もう無い。叫んでも無駄。それに、叫び疲れた。涙が枯れ果ててしまったのと同じ様に。

私は狂人なのか? ふと思うことがある。いっそ、理性や思考感情が消えてしまえば、こんな考えや想いをしなくて済む。でも思考が消えるというのは『私』というモノが消えるのと同じ。夕菜と同じ様に『自分』が消える恐怖に恐れて、自殺するのか。私は、なんだろう? 私は、如何して、こんな考えにしか至らないのだろうか? 私が存在している意味、生きている、生かされている意味はナニ?

―皆、私と同じ様に、苦しみ痛みに晒されればいいと―

「だから、何?」

と、言われれば、私は、どう答えればいいのだろう。

誰にも言えないモノ。独り、心の深淵、その闇の深淵深く深くに秘めたるモノ。

私は、ソレが在るから、生きていくコトが出来る。


 世間は、クリスマスモード。クリスマスの時季は、自殺が増えるらしい。解らなくも無い。良く解るけれど、私は、そうでは無い。

華やかな街並み、はしゃぐ人達、仲睦まじいカップル。リア充。そんな中で、自分の孤独感や寂しさに耐え切れず、自殺するらしい。所謂、リア充を見ていて、自分の状況と比べて虚しくなり、自殺してしまうのだ。惨めに感じるのだろう。孤独に慣れ果てている私からすれば、クリスマスの時季とかは、別次元の事だと思ってしまえば、孤独なんか関係ない。私自身が孤独そのモノだから。

たかが、世間の彩りに孤独感を感じ惨めに思う人が、よくワカラナイ。私自身が変わっているのだろう。『正常な』人だと、自分と世間を比べて惨めに感じ孤独に悩むのだろう。

孤独だったら、ソレで良い。他人から束縛されない『心の自由』が在るから。

単に、年末で経済的に困窮して自殺する人もいる。でも、それと、孤独から自殺する人間とではタイプが違う。

 私は、他人に期待しない。期待すればハズれる。だから他人に期待はしない。

私は、自分で足掻く事で、足掻いて道を探す。世間社会を恨み呪い、そうするコトで、私は私を保っている。

人間なんて所詮、単純で歪な存在。そう考えていれば、心が楽なのだから。

そもそも、孤独とはナニか? 言葉の意味だけ調べても、色々な『孤独』があった。その中に、自己否定も孤独の一種だと。そうすれば、私は“孤独”なのか。自分自身の存在意義を、否定しているのだから。

この世の中には、不必要な人間は存在しないというが、どんな人間であれ、この世に生きている人間、全てに存在している意味が在ると。

「どんな人間でも? 存在する理由?」

ソレは、キレイゴトなの? キレイゴトでしかないのでは?

少なくても、私は自分の存在している理由が、ワカラナイ。なんで、こんな躰に生まれたのか。そこに、何かしらの理由があるのだろうか? スピリチュアル的には、魂の霊性をレベルを上げる為らしが。高位の魂になる程に、苦難を課せられていく。その逆に、前世の罪を魂が償う為に苦難を課せられるとも。

私は、どちらなのだろう?

輪廻を重ねた魂を持つ人は、他人の心の痛みを理解出来るというけれど。そんな人間は、稀な存在だ。

私には、時々、他人の心とか思考が読めてしまう事がある。それは、これまでの経験からのモノだと思っている。だから、魂のレベルの話とは関係は無い。

 もし、私の魂がレベルの高いモノだとしたら、この様な躰に生まれても、ソレを正面から受け入れ、誰かと比べて、卑屈になったり恨んだり、呪ったりする感情は生まれないハズ。それとも、試されているのか。

前世の罪。そう思ってしまえば、もっと世の中を呪いたくなる。魂の試練なら、理解し受け入る事が出来る。とても難しいコトかもしれないけれど。ソレが出来る時が、何時か来るのだろうか?

色々考えると、私は“やはり孤独”なのかもしれない。

単に、孤独、独りでいる事に慣れているだけで、本音は孤独と絶望に包まれているのかもしれない。ソレを認めてしまえば、私は生きてはいけない。

だから、足掻いているのだ。初めから、独りで希望も期待も持たないと。無意識に自分に言い聞かせてきた。


 他人と出会って初めて、自分を認識する。二人だけなら、特に何も思わないだろうけれど、三人以上になると、人間はお互いに優劣を付けあう。そして、派閥が生まれ、多数派と少数派に別れていく。世の中、社会の仕組みは、そうやって出来上がっている。そして、人間は群で生きる存在。だから、ソノ群に入れない者は、疎外排除されていく。そこに、様々な偏見差別が、生じていく。

人間を理解しきるのは、絶対的に不可能。この地球に存在する人間全てが、違う存在『個』だから。存在している数だけの考え価値観が在る。それを別けていくと、国・人種・宗教・文化とかに広がっていく。そして、ソレらで争いが起っている。だから『理解』も『答え』も存在しないと思っている。

出来るとしたら、統計学的な事。それから考えたとしても、数学のように『1+1=2』では無いのが、人間と云う存在。

言い方を変えれば、多数派の意見や価値観が、大衆の『答え』かもしれない。

同じ考え、同じ価値観、同じ宗教、そういったモノとは別の『社会』としての。

だから、多数派に入れない、受け入れられない存在の者達は、少数派・弱者として見られる。多数派が、社会を動かし世論を操る。そして、少数派は、そこにはいない。いさせてもらえない。

人間は、ありとあらゆる事で、互いに優劣を作り合い、偏見や差別を生み出してきた。国・民族人種・宗教・病気・障碍・奇形……挙げると限が無い。

少数派の中の少数派なんか、昔は同じ人間として扱って貰えなかった。そして、その名残は現在にも存在している。歴史は、人間の罪深さを語っていると、私は思う。私は、社会を客観的に視る事が出来ない。何故なら、私は、この社会に受け入れられない存在だから。それは、経験上、痛い程知っている。イジメ・差別・偏見・哀れみ、その様な負の感情の中で、育ち生きてきた。だから、私は『世間・社会』を偏見の目で視ている。社会が、私にしてきた様に。

例え、受け入れられたとしても、それは、キレイゴト。弱者を受け入れた自分は、優しい思いやりのある人権家だと自己満足する為だとしか思えない。

捻くれていると、思う。だけど、それらが私にとっては事実だ。

 だから、私は孤独を独りで在る事を選んだ。独りでいれば、傷付かなくて済む。社会に受け入れられないなら、入らなければいい。入ったところで、マトモに扱ってはくれない。

でも、独りでいても、過去が記憶が心を傷つけ、その傷は化膿して腐臭を放ち、今なお、血膿で溢れていて、私を苦しめ追いつめる。消えるコトの無い、過去の残像……。目を閉じ、耳を塞いでも、ソレらは内側で蠢いている。だから、ソレを打ち消すかの様に、世間・社会を呪う。そうすることで、私は心を安定させているつもりだ。

―坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い―と、似て非なるモノかもしれない。

たった一人の人間の言葉に、傷付いて、それが社会の私に対する『言葉』だと受け取る様に。私は、社会が憎い。

つくづく、自分自身はオカシイと思う。それは、社会一般的な考えと比べるからだろうか。それとも、自分はマトモで、社会の方がオカシイと思っているのか? ソコは、私自身にも理解出来ない。きっと、自分自身を理解出来る人間は、存在しない。無意識まで、理解出来ないのだから。

私が私を解るのは、少数派の中の最も少数派だということ。それと、世間・社会を憎んでいる事。そして、呪っているという事だけ。そして、その反面、何処かで『救い』を求めている私が存在しているという事。

その『救い』は、本当に『私』を救ってくれるのだろうか? 期待すれば裏切られる。なのに望むのは、ナゼなんだろう。

―ワカラナイ ワカラナイ。ツライ、クルシイ、カナシイ、ウラメシイ。タスケテ、ダレカ、ワタシヲ、スクッテ―

涙が、歪な頬を伝っていた。


 

実家に帰る事の無い、年末年始。帰った処で、何があるワケでも無い。むしろ、家族との関係が鬱陶しい。理解出来ないくせに、口先だけの言葉なんか聞きたく無い。

細々と原稿を書いて、何とか自分の暮らしをしている。一作当たれば、暫くは良い。林夕菜の友人は、それなりに名の通っている作家だ。でも、私は、なんとか書かせてもらえるレベル。編集作業を手伝ったりする方が多い。そうしないと、原稿料と印税だけでは生活出来ない。まあ、仕事で付き合いをしている人達は、少なくても、私の様な存在に対して、偏見や差別をしないので、なんとかやっていける。そういう人間は、極稀。表面上、あるいは、腫物に触る様な扱いも、嫌だと思う。だけど、偏見や差別、危害を加えられないだけマシ。そう思う様にしている。だけど、偏見の視線は、何時も向けられている。無意識、悪意の無い言動の方が、傷付く。悪意の言動に対しては、恨み呪いを吐けばいい、心の闇の深淵で。その想いと感情が、何処へ向かうのか自分でも、ワカラナイでいる。ソレを理解出来たならば、心のキズは昇華されるのか? それとも、更に傷が深くなり新たなキズとなるのか?『答え』は、無い。

   四


 世間を騒がせていた、連続殺人の犯人が判明した。だけど、その時すでに犯人は、自殺を遂げていた。判明した理由は、犯人がマスコミに犯行声明を出したから。そして『連続殺人犯が、稀にみる美しく整った容貌』だった事もあり、マスコミやネットは、その事件の事で騒いでいる。

仲條千景は、その犯人に軟禁されていた。なんでも、犯行を目撃したから。それに、犯人の証言によると『とても珍しい姿の人間を見つけたから、観察していた』と、週刊誌に書かれ、更に『美貌の殺人鬼が飼っていたのは、二目と見れぬ醜いバケモノ』とまで酷い扱いになっているのもあった。

世の中が、好きそうな話題。でも、私からすれば、犯人の背景と千景の事が気になっていた。

 ネットの大手掲示板に犯人を名乗る人物の書き込みがあり、話題となっていた。犯人は、

「誰も、自分の心を見てはくれなかった。見て寄ってくるのは、自分の容貌と財産だけだ」と「だから、人間は、外見か心か、どちらが大切なのかを知る為に、比較的容姿の整った人間を殺し、顔に傷を付ける事によって、確かめたかった。でも“答え”は無かった。誰にも解って貰えない、孤独。容貌と財産だけが僕ではないのに」

読んでいて、容姿や財産に恵まれていても、犯人は孤独だったことが解る。

「答えが無いコトに気付いた今、僕は存在すら意味が無い。だから、唯一の理解者である彼女と共にこの世を去る。もし、上手くいけば、彼女には悪いが一人残してしまう。僕の起こした事件を、社会がどう捉えるのか、彼女に見届けて貰いたい。僕は、孤独な殺人鬼」

犯人の顔写真を見る限り、芸能人やモデル以上の容貌だ。美しく整った容貌と、家柄をみると、なんで連続殺人に駆り立てられたのか、不思議に思う。だけど、彼は『孤独』だと述べている。ネット上のモノは信じにくいが。

もしかしたら、犯人の本音なのかもしれない。

世間は『美貌の殺人鬼と醜悪な女』の事を、ゴッシップ雑誌とかで、面白可笑しく書きたてている。中には、千景の写真を晒している雑誌や一部のネットのサイトがあった。生き残った千景は、如何しているのだろうか。

この事件の熱が冷め、千景の傷の具合が落ち着いたら、一度、話しをしてみたい。野次馬だと思われるかもしれない。だけど、私は『犯人』について知りたかった。犯人の言う『孤独』を知りたかった。そして、如何して、犯人は、千景と一緒に生活していたのかを。

この犯人が、世間に問い掛けたのは『姿形が全てでは無い』という事は、解る気がする。犯人は、社会的に上位に在り恵まれていた。だけど、それは物理的な事だけで、眼に見えないモノは恵まれていなかったのかもしれない。そうでなければ『孤独』と云う言葉は使わないし『社会への復讐』という事もしないだろう。

社会一般的に、姿形が善い人間は、犯罪者になりにくいと言われている。極悪非道な事件の犯人の顔は『悪人顔』というのか強面だ。平均的に見て、普通か下の容姿の犯人が多い。まず、美形という犯人は少ない。エリートが起こす手の込んだ詐欺事件とかには、時々いるけれど。子供を虐待死させる親の顔も、生活に疲れた顔つきか、派手に化粧をしている感じだ。

やはり、容姿容貌で、社会の扱いは違う。でも、殆どの場合『フツウ』の容貌の人間が犯人だ。


テレビのワイドショーや、週刊誌・ネットでの騒ぎが収まった頃、千景に久しぶりにメールをしてみた。返事が返ってくるかは判らなかったけれど。

週刊誌やネットでの千景の扱いが、酷かったぶん、私自身が如何、千景と向き合って話せばいいのか解らないでいた。多分、慰めは要らないと思う。

会って、語り合いたいのは『犯人の心』だ。ネットとかでの千景に対する扱いは、私自身も傷付いた。私より、千景の症状の方が重いのに。

寄せ集めた情報によると、犯人と千景は焼身自殺。生き残った千景は、全身に火傷を負った。その傷も、そろそろ落ち着いたのではと、メールを送ったのだけど。出来れば、直接会って話したい。

メールの返事は、数日経ってから来た。

『まだ、歩け回れないから、病室でなら』と

だから、私は、色々と思う事を抱えて、久しぶりに千景に会いに行く事にした。

 私も、外出は苦手だ。特に繁華街なんか自分の居場所では無い。遠巻きに聞こえて来る、病気に対する心無い言葉や蔑み、哀れみの言葉。慣れているとはいえ、やはり、心はキズつく。

「皆、私と同じ様になればいい。事故とかで、一生消えない傷を顔にでも負えばいい。そして、私に浴びせかけた言葉と同じ意味の言葉を、他人から浴びせかけられればいい。そうしたら、私の痛みも苦しみも解るだろ?」

 何時も、そう思い呪ってしまう。

 千景の火傷は、身体の右半身に集中している。この病気は皮膚が弱い。今は、人工の皮膚で傷を覆っているけれど、何れは、皮膚をドナーから提供してもらうのを待っている。千景の話によると

「『彼』が、一緒に死のうと言って抱きしめてくれた時、初めて人の温もりを感じてて嬉しかった」と

『彼』の犯行を目撃した時、自分も一緒に殺して欲しいと言った処『彼』が、千景の容貌と台詞に興味を持ち、そこから微妙で奇妙な共同生活が始まった事。

『彼』の容貌は、自分とは対極にあったこと。芸能人やモデル以上だと感じた事。なのに『彼』は、自分の容貌を憎み嫌っていた。

“誰も、自分の心を見てはくれない”と。“皆が求めているのは、容姿と財力だけ”だと嘆いていた事。それが、犯行動機。犯行を重ねる事によって、世間が事件を如何捉えるのか? 自分が犯人だと、世間が知った時、世間は何を思うのかが、彼の口癖だった。

『顔』や『姿カタチ』が、全ての様な世の中。そんな世の中の風潮を『彼』は、赦せなかったらしい。誰一人として、自分の心を見ようとする人間がいなかった。そこが、千景の心の深淵に在る『闇』と共鳴したのだと。共に過ごす様になり、だからといって『彼』の犯行を止める事も通報する事も無く、ただ見届けていた。そして『彼』が出した『答え』は『容姿容貌の検証では無く、父親との確執と社会への復讐』だった。『答え』を識った『彼』は、千景と共に死ぬ事を選んだ。だけど、無理心中に見せかけ、千景を生き残らせて、自分の死後、『事件』がどの様に扱われているかを、千景に見届けて貰う事だった。でも、ソレは賭けだった。

千景は、その事を受け入れるまで、かなりの時間を要した。それでも、まだ受け入れきれないと零した。

―人間は、外見か心か?―を。

それは、千景や『彼』に限らず、私も同じだ。


 それから時々、千景と会っては“その事”について、色々と語り合った。

暫くして、皮膚のドナーが見つかり、移植手術は成功して経過も良いと。

だけど、やっぱり『彼』に、遺された事がツライと言う。

唯一、心を通わせれた『彼』の死を、遺された自分。心のキズの方は、治らない。生きている限り背負っていかなければならない。千景の心の中には『彼』が今も、生きている。

少しだけ、千景が羨ましく思えた。

千景の皮膚のドナーは、入院中に知り合った、幼い女の子から提供されたモノだった。その子は、余命宣告されていて最後は脳死だった。凄く重い病気だったらしく、でもソレに対して不平不満を言わず、受け入れていたらしい。そして、何時も笑顔だった。死を目前にして「自分の身体の中で使えるモノがあるなら、誰かの為に使って」と遺言を残し、臓器提供の意思を示していたらしい。

千景の事を気にかけていて、皮膚をあげると言い残していた。それが、千景に移植された、新しい皮膚。

「こんなコト、言ったらダメかもしれないけど、私は『彼』と一緒に死にたかった。その想いは、今もあるよ。出来るなら、死にたい」

千景の本音。そして、願望。

でも、その女の子との約束で、生きる事にした。そうすることで、『彼』の言っていた『答え』を探す。探す為には生き続けなければならないから。

―私には、ムリな話かもしれない。

でも。

私は、キレイゴトかもしれないけれど

「私達が生きている“今日”は、夕菜や、その女の子が生きたくても生きられてなかった“明日”なんだ。夕菜は、『自分の意識が消えるのは死と同じ』理由で、自殺したけれど、もし意識が残るならば、寝たきりでも生きる道を選んだはず。だから、私達も、何とか生きていかないといけない。恵まれた環境と、理解ある人達に囲まれていても『死』は、免れない。どんなに生きたいと願っても、生きられない。恵まれた環境が、羨ましいとは思わないけれど、やっぱり、そっちの方が良いのかなって。でも『死』は、避けられない。平等。よくさ、病気や怪我、障碍者に対して、身内が『変わってあげたい』と言っているけれど、変わるコトなんで出来ない。いざ、自分がその立場になったら、その台詞を後悔すると思う。私達みたいな存在は、常に、差別偏見に晒されている。だけど、生きていて良かったって、思う事は一つは在ると思う。それに、この世が魂の修行場なら、自殺は修行を放棄した事。魂のレベルを上げる為に、苦難な人生に生まれる事があるって。それが、建前だとしても、自殺して同じ様な苦しい人生をやり直すくらいなら、私は生きる。こんなコト、夕菜に悪いけれど。多分、こんな躰に生まれ堕ちたのには“意味”があると思う事にしている。それが、スピリチュアルでも嘘でも、なんでもいい。生きる理由になるから。頑張って人生を全うした時、輪廻から解放される時を、私は待っている。

キレイゴトだね。私は、人は人、他人。私は私自身誰でも無いと思う様にしている。そう前向きに考えながら、心の闇の深淵では、世間・社会を、恨み呪っている。そうしながら、生きていく」

私の言葉に、相槌を打ちながら、千景は聞いてくれた。そして、最後に

「そうだね。生かされた以上、生きなければならないか」

と、小さく呟いた。


 季節は、私が心の闇の深淵の底で蹲っている間にも、移り変わっていく。なんとか、独りで暮らしていくだけの事が出来る。それでも、空虚なコトに変わりない。千景にキレイゴトを言っておきながら、私は何も変わっていない。相変わらず、恨み辛み呪う感情に支配されている。

この感情から、私が解放される時が、果たして来るのだろうか?

解らないまま、時だけが流れていく。変わるには、ナニかを打破しないといけない。かと言って、世間社会の人達が、私を見る目が変わるワケでも無い。

世の中、自分の顔が他人と比べて、下だと思ったり、好きな芸能人とかの顔へ、美容整形するのが、今や常識の様になっている。一重を二重に。フェイスリフトに、ヒアルロン酸。脂肪吸引に、頬骨や顎を削る手術。ブスやブサイクは、美容整形しないといけない様な世の中。例え、キレイに美容整形しても遺伝子レベルは変わらない。美容整形同士のカップルに、子供が出来た時、本来の姿ソックリだったら、ソレは、喜劇の悲劇だ。いや、悲劇の喜劇かもしれない。

まあ、美容整形で顔とかを如何にか出来るだけマシだ。

私は、どう足掻いても願っても無理なコトだ。現代医学の限界。臓器を移植出来ても、この『顔』をフツウにするコトは不可能なのだから。

だから、恨み、辛み、呪い続けるのだ。その度に、私は穴を掘る。

アイドルグループなんか、皆同じ顔に見える。あえて、その様にしているのかもしれないけれど。だけど、芸能人は外見だけでは生きていけない。芸能人として生き続けるなら『中身』が重要なのだから。少々顔がよくなくても『中身』がしっかりしている『芸の才能・歌の才能』が在れば、生きていける。だけど、外見だけで売っている芸能人・若いアイドルとかは、自然と淘汰されていく。それは『中身』が無いからだ。流行廃りに左右される。空っぽの芸能人だ。芸能界は、使い捨ての世界だと言うし。

十代そこそこで、人気アイドルの絶頂を極めて、流行廃りにより芸能界に居れなくなった、元アイドルは、その後、どのような人生を歩むのだろうか? 

割り切って、普通の人として社会人になるのか? それとも、過去の栄光を忘れる事が出来ないで、崩壊していくのか? 

『売れた子役は、潰れる』という言葉を聞いた事があるから、後者の方が多いのかもしれない。私には、関係ないコトだけど、分析の材料にはなる。

だけど、一般人は違う。一番は外見。次に仕事が出来るか出来ないか。心なんて、最後の最後だ。

 SNSのキラキラ女子が、その例だ。虚飾の中でしか自分を出せず、そして、他人のアラ探し合っている。本当に現実で、輝いている人間は、そもそもSNSNで、自己主張などしない。自分の中身が無い、もしくは解らない人間が、虚飾にすがり偽りの姿をSNSに載せている。アラを探し合っても、同じ穴のムジナに過ぎないコトを理解しているのだろうか? 出来ないから、やっているのだろう。見ている人も、解っている人は、冷ややかだし、ソレを見てバカにしている。

哀れで滑稽な、リアルな物語だ。

私には、関係の無いコト。精々、お互い罵り合い炎上しているのを、皮肉な視点で見ているだけだ。

 私は、その様な人達を、哀れみの目で見ている。なにより、その様な人達は、私達の様な弱者に対して、必要以上に悪質な嫌がらせや傷付く事をするのだから。たまにいる「私は、弱者を理解し大切にしてます」と振る舞っている人間。

そんなの嘘だと解っているよ。バレバレなの解ってんの? と言いたい。でも、本人は解っていない。キレイゴトをしている“つもり”だから。

周りもきっと、解っている。だけど言わない。気付いていないのだから。

その様な人ほど、ネットでの炎上案件となっている。個人情報とか晒されても、ソレはその人が撒いた種で、自業自得だから。

そして、私は、その様な人達が破滅していくのが面白いと感じている。

ソレは、心の深淵にある闇の深淵深く蟠る闇の中に蠢いている私の一部。社会に対する、恨み・辛み・呪いから来ているのだろう。


私は、あとどれくらい、穴を掘り続ければいいのだろう? 生きている限り、きっと私は、穴を掘り続けるだろう。

―人を呪わば、穴二つ―

穴は、墓穴。呪った相手と自分の墓穴。

それを、覚悟の上で、私は、闇の深淵、その底から、呪い続けているのだ。




   五


 私は孤独であって、孤独では無い。独りでいるのに慣れているから。周りに誰もいなくてもいい。むしろ誰かがいる方が、孤独感を感じる。それが、如何してなのか、未だに解らない。

―私は、私であって、私以外の誰でもない。

あえて、孤独・孤立を選んでいるんだ。


 蠱毒の蟲、勝ち生き残った蟲は、何を思うのだろうか?

勝利して王となった事に、優越感を抱くのか? それとも、暗く狭い壺の闇の中で、唯一匹生き残った事を悔やみ孤独に苦しみながら、自分が屠った同胞の事を思い罪悪感に悩まされ続けるのか?

私は、その蟲の『想い』が知りたい。

何かの昔話か童話かで、大国の王になりたい男がいて、戦争を周囲の国々に仕掛けた。人々を容赦なく殺し、国々を支配していった。その男は、武力に優れていて勝てる者などいなかったと云う。周辺のあらゆる国を支配統合していった。逆らう者は皆殺し。大国の王となる野望は叶った。しかし、自分の意見に逆らう者や気に食わない者を次々と殺していった。そして、大国の王になった男は、誰も信じられなくなり、人々に殺し合いをさせた。それでも、男は王の座を奪われる強迫観念に駆られて、国民までも殺しつくしたとされる。そして、誰もいなくなった大国に、唯一人の人間となった王。人間が誰一人として暮らしていない国。やがて、王となった男は、狂気の果てに、自ら命を絶った。

蠱毒とよく似た話だ。 

“彼”は、力と財しか信じられなかった。人を信じる事が出来なかった。

“彼”が殺した人の数は、数えきれない。そして、“彼”から離れていった人もまた、数えきれない。

“彼”は孤独だったのだろうか? 物語では語られていない。何故“彼”は、人を信じれなくなったのか? どうして、誰もいない国で王となったのか?

それは、欲望が暴走した結末だったのか? 誰もいない国の王。孤独から、さらなる狂気に憑りつかれてしまったのか? 物語に、その『答え』は無い。

そういうタイプの人間の孤独とは、どういうモノなのか? 私には、解らない。

ただの昔話の物語なら、ソコに教訓があるというが。この物語には、その様なモノは無い。

あるとしたら、「他人を信じなければ、孤独になる。むやみに暴力を振るえば、孤立する」と言ったところか。その意味が含まれた物語なら、キレイゴトだな。


 よく「独りぼっちで、寂しい」という言葉を聞くけれど、私はソレすら理解出来ない。独りでいる事が当たり前の様な私にとって、その様な感情は無い。むしろ、他人と一緒にいる方が苦痛。

私の様な存在は、今の社会には入れないし溶け込めれない。ソコは、昔も今も変わっていないし、この先も変わるコトなどありはしない。

―人間は、容姿容貌・外見がすべて―だから。

外見、それが、すべて。中身・心は、ずっと後から。ブス・デブとかは、美容整形が当たり前の様に言われている。女同志なんか、容姿を始めとして、様々な事のアラ探し合い。そして、派閥があるなら、気に入らない相手を蹴落とす。そういう行動をとるタイプは“自称美人”が多い。ちょっと、周りからチヤホヤされているから、外見可愛さ? に、甘やかされて育ってきた人間。ブスと言われる人でも、とことん甘やかされて育って来た人間は、変な自意識過剰だし。

共通しているのは、どちらも中身が無い。だから、誰かを貶していないと落ち着かない。外見ばかり気にして、中身の無いカラッポな人達。

哀れだと思う。

その様なタイプの人間を遠巻きに見て、ある意味「カワイソウな人」と、私は思っている。そして、その様なタイプの人達は、常に群れていないと落ち着かない。常に『仲良しごっこ』をやっている。中身の無い存在。

他人の心を少なからず、視える私からすれば、本当に滑稽な事だ。

人間は嫌いだけど、人間観察は好きだ。だから、何時も、心理や思想を分析している。その結果から、その様なパターンの人間が多いと判った。

「じゃあ、なんでそうなるのか」を、ソコから考えていく。

人間というものは、他人のアラを探し下に見る事で、自己顕示欲を満たす。少しでも、他人のアラを見つけようと必死だ。すべての人間が、その様な人間では無いけれど。ソレは、多数派の中に見られるモノだ。

私の体験で、同じ病気なのに、症状とかで優劣を付けあっていた。だから、フツウの人間なら、なおさらだ。


 社会は、力のある多数派が中心となっている。所謂“一般的・平均的”な事でないと、社会の枠から外れてしまう。そして、多数派からは、差別偏見を受ける。だから、少数派が声を挙げても、雑踏に掻き消されてしまう。例え、聞き入れてくれる人間がいても、それは頭だけで、心で理解しようとする人間は稀だ。だけど、そういう人達でさえ、多数派の中に居ながら少数派なんだ。

社会という価値観の巨大な意識の塊には、どう頑張っても少数派は入れ無いのだ。キレイゴトをいくらでも言いながら、実際には受け入れようとはしない。ソレは、歴史が語っている。

差別も偏見も、決して消えない。人間は、すべて同じでは無いから。同じ考え思想、同じ様なレベルの容姿・学歴、環境によって、カテゴリーが出来て、それぞれ近いモノ同士が集まって、一つの塊になる。それが大きければ大きいほど多数派としての力を持つ。それが、この社会を構成している一部だ。

仲良しの友達同士でも、腹の中までは明かさない。どこかで、お互いにアラを探り合っている。それは、SNSの世界が、その答えを証明している。

つくづく、オカシナ社会だ。文明も、発展し過ぎれば、何れ綻びをみせ、ソコから崩壊していく。古代文明が、そうであった様に。

現代文明も、少しずつ綻んでいるのだろう。自然破壊・戦争・増え続ける人口。自然界のバランスは、既に狂っている。でも、現代文明は、ソレを新しい英知と技術をもって、なんとかコントロールしようとしている。それでいて、先進国は、民族や宗教の対立を煽り、後進国や、その下の国々をクイモノにしている。

何時、世界戦争になってもおかしくない世界情勢。それでも、そうなってしまったら、地球ごと滅んでしまうから、なんとか理性を保っている。

一部の権力者の偏見から、差別は始まる。それもまた、歴史が語ると同時に、今、世界がおかれている状況。

その世界最大の権力者は、物語の王の様に、何れ誰もいなくなった世界に一人残るのだろうか?


 私は、不死となって、その行く末を見てみたいと思う事がある。

そして、人間とは何かを、人間が最後に辿り着く場所は何処なのかを

私は、この地上に地球に、唯独り残ったとしても、きっと孤独は感じ無いだろう。何故なら、人類の行く末を見届ける事が、私の『夢』だから。

―そう、たった独りでも、いいのだ。


 蠱毒の話に戻るけど。

勝ち生き残った『蟲』は、何を思い考えるのか。絶対王者の悦に浸るのか? それとも同胞を殺し、唯一匹、生き残った事に対する孤独感と、同胞を殺した罪悪感に苦しみ続けるのか? それとも、自分をこんな風にした術者を、恨み呪うのか。

私が答えを出すとしたら、三番目だ。

何故、この様な病気に生まれ、容姿も病的なのか? 誰かに『この想い』をぶつけたい。ぶつける相手すらいない。ぶつけたところで、何も変わらない。

だから、私は闇の深淵から、世間を社会を呪う。恨み、辛みながら。その度に、『穴』は増えていく。

その闇の深淵に、幽かに刺し込む光は、私を絶望させる。私の“希望”は、絶対的な闇の深淵、その奥底なのだから。光が存在していてはならないのだ。

孤独とは、なにか? それは、私そのモノで在り、私が望む唯一の世界。

私は、唯独りであっても孤独では無い。初めから、唯独りの存在だから。


 この病気に生まれ堕ち、こんな姿で生きてきた。

“何時か”治ると信じていた子供の頃。でも、現実は違った。決して完治する事は無く、この病的な姿をフツウにする事は、現代医学を以てしても不可能だと言われた。それでも、生きているのは、自殺をして、今以上に厳しく辛い来世を生きなければならないのなら、天命を全うして、魂のレベルを上げる為のより、厳しく辛い人生を受け入れる方が、魂の進化、霊性を上げる為には良いのかもしれない。それを越えた先に在るモノに、辿り着く為にも。

スピリチュアル的な事を思わなければ、きっと、生きる事を諦めていた。

だけど、前向きには生きれない。誰かを信じる事も、自分自身をも信じるコトが、出来ないでいる。

 私は、何の為に生まれてきたのか。私は、如何して、こんな病気に生まれ堕ちたのか? 『答え』は自分で見つけるしかない。だけど、もしかしたら『答え』は、存在せずに、生きているコトが『答え』なのかもしれない。

生きているコトが、如何いうコトなのか? それは、生き続けていないと、ワカラナイ。

―私という、存在。

闇の深淵、その底で蹲り、幽かに刺し込む光に怯えている。


 夕菜や千景。彼女達も、また、そうなのかもしれない。


 私は、私だけの為に存在していて、他の誰でも無く全てが私であるのだから。

世間・社会に対する、恨み・辛み・呪いも。否定する希望さえも、それは、私自身。


   終


 わたくしという 現象は―

私という存在は、この社会の底辺に在り

その心は、闇の深淵の底に存在している

そこから、この世のありとあらゆるモノを

恨み・辛み・呪いながら慟哭している

届かない想いは、私を苦しめる

希望を持てば、絶望する

そのどちらも棄ててしまえばいい

残ったのは、空虚な私。


私という存在は、ただ闇の深淵の底に蹲っていて

幽かに刺し込む光に憧れながら、己を呪っている

―この躰に生まれたコトを

もし、この躰に生まれなかったならば―

だけど、この躰である以上、私は私であり

他の誰でも無く、この躰だからこそ

私という存在なのだ

すべては、私自身。

私は、孤独でなくて、また孤独なのかもしれない

呪術の蠱毒の『蟲』は、どうなのだろう?

私は、その『蟲』に想いを馳せる

もしかしたら、同じなのかもしれないと

深い闇の深淵で、私は光に憧れながら

絶望し、呪っている

光は、私をあらわにする

絶望でありながら、ソコに希望を求めている

私という存在もまた、世間の人間と同じく

複雑で単純、真直ぐであり歪なのだ

人間とは、様々なモノとコトの中で成り立っていて

どんなに独りを貫こうとしても

結局は、ソノ環の中に取り込まれている

私は、孤独でなくて、また孤独


生きている限り、ソレらは存在する


私という存在が。










                       了


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