その2
「で、けっきょくおぃげらまくらてなんやねん」
俺がそう訪ねると、前を歩く美加が答える。
「夢のことや」
「夢って寝ているときに見る夢のことか?」
「そうや、おぃげらが見せるんや」
「見せるって何やねん、その夢と目覚めへんことに何の関係があるねん」
「おぃげらはむちゃくちゃ良い夢をみせるんや。 それ見た奴は夢の虜なって目覚めなくなるんや」
「りょうちゃんがそれ見てて目覚めたくないから目覚めへんいうんか?」
「その通りや」
美加は立ち止まり、こちらを振り向く。その目は何か可哀想なものを見ているみたいで、その視線を向けられた俺の虫の居所はまたメラメラと悪くなっていく。それでも、怒るわけにはいかなかった。
今抱えている怒りはおぃげらまくらに全部ぶつけるべきなのだと思っていたからだ。だから、拳を握りしめて、ぐっと堪えた。
美加が前を向くとまた俺たちは歩きだした。どうやら川沿いに進んでいくようで、この先には寂れた神社しかない。そこがおぃげらん所か思うと、俺の怒りはますます燃え盛る。
「じゃあ、どうやったらりょうちゃん目覚めるんや。 ひっぱたいて起こせばええんか」
「それじゃ目覚めへん」
「もっと強い刺激やったらええんか?」
「ちゃうねん、そういうんじゃ目覚めへんねん」
怒気をはらんだ声を上げても、美加は冷めた口調のままだった。
なんでそんな冷静なままでおれんねん、そう口にしたかった。だけど、その気持ちを抑え、代わりに眉間にさらに力を入れた。
「ええか? おぃげらまくらから戻るにはその夢に打ち勝たなあかん。 どんな良い夢でも、それを否定してあんたなんか必要ないって言わなあかんねん」
「りょうちゃんが、夢なんか負けるわけあらへん」
「うちに言われたかてどうしようもないんや、こればっかりは本人次第やから」
何度も言われていた本人次第という言葉。本人をよく知る俺からすれば簡単に吐けることではなかった。
だってりょうちゃん、明るくてみんなに優しくて、そんでかしこい俺の憧れなんや。俺はもしほんまにおぃげらまくらがあったとしてもりょうちゃんのこと信じてる。だから、そんなんあってもすぐ目覚めるに決まってるんや。
「……ほんまにおぃげらまくらなんてあるん?」
「みんな信じてるで、だからうちはほんまやと思ってる」
「美加やてりょうちゃんのこと知っとるやろ? だったらなんで目覚める思わんの?」
「うちがあんたよりもりょうちゃんのこと詳しいからや」
「なんやねんそれ」
「言葉通りの意味や、あんたは昔からりょうちゃんと仲ええけどなんにも知っとらん」
「知っとるよ! 好きなもんやって場所やって何でも言える!」
俺は勢いよくそう叫ぶけれど、美加の目は醒めたまま、こちらを見つめていた。立ち止まった彼女はため息を吐き、俺にこう伝える。
「ほら、ついたで。ここがおぃげらや」
先の神社こそがおぃげらだと、そう考えていた。しかし、実際たどり着いたのは神社に向かう道の橋であった。橋か? はしがおぃげらなのかと思いきや、橋の向こう岸に小さな祠があるのに気づく。俺はそれを確認しようと足を踏み出した。
「ちょい待ちいや」
「ここがおぃげらなんやろ? それ確認したいだけや」
「ここはおぃげらやけど、確認しようはないんや」
「どういうことやねんそれ」
「おぃげらは絶望したものにしか夢を見させへんのや。 絶望して、死にたい思って、そんでみんなこの橋から飛ぶ」
「こっから飛んだら川落ちるだけや、人通りもあるし、すぐ助けられるやん」
「すぐ助けたかてほんまに絶望してておぃげらに見初められたらもう遅いんや、そんときにはもう意識は夢の中や」
「じゃあ、俺も飛んだらおぃげら会えるんか」
「あんた約束破るつもりか? りょうちゃんみたいにならへん言うたやん」
「おぃげらなんとかしてりょうちゃん連れて戻ってくる、心配せんでええ」
「嫌やて、あんたが危険な目に遭って欲しくない」
「りょうちゃんをおぃげらなんかに任せておけるわけないやん!」
「もう遅いねんて、そんなん言うんやったらもっとはやく助けて上げたらよかったんや」
美加が涙を目に浮かべて叫ぶ。
その水滴が街灯に照らされてきらりと光った。いつの間にか、空は黒く塗りつぶされ、砂を散らしたように星が俺たちを照らしていた。
「どういうことやねん、それ」
「普段のりょうちゃんやったらおぃげらまくらなんかに頼るわけないんや、なにかの間違いで巻き込まれたとしても、すぐ帰ってくるに決まってるやん!」
「じゃあ、何で帰ってこえへんねん! やっぱりおぃげらなんか嘘やったってことないか!」
「……そこがわかってへんから、あんたは何も知らんて言えるんや」
「じゃあ教えてくれや」
そう言うと、美加は押し黙ってしまう。これでは埒があかないので、俺は彼女の肩を掴み前後に揺さぶった。すると、彼女は俺の腕を振り払って、叫んだ。
「なんでそんなにりょうちゃんに必死なん! 年やって離れてるし、これからどんどん遠なるねんで」
「そのこれからが来えへんくなったら嫌やんか! りょうちゃんのこと大切なんやもん、仕方ないやんか!」
俺が叫び返し、その後に何を言うべきかを考えていたら、彼女の目に涙が溜まっていることに気づいた。
なんで泣いてるんや、泣きたいのはこっちなんや。
俺は黙った彼女をおいて、橋の欄干の上に立とうとする。自分が絶望しているかとき枯れたなら、首を横に振るだろう。だけども、もう飛び込まずに入られないのだ。激怒の火は心からにじみ出て、体を火だるまにし、暑くて仕方ない。この暑さから逃れるためには動くしかないのだ。動いて、この世のどこかにある解決の水に浸かるしかないのだ。
空を見上げると、夕焼けはとうに過ぎ去り、濃い紫の空の上にバラマかれた星がチカチカときらめいたていた。
やけにジメジメとした空気を吸い込んで、俺は手に力を込める。その上に柔らかい美加の手が重ねられたので、俺はびっくりして振り向く。
「邪魔せんといてや」
「待ってや」
「もう待たれへんって」
「一つだけ聞かせてえや、それ次第で全部教えるから」
「なんやねんそれ」
そう聞き返すと、重ねられた彼女の手に力がこもった。そうなった状況下で、俺は、始めて彼女がすごく近くにいることを意識した。息づかいが聞こえて、耳がくすぐったい。そして冷たい手が震えていた。
彼女が口を開いて、暖かい吐息が首にかかる。それで、俺の胸が緊張感で締め付けられた。
「……あんた、りょうちゃんのこと好きなん?」
「それは、よくわからへん」
「じゃあ、考えて答えてや」
そんなことを美加が言うので、俺は熱が走った頭で必死に考える。好きか嫌いか聞かれたら絶対に好きの部類に入る。でも、多分、彼女が聞きたいのはそんな全般的な好きではないのだ。おそらく、彼女が聞きたいのは恋愛感情としての、好き。俺はそう思っていたので、りょうちゃんについて必死に考える。
りょうちゃんの隣に立って歩きたいって思うし、もっと一緒にいたいって思うのも、冷静に考えたら異性として好きってことなんやろなぁ。でも俺は、ほかの女性に対してそんな気持ちを抱いたことないので、それが好きなのかどうかに悩んでしまう。しかし、たったひとりだけの人間に対してそう思うってことが好きって証なのかもしれない。
だから、俺はそれを素直に伝えた
「多分、好きなんやと思う」
「そう、ま、見ててまるわかりやったけどね」
美加が後ろでくすくすと笑った。でも、その声はあまり楽しそうではなかった。その様子が少し気になったけれど、そんなことよりも今はなんでりょうちゃんがおぃげらまくから目覚めへんか、である。
「それで、なんでなん、りょうちゃんのこと教えてーや」
「その前にな、おまじないだけさせて」
「そんなんええから」
「よくないよ、だって理由聞いたら、あんたおぃげらに連れていかれるもん」
「そんなんわからへんやん」
「うちにはわかる。 だってあんたりょうちゃんのこと好きなんやもん。ーーーーだから」
おそらく、美加はこれ以上譲歩しない。そんな気がした。そして、おまじないとやらするまでは俺をここから飛ばせない気なのだ。
きちんとおぃげらからりょうちゃんを取り戻せるかわからん以上、情報はいっぱいあるに越したことはない。
だから俺は頷いて見せる。
「わかった、ええよ」
「ほんま?」
「ええって、だからはよしてーや」
「……もっと」
「なんなん?」
「なんでもないから目閉じてえや」
「閉じたで」
「じゃあ、そのままこっち向いて。向いたらそのままじっとする」
「……この向きでええ?」
「ええよ、口も目も絶対閉じてるんやで」
「わかったからはやく」
「閉じてるんやって!」
おまじない。それが何を指していたのか、そして彼女がどういう気持ちだったのか少し前の俺にはわかっていなかった。
林檎の甘い香りがして、体温が近くなって、そして、唇が――
――触れたのだ。
「……いいよ、目をあけて」
目を開けた先には、少し大人びた美加が悪戯っぽく微笑んでいた。
触れた箇所がとても熱くて、そして走ってもないのに胸がどきどきと煩かった。顔から、火が出るんじゃないかと思うほどに、彼女のおまじないは俺にとって強烈だったのだ。
「今のって」
「おぃげらまくらから戻ってくれるおまじないや」
「き、き、き」
「あんた鈍感すぎるのもあかんねんで。 ま、りょうちゃんのことも気づかんアホやから仕方ないか」
「ちゃうやん、何で今、キスなんてーー」
彼女は俺の話を聞かずに話し続ける。おぃげらからキスで戻ってこれるって、それよりもキスなんて好きな人同士でするもんで、俺は、混乱して、頭の中がわーっとなっていた。
だけれども、美加がりょうちゃんのことを口にした瞬間に、いっきに怒りの熱が湧きたって化身へと戻るのだ。
「りょうちゃん、付き合ってる人おったんや」
「えっ?」
「りょうちゃんよりも年上での人でな、その人のことめっちゃ好きやったんや」
「なんなんそれ、俺知らんて!」
「だからあんた鈍感やねんて、とりあえず、りょうちゃんはそいつに酷いことされたんや」
「酷いことってなんやねんて」
「……お腹に、子供ができてもうたんや。それで、親とも、彼氏とも揉めに揉めたんや、みんなおろせ言うたけど、りょうちゃんだけは産みたがってた」
「だって、りょうちゃん学生やん、まだ」
「だからみんなあかんてな、言うたんや」
「やっぱろみんな酷いて、りょうちゃんやって、りょうちゃんやって……」
頭の中の熱が何故だか一気に冷めていく気がしていた。
俺達はまだ、子供でりょうちゃんだってまだ子供で、それでも好きな人がおって、知らんとこ付き合ってて、子供が出来てて生まれへん。それを聞かされてない俺も嫌だったし、そんなことで飛ぶりょうちゃんが信じられなかった。
なにより、そんな色んなことをりょうちゃんが俺に言ってくれてないってことが一番嫌だったのだ。
確かに、年はそれなりに離れてるし、子供だから頼りないかもしれない。それでも、俺は話してほしかった。
話してもらえないと言うことが、りょうちゃんにとっての俺を物語っていた。
ーーつまり、どうでもいいのだ、俺は。
どうでもよくないのは俺からだけで、りょうちゃんにとっては彼氏との子供や彼氏の方が自分の命とか世界とか、俺よりも全然重要だったのだ。
だけど、きっとそれは当たり前で、俺がそれに気づいていなかっただけ。
そう思うと、無性に悲しくかった。
涙が溢れて仕方なかった。
いや、涙はもはやたくさんの絶望に紛れてわからなかったのだ。
わかるのは、さっきまでより少し遠い空に、冷たい水が肌を刺す痛み。そして眠気だけだ。
眠たかった。
こんな世界より、俺は、夢が見たかったのだ。