プロローグ
「はぁー」
ため息のような深呼吸をした後、意を決して磨りガラスの扉を開けた。
完全に消臭したような独特の空気が鼻を通り抜ける。
清潔感のあるフロアにドアベルの音が小さく鳴り響く。
順番待ちの患者が何人かちらりとこちらを見る。
奥にいる受付の女性が笑顔で挨拶してくる。
俺は軽く会釈した後、早歩きで受付に向かう。
「……お願いします」
入る前に予め財布から出しておいた診察券と保険証をカウンターの上に置き、待合室の壁沿いにあるソファーに腰を掛けた。
ふぅ。
病院に入る瞬間って緊張するよね。
え? しない?
まあ、殆どの人は緊張なんてしないかも知れないけど俺はする。
病院に限らず普通の人にとって他愛の無い事で緊張したり躊躇したりする悪癖がある。
それは人に話しかける時だったり、メールの送信ボタンを押す時だったり、知らない店に入る時だったりね。
いや、知ってる店に入る時も緊張するかな。現にここに来るのも10回目くらいだしね。
さて、俺は今メンタルクリニックにいる。
メンタルクリニックっていうのは、心療内科や精神科といった精神疾患の人が通う精神病院のことだ。
精神病院と言うとなんとなくイメージが良くないからメンタルクリニックと呼んでるのかな? 詳しくは知らない。
メンタルクリニックには週に一度ほどのペースで通っていて、通い始めてから2ヶ月ほどになる。
とは言っても、別に俺は発狂していて暴れたりはしないし、自殺未遂のような行為をするわけでもない。
幸い、もっと軽い症状だ。
医者からは「不安障害と軽度のうつ病」と言われている。
簡単に言うと、先ほど言っていた他愛の無い事で緊張し尻込みする悪癖が悪化したのだ。
原因は仕事でのストレスだろう。
自分のキャパを超えた仕事、上手く取れないコミュニケーション、いつ来るかわからないクレーム、意地悪な上司、要領の良い同僚、責任の所在がはっきりしない業務。。
詳しくはどこにでもあるような話なので割愛する。
本当によくある話だ。
社会経験のある人なら大半が似たような経験をしていると思う。
気の強い人なら文句を言ったり改善要求をするかもしれない。
頭の回転が速い人なら、自分への負荷が大きくならないよう上手く立ちまわるだろう。
普通の人であっても、徐々に仕事に慣れて、それなりの処世術を身に付けると思う。
気が弱い人なら苦労すると思うが、酒や趣味でストレスを発散させつつ頑張っている。。
だが、俺は弱かった。
気が弱いのではなく、心が誰よりも弱かった。
弱い心は、周りが当たり前に耐えているストレスで、いとも簡単に潰れた。
ある日を境に、俺は駄目になった。
今まで日常的に行っていた当たり障りのない作業が出来なくなった。
必要以上に失敗を恐れて人の何倍もの時間がかかってしまう。
結果、時間がなくなって焦って失敗してしまう。
人とまともに話せなくなった。
話そうと思っても、叱責や嫌われるのを恐れて尻込みしてしまう。
無理に話しても混乱してまともに会話出来ない。
数カ月後、俺は自主退職という形で仕事を辞めた。
そして、今はメンタルクリニックに通院しながら就職活動中というわけだ。
来月から三ヶ月の間、失業手当が貰えるから、それが終わるまでには仕事を見つけたい。
まあ、現状では病気の快復と就職どちらの目処も立っていないけどね。
受付を済ますと、ひと息ついて周りを見まわす余裕が出てくる。
自分以外にも5人の男女が順番を待っていた。
備え付けの経済誌を手に持っていて、何故かそれを読まずに水槽を眺める壮年男性。
仕事帰りのサラリーマンなのか、くたびれたスーツを着ている。
スマートフォンをいじっている少女。
こちらは制服を着ているから地元の高校生だろうか。
腕を組んで、どっしりとソファーに座って目を瞑っている青年。
スポーツウェアの上からでも、かなりガタイが良い事がわかる。
大学生か、坊主頭だから高校の部活かもしれない。
何故かソファーに座らず壁を背に向けて、立ったまま待っている女性。
背筋が伸びていて落ち着いた感じに見える。黒髪長髪で和風美人って感じだ。
足を組んで文庫本を読んでいる女性。
カジュアルな服ではあるが、シワがなくピシっとしていてる。
かけている眼鏡も相まってキャリアウーマンに見えなくもない。
平日の夕方とは言え、かなり少ない気がする。
うつ病患者は年々増えているとテレビで見たことがあるが実際はそんなことは無いのかな。
もしくはメンタルクリニック業界でも格差が激しいのか。
待ち時間は一時間ほどかな。
と、ふと時計を見た瞬間。
待合室は強い光に包まれた。