夏、飴玉、太陽のような少女
親父が酒飲みだった。
毎晩、ひとりでテレビを前に晩酌をしていた。そのせいか、母親の手料理といえば酒のつまみみたいなものばかりだった。
親父は酒を飲むと大抵イライラして家族に当り散らした。
姉は俺に、あんたは大人になっても絶対に酒を飲むなとよく言っていた。酔っ払った親父に灰皿を投げつけられたのを、ずっと根に持っていたらしい。女の恨みは根が深い。
俺もよく当たり散らされた。しかし、馬鹿で単純だったので、親父が当り散らしてた後に大抵言う「お父さんはお前が憎くて怒っているんじゃないんだぞ」と言う言葉に、雰囲気に流されて、妙に感動して許していた。
今となったら分かる。親父は確かに俺が憎くて怒っていたんじゃない。酒を飲んで当り散らしたい時、たまたまそこに俺がいただけなのだ。
酒飲みは情けない。
さて、俺と比べて根の深い姉も、弟への忠告はどこにやったのか、中年となった今では毎日必ず酒を飲む。聞いた話では、小さな息子に酒好きだとばれるのが恥ずかしいらしく、もっぱらウイスキーの水割りを飲むらしい。コップに茶色の液体をトクトクと注ぎ、水と氷を入れる。息子にそれは何かと聞かれたら、これは麦茶だと答えるのだそうだ。
姉が言っていた。
「わたしたちは、お父さん程飲めないね。お酒が飲めないお母さんの血が入っているからね」
母は年に一度お正月にだけ、梅酒をお猪口に一杯だけ飲む。そして、半日程顔を赤くする。母は「わたしは飲もうと思ったらいくらでも飲めるけれど、身を持ち崩すのが嫌だから飲まないのだ」と言う。前半は間違いで、後半は正解だろう。
俺はやがて酒を飲むのが嫌になってきていた。
十七年もほぼ毎日付き合ってきた酒だが、そろそろこれが人間の体を蝕む毒だとわかり始めていた。
今となって思うには、大学生の時バイト先のカラオケ屋で、好きなだけ酒が飲める環境だったのがいけなかった。
チェーン店だったのだが、人件費節約とやらで、昼間は社員の店長がひとりだけ居て、夜はバイトしかいなかった。
土曜と日曜は忙しいのだが、平日は暇だった。平日の夜はバイト達で、生ビール、ウイスキー、カクテル、チューハイと、飲みたい酒を好きなだけ飲んだ。店を閉めたら、皆でカラオケをしながら、浴びる程酒を飲んだ。
今となって思うと、そのカラオケチェーンの社員はやる気があったのか。仕入れと売上を見比べたら、明らかにおかしかったはずだ。
そして、酒を飲む習慣が身に付いてしまった。
親父のように酒癖は悪く無かった。早いペースで飲んで、すぐに寝てしまう飲み方だった。ただ、執着が凄まじかった。インフルエンザの時でも飲んだ。社会人になってから飲まなかったのは、会社の泊まり込みの研修の時の数日くらいのものだった。
三十五歳になって、インターネットで酒を飲まずに済む薬がないか探した。煙草も薬でやめることが出来たから、酒も薬でやめようと思ったのだ。そしたら、あった。
土曜日、わくわくしながら近所の病院に向かった。そして、酒をやめられる薬を処方して欲しいと受付の女性に言った。
四十代位のにこやかな女性だった。
女性は奥に行った。しばらくして戻ってきて、困ったようにして言う。この病院ではその薬は処方ができない。代わりにこの病院に行って欲しいとメモを差し出した。
メモには病院の名前と電話番号が書いてあった。
女性が申し訳なさそうに言う。
「そうだ、住所も書いておきましょうか?」
「いえ、ネットで調べますので、大丈夫です」
「そうですか。では、予約をしてから行ってください」
「はい。ありがとうございます」
女性がなぜか緊張しているように感じた。
俺は外に出て、携帯電話で次の病院に予約をいれた。山奥にある病院らしかった。送迎バスが出ているらしい。なぜか妙に疲れてしまっていた。予約は次の土曜日に入れた。
さて、季節は夏だ。
俺は夏が好きだ。明暗のコントラストに目を細めたり、俺を見下ろす入道雲に感動したり、セミの声に耳がいたくなったり、それらの全てが特別に感じてとてもどきどきしてしまう。
俺は太陽を感じながら歩く。そしてバスに乗り、電車に乗る。土曜日の朝だ。人は少ない。
一時間で目当ての病院の送迎バスがやってくる駅のロータリーにたどり着いた。
送迎バスがどこに止まるか目印がない。探しても見つからないので、諦めてペットボトルのコーラを飲みながら日陰でぼんやりしていた。
バスの出発時間まであと五分になったところで、その病院の名前が書かれた送迎バスがやって来て、向こうに止まった。俺はそのバスに一番乗りで乗り込んだ。
やがてたくさんの人が乗ってきた。二〇人位だ。バスの席は余ったが、途中で席が足りるか心配になった。
やがてバスは出発し、山に向かう。やがて辺りは自然ばかりになっていった。店などない。
そして、着いた。古びた大きな病院だった。
受付で問診票を渡された。記入しようとして、驚いた。
あなたは今日、車なのにも関わらずアルコールを飲んでしまいましたか?
幻覚が見える事はありますか?
……
全ていいえに丸をつけ、ひとつ深呼吸をした。
ここはアル中病院だ。例の病院の受付が微妙な態度だったのは、このせいだ。どう接したらいいか分からなかったから、あんな態度だったんだ。まあ、どうでもいい事なのだが。
問診票の提出の後、血液検査をする。
俺はずっと針が苦手だったが、最近目を逸らさない方が怖くないと気づいた。見えないから余計に恐怖が増すのだ。むしろじっと見れば怖くない。
針が刺さり赤い液体がゆっくりとプラスチックの筒に流れ込んでいく。それを凝視する。体にこんな液体が詰まっているのだと、不思議な感覚を覚える。
血液検査の結果が出るまで一時間掛かるという。俺は病院の外に出て、散策をする事にした。林に舗装されていないが道があったのでそこを歩く。
木陰に蝉しぐれが響く。木漏れ日が地面に揺れる。うっとりする。
少し歩くと、小さなグラウンドに行き着いた。人はいない。
しばらくぶらぶらして、来た道を引き返した。
草むらをのぞき込む。蟻が3匹掛かりでバッタの死骸を運んでいた。俺は飴玉を持っているのを思い出し、蟻の近くに飴玉を置く。蟻は気にする様子もない。バッタを運ぶのに手一杯だ。
いいさ、そのうち気が付いて夢中になるだろうから。病院が終わったら確認してから帰ろう。
待合いに戻り、本を読んで時間を潰す。
バスにはたくさんの人が乗ったのに、待合には俺の他に三人だけだ。
ひとりは若い女の人で、あとのふたりは老夫婦だ。
この人たちは、どういう人たちなんだろうか。患者なのだろうか。それとも患者の家族なのだろうか。
やがて若い女性が診察室に入っていった。
本を読みながら後ろの老夫婦の会話に聞き耳を立てる。親戚の葬式の話をしていた。誰が生きていて誰が死んだか、互いに言い合って確認しているのだ。
若い女の人が診察室から出てきた。ハンカチで口を押さえている。泣いている。そして、小走りで外に出て行った。
やがて自分の名前が呼ばれた。
診察室に入ると、四十代位の男の医師がいた。
俺は言う。
「よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ。ええと、アルコールは毎日ですね。で、缶ビールを五百ミリリットルで二、三本程度、と。多いなあ」
「はい。でも、アル中ではないと思っているんです」
「いえいえ。あなたは立派なアル中ですよ。」
「はあ」
「今日は飲まないぞと決めたのに飲んでしまう。コントロール障害。それがアルコール中毒です。昼間から飲むとか量が多いとかは関係ないんです。そして、あなたくらいのアル中は日本中に山程います。日本は酒飲みに優しい国ですから。あなた程度のアル中がここに来たってのは、むしろ運がいい。やめるいい機会です。だから、今日でアルコールをやめてしまいましょう」
「なるほど。それでですね、先生、アルコールを飲みたくなくなる薬があるとネットで見ました。それを処方してもらえませんか」
「ああ、ありますよ。でも、やめておいた方がいい。あれは依存性があるんですよ」
「依存性ですか」
「そう。アル中が治って、ヤク中になります。それよりも断酒会がお勧めです。断酒会はご存知ですか?」
「はい。聞いたことがあります」
「一応説明しますね。断酒会とは……」
説明はあまり身を入れて聞かなかった。
断酒会は行きたくないと感じた。重度のアルコール患者が自身の体験を話し、互いに抑止力を与えるという奴だ。
俺程度の奴が行ったら絶対に、浮く。
それよりも目当ての薬を処方してもらえないのが残念だった。
やがて医師が言った。
「ぜひ、行ってください」
「はい。分かりました」
「アルコール依存症の医者って、無力なんです。何が出来るわけでもない。こうやって、断酒会を勧めるしか、できないんです」
そして、帰りの送迎バスに乗った。
まぶしい夏の景色をぼんやり眺めながら、ふと、蟻と飴玉を確認するのを忘れていたのに気づいた。
昼食は中華料理屋でラーメンと餃子を食べた。
結婚してから、餃子が好きになった。妻は薄味を好む。そのせいだと思う。俺は薄味の餃子が好きだったようだ。昼食の餃子は味が濃く、あまり美味しいと感じなかった。
家に帰ると、子供が玄関まで来てくれた。三歳半の娘だ。
「ただいま」
娘はにこにこしながら俺に抱きついてくる。
娘を抱き上げ台所に移動する。妻がいる。
「おかえりなさい。病院はどうだった?」
「駄目だった。薬を出してくれなかった。アル中が治ってヤク中になるんだってさ」
「ふうん。それより、今から晩御飯の材料を買いに行ってくるから、子供を見といてくれる?」
「分かった。ふたりで公園にでも行ってくる。ところで、今日の晩御飯は何?」
「餃子」
「そう。大好物だ。一日に、二回だって食べられる」
「うん?じゃあ、楽しみに待っておいて」
「いってらっしゃい」
妻を見送り、娘を着替えさせる。水筒にお茶を入れる。帽子を被せる。
子供が言う。
「こうえん?」
「そう。公園」
「はやくいきたい」
「よし、そうしよう」
玄関前の階段を手をつないで降りる。そして手を離すと、娘が駆け出す。それを小走りで追いかける。
「今日は下の公園に行こうよ」
「したの?」
「そう。上の公園には滑り台しかないだろ。下の公園には滑り台だけじゃなくて、ブランコもある。行こうよ」
「うん。いく」
手をつないで歩く。繋いだ手が暑く、汗だらけになる。
途中、木陰で休憩していた身なりの良い老人が娘に話しかけてくる。
「こんにちは」
娘は斜めしたを向いたまま黙っている。
「ほら、アキちゃん。こんにちはって言ってごらん」
娘はまだ緊張している。
「じゃあ、行こう。ほらバイバイして」
娘は緊張しながら手を振った。老人が嬉しそうに手を振った。
下の公園には、小学生位の女の子がふたりと、男の子がひとり、滑り台で遊んでいた。
娘はブランコに向かって走り出した。俺はそれを追いかける。
娘を持ち上げてブランコ座らせる。
「押そうか?」
「だめ。じぶんでやる」
「わかった。押さない」
ブランコはなかなか動かない。
太陽がじりじりと肌を焼く。自分の影に娘が入るよう、立つ場所を変える。
そこに女の子がやってきた。遊んでいたふたりのうちの、大きい方だ。
隣のブランコに乗り、こぎはじめる。立ちこぎだ。たちまち勢いがつき、チェーンがギシギシと鳴る。女の子が放り出されそうな程激しくなった。
「怖い」
俺が思わずつぶやくと、女の子はにっこり笑って言う。
「全然大丈夫。ほら、見て」
立ちこぎをやめて座り、勢いを保ちながら、履いている靴を緩める。そして、ブランコの勢いを利用して靴を飛ばした。
俺は青空に白い靴が舞うのを見上げた。
靴は向こうに落ち、跳ねた。
もうひとりの女の子がそれを拾った。女の子にその靴を投げて、また滑り台に戻る。
ブランコを止めた女の子が、靴を履きながら言う。
「どう?」
「すごい」
俺が言うと、女の子は満足げに笑った。
「あれが、妹。妹もできるよ。妹に靴飛ばし教えたのはわたし」
「そうなんだ」
「その子にも教えてあげようか?」
ブランコを止めて、女の子が言う。俺は答える。
「いや、いいよ。まだこの子は小さいから無理だと思う」
「そう。じゃあ、他のことして遊んであげる。行こう」
止める間もなかった。女の子は娘の手を繋いで、滑り台に行ってしまった。
危険な遊びをしないよう、俺は日陰のベンチに座り、娘の遊ぶ姿を見ていた。初めは戸惑っていた娘もやがて楽しそうに笑うようになっていった。さすがはお姉ちゃんなのだろう。年下の面倒を見るのが得意なようだ。
太陽のような少女だと思った。
でも、女の子をこんなふうに眺めていて、近所のひとに変質者と思われたらどうしようとも、つい考えた。
砂場の土を掘り返しながら、女の子が言う。
「ホリカワは、塾に行くの?」
男の子が答える。
「行けって、お母さんから言われている」
「ふーん、そうなんだ」
ホリカワはこの女の子が好きだな。態度でわかった。
途中休憩を挟み、じゅうぶんに遊んだので、そろそろ家に帰ることにした。
娘に近寄り、言う。
「アキちゃん、そろそろ帰ろう」
「いや。あそぶ」
「あついから、病気になっちゃうよ」
「いや」
「オレンジジュース飲もうよ」
「じゅーす?」
「そう。美味しいよ」
「わかった。かえる」
「じゃあ、お姉ちゃん達にありがとうをしなさい」
ここで、女の子がこう言った。
「また、会いたいな」
その素直な感情表現に、俺は思わず感動した。娘を友達と認めてくれたのだ。俺にはとても口に出せない言葉だった。
ホリカワの気持ちがよく分かる。俺が少年だったら、きっとこの子に激しく恋していただろう。
俺はうろたえながら言う。
「近所だから、また連れてくるよ」
「この時間だったら、大抵ここにいるから」
「わかった」
「でも、わたし達、秋には引越しするんだ」
「そうなんだ。どこに?」
「滋賀県」
「近いね。京都の向こうだ」
「まあね。じゃあね、ばいばい」
「ばいばい」
帰り道にドラッグストアで缶ビールを買った。娘にはオレンジジュースを買い与えた。
ここの店員にひとり、嫌いな奴がいる。顔つきが妙に気に入らない。相手にも俺の感情が伝わっているようで、俺が来たのに気付くと傷ついたような表情をする。だが、店員なので、俺に文句は言えない。
今日はそいつがいなかった。俺はほっとする。今日はせっかくの素晴らしい日だったから、あいつには会いたくなかった。
家に帰ると、妻が料理をしていた。キャベツを刻んでいる。
「ただいま」
「おかえり。なに、それ。ビール?お酒やめるんじゃなかったの?」
「薬を貰えなかったから。延期する事にした」
「ふーん。まあ、そんなことだろうと思っていたけど」
「怒った?」
「期待してなかったから、別に。あなたはアル中だから」
「正解。ところで下の公園でね、近所の女の子がうちの子と遊んでくれた。小学生の子なんだけど、妹と一緒に来ててさ。うちの子も喜んでいた」
「そうなんだ」
「ありがたいんだけど、小学生の女の子と変に会話とかして、俺が変質者に間違えられたら嫌だな、って思った」
「そうね。確かにそうかも」
「引っ越してきたばかりなのに、変に居づらくなった困るし。だからあそこには、しばらく近寄らないようにするよ」
「ふーん」
妻はキャベツをひき肉に混ぜ合わせながら、言う。
「ところでさ、今日はお昼に何を食べたの?」
「ラーメンと餃子」
妻の表情が歪んだ。
そして苦しそうに言う。
「やっぱり。なんか変な話し方するから、変だなって思ったんだ。やっぱりあれは嫌味だったんだ。本当にあなたって、嫌なやつ」
「そんな嫌なやつでもないよ」
「黙れ、アル中」
「それは正解だ。ほら、餃子包むの手伝うよ」
「うるさい。あっち行け。そして、死ね」
「わかった。あっちに行く。でも、死なない」
俺は缶ビールを開けて、一気に飲み干した。