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滅びゆく竜の物語  作者: 柴咲もも
番外編
41/42

朝霧の森を駆ける 後編

 雨のように木漏れ日が射す森の中、彼の背中を追って歩いた。

 驚きとも怒りとも言えない表情でわたしを見ていた父と兄の顔が、時折り脳裏をよぎっては消えた。

 それでも、迷うことなく先を行く彼の背中を追い掛けるだけで、わたしは今まで感じたことのない晴れやかな気持ちになっていた。


 生い繁る草を掻き分けて進んだその先に、わずかに樹々が拓けた空き地があった。

 中央に転がる横倒しになった丸太の前で立ち止まると、彼はわたしを振り返り、何度かわたしと丸太のあいだで視線を行き来させた。わたしは首を傾げて、しばらく棒立ちになっていた。

 やがて彼は困ったように表情を曇らせて、丸太の端に腰を下ろした。


「……座らない?」


 彼に促されて、ようやくわたしは彼の行動の意図を察した。

 いつもなら、たとえ彼が相手でも、気兼ねすることなくさっさと隣に座っていたと思う。

 でも、先ほどイシュナードに指摘されて自分の気持ちに気がついたばかりで、わたしは完全に彼のことを意識してしまっていて、不自然に距離を置いて丸太に腰を下ろすことしかできなかった。

 そんなわたしの様子から、わたしが彼のことを警戒していると思ったのだと思う。

 

「怖がらせてごめん。……でも、他の誰かに俺とふたりで話してるところを見られたら、きっと変な噂がたつから」


 そう前置きして、彼は淡々と話しはじめた。


 その内容は、イシュナードの口から語られたものとはまるで別のものだった。

 一方的に抱いている好意を知られ、突き放されるものだとばかり思っていたわたしは、少し拍子抜けしてしまったけれど。

 イシュナードが彼に語った夢を、里の者に知られたらどんな仕打ちを受けるかもわからない秘密を、彼はわたしに正直に打ち明けてくれた。

 どうしてそんな秘密を教えてくれるのかと尋ねるわたしに、彼は言った。


「きみに落ち度があるわけじゃないことを、伝えたかったから」

「……きみは優しいね」


 呟いて、わたしはようやく肩のちからを抜いた。

 直前の状況から考えて、彼はわたしとイシュナードのやり取りを聞いていてもおかしくないと思っていた。

 保身のためにイシュナードに求婚して断られたわたしに好かれているなんて、イシュナードの友人である彼にとっては不愉快極まりないことに違いなくて。イシュナードがそうしたように、彼もまた、わたしを拒絶するのではないかと思っていた。

 でも、どうやら彼は、わたしとイシュナードのやり取りを聞いたわけではなく、わたしが去ったあとイシュナードに話を聞いただけのようだった。

 わたしは俯いて、彼にイシュナードを婚姻相手に選んだ理由を打ち明けた。

 そのすべてに嘘はなかったけれど、本当の気持ちだけは伝えることができなかった。

 ただ胸の奥で、同じ言葉を何度も反芻していた。


 ——きみのことが、好きだよ。



 彼と眼を合わせることが、わたしにはできなかった。視線を交えてしまえば、気持ちが伝わってしまいそうで。

 彼は必要最低限のことしか話さなかったけれど、その言葉の節々からは、不器用な優しさが伝わってきた。

 いつも一人で丘の上に座っていた彼の姿を思い出して、元々口下手なんだろうなと、わたしは思った。


 彼の話が終わって、空き地に沈黙がおりた。

 わたしに気を遣ったのか、彼はその後もしばらく黙って側にいてくれた。


 森の樹々がかさかさと音を立てていた。風が吹いて、木の葉がひらひらと目の前を横切り、彼の足元へ静かに舞い落ちた。自然と視線が木の葉を追っていた。それは彼も同じだったようで、顔を上げた彼と目が合った。

 促されるように、わたしは精一杯の想いを口にした。


「きみの髪は、安息をもたらす夜の闇のように優しい色だね。わたしは好きだよ」



***



 その年の収穫祭で、わたしは例年どおり祝祭の舞を踊った。

 毎年、豊穣の女神様への祈りをこめて踊り続けてきた舞だったけれど、その年は少しだけ気持ちの在り処が違っていた。


 はじめて自覚した淡い恋心が愛しい彼に届くように。

 願いを込めて、わたしは精一杯舞い踊った。

 

 けれど、祭りの会場に彼が現れることはなかった。



***



 雪溶けの季節になった。

 イシュナードに求婚を断られて以来、わたしは花嫁修行と称して、料理や裁縫、家畜の世話から子育てまで、いろいろなことを母に教わる日々を送っていた。

 里のみんなは、わたしとイシュナードのことについて薄々気付いていたようで、たびたび若い男性がわたしの元を訪れた。


 そんなある日、わたしは父に呼び出された。

 ちょうど部屋で刺繍の練習をしていたときのことだった。


「お前、まさかあの小僧が来るのを待っているわけじゃないだろうな」


 新しい婚姻相手を決めようとしないわたしに痺れを切らしたのか、責めるように父が言い放った。

 あの日、わたしが父の意向に逆らってゼノの話を聞いたことを理由に、父はわたしと彼の関係を疑っていた。


「そんなんじゃない。イシュナードに断られたからって、すぐに次の相手を決められないだけだよ」


 誤解と怒りの矛先がゼノに向けられないように、わたしは即座に父の言葉を否定した。

 あの日から、わたしは一度もゼノと会っていない。以前のように、森へと続くあの道で目を合わせることすらしていなかった。


 収穫祭の夜、彼は祭りの席に現れなかったから。

 わたしがイシュナードに振られたと知ってからも、彼は成人の儀の資格を得ようとしなかったから。

 彼の気持ちは、ひとかけらもわたしに向けられていないことを理解した。


 あの日、彼がわたしを追ってきたのは、彼の優しさ故のことで。その優しさが残酷に思えた。

 もし父が言うように、彼が成人し、求婚しに訪れていたら、きっとわたしは周囲のことなんか目もくれずに申し出を受けたと思う。

 でも、そんなことは、絶対にあり得なくて。


「イシュナードのこと、まだ諦めてないんだ。そのために花嫁修行だって頑張ってるんだから」


 険しい表情でわたしを見下ろす父に、刺繍を施した布地を差し出して、わたしは言った。

 

「大丈夫、ちゃんと理解してるよ。この里で幸せになろうと思うなら、婚姻相手はイシュナードしかいない。だから、認めてもらえるように頑張るよ」


 それは本心だった。

 想う相手に想われることは、そう簡単ではないことを知ってしまったから。

 ならばせめて、添い遂げる相手は彼を傷つけない人であって欲しい。


 わたしは、そう願った。



***



 外界の視察に出ていたイシュナードが忽然と姿を消したのは、それからすぐのことだった。 同行していた者を問いただしても、その消息は全く掴めなかった。

 里のみんながイシュナードの奇行に考えを巡らせるなかで、わたしはふと思った。

 あのときのゼノの言葉は間違いではなかったのだと。


 イシュナードが去ったあと、しばらくは慌ただしい毎日が続いた。けれど、里のみんなが落ち着きを取り戻すのに、そう時間はかからなかった。


 誰もが相変わらずだった。

 この里の人々は、変化を望まない。

 まるで、時の流れに身を任せて、緩やかに滅びゆくことを受け入れているかのように。

 そしてそれは、わたしも同じだった。


 イシュナードがいなくなってから変わったことといえば、わたしの暮らしに新しい日課が加わったことだ。


 わたしは子供のころから、毎朝、川に水を汲みに行っていた。だから、里の外れの川の近くで闇色の鱗の一族が暮らしていることも知っていた。


 ある日、水汲みの帰りに彼の家の前を横切ってみた。

 特に期待はしていなかった。本当になんとなく。彼の家を近くで見てみようと思ったのだ。

 だから、あれは本当に、わたしにとっては奇跡のようなものだった。


 目の前の部屋の窓辺に人影があった。

 それが誰のものか気がついて、わたしは慌ててその場から逃げ出した。

 わたしの存在に気付くことなく、彼は静かに本を読んでいた。

 それは毎朝の、彼の日課のようだった。


 それからというもの、わたしは毎朝、水汲みの帰りに本を読む彼の姿を探すようになった。

 気付かれないように、遠くから彼を眺めるだけ。

 声を掛けるなんてできなかった。そんな勇気は何処にもない。

 ただ、彼の姿を目にするだけで、その一日が幸せなものになる気がして。

 代わり映えのない毎日でも、ほんの少し楽しく思えるようになった。



***



 少し肌寒い朝だった。

 いつものように水汲みを終え、彼の家へ向かったわたしは、窓辺を見て足を止めた。


 彼の姿が窓辺になかった。

 こんなこともたまにはある。そう思ったけれど、次の日も見当たらなくて。

 思い切って、彼の母親にそのことを尋ねた。


 彼の母親は憔悴した様子で、わたしに小さな紙切れを差し出した。

 紙に綴られた文字列を読んで、わたしは弾かれるようにその場から駆け出した。

 家に戻り、狩りに出るときと同じように素早く身支度を整えて、森に向かった。



 ——イシュナードを捜すため、里を降ります。


 手紙にはそう書かれていた。

 彼は里の外に出たのだ。


 それは、わたしが最も恐れていたことだった。

 イシュナードを追って外の世界に出た彼は、この里に帰ってくるだろうか。

 彼を孤立させ続けたこの里に帰ってくる理由が、彼にはあるだろうか。

 

 いいや、彼はきっと帰ってこない。もう二度と、彼には会えない。



「そんなの嫌だ!」


 誰にともなく、わたしは声を張り上げた。

 いつかイシュナードが言っていた。一緒に外の世界に行かないか、と。

 今がそのときだ。



 記憶を辿り、イシュナードに教わった結界の抜け道を思い出しながら、森の小径を駆けた。

 わたしは今、里の掟を破り、禁じられた行為に手を染めている。

 それなのに、不思議と身体が、心が軽かった。


 里の皆の期待に応え、ずっと正しい(・・・)行いを心掛けてきた。

 里の大人たちが決めた厳しい掟を守り、自分の気持ちから目を逸らし続けてきた。


 でも今は、わたしを縛るものは何もない。



 朝霧に覆われた森を抜け、まだ見ぬ外の世界に期待に胸を膨らませる。

 大切な、大好きな、恋い焦がれた彼の元へ、いつか辿りつけると信じて。



 ——わたしは、旅に出る。




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