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滅びゆく竜の物語  作者: 柴咲もも
番外編
40/42

朝霧の森を駆ける 前編

旅立つ前のマリアの話

 朝鶏の鳴き声を耳にして、夜が明けたことを知った。

 温かい毛布から抜け出して、壁に掛けてあったいつもの服に着替えると、わたしは自室をあとにした。

 玄関の脇においてあった木製のバケツを手に、まだ薄暗い道を駆けていく。

 里の端に位置する、峡谷を望める切り立った崖。そのところどころ出っ張った岩を階段代わりにひょいひょいと降り、わたしは渓流の水をバケツですくい上げた。

 冷え切った水に満たされたバケツを確認してひとり頷いたあと、川岸を通り抜けて、崖の上へと続く坂道を登った。

 森の樹々が紅く色付くこの季節は、水汲みを終えてこの坂を登る頃に、ちょうど朝陽が昇る。

 今日も計算通りの時刻に、あの場所へ行けるはず。

 膨らむ期待とともに、自然と歩調が速まった。


 坂道を登ると、崖の上にひっそりと建てられた小さな小屋が目に入った。

 峡谷に面した壁の窓辺に彼の姿を見つけ、わたしは足を止めた。

 窓際の椅子に腰を掛け、ぺらぺらと本のページをめくる、彼の名前はゼノ。

 峡谷から吹き込む冷たい風に揺れる髪は夜の空を連想させる闇の色。本に書かれた文字を追う紅玉のような瞳は、初めて視線を交わしたときから、わたしの心を捕らえて放さない。

 彼は毎朝同じ時間に、こうして自室の窓を開け、本を読み耽っていた。

 

 わたしが彼の姿を目にすることができるのは、早朝のこの場所で、この時間だけのことだった。

 同じ里で暮らしているにも関らず、彼は人前に姿を現さないから。

 理由はわかっている。

 その昔、里の人々が彼を、彼の家族を排斥したからだ。

 彼の一族が蔑まれる理由も考えずに、里の子供たちはまだ子供だった彼を一方的に攻撃したのだ。

 わたしも同罪だった。

 あんな仕打ちはいけないことだとわかっていたのに、皆を止められなかった。ただ見ていることしかできなかった。

 やがて里長の仲裁もあって里の大人たちが謝罪し、彼の家族は和解を示した。でも、子供だった彼は心に深い傷を負ってしまったのだと思う。

 彼が心を開いた相手はたったひとり——三十年前に里から姿を消した彼の友人(イシュナード)だけだった。


 昔のことを思い出し、いつもより長く立ち止まってしまった所為かもしれない。

 本のページに視線を落としていた彼が、ふと、窓の外に目を向けた。

 わたしは慌てて身を翻し、里へと続く緩やかな坂道を駆け出した。


 ——どうか、彼に気付かれていませんように。


 振り返ることもできずに、わたしはただ、そう願った。



***



 その日、それまで誰に勧められても成人の儀の資格を得ようとしなかったイシュナードが、突然その資格を得た。

 あまりにも不自然なその行動に少なからず疑念を抱いたわたしは、家路についたイシュナードのあとを追いかけた。

 両脇に草が生い茂る細道の途中、イシュナードはわたしを待っていたかのように、ひとり佇んでいた。


「やあ、マリア。どうかしたの?」


 余裕たっぷりに微笑んで、イシュナードはわたしに向き直った。

 小刻みに息を切らしながら、わたしは疑問を口にした。


「どうして、成人する気になったの……?」

「どうして、って……」


 イシュナードはポカンと間の抜けた表情を見せたあと、悪びれるわけでもなく答えた。


「……ゼノを説得できたから」


 最初は、その言葉の意味がわからなかった。

 混乱して頭を抱えそうになるわたしを尻目に、イシュナードは自慢げにそれまでの経緯を語り出した。

 元々、イシュナードは里の外の世界に興味津々だったらしい。

 彼の友人——ゼノが丘の上で読んでいたのは祖父から譲り受けた外の世界の本で、はじめ、イシュナードは本を読みたいがために彼に近付いた。けれども、すぐに本だけの知識では物足りなくなり、彼は実際に外の世界に行ってみたいと思うようになった。

 異種族との交流を禁じるこの里で、里の外に出られる許可を得られるのは一部の成人男性だけで、イシュナードひとりでは上手い口実を作れない。

 そこでイシュナードは外の世界に興味を持っていたゼノを唆し、ふたりで里を出る計画を立てたのだ。


「まず手始めに、()()()()な僕が成人して結界から出る許可を得る。その裏で、あまり期待されてないゼノには無能を演じてもらう。あとは、成人の儀の資格を得られないゼノの狩りに僕が付き添うってかたちで、長期間、里を留守にする建て前を作って……」

「そんなの、きみに都合が良いだけじゃないか。彼を巻き込むのはやめなよ!」


 得意げに語るイシュナードに、わたしはつい、声を荒げて噛み付いた。

 里長の一族であるイシュナードと過去に蔑まれてきた一族のゼノとでは、里での立場も全く違う。イシュナードなら厳重注意で済まされることでも、ゼノが同じように許されるとは限らないはずだ。

 けれど、イシュナードはわたしの言葉なんて気にも留めていないようだった。


「巻き込んでなんかいないよ。ゼノだって外の世界に興味があるんだ。なんならマリア、きみがゼノを止めてみれば良い」


 そう言って、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。

 わたしはそれ以上、何も言えなかった。

 言い合いになったらイシュナードには絶対に勝てないし、そもそもわたしはゼノと仲が良いわけでもない。わたしが彼の心配をしたところで、彼がわたしの忠告を聞き入れることはないだろう。

 里長や大人達に告げ口をして引き止めることはできるけど、それで嫌な目に合うのは闇色の一族のゼノだけだ。

 わずかな沈黙のあと、無言で俯くだけのわたしにイシュナードが優しく言った。


「一緒に行きたい?」


 悪魔の囁きに似たその言葉に、わたしは勢い良く顔を上げた。


「そんなこと、できるわけない!『外』とは関わっちゃいけないって、それが里の掟じゃないか」


 掟を破った者がどうなるのかはわからないけど、わたしたちは子供の頃からずっと、掟を守るようにと言い聞かされてきた。

 この里で暮らす以上、掟は絶対のもので、外界との接触が禁じられていることにだって意味があるはずだ。

 けれど、イシュナードの考えは違っていた。

 彼は突然、強引にわたしの身体を抱き寄せると、ひそひそと耳元で囁いた。


「掟が気になるなら、里長を継ぐ僕の伴侶になれば良い。そうすれば、何も咎められなくなる」


 わたしは耳を疑った。

 共犯者になるために夫婦になるだなんて、冗談がきつすぎる。

 そのときのわたしはすでに成人の儀を終えていて、里の若い男の人から何度か求婚もされていた。その中でもイシュナードのこの求婚は一際馬鹿げていて、わたしは彼を勢いよく突き放すと、振り返りもせず足早にその場をあとにした。



***



 幾らか季節が巡って、陽の短い季節になった。

 木の葉がひしめく森の小径を、わたしは父と兄に付き添われて歩いていた。イシュナードに婚姻を申し込むために、だ。

 里で唯一の年頃の娘だったわたしにとって、婚姻とは里の将来を担う優秀な男の血を遺すためのものだった。

 わたしの前ではあんなだけど、イシュナードは里の若い男のなかでは最も優秀で、皆の期待を一身に背負っていた。

 彼こそがわたしの婚姻相手に相応しい、選ばれるべき存在だと、里の誰もが考えていたと思う。

 だから、わたしは——、それなのに。



「ごめん。その申し出は受け入れられないよ」


 いつもよりも少し緊張して婚姻を申し込んだわたしに、イシュナードは言った。後方に控えていた父と兄が驚いたのが、振り向かなくてもわかった。

 状況を理解できずに思考を空回りさせるわたしに向かって、イシュナードは今までにないほど優しい口調で尋ねた。


「本当に、きみは僕のことが好きなのかな。僕はきみが大好きだから、僕の一生をきみに捧げてもいいけど。でも、きみが本当に好きなのは……」


 わたしはただ、イシュナードの口から紡がれる言葉に耳を傾けることしかできなかった。 

 呆然とするわたしの瞳を愛おしむように見つめて、彼は続けた。


「きみの瞳がいつも追いかけているのは、僕じゃなくて、ゼノだろう?」


 イシュナードの口から発せられたその名前に、わたしはびくりと肩を震わせた。

 まさか、イシュナードの口から彼の名前を告げられるとは思ってもみなかったから。


「……なにを根拠に? わたしは、彼と一度も口をきいたことすらないのに」


 やっとの思いで口にした。その声が微かに震えているのが自分でもわかった。 


 だって、彼——ゼノとは何の接点もなかった。

 里と森を繋ぐ道を見下ろすあの丘で、本を読み耽る彼をみかけた。

 それが気になって、森を行き来するたびにその姿を探してしまいはしたけれど、稀に目が合ったことだってあったけれど、そんなときだって、彼はつまらなそうに本のページに視線を落とすだけだった。

 まるで、わたしの姿なんて、その目に映っていないかのように。

 常に異性から好意を寄せられていたのに、よりにも寄って、全くわたしのことを見ていない彼のことを好きだなんて。


「そんなわけ、ないよ」


 わたしは俯いて、吐き捨てるように言った。


「そう……、でも考えてごらん。今のままでは、僕のすべてをきみに捧げることはできないよ」


 優しい瞳だった。けれど毅然とした態度で、イシュナードはわたしを突き放した。



***



「冗談じゃ済まないぞ。絶対にあってはならんからな。よりにもよって、あの闇色の一族の小僧など……!」


 帰り道、父が声を荒げて言った。

 父も兄も、他の家族も、わたしを取り巻く里の人々は皆、彼をつまはじきものにする。そんな彼らの中心にいるわたしも、きっと彼の目には同じような存在として映っているのだろう。だから目を合わせても、見えていないふりをするのだ。


 イシュナードには申し訳ないことをしてしまった。無意識に、彼を利用してしまっていた。

 イシュナードに指摘されて、初めてわたしは自分の本当の気持ちに気が付いた。

 子供の頃から、わたしはイシュナードの側を駆け回っていた。でもそれは、イシュナードがいつもゼノと一緒に居たからだったのだろう。この闇色のペンダントを欲しがったときだって、わたしはゼノのことを想っていたに違いない。


 森の小径を降りながら、耳元で揺れるペンダントに、わたしはそっと指先で触れた。

 茫然と空を見上げると、樹々の合間をゆっくりと流れていく雲が見えた。



「待って!」


 唐突に声が響いた。

 声の主の姿なんて、ほんの少しも見えなかったはずなのに。直接話をしたことなど、一度もない相手のはずなのに。その声が誰のものなのか、わたしにはすぐに判ってしまった。

 振り返ったわたしの前に、父と兄が立ち塞がる。ふたりの肩越しに、夜の空を思わせる闇色の髪が見えた。


 ——ゼノ。


 心臓が跳ね上がるように、どくん、と大きく胸を打った。


「違うんだ。イシュナードがきみの申し出を断ったの は、理由があるんだよ」


 立ち塞がるふたりに構うことなく、彼は真っ直ぐにわたしを見据えて言った。

 彼の呼吸は僅かに弾んでいて、わたしを走って追ってきたことが容易に想像できた。


「マリア、先に行きなさい」


 振り向かずに、低い声で父が告げた。有無を言わせぬ強い口調だった。

 でも、わたしは父の気迫に圧されはしても、その場から離れようとは微塵も思わなかった。足が勝手に、ゼノの元へと向かっていた。父と兄のあいだを擦り抜けて、わたしは引き寄せられるように坂道を登った。


「マリア!」


 父の制止にも構うことなく、一歩一歩、歩みを進める。

 いつも伏し目がちの紅い瞳を見開いて、驚いたようにわたしを見つめるゼノの顔が、なんだか可笑しかった。


「父さんも兄さんも、先に帰って。わたしは彼の話が聞きたい」


 父と兄を振り返って、わたしは告げた。

 その言葉を口にしたとき、自分が一体どんな表情をしていたのかはわからない。

 けれど、呆然として動きを止めた父と兄が黙ってその場を去っていったのだから、それまでの父や家族に従順だったわたしとは何かが違っていたのだと思う。

 ふたりきりになった森の小径で、わたしは彼に笑いかけた。


「話を、聞かせてくれる?」



 その日、わたしははじめて、長いあいだ想い焦がれたその人と、言葉を交わした。




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