夜の闇に融ける
本編 第二章 10)真夜中の訪問者 より
お気に入りのペンダントについて尋ねられたマリアは、幼馴染であり、ゼノの友人でもあった少年のことを思い出す。
「……うん。気に入ってるんだ。すごく」
呟いて、耳飾りに触れた。
ひんやりと硬いその石は、彼の髪と同じ、夜の闇の色。
わたしが大好きな色をしていた。
***
その日、いつものように狩りの練習を終えたわたしは、みんなと別れたあと、森へと続くあの路へ駆けて戻った。
路上に姿をみせないよう小屋の影に隠れ、丘の上を覗き見たけれど、ほんのすこし前までそこに居たはずの彼の姿は、すでに見当たらなかった。
しょんぼりと肩を落として家路に着こうとした、そのとき。
唐突に声を掛けられて、わたしは思わず小さく声をあげた。
「なんだよ、マリア。そんなに驚くなよ」
長く伸びた白銀の髪を無造作に掻きあげて、イシュナードが溜め息を吐いた。
「驚くよ! てっきり帰ったものだと思ってたんだから」
食ってかかったあと、わたしは慌てて口を噤んだ。
そう、帰ったものだとばかり思っていた。
毎日森へ向かう子供達とは違い、イシュナードは丘の上でのんびりと一日を過ごす。彼の友人である、闇色の髪の少年と共に。
「今日は、あの子と一緒じゃないんだね」
あたりを確認しながら、わたしはイシュナードに尋ねた。
彼の友人は、いつも丘の上でひとり本を読み耽る、無愛想な子だった。目が合っても、わたしが笑いかけても、不機嫌そうに顔を伏せるだけで、挨拶すらしたことがない。
里のみんなは、その子とその家族を忌み嫌っていた。そして、わたしの家族も例外ではなかった。
里のみんなが正しいことをしているとは思っていなかったけれど、わたしも特別その子と関わろうとはしなかった。
この閉鎖された集落で、仲間外れにされるのは嫌だったから。
だから、多分、わたしはその子に嫌われているのだと思っていた。
「あぁ、ゼノなら先に帰ったよ」
そう言って屈託無く笑うイシュナードが、なんだか羨ましく思えた。
彼はいつも堂々としていて、里のみんなの意思には流されない。
みんなが忌み嫌う闇色の髪の少年とも、なんの躊躇いもなく友達になってしまった。
——本当に、羨ましい。
わたしの視線は自然と、彼の首に提げられたペンダントへと向けられていた。数日前から里のみんなに見せびらかすように彼が身に付けている、闇色の石だ。
わたしが大好きな、夜の色。
あの子の髪と同じ色だった。
「それ、綺麗だね」
闇色に輝く石を指差して、わたしは呟いた。
イシュナードは珍しく驚いたように目を丸くして、首から提げた革紐を指先で摘みあげた。
「……これ?」
「うん。好きなんだ、その色。夜の闇みたいで、落ち着くよね」
そのときの自分が、どんな顔をしていたのかはわからない。
でも、イシュナードはしばらくわたしの様子を見届けたあと、黙ってペンダントの石を外し、わたしに差し出した。
「そんなに好きならやるよ。多分、あいつも悦ぶだろうし」
思いがけず手渡された闇色の石。
落としてしまわないよう、しっかりと両手で包み込んで、わたしはイシュナードに尋ねた。
「……いいの?」
「良いよ。でも、あまり人目に付くようなところに付けるなよ」
さっきまで問題の石を首から提げていたその口で、よくもそんなことを言えるものだ。
呆れ半分で感心しているわたしに、イシュナードは追い討ちをかけるように言った。
「嫁の貰い手がなくなるからな」
付け加えられたその一言にカチンときて、わたしはイシュナードを思い切り睨みつけた。
わたしは年齢の割りに寸胴で、胸も申し訳程度にしかなかった。
イシュナードはいつも、わたしのことを「ちんちくりん」だと言ってからかっていた。
けれど、いくらわたしがちんちくりんだって、女の子のいないこの里で嫁の貰い手がいなくなるほど酷い容姿ではない。
あの子の髪と同じ、夜の闇の色を好きだからと言って、嫁の貰い手がなくなったりすることは、きっとない。
「余計なお世話!」
そう言い捨てて、わたしは元来た道を歩き出した。
やれやれと肩を竦めて、イシュナードが後を追ってくるのがわかった。
「冗談だよ、マリア。怒るなよ」
「……怒ってないよ」
平謝りするイシュナードを振り返りもせずに、わたしはぽつりと呟いた。
そう、怒ってはいない。正直に言ってしまえば、落ち込んでいた。
里のみんなはわたしに優しい。でも、その優しさは「わたし」に向けられたものではなかった。
里に女の子がいないから。だからみんなは、「ちんちくりん」で女の子らしい言葉遣いもろくにできないわたしに、優しくしてくれるのだ。
もしもわたしが男の子だったら、きっとあの子と同じように仲間外れにされてしまう。
夜の闇の色を好むわたしは、この里では異質なのだから。
「茶化してはいるけど、イシュは本当にわたしを心配してくれてる。わかってるんだ」
振り返ってそう告げると、わずかに息を切らすイシュナードとちょうど目が合った。
わたしを見たイシュナードがわずかに顔を歪ませたから、きっとわたしは酷い顔をしていたのだと思う。
「わたしはこんなだし、言葉遣いだって全然女の子らしくできない。おまけに、みんなが忌み嫌う夜の闇の色が大好きなんだから……」
寸胴で、胸のないからだを自分で眺めながら、わたしは「へへへ」と笑ってみせた。イシュナードに貰った闇色の石を、きゅっと硬く握り締めて。
「でも、大丈夫。生憎わたしには、きみみたいな度胸はないよ」
そう、里のみんなが嫌う闇の色を好きだなんて、同じ髪の色をしたあの子にだって、口が裂けても言えない。
こんなことを話せる相手はイシュナードだけだ。
「マリアは綺麗になるよ。言葉遣いだって今のままで良い。夜の闇の色が大好きでも、そんな些細なことは誰も気にしない。里の皆の憧れの的になる」
唐突に、イシュナードが言った。
唐突すぎて、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
ほんの少し考えて、言葉の意味を理解した。
そうしたら、なんだか恥ずかしくなって。
わたしは、その場から逃げ出した。
「本当だよ。知ってるんだ」
風に乗って、囁きに似たイシュナードの声が聞こえた気がした。
***
今思えば、あのときのことがあったから、わたしはイシュナードに婚姻を申し込むことにしたのだ。
結果は、振られてしまったわけだけど。
そのおかげで、わたしは自分が本当に好きな相手が誰なのかを知ることができた。
自覚がなかったとはいえ、あまりにも失礼過ぎて、自分のことなのに笑ってしまう。
一目見て心を奪われた。
夜の闇の色が好きだなんて、そんなのは嘘っぱちだった。
本当に好きだったのは、色なんかじゃない。
話してみたかった。
友達になりたかった。
傍に駆け寄って、一緒に居られたならと——。
暖炉の火はいつの間にか消えていた。
ソファから立ち上がったわたしは、膝の上にあったコートを壁際に掛けて、そっとベッドに近付いた。
さっきまで仰向けになって寝転んでいた彼が、今は猫のように身を丸めて寝息を立てていた。
彼はイシュナードのことを心配しているようだけど、正直に言ってしまえば、わたしはイシュナードのことは心配していなかった。
賢明で自由気ままなイシュナードは、たとえ里の外に出ても、なに不自由なく暮らしていけると思っていたから。
「……でもね、きみのことは、放っておけなかったんだ」
夜の闇に融けてしまいそうな、柔らかい黒髪に指先で触れる。
眠りに落ちた彼の耳元で、わたしはそっと囁いた。
「おやすみ、ゼノ。……大好きだよ」




