皇帝の第六夫人になるはずの王女はキスをせがまれ泣きながら追い返される
小国エルシア王国は、西のヴァルハルト帝国と東のアルヴェイン王国という二つの大国に挟まれていた。
エルシア王国には豊かな鉱山があるわけでも、広大な穀倉地帯を持つわけでもない。人口も少なく、軍も弱い。二つの大国の間でどうにか独立を保っている小さな国だった。
そのエルシア王国の第一王女ミレーヌは、十八歳の春に故郷を離れることになった。
それは西の大国、ヴァルハルト帝国皇帝レオニードの第六夫人となるためだった。
政略結婚である。国同士が不戦を誓うために古くからおこなわれてきた儀式だ。
「ミレーヌ。本当に……すまない」
王城の門前で、父王は娘の手を握った。
死の病に冒されたエルシア王のその手は、もはや枯れ木のようだった。
跡継ぎになる息子はまだ幼い。
彼は、幸いにも聡明で、きちんと育ちさえすれば国を保ってくれるだろう。
しかし、その成長のためのあと十年が長い。
それを何とかするために、姫と家宝を手放す選択をしたのだが……
王と娘はこれで別れとなる。
王の娘が他国に嫁いだならば、もう一度会うことは稀だ。
「何をおっしゃいます、お父様。私は大帝国の皇帝陛下に嫁ぐのですよ。これほど名誉なことはありません」
ミレーヌは笑ってみせた。
もちろん、本心ではない。
皇帝レオニードは四十二歳。
自分より二十年以上も年上で、顔を見たことさえなかった。すでに五人の妻がおり、自分は六人目だ。しかも小国の姫。娶られても愛されるはずはない。
それでもよかったのだ。
帝国から提示された条件は明快だった。
ミレーヌを皇帝の第六夫人として迎えたならば、エルシア王国をヴァルハルト帝国の庇護下に置く。
それだけで祖国が救われるのだ。
西の帝国から侵略される心配はなくなり、一方で、東で国境を接している粗野なアルヴェイン王国も、帝国の庇護下に入ったエルシアへ簡単には手を出せなくなる。
自分一人の人生で国民を守れる。
それならば安いものだ。
ミレーヌはそう思うことにした。
それこそが王家に生まれた娘の運命なのだ。
よくある話である。
王家の娘は、王家の資産であると同時に、国の資産でもある。
それは正しく使われなければならない。
「必ず皇帝陛下の良き妻となってまいります」
父王は何も答えなかった。ただ娘の手を強く握った。
その手が震えていることに、ミレーヌは気づかないふりをした。
「それから、これを」
父王が侍従に目配せすると、小さな箱が運ばれてきた。
蓋が開く。
中には深い緑色の宝石を使った首飾りが収められていた。
中央には人の親指ほどもある大粒の魔石。その内部では淡い光が、水のようにゆらゆらと揺れている。
エルシア王家に三百年以上伝わる家宝『翡翠の首飾り』だ。
強大な魔力を宿した、エルシア王国随一の宝である。
そして今回の婚姻に際し、皇帝側から特に所望された品でもあった。
「陛下がお望みになったものだ」
「はい。必ずお届けいたします」
ミレーヌが箱を受け取ると、父王は寂しそうに笑った。
「お前もな」
「え?」
「宝より、お前が無事に着くことの方が大事だ」
「……はい。お父様」
そうしてミレーヌは故郷を旅立った。
帝都までは馬車で二十日ほどの旅だった。護衛の騎士十二名、儀仗兵二十四名、侍女四名が同行し、婚礼の贈り物として金貨や銀器、宝石類を積んだ荷馬車が続く。その中には当然、王家の家宝である『翡翠の首飾り』も厳重に収められていた。
小国エルシアにとっては、国庫が傾くほどの財宝だった。
一行は出発した。
旅立って八日目。
帝国に入って二日目。
一行は山あいの街道で襲われた。
木々の間から飛んできた矢が御者の胸を貫き、馬車が大きく傾いた。
「敵襲!」
護衛の怒号とともに剣と剣がぶつかる音が響き、馬が激しくいなないた。
「姫様、こちらへ!」
侍女に腕を引かれ、ミレーヌは馬車から飛び降りた。
黒い布で顔を隠した男たちが、護衛兵と斬り合っている。数が多い。それだけではない。互いに声を掛け合い、役割を分担し、護衛を引き離しながら荷馬車へ向かっている。
ただの盗賊とは思えないほど、統率が取れていた。
「荷馬車を探せ!」
男の一人が叫んだ。
「緑の石だ!緑の石を探せ!」
ミレーヌは息を呑んだ。
家宝の宝を狙っているのだ。
しかし、なぜ、盗賊が『翡翠の首飾り』のことを知っているのか。
考えている暇はなかった。
「姫様、お逃げください!」
「でも、あなたたちは――」
「早く!」
すでに矢を受け腕から血を流している侍女に背中を押され、ミレーヌは森へ飛び込んだ。
ただひたすら走った。枝が顔を打ち、豪奢なドレスが木に引っかかって裂ける。途中で片方の靴まで脱げたが、拾っている暇などなかった。
「いたぞ!」
背後から声がした。
さらに走ろうとして、太い根に足を取られた。
地面へ転がり、膝に激痛が走った。
「痛っ……!」
立てない。
二人の男が追いついてきた。
「こいつだ」
「王女か?」
一人が剣を抜いた。
「賞金いただきだな」
「へへへっ」
ミレーヌは地面を這うようにして後ずさった。
その時だった。
「その辺にしておいたらどうだ」
男たちが振り返った。
一人の若者が立っていた。
使い古した茶色の外套に、腰には一本の剣。
黒い髪を無造作に後ろへ流した、二十歳を少し過ぎたくらいだろうか、ずいぶん若い男だった。
その身なりは、どこから見ても、ただのガラの悪い旅人……もしくは少しはましな冒険者か傭兵にしか見えない。
「なんだ、お前」
「その女、嫌がってるだろ。放してやれよ」
「関係ねえ。失せろ」
「そうしたいんだけどな」
若者は頭を掻いた。
「目の前で女が殺されそうになってるのを見て、そのまま行くのも寝覚めが悪い」
「だったら一緒に死ね!」
男が剣を抜いた。
盗賊が斬りかかった。
次の瞬間、ミレーヌには何が起きたのか分からなかった。
若者が半歩踏み込んだように見えた。
ただそれだけだったのに、盗賊は倒れていた。
もう一人の盗賊が剣を振り上げる。
若者の身体が沈み、拳が男の顔へ突き刺さった。
男は血を噴いて倒れた。
「ふう」
若者は剣についた血を払い、鞘へ戻した。
そして地面に座り込んでいるミレーヌを見た。
「…………」
動きが止まった。
「……あの?」
返事がない。
「どうかなさいました?」
若者はまだ見ている。
ミレーヌはひどい姿だった。金色の髪は乱れ、頬には枝で切った傷がある。ドレスは泥だらけで、片方の靴さえ履いていない。
「私の顔に何か?」
「……いや」
「では?」
「美しい」
「…………はい?」
あまりにも真顔で言われたので、ミレーヌの方が困った。
「こんな泥だらけの女に、何を言っているのですか」
「そうだな」
若者は笑った。
それでも目を逸らさない。
「でも、美しい」
「……変な方」
ミレーヌは顔を背けた。
「怪我は?」
「ありません」
立ち上がろうとした途端、膝に激痛が走った。
「痛っ!」
「あるじゃないか。見せろ」
「結構です!」
「なんで」
「女性の脚を勝手に見ようとしないでください!」
「怪我してるからだよ」
「それでもです」
「強情だなあ」
「初対面の女性に失礼ですね!」
若者はなぜか嬉しそうに笑った。
「でも、そういうのもいいな」
「何がです?」
「いや、こっちの話」
若者が手を差し出した。
「立てるか」
ミレーヌは少し迷ってから、その手を取った。
「ありがとうございます。お礼をいたします」
逃げる時に懐に入れて持ってきた小袋を開く。中には数枚の金貨と、小さな紅玉が入っていた。
「これを」
紅玉を差し出すと、若者は目を丸くした。
「宝石?」
「ほんの少しですが」
「いらない」
「では金貨を」
「それもいらない」
「では、何をお望みなのです?」
若者はミレーヌの顔をじっと見た。
少し考える。
そして笑った。
「じゃあ、キスしてくれ」
「…………」
若者はぬけぬけといった。
「勝者への褒美は美姫の口づけと決まっているのだ」
ミレーヌは無言で紅玉を袋へ戻した。
「心からの愛と祝福、それと尊敬とかもつけて熱いのを頼む」
「お断りします」
「即答だな」
「当たり前です!」
「残念」
「キスなど、金があればその辺の酒場でも買えますよ、お金で我慢しなさい」
「ふふん、星の数ほど女がいても、お前はただ一人じゃないか。お前の口づけが欲しいのだ。よこせよ」
みすぼらしい外見に似合わず、なんともキザで、うるさい男だった。
「……あなた、お名前は?」
「アルト」
「私はミレーヌです」
「何者だ?」
「ほんの通りすがりの……王女です……と言ったら信じますか?」
「まあ、そうか。わかった」
「わかったの?」
「わかった。じゃあ行くぞ、ミレーヌ。日が暮れる。休むところを探そう」
アルトはさっさと歩き始めた。
「ねえ、ちょっと!信じるの?!」
「ウソなのか?」
「ウソじゃないわ」
「そうか」
「なんで、わたしはあなたについていくの?」
「行く当てあるのか?」
「……」
「まずは、立て直すところからだろう。ついてこい」
アルトがそう言って歩き始めたのを見て、ミレーヌは特に断る理由もなかったのでついていくことにした。
二人はそれきり話さなかったが、少し進んだところで、アルトの背後から小さな声がした。
「痛っ……」
アルトが振り返ると、ミレーヌが足を引きずっている。
彼は戻ってきて、彼女の前でしゃがんだ。
「乗れ」
「何に?」
「俺に」
「結構です!」
「その足で歩くつもりか?」
「歩きます」
「歩けないだろう」
「放っておいてください」
アルトは笑った。
「うむ……気丈だな。気に入ったぞ」
「……さっき会ったばかりでしょう?」
「そうだな」
「さっきから何なのですか、あなたは」
「一目惚れってやつじゃないか?」
あまりにも平然と言われ、ミレーヌは返す言葉を失った。
アルトがもう一度背中を向ける。
「ほら」
仕方なく、その背中へ身体を預けた。
アルトは軽々と立ち上がった。
「軽いな」
「女性の身体について軽々しく口にするものではありません」
「重いと言った方がいいか?」
「もっと失礼です!」
アルトは声を上げて笑った。
森を抜ける頃には、空が赤く染まっていた。
アルトはミレーヌを安全な場所に残して襲撃された街道へ戻り、一時間ほどして一頭の馬と小さな革袋を持って帰ってきた。
「街道に散らばってた。おまえのだろ?」
革袋の中には金貨と宝石が入っている。
「残っていたのはそれで全部だ。神に誓う」
そう言って、アルトは右の手の平を左胸に当て頭を下げた。
ミレーヌの国とは違う礼だが、それは、品の良さを感じる振舞だった。
「疑ってなどいませんが……荷馬車は?」
「空だった。周りには誰もいなかった。生きている者は誰も」
ミレーヌの顔色が変わった。
「翡翠の首飾りは?」
「何だ、それ」
「緑色の大きな魔石です。大きな木箱の中の、大きな宝石箱に入れてあったのです……」
「見なかったな」
ミレーヌは俯いた。
「……そうですか」
「大事なものなのか?」
「わが王家の家宝です。それこそが、皇帝陛下がお望みになったものです」
「皇帝?」
ミレーヌはそれ以上答えなかった。
襲撃者たちは、まるで初めから首飾りの存在を知っていたようだった。しかも他の財宝まで残らず持ち去っている。
どうして盗賊が、王家の秘宝を知っていたのだろう。
だが今のミレーヌに、その答えを探す術はなかった。
二人は近くの村まで移動し、宿を取った。
翌朝になると、アルトは平民の娘が着るような簡素な服と靴を買ってきた。
「着替えろ。その格好じゃ目立つ」
生まれて初めて着る粗末な服だった。
ミレーヌが着替えて部屋から出ると、アルトがじっと見た。
「何です?」
「いや」
「またですか」
「似合う」
「馬鹿にしています?」
「してない」
「本当に?」
「うん。かわいい」
ミレーヌは顔を背けた。
「……行きますよ」
「そっちは東だ」
ミレーヌは黙って反対を向いた。
■
二人は西にあるヴァルハルト帝国の帝都を目指した。
国へ帰ろうにも、全てを失い、なんの証もないこの身では帝国の関所は越えられない。
ならば、せめて、約束の期日までに帝都の皇帝の前にいくと、ミレーヌは決めたのだ。
三日目には馬が脚を痛めたため、近くの町で馬を売って乗合馬車に乗り換えた。その夜、宿の机に残った金貨を並べていると、いつの間にか部屋に入り込んでいたアルトが横から覗き込んできた。
「何してる?」
「ちょっと!なぜここに!」
「鍵が開いてたんだよ」
そんなはずはない。
絶対に閉めたのだ。
「で、何してるんだ?金なんか出して」
うろたえながらもミレーヌは平静を装って答えた。
「計算です。この先の宿代と食費、それに馬車代。帝都まであと何日かかるか分かりませんから」
ミレーヌは金貨をいくつかの山に分けていた。
「食費がこれだけ。宿代をこれだけ。残りはもしもの備えに……」
「へえ」
「何です?」
「お前、結構賢いんだな」
ミレーヌの手が止まった。
「失礼ですね。王女ですよ」
「王女ってもっと、何もできないと思ってた」
「偏見です。読み書きも計算もできますし、領地経営や税制についても学びました」
「へえ」
「何ですか、その顔は」
アルトが笑った。
「いや。そういうところも好ましいと思ってな」
「……何でもそこへ結びつけないでください」
「なあ、俺んち来ないか?」
「行きません」
「結構金持ちだぞ、俺んち」
「そうですか」
「楽させてやるぜ」
「結構です」
「俺なら妻はお前一人だぞ」
「頼んでいません」
「俺はお前しか愛さない」
「はいはい」
アルトが眉を寄せた。
「扱いが雑になってないか?」
「あなたが毎日同じようなことを言うからです」
「じゃあキスしてくれ」
「嫌です」
「残念」
「それよりも、さあ、部屋から出て行ってください。そもそも侍女もいないのに部屋に男がいるなんて知れたら、婚約不履行となってしまうのですから!」
アルトが本当に残念そうな顔をするので、ミレーヌはため息をついた。
旅の五日目、二人は増水した川に阻まれた。
橋が流されていた。
「迂回すれば三日だな」
アルトの言葉に、ミレーヌは青ざめた。
帝都へ到着しなければならない期日がある。
「渡ります」
「無理だ」
「行かなければなりません」
「流されたら死ぬぞ」
「それでも行かなければならないのです」
「そんなに帝都へ行くことが大事なのか」
「はい」
「命より?」
ミレーヌは唇を噛んだ。
「私の命より大切です」
アルトはしばらく彼女を見つめたが、それ以上は何も聞かなかった。
「……分かった。浅い場所を探そう」
上流へ向かって浅瀬を探した。それでも水は腰近くまであり、アルトが先に川へ入って足場を確かめる。
「来い」
ミレーヌも水へ入った。
だが川の中央まで来た時、踏んだ石が動いた。
「あっ!」
身体が流された。
すぐにアルトの腕が腰へ回った。
「掴まれ!」
ミレーヌは必死にアルトの首へしがみついた。アルトは片腕で彼女を抱えたまま流れに耐え、どうにか対岸までたどり着いた。
二人とも全身ずぶ濡れだった。
「死ぬかと思いました……」
「俺もだ」
「あなたまで死にそうになったじゃありませんか」
「そうだな」
「どうしてそこまで……」
アルトは濡れた髪をかき上げた。
「惚れた女だから」
「……会って何日ですか」
「五日」
「馬鹿なんですか?」
「たぶん」
「それで命まで懸けます?」
「懸けてるんだよ、この恋に。そろそろキスしてくれよ、いいだろ?」
「嫌です!」
「命懸けだったぞ?」
「それとこれとは別です!」
「強情だな」
「悪かったですね」
「いや」
アルトは笑った。
「好きだよ。そういうところ」
ミレーヌは黙った。
「決めたら絶対に曲げないだろ、お前」
「曲げてはいけないこともあります」
「うん。そこが好きだ。どんどん好きになってきた」
ミレーヌは何も答えず、濡れた髪を絞った。
その夜、焚き火の前で服を乾かしている時、アルトが初めて真面目な顔で尋ねた。
「なあ。帝都で何をするんだ?」
ここまで助けてもらった男に隠し続けるのも違う気がして、ミレーヌはようやく事情を話した。
「皇帝陛下の妻になります」
「……妻?」
「第六夫人です」
アルトの顔から笑いが消えた。
「会ったことあるのか」
「ありません」
「好きなのか」
「いいえ」
「じゃあ、なんで」
「私が皇帝陛下の妻になれば、私の国は帝国に守っていただけます。それだけで十分です」
「お前の人生だぞ」
「王女の人生は、自分だけのものではありません」
アルトはしばらく焚き火を見つめた。
「相手はいくつだ」
「四十二歳と伺っています」
「爺さんじゃないか」
「皇帝陛下を爺さん呼ばわりしないでください!」
「お前にはもったいないぜ」
「どちらがです?」
「お前がだよ」
アルトは当然のように答えた。
「お前ほどの女、俺は会ったことないぞ」
「またはじまりました……」
「綺麗だし」
「はいはい」
「頭もいい」
「はいはい」
「真面目だ」
「はいはい」
「強情だ」
「それは褒めていませんよね?」
「褒めてる。そこも好きだ」
ミレーヌはため息をついた。
「なあ。帝都なんか行くのやめて、俺んち来いって。家に部屋は沢山あって、召使いもたくさんいるぞ」
彼は、よく言っても報酬を支払われたばかりの傭兵のようななりなのに、よくもまあ自信満々でそんなことを言うので、ミレーヌは吹き出してしまった。
「なんだよ」
多少、気分を害したのかアルトはつっけどんに言った。
「ごめんなさいね、行きません」
ミレーヌは、笑ってしまったことについてはきちんと謝り、しかし、きちんと拒絶した。
「金ならあるぞ」
「お金の問題ではありません」
「なんだ、見た目がこんなだからか?」
「見た目は関係ありません」
「楽させてやる」
「そういう問題でもありません」
「俺はお前しか愛さない」
「……」
「その皇帝には五人も妻がいるんだろ?」
「はい」
「俺なら一人だ」
「私の後に増えるかもしれないじゃないですか」
「そんなことしない!」
「してもいいんですよ?」
「しない!しないから、なあ、来てくれよ」
「いけません」
「即答するなよ」
「私は国を守るために行くのです」
アルトは黙った。
そして、ミレーヌは少し真面目に言った。
「あなたが強くて、義侠心のある人なのは分かっています。これだけ一緒に旅をして、一度だって私に乱暴なことはしませんでした。思いやりのある人です。騎士もかくやというほど品があります。口が悪くて、しつこく口説いてくることにさえ目をつぶれば、本当に素晴らしい振る舞いです。あなたの言葉も、きっと嘘ではないのでしょう。お金持ちだという話も、おそらく本当なのだと思います。それでも私は、あなたを拒まなくてはならないのです」
それを聞いて、アルトは驚いて、やがて、少し困ったように笑った。
「本当に真面目だな、お前」
「王女ですから」
「そういうところが好きなんだよ」
「またそれですか」
「本当だから仕方ない」
旅は続いた。
野犬に囲まれればアルトが追い払い、宿が見つからなければ夜通し火を絶やさなかった。ミレーヌが歩き疲れて足を痛めれば、文句を言う彼女を無視して背負って歩いた。彼なりに、ではあるが、まるで剣を捧げた騎士であるかのように、かいがいしく仕えてくれた。
アルトも、ミレーヌを見ていた。
小さな村で腹を空かせた子供を見つければ、ミレーヌは自分の食事を半分与えた。宿の老女が毛布を一枚多く貸してくれれば、相手が恐縮するほど何度も礼を言った。
そんな姿を見るたび、アルトはますます彼女にまとわりつくようになった。
その挙動はまるで、犬のようになってきた。
主人の周りをうろうろとする、愛らしい犬……
ミレーヌは、彼を穏やかな目で見つめている自分に気が付くたびに、気を引き締めた。
ある日の昼。
山道で足を滑らせたミレーヌの腕をアルトが掴んだ。
「危ない」
「ありがとうございます」
「じゃあキス」
「しません」
彼はいつも言葉だけだ。
言葉と眼差しだけで、力ずくでそれを求めはしなかった。
しかし、それを求めていることを隠そうとはしなかった。
また別の日。
突然の雨に遭い、アルトが自分の外套をミレーヌへ被せた。
「ありがとうございます」
「じゃあキス」
「嫌です」
また別の日。
宿が一部屋しか空いておらず、アルトが馬小屋で寝た。
翌朝、ミレーヌが礼を言った。
「昨夜はありがとうございました」
「じゃあキス」
「……あなたは犬ですか」
「犬?」
ミレーヌはとうとう呆れ果てて、腰へ手を当てた。
「助けるたびに口づけをねだって。懐いた犬が、飼い主の顔を舐めようとしているみたいです」
アルトは少し考えた。
「じゃあ、一回くらい舐めさせてくれ」
「嫌です!」
「頬でもいいぞ」
「駄目です!」
「残念」
「本当に犬みたい……」
「お前にだけだぞ」
「他の人にもしてなくてよかったです……」
アルトは笑いながらミレーヌの後をついてきた。
本当に大型犬のようだ。
だが不思議なことに、最初は腹立たしかったその笑い声を、いつの間にかミレーヌは嫌いではなくなっていた。
その日の夕方にも、アルトは懲りずに言った。
「なあ、ミレーヌ。今日こそキスしてくれよ」
「嫌です」
「頬でいいから」
「駄目です」
「減るもんじゃないだろ」
ミレーヌが足を止めた。
「アルト」
「何だ?」
「キスとは、そんなに軽々しくするものではないのです」
「そうなのか?」
「少なくとも、王族にとってはそうです」
「へえ」
「口づけとは、神の前で男女が互いの身体と魂を結び合う、大切な儀式なのです。結婚の誓いにも用いられます」
アルトが少しだけ眉を上げた。
「キスしたら婚約したことになるのか?」
「貴族においては、そういう場合があります。身分が高ければ高いほどです」
ミレーヌは呆れたように息を吐いた。
「ですから、庶民の方々はともかく、王族の女性がみだりに殿方と口づけなどいたしません」
「なるほどな」
「分かっていただけました?」
「分かった」
「なら、もう言わないでくださいね」
「それは無理だ」
「どうしてですか!」
「余計したくなった」
「最低です!」
「じゃあ婚約しようぜ」
「しません!」
「俺んち金持ちだぞ!」
「それも何度も聞きました!」
ミレーヌは怒って先へ歩き、アルトは笑いながら後を追った。
■
故郷を出て二十七日目。
大幅に遅れたものの、なんとか期日前に帝都へ着いた。
巨大な城壁の奥には、天を突くような皇城の尖塔が見えている。
「……着いた」
ミレーヌは立ち止まった。
長かった。
だが、ようやく使命を果たせる。
そう思った。
しかし、皇城の門で止められた。
「あんたが姫様だというならば、身分証は?紹介状は?」
「襲撃の際に失いました」
「帝国貴族の身元保証は?」
「ありません」
「外交使節としての証明書は?」
「それも失いました」
門兵はミレーヌを上から下まで見た。
日に焼けた肌。粗末な服。供もいない。
「お前が王女?それが通るなら、街の女、全員お姫様だ」
そう言って笑われた。
翌日は役所へ行ったが門前払いだった。
しかたなしに、別の役所へ行ったが、そこでも断られた。
「私はエルシア王国第一王女ミレーヌです」
そう名乗るたびに疑われた。
王家の印章を見せても偽物かもしれないと言われ、金を払えば取り次ぐという役人に金を渡したが、何も起きなかった。
別の役人にも払いまた騙された。
宿代も必要だった。食事代もいる。
ミレーヌは残った宝石を一つ売った。
また一つ。
さらに一つ。
「もうやめろ」
アルトが言った。
「嫌です」
「騙されてばかりじゃないか」
「それでも会います」
「そこまでして?」
「はい」
「皇帝がそんなに大事か?」
「皇帝陛下ではありません」
ミレーヌは答えた。
「国が大事なんです」
そして、また歩いた。
帝都の貴族街を、一軒、一軒。
門前払いにされても次へ行った。十軒断られても十一軒目へ向かった。
アルトはずっと隣を歩いていた。
「お前、本当に諦めないな」
「諦めたら、何のためにここまで来たのです」
「……そうだな」
「何です?」
「好きだなあと思って」
「またですか」
「そういう真面目なところ、好きなんだよ」
「知っています」
アルトが笑った。
「とうとう否定しなくなったな」
「いちいち相手にするのに疲れただけです」
「俺んち来るか?」
「行きません」
「そっちは即答するんだな」
道をとぼとぼと歩いているその時だった。
「待ちなさい」
立派な馬車から、老紳士が降りてきた。
「そなたがエルシア王国から来たと言って、街をうろついている姫君か」
「……はい」
「王家の証は?」
ミレーヌが王家の印章が刻まれている指輪を、手ごとを差し出す。
老紳士はミレーヌの手を取り、それをじっと眺めた。
「……この形は知っている。若い頃、外交官としてエルシアへ行ったことがあってな」
「本当ですか?」
「……間違いない。本物だ。もっとも、これだけではあなたが王女殿下ご本人だという証にはならないが」
老紳士は指輪から目を上げ、ミレーヌの顔をしばらく見つめた。
「……いや。失礼いたしました。どうやら、その心配はなさそうですな。殿下」
老紳士は二人を屋敷へ招き、ミレーヌの話を最後まで聞いた。
そして自ら宮廷へ連絡を取ってくれた。
彼は昔、ミレーヌの父であるエルシア王に世話になったことがあると言って、身分証の再発行をはじめ、必要な手続きをすべて手配してくれた。ミレーヌはその厚意に大いに感謝した。
二日後。
正式な使者が宿へやってきた。
「エルシア王国第一王女ミレーヌ殿下。皇帝陛下が明日の拝謁を許可されました」
ミレーヌは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
使者が帰ったあと、壁にもたれていたアルトが言った。
「会えるんだな」
「はい」
ミレーヌは笑った。
「やっとです」
「そうか」
アルトも笑った。
「じゃあ、これでお前は幸せになれるな」
「……はい」
少しだけ間が空いた。
「きっと」
アルトはミレーヌを見た。
「じゃあ最後に報酬をもらおう」
「嫌です」
「まだ言ってない」
「キスでしょう」
「正解」
「駄目です」
「最後だぞ」
「それでもです」
「どうして」
ミレーヌは静かに答えた。
「私は皇帝陛下のものになりますから」
「まだなってない」
「明日なります」
「今日ならいいだろ」
「駄目です」
アルトが鼻を鳴らした。
「ふん。強情な女め」
ミレーヌは荷物から小さな革袋を出した。
「では、これを」
「何だ」
「私に残っている全財産です。受け取ってください」
金貨と、小さな宝石。
アルトは袋を見もしなかった。
「いらん」
「あなたには何度も助けてもらいました」
「金などいらん」
アルトは革袋を押し戻した。
「俺が欲しいのはお前だけだ」
ミレーヌは黙った。
「どうだ。俺と来ないか」
「……駄目です」
「皇帝より俺の方がいい男だぞ」
「自分で言いますか」
「少なくとも妻は五人もいない」
ミレーヌは少し笑った。
それでも、首を横に振った。
「私は国のためにここへ来ました。父もいます。弟もいます。兵士も、農民も、商人も、子供たちもいます」
アルトを真っ直ぐ見た。
「私は、その人たちの命を守るためにここへ来たのです」
「自分一人を差し出して?」
「はい」
アルトは長く息を吐いた。
「……そうか」
「はい」
「じゃあ仕方ないな」
立ち上がった。
「俺は行く」
ミレーヌも立った。
「アルト」
「何だ」
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
「あなたがいなかったら、ここまで来られませんでした」
「礼はいらん」
「でも――」
「じゃあキス」
「しません」
「最後まで強情だな」
アルトは扉を開けた。
「幸せになれ」
ミレーヌは小さく笑った。
「はい」
「ではな、ミレーヌ」
「さようなら、アルト」
扉が閉じた。
扉が閉じると、ミレーヌはとても寂しい気持ちになった。
■
翌日。
ミレーヌは皇帝レオニードの前に跪いていた。
「エルシア王国第一王女、ミレーヌ・エルシアにございます」
皇帝は頬杖をついたまま、彼女を眺めた。
「それで?」
「はい?」
「翡翠の首飾りはどこだ」
ミレーヌの身体が強張った。
最初に聞くことが、それなのか。
「……道中で奪われました」
「奪われた?」
「はい。盗賊の襲撃を受けまして」
「そうか」
皇帝は驚かなかった。
あまりにも、驚かなかった。
「どこでだ」
「ガルダの森の北にございます」
「そうか」
それだけだった。
まるで初めから知っていたような、そんな返事だった。
「陛下……?」
「他の約束の品はどうした?」
「襲撃で多くを失いました。残ったものも、帝都に着いてから陛下への拝謁を願うために……」
「使ったのか」
「……はい」
皇帝が笑った。
「つまり、何もない」
「申し訳ございません」
「面白いな」
皇帝は立ち上がった。
「余との婚礼を望みながら、約束した品を一つも持たず、供も連れず、身一つで現れた」
「ですが、婚儀については必ず履行させていただくべく……」
「婚儀?」
皇帝の声が冷たくなる。
「無一文でどうやって執り行うつもりだ?無一文で!」
「……」
ミレーヌは返す言葉がなかった。
「それに、婚礼は全ての約束を履行して初めて成立する話だ」
「父は約束を違えてはおりません!私は期日通りに参りました!」
「必要な品、全部持ってきたのか?え?この契約書に書かれた品はどうしたのだ」
ミレーヌの思いは残酷な言葉で切り捨てられた。
「身一つできた女などいらぬ」
そう言って皇帝は冷たく笑った。
「婚約は不履行となった」
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「お待ちください!」
「まだ何かあるのか」
「私が妻に相応しくないのであれば、側女でも侍女でも構いません。どうかエルシアをお守りください……」
皇帝が側近へ向いた。
「エルシア国境の兵は?」
「約六千でございます」
「よし、三万集めろ」
ミレーヌが顔を上げた。
「……陛下?」
「騎兵を多めにな。いそぎ準備せよ」
「はっ」
「その軍は……まさか」
ミレーヌの声が震えた。
皇帝が笑った。
「お前の国へ送るに決まっているだろう」
「なぜ!」
「我が帝国との婚約を反故にした罰よ」
「違います!」
ミレーヌは床に両手をついた。
「父は何も悪くありません!財宝を失ったのは私です!罰するのであれば私を!」
「お前一人を殺して何になる」
「でしたら、何でもいたします!」
「くどい」
皇帝が手を振ると、近衛兵がミレーヌの両腕をつかんだ。
「この女はいかがいたしましょう」
側近が尋ねる。
皇帝はミレーヌを見て、ふん、と笑った。
「素晴らしい口実を余に与えてくれたからな」
「……口実?」
「エルシアがわずかな宝を惜しんで我が帝国との約束を履行せず、王女と偽って乞食のような女をよこしたという、戦の大義名分をよこしてくれたのだ」
皇帝は玉座に座った。
「褒美に、命だけは助けてやろう」
「陛下!」
「どこへなりと行くがよい」
「お願いです!」
「連れだせ」
衛兵たちはミレーヌの方を両側から掴み、部屋から追い出した。
そして、謁見の間の扉は閉まった。
ミレーヌは少しだけ泣いた後、走った。
泣いている暇などなかった。
帝国軍がやって来る。
三万だ。
恐るべき大軍だ。
父へ知らせなければならない。
一日でも早く。
一刻も早く。
■
ミレーヌは残った宝石を全て売り、馬を買い、旅装を整えた。
厩から栗毛の馬を引き出し、鐙に足をかけようとした時だった。
「おい」
聞き覚えのある声だった。
振り返った。
「……アルト?」
厩の壁にもたれている。
ミレーヌは頭がいっぱいで、声をかけられるまで、そこにいることに気が付かなかった。
「なによ、あなた。まだいたの?」
「随分な言い草だな」
アルトが笑った。
「皇帝の妻にしては、お急ぎのようだな」
その言葉を聞いた瞬間、ミレーヌの目から涙が溢れた。
アルトの笑顔が消えた。
「……どうした」
「駄目だったの」
「何が」
「全部」
ミレーヌは泣いた。
「皇帝陛下は私を妻にはしないって」
「……そうか」
「それだけじゃないの。軍を出すって」
「軍?」
「私の国を攻めるって。三万の兵を集めるって」
アルトが黙った。
「だから帰らなくちゃ。お父様は知らない。みんな知らないの。帝国軍が来るなんて」
ミレーヌは涙を拭った。
「急いで帰れば、備える時間くらいは作れるかもしれない。みなが逃げる時間を」
「へえ」
アルトが言った。
あまりにも、いつも通りだった。
「じゃあ、キスしてくれれば手伝ってやるぞ」
「馬鹿!」
泣きながら怒鳴った。
「そんなことしてる場合じゃないの!」
「そうか」
「そうよ!」
「残念」
彼の軽口に苛立ちつつ、それを無視してミレーヌは馬へ乗ろうとした。
「お、おい、すまん、言いすぎた!待てよ」
だがミレーヌは動きを止め、振り返った。
「でも……そうね」
「ん?」
ミレーヌはアルトの前まで歩いた。
「手伝ってくれなくてもいいわ」
「何だ?」
「これは、そのためじゃないから。誤解しないでね」
ミレーヌはアルトに向き合った。
「な、なんだよ」
アルトは、近寄ってくる女を不審そうに見つめた。
「私はもう、皇帝陛下の妻にはなりません」
「そうみたいだな」
「皇帝陛下のものでもありません。誰のものでもありません」
「そうなのか」
「だから――」
アルトの外套を両手でつかんだ。
「お、おい?」
ぐい、と引き寄せると、ミレーヌは背伸びをして、アルトの日焼けした頬を両手で包んだ。
「これは、これまでのあなたの行いへの報酬です。あなたの働きに報いるものはもうなにもないのです。今となってはこれしか」
ミレーヌは一度アルトの眼を見つめてから、彼の震える唇へ、自分の唇を重ねた。
アルトの身体が固まった。
唇も硬かった。
ミレーヌはすぐには離れなかった。
それは儀礼的なものではなく、思いを込めたものだった。
森で。
川で。
宿で。
何度も助けてもらった。
何度も守ってもらった。
何度も求められて、そのたびに断った。
そのすべてを返すように、長く口づけた。
アルトの両手は、どうすればいいのか分からないように宙へ浮いたままだった。
やがて、固くなっていたアルトの唇から力が抜けた頃、ミレーヌはようやく顔を離した。
アルトは目を見開いている。
「…………」
ミレーヌは呼吸を整え、乱れた髪を直した。
そして王女らしく背筋を伸ばした。
「これまでのあなたの働きに感謝します」
「……お前」
「本当にありがとう」
王女らしく品よく頭を下げる。
「いや、ちょっと待て」
「さようなら、アルト」
「おい、待てって」
ミレーヌは馬へ飛び乗った。
「はっ!」
合図で馬が駆け出す。
「ミレーヌ!」
ミレーヌは、男の声に振り返らなかった。
涙を振り払って祖国へ向かって駆けた。
厩の前に一人残されたアルトは、自分の唇へ指を触れた。
「…………」
彼はしばらく、その場から動かなかった。
■
ミレーヌがエルシア王国へ帰り着いたのは、十二日後だった。
馬もミレーヌ自身も限界だった。
「開門してください!」
城門の兵士が振り返る。
「何者だ!」
「ミレーヌです!」
「……殿下!?」
門が開いた。
ミレーヌは王城まで馬を走らせ、そのまま父の部屋へ飛び込んだ。
「お父様!」
「ミレーヌ!」
父王の胸へ飛び込んだ。
「申し訳ございません!」
「どうした」
「私、失敗してしまいました」
泣きながら報告するほかなかった。
「婚約は破棄されました。帝国はエルシアへ軍を送ります」
父王の顔が強張った。
「三万です」
王は、きしむ体を起こし、ミレーヌから事情を聴くと悲しげに首を振った。
「私が失敗したからです。私が翡翠の首飾りを守れなかったから……」
「ミレーヌ」
父の手が娘の頭へ置かれた。
「そんなことはない」
「でも……」
「婚礼の品が届かなかった程度で国を滅ぼそうとする男だ。ならば、いずれこうなっていた」
「お父様……」
「一年後か、十年後か。それだけの違いだ」
父王は娘の涙を拭った。
「見誤ったのだ。皇帝は、昔はもう少しましな男だったのだが……我の不明ぞ」
そして重臣へ向き直った。
「全軍へ召集をかけよ」
「はっ」
「周辺諸国へ援軍を求める。……アルヴェインにも使者を送れ」
重臣が顔を上げた。
「アルヴェイン王国へも、でございますか?」
「そうだ」
「しかし、我が国との関係は……」
「頭を下げろ」
父王は言った。
「国が残るのであれば、余の頭などいくらでも下げてやる」
使者が各国へ走った。
南へ。北へ。そして東へ。
だが、どこからも援軍は来なかった。
同情のある温かな返事はあったが、兵は来なかった。
家族皆で逃げて来いと、亡命を勧めてくれる国はいくつもあったが、軍を送ってくれる国は一つもなかった。小国エルシアのために、大帝国を敵に回す国などないのだ。
もちろん、アルヴェイン王国からも返事は届かなかった。
数週間後。
早馬が王城へ飛び込んだ。
「ヴァルハルト帝国軍、国境へ向け進軍を開始!」
兵力三万。
対するエルシアの正規軍は、かき集めても四千ほどしかいない。
軍議の結論は、籠城だった。
「野戦では勝負になりません。王都の城壁は堅固です。食糧の蓄えもあります。全軍を王都へ集め、籠城いたします」
老将軍が地図を指し、父王も頷いた。
「それしかあるまい」
ミレーヌも反対しなかった。
勝てない戦いで兵を失うより、城壁を頼った方がいい。
そう思った。
ところが、その数日後だった。
伝令が王城へ駆け込んできた。
「申し上げます! 帝国軍、国境のリーベ村を焼き払いました!」
ミレーヌが立ち上がった。
「民は?」
伝令が口を閉ざした。
「答えてください」
「……逃げ遅れた者が多数。ほとんどです」
次の日、また伝令が来た。
「帝国軍、ノーラ村を焼き討ちに!」
その翌日。
「街道沿いの集落三つが襲われました!」
帝国軍は食料を奪い、家畜を奪い、抵抗する者を殺し、家に火を放ちながら王都へ向かっていた。
そして軍議の最中、また一人、泥だらけの兵士が飛び込んできた。
「帝国軍、ベルナ村へ侵入! 住民が逃げております!」
「ベルナ……」
ミレーヌは地図を見た。
知っている。幼い頃、父と訪れた村だった。
美しい麦畑の広がる幸せな……。
「軍を出してください」
部屋が静まり返った。
老将軍が答えた。
「殿下。それはできません」
「なぜです」
「野戦では勝てないからです」
「では、ベルナの民は?」
「……」
「その次の村は?」
誰も答えない。
「その次は?」
「殿下。籠城とはそういうものです。敵を城下まで引き込み、補給線を伸ばさせ、城壁をもって戦う。国を守るためには必要な犠牲も」
「では」
ミレーヌが遮った。
「私たちは、何を守っているのですか」
「殿下?」
「城壁ですか?」
誰も答えない。
「王城ですか?」
ミレーヌは立ち上がった。
「城壁の内側にいる私たちだけが助かって、壁の外の国民が殺されるのを待つことが、国を守るということなのですか」
「出れば負けます!」
老将軍が初めて声を荒らげた。
「四千対三万です! 勇気でどうにかなる数ではありません!」
「分かっています」
「では!」
「それでも軍を出してください。その間に、国の民を隣国へ逃がすのです」
「殿下!」
「時間を稼ぎましょう。布陣して、敵をけん制するのです」
「……危険ですぞ」
「時間稼ぎです。隣国とは仲良くしていました……兵は出してくれませんでしたが、民は受け入れてくれるでしょう……改めて手紙を書きます」
「ですが!」
「私は城を守るために帰ってきたのではありません。民を守るために帰ってきたのです」
ミレーヌは地図の上に手を置いた。
「エルシアの民を守るために帰ってきたのです」
父王が娘を見つめていた。
「ミレーヌ」
「お父様。お願いします」
父王は長い間、何も言わなかった。
やがて目を閉じた。
「……決した。出るぞ。出撃の準備をせよ」
「陛下!」
「余が行く」
しかし立ち上がろうとした父王の身体が、大きく揺れた。
「お父様!」
その場に崩れ落ちた。
病に冒された身体は、迫りくる戦いに耐えられなかったのだ。
医師は絶対安静を命じた。
ミレーヌは自ら鎧を身につけることを決心した。
幼い王太子である弟を城に残し、いざとなれば逃がす。
「私が行きます」
老将軍が首を横に振った。
「殿下に軍の指揮はできません」
「分かっています。指揮は将軍にお任せします……カークバン、お願いできる?」
「……自ら戦場へ行く必要はありますまい」
「旗になるのです」
「……旗ですか」
「戦場には旗が必要です。私がなりましょう。兵士たちが死ぬのであれば、私も一緒に死にます。王族だけが城に隠れて、兵士に死ねとは言えません」
ミレーヌは剣を腰へ差した。
王女自ら出陣するという知らせは、小さな王都中へ広がった。
そして城門にミレーヌが到着した時、そこには正規軍とは別に、大勢の人々が集まっていた。
農民、猟師、鍛冶屋、大工、商人、退役した老兵。
手にしている武器もばらばらだった。槍、弓、斧、中には農具を握っている者までいる。
「何をしているのです?」
ミレーヌが尋ねると、一人の老人が前へ出た。
「王女様が俺たちを守るために戦うって聞きましてな」
「ですが、あなたたちは兵士ではありません」
「俺の親の村も焼かれました」
別の男が言った。
「弟が殺された」
若い猟師が弓を握った。
「王女様が逃げねえなら、俺たちだけ逃げるわけにもいかねえ」
「そうだ!」
声が上がった。
「俺たちの国だ!」
「家族を守るんだ!」
人が増えていった。
王都だけではない。
周辺の村々からも、次々と人々が集まってきた。
四千の正規軍に、およそ六千の民兵が加わった。
約一万。
それでも帝国軍の三分の一。
装備も練度も比較にならない。
だが一万の人間が、同じ旗の下に立った。
数日後。
両軍は王都へ続く平原で対峙した。
帝国軍三万。
エルシア軍一万。
朝、帝国軍の角笛が鳴ると、三万の兵が一斉に前進を始めた。無数の槍の穂先が朝日にきらめき、軍靴が大地を踏みしめるたびに、平原そのものが震えているようだった。
「弓兵、構え!」
「放て!」
空が矢で黒くなった。
戦いが始まった。
最初の攻撃は防いだ。
二度目も耐えた。
しかし三度目の攻撃で左翼が崩れ始めた。
「左翼後退!」
「騎兵です!」
帝国騎兵が突っ込んでくる。
兵士が吹き飛び、民兵たちが恐怖に駆られて後退し始めてもおかしくないのに、そうはならなかった。エルシア兵たちはもちこたえていた。
それは希望があったからだ。
「王女殿下の旗が振られているぞ!ご健在だ!」
誰かが叫んだ。
「奮戦せよだ!」
白地に青い花。
エルシア王家の旗が、前線近くに立っていた。
その下にミレーヌがいる。
鎧をまとい、剣を握っている。
実は彼女は震えていた。
怖かった。
逃げたかった。
それでも、動かなかった。
「殿下がいるぞ!恐れるな!退くな!」
「王女様が逃げてない!王女を守れ!」
「踏ん張れ!」
民兵は耐えた。
兵士たちも踏みとどまった。
だが、勇気だけでは三倍の軍勢を止められない。
昼を過ぎる頃には左翼が半壊し、中央も押されていた。予備兵力はすべて投入し、もう後ろには誰もいない。
「殿下!」
老将軍が叫んだ。
「これ以上は持ちません!」
「……そう」
ミレーヌは剣を握った。
手が震えている。
「申し訳ございません」
「何がですか?」
「お守りできないかもしれません」
ミレーヌは首を横に振った。
「十分守っていただきました」
ミレーヌが前を見ると帝国軍が再編を終えようとしていた。
やがて総攻撃が来るだろう。
これからくる攻撃を受ければ、エルシア軍は一飲みにされて終わるだろう。
ミレーヌは大きく息を吸った。
「最後ね」
「……はっ。敵軍に傷は与えました。すぐに王城を攻めることはできますまい」
「そう」
「村々の民は、城壁の中か、隣国か……みなが逃げる時間は稼げたと思います」
「そうだといいのだけど。じい。ここの兵も、民兵もみな、退却させて」
「姫様……」
ミレーヌが彼のことを子供の時のように、じいと呼んだのは久しぶりのことだった。
「もう、いいわ。一人でも多く逃げさせて」
「はっ……」
老将軍が総退却の角笛を吹こうとしたその前に、帝国軍の角笛が鳴った。
それは全軍突撃の合図だった。
遅かったか。
そう思った、その時だった。
別の角笛が聞こえた。
それは遠くからでも聞こえた。
聞いたことのない、音色の音だった。
東からだった。
一度。
二度。
三度。
帝国軍のものではない。
「……何です?」
丘の向こうから地響きが聞こえる。
見張りが叫んだ。
「軍勢見えました!」
「東から大軍です!」
丘の上に騎兵が現れたのだ。
一騎。
十騎。
百騎。
千騎。
さらにその後ろから、長槍兵、弓兵、重装歩兵が次々と姿を現す。やがて丘そのものが兵士で埋め尽くされた。
それを見て、帝国軍は動きを止めていた。
敵なのか味方なのか。
分かるまでは動けない。
そして新たに現れた軍に旗が上がった。
老将軍が息を呑んだ。
「アルヴェイン……」
東の大国、アルヴェイン王国軍だった。
それを見て帝国軍も動きを止めた。
アルヴェイン軍の角笛が鳴った。
騎兵が一斉に丘を駆け下りる。
向かった先は――帝国軍。
「突撃した!」
「帝国軍へ攻撃しています!」
大地が震えた。
アルヴェイン騎兵が帝国軍の側面へ突っ込み、隊列を真横から食い破った。後続の歩兵も次々と殺到し、突然側面を襲われた帝国軍は瞬く間に混乱していく。
「敵左翼崩壊!」
老将軍が剣を掲げた。
「ひ、姫様!機ですぞ!千載一遇です!みなのもの全軍前進じゃ!」
その号令は、散々に討ち減らされ、息も絶え絶えだったエルシア兵たちに再び命を吹き込んだ。地を揺らすような歓声が上がった。
エルシア軍は前へ出た。
帝国軍は挟まれたのだ。
不意を突かれた帝国軍は、側面から崩れ、やがて一人が逃げ、十人が逃げ、百人が逃げた。
武器を捨てる者。
盾を投げ捨てる者。
ついに三万の帝国軍が総崩れとなり、西へ向かって敗走を始めた。
アルヴェイン軍は止まらなかった。
国境まで帝国軍を追い払っても、なお追撃を続けた。
「……まだ追うのでしょうか?」
ミレーヌが呆然と尋ねる。
老将軍も西を見ながら苦笑した。
「そのようですな」
「でも、あの先は、もう帝国領ですよ?」
「だからでしょう」
「え?」
「ここまで大軍を動かしたのです。取れるだけ取るつもりなのでしょうな」
アルヴェイン軍はそのまま国境を越え、ヴァルハルト帝国領へ雪崩れ込んでいった。
どうやら救援どころではない。
この機会に帝国の領土をむしり取るつもりらしい。
「すごい……」
ミレーヌはそれしか言えなかった。
助かった。
エルシアは助かったのだ。
全身から力が抜けそうになった。
その時だった。
「殿下」
老将軍の声が変わった。
「あれを」
アルヴェイン軍の中から、一つの軍旗がこちらへ近づいていた。
他の旗とは明らかに違う。
大きな旗。
金糸で獅子が刺繍され、その周囲を数十騎の重装騎士が固めている。
老将軍の表情が強張った。
「アルヴェイン王家の旗です」
「王家?」
「王族のみが掲げることを許された旗にございます」
ミレーヌは慌てて自分の姿を見た。
鎧は泥だらけで、頬には乾いた血がこびりついている。金色の髪も乱れ、王女としてはひどい有様だった。
それでも背筋を伸ばした。
自分たちを救ってくれた大国の王族がやってくるのだ。
礼を失するわけにはいかない。
そして、救援の対価に何を要求してくるのか……そもそも救援なのだろうか。
ミレーヌは緊張の糸をほどくことはなかった。
「皆、姿勢を正して」
「はっ」
騎士団が近づいてきた。
先頭には、立派な軍馬に乗った一人の騎士がいる。
金の装飾が美しい、磨き込まれた銀色の鎧を身に着けている。
見るからに立派な、身分ある騎士だ。
その周囲を固める騎士たちでさえ、エルシアの近衛騎士よりはるかに立派な装備を身につけていた。
中央の騎士が馬を止めた。
ミレーヌも馬を降りた。
同じ王国ではあるものの、相手の方が明らかに格上の国力を持った王国の王族である。
ミレーヌは正式な礼を取ろうとした。
だが、相手も馬を降りた。
こちらへ歩いてくる。
「……?」
騎士が美しい兜へ手をかけ、ゆっくりと脱いだ。
黒い髪が現れた。
ミレーヌの口が開いた。
「…………え?」
彼の顔には見覚えがあった。
あるどころではない。
何日も一緒に旅をしたのだ。
背負ってもらった。
川を渡った。
熱を出した時には薬を買ってきてもらった。
喧嘩もした。
何度も口説かれた。
何度もキスをねだられた。
「アルト!?」
ミレーヌは、ここでついに王女らしい振る舞いなど吹き飛ばしてしまった。
「なんで!?」
アルトが笑った。
「久しぶりだな」
「久しぶりじゃないわよ!」
「たしかに。ひと月くらいぶりか」
そこでミレーヌは気づいた。
周囲の騎士たちが一斉に馬から降りている。
そしてアルトへ向かって頭を下げた。
エルシアの老将軍が真っ青になっている。
「で、殿下……」
「何?」
「御無礼を……」
老将軍が慌てて片膝をついた。
エルシア兵たちも次々とそれに倣う。
ミレーヌだけが立っていた。
「ちょっと待って」
アルトを見る。
王家の軍旗を見る。
もう一度アルトを見る。
「……あなた、何者なの?」
「王族の義務、武者修行を終えたばかりの……ほんの通りすがりの貴公子だといったら信じてくれるかい?まあ、急遽やめたんだ。都合でな」
アルトはミレーヌの前まで歩いた。
「家に帰ったら、継ぐって約束だから、帰らなかったんだが……」
そして、ミレーヌの目の前で片膝をついた。
「え?」
今度はミレーヌが慌てた。
「ちょ、ちょっと! 何をしているの! 立って! あなたの方が――」
アルトは構わなかった。
胸に片手を当て、厳かに正式に、恭しく頭を下げた。
「婚約者殿」
「…………はい?」
アルトが顔を上げた。
「お会いできてうれしいです」
「…………」
「俺の婚約者に会いたいって言うんで、一族郎党、みんなで来たんですよ」
ミレーヌは動かなかった。
「ちょっと多かったかな」
「……誰が婚約者?」
「お前が」
「誰の?」
「俺の」
「…………」
ミレーヌの顔が引きつった。
「婚約者!?」
戦場に声が響いた。
アルトは平然としている。
「何を言ってるのよ!」
「違うのか?」
「違うわよ!」
「おかしいな」
アルトは首を傾げた。
「お前、自分で言っただろ」
「何をよ!」
「王族の口づけとはと、長々と」
ミレーヌの顔から、すっと血の気が引いた。
「……あ」
アルトが笑った。
「思い出したか?」
「ちょっと待って」
「神の前で男女が互いの身体と魂を結び合う、大切な儀式だって」
「待って!」
「婚約の誓いだと」
「言わなくていい!」
周囲には何十人もの騎士がいる。
老将軍もいる。
兵士たちまで聞いている。
「庶民ならともかく、王族の女性がみだりに殿方と口づけなどしない。するのは結婚の約束の時だけだと」
「そんなこと言ってない!」
アルトが声を上げて笑った。
「まあ、だいたいそう言う意味だろう、違うか?」
「あ、あれは違うの!」
「何が違う?」
「あれは報酬よ!」
「そうだろう」
「キスが報酬!」
「だから、キスは愛の誓いだろう」
「だから、キスしたの!キスだけ!」
「そんなに大きな声を出さないでくれよ、婚約者殿」
「うーーーー!うーーーー!」
「俺ははじめから、金も宝石もいらない、お前が欲しいと何度も言ったはずだが」
「それとこれとは話が違うでしょう!」
「そうか?」
「そうよ!」
「しかも」
アルトは自分の唇を指で軽く触れた。
「お前からした」
「…………」
「ずいぶん長く、情熱的に」
「言うな!」
「俺は何もしてないぞ、お前がしたんだ」
「分かった!分かったから!」
ミレーヌは両手で顔を覆った。
アルトは楽しそうに笑っている。
「……最低」
「そうか?」
「最低よ」
「犬扱いでもいいぞ」
「……は?」
アルトは自分の頬を指差した。
「懐いた犬が口を舐めたがってるんだろ?」
ミレーヌは顔を真っ赤にした。
「まだ覚えてたの!?」
「もちろん」
「忘れなさい!」
「無理だな。ようやく舐めさせてもらえたんだから」
「言い方!」
アルトは笑いながら立ち上がった。
「ミレーヌ」
「……何よ」
「俺んち、金持ちだって言っただろ」
ミレーヌは目を瞬いた。
「……言ってたわね」
アルトは背後を親指で示した。
王家の軍旗。
数万の大軍。
「嘘じゃなかっただろ?」
ミレーヌは思わず吹き出した。
「限度があるでしょう!」
アルトも笑った。
「楽させてやるって言ったのは?」
「聞いたわ」
「俺はお前しか愛さないとも言った」
「それも何度も聞いた」
「お前ほどの女に会ったことがないとも」
「はいはい」
「そういう扱いするところも好きだ」
「……変わってるわね」
「そうさ、俺は変わってるんだ。でも嫌いじゃないだろ?」
アルトが無邪気に笑うと、ついに、ミレーヌも笑ってしまった。
だが、やがてアルトの笑顔が消えた。
ミレーヌも笑うのをやめた。
アルトは右手を差し出した。
「ミレーヌ」
「……何?」
「俺のもとに来てくれ」
その声には、もう冗談の色はなかった。
「俺の妻になってくれ」
ミレーヌは差し出された手を見つめた。
「俺は、お前が好きなんだ」
それは何度も聞いた言葉だった。
綺麗だ。
賢いな。
真面目だな。
そういう強情なところも好きだ。
お前ほどの女に会ったことがない。
俺んち来いよ。
楽させてやる。
俺はお前しか愛さない。
何度断っても。
何度呆れられても。
アルトは笑っていた。
けれど、今は違った。
差し出した右手が、ほんのわずかに震えていた。
「……いやだなんて言わないでくれよ」
ミレーヌが目を見開いた。
初めて聞く声だった。
あれほど図々しかった男が。
何度断っても平然としていた男が。
三万の帝国軍へ大軍を叩きつけた男が。
今は、たった一人の女の返事を待っている。
「どうか頼む」
ミレーヌはアルトを見つめた。
「アルト……」
「うん」
「もしかして、怖いの?」
アルトの眉が動いた。
「怖いよ」
「……」
「当たり前だろ」
少し困ったように笑った。
「俺はお前に何回振られたと思ってるんだ……」
そういうアルトは、叱られた犬のような表情をした。
「たのむよ……手ぶらで帰ったら、俺は終わりだ。助けてくれ」
「し、仕方ないわね」
そう言って、ミレーヌは彼の手を取って口づけをした。
アルトははじけるような笑顔になった。
それはまるで主人に甘える大きな犬のように全身で喜んだ。
彼は立ち上がると、ミレーヌを抱きしめて言った。
「な、言ったろ!ちゃんと婚約者がいるってな!」
すると、側に控えていた騎士が笑って言った。
「いるというか、今できたような感じでしたが」
「細かいこと、気にするなって。さあ、お前ら、さっそく我が未来の妻のためにもうひと働きしてくれ!帝国軍をぼこぼこにして、俺のミレーヌを笑顔にさせてくれ!」
アルトがそう言うと、騎士たちは大声で応じた。
「ははは、かしこまりました!皆の者、いくぞ!」
「おおおう!」
周囲にいたアルヴェイン王国の兵士たちは、頼もしい声を上げ、逃げる帝国軍にさらなる外傷を与えるために駆けて行った。
■
例の戦いから三か月後、ミレーヌはまたも旅立つことになった。
今度の行先は西ではなく、東だった。
もちろんアルヴェイン王国だ。
三か月前とは違い、王城の前には立派な馬車が並び、アルヴェイン王家の旗を掲げた騎士たちがミレーヌを迎えるために整列していた。
父王はまだ病床にあったが、今日は無理を押して娘を見送りに出ていた。
「幸せになりなさい、ミレーヌ」
「はい。お父様」
ミレーヌは父を抱きしめた。
今度は、泣かなかった。
それどころか、同じ年に同じ娘を二度も嫁に出すことになったというのに、エルシア王は笑顔だった。
一行が国境を越えたところでは、アルトが待っていた。
彼は金の装飾が施された、見るからに上等な外套に身を包んだ、非の打ち所の無い貴公子で、三か月前、薄汚れた外套を着てミレーヌの後ろをついて歩いていた男とは、とても同じ人物には見えなかった。
アルトは馬から降りると、ミレーヌの前まで歩いてきた。
そして手を差し出した。
「迎えに来た」
「はい」
ミレーヌはその手を取った。
アルトは嬉しそうに笑った。
「今度は途中で盗賊に襲われても心配するな。俺がいる」
「ありがとうございます」
「野犬が出ても俺が追い払う」
「はい」
「川が増水していたら、また抱えて渡ってやる」
ミレーヌは笑った。
「では、よろしくお願いします」
アルトも笑った。
そして、ミレーヌの手を握ったまま言った。
「この先、お前がどんな目に遭っても、俺がお前を守る」
少し間を置いた。
「お前が国を守ろうとするなら、その国ごと守ってやる。お前が家族を愛するなら、その家族も大切にする」
ミレーヌは黙って彼を見つめた。
アルトは、初めて出会った日のように真っ直ぐにミレーヌを見ていた。
「だから、もう一人で何もかも背負うな」
そして、少し笑った。
「お前の人生の半分を俺にくれ。代わりに、俺の人生を全部お前にやる」
ミレーヌの目に涙が浮かんだ。
「……ずいぶん割に合わない取引ですね」
「惚れた男の負けだ」
ミレーヌは笑った。
それから、アルトの手を強く握った。
「では、いただきます」
「ああ」
「大切にいたします」
アルトは、幸せそうに笑った。
二人は手をつないだまま、東へ向かった。
今度の旅に、別れは待っていなかった。
その先には婚礼があり、新しい家族があり、長い二人の人生が待っていた。
そして後の世まで、エルシア王国では語り継がれたという。
国のためにすべてを捧げようとした一人の王女が、最後には国も家族も、そして自分自身の幸せも失わずに済んだ物語として。
王女ミレーヌは、その後、とても幸せに暮らしたという。
拙い文章ですが、楽しんでいただければ嬉しいです。
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