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「お前のような悪女は愛さない」と冷遇する氷雪の公爵様へ。過去にあなたを庇って余命わずかなことなど、このまま黙ってあの世へ逝きます  作者: 茗子


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第6話 崩れ落ちる体と、紅い硝子の血


パリンッ!!

私の体内で、決定的な破砕音が鳴り響いた。

まるで薄氷の上に落とされた鉄球のように、限界を迎えていた私の『硝子の心臓』が、無惨に砕け散る音。

「あ……っ、う、あぁ……っ!」

視界が真っ白に弾け飛んだ。

「あの日の薬湯」の味に驚愕し、激しく私の肩を揺さぶっていたウォルフ様の手から力が抜け、私は操り糸を切られた人形のように、執務室の硬い床へと崩れ落ちた。

全身の血液が逆流し、肺が燃えるように熱い。

砕けた無数の硝子の破片が、内側から私の肉を切り裂き、呼吸のたびに喉を掻き切るような激痛が走る。

「がはっ……、こほっ、ぁ……!」

喉の奥から、堰を切ったように大量の鮮血が溢れ出した。

床に手をつき、嘔吐くように血を吐き出す。

真っ赤な血だまりは、執務室の冷たい空気に触れた瞬間、ジャリッという不気味な音を立てて急速に硬化を始めた。血に溶け込んでいた生体魔力が暴走し、美しくも禍々しい『紅い硝子の結晶』へと姿を変えていく。

「な……!?」

頭上から、息を呑む気配がした。

私から噴き出した尋常ではない量の血と、それが瞬く間に硝子へと変貌していく異様な光景を目の当たりにして、ウォルフ様の顔が驚愕に凍りついていた。

先ほどまでの激しい怒りはどこへやら、彼は信じられないものを見るような目で、私の傍らに膝をついた。

「おい、どうした! これは……血が、凍っているのか……? いや、違う。これは……魔力の結晶化……!?」

彼の手が、迷うように床に散らばった紅い破片に触れようとする。

その手が、微かに震えているのがわかった。

強大な魔力を持つ公爵である彼が、この現象に気づかないはずがない。生体魔力が物理的な結晶へと変異して命を削るという、世にも恐ろしく、そして珍しい呪いの存在に。

(だめ……触れないで……。この血の呪いを調べられたら、すべてが終わってしまう……!)

「さわら、ないで……ください……っ」

私は血まみれの手で彼を拒絶するように押し返し、よろめきながら後ずさった。

ウォルフ様は弾かれたように手を止め、私を射抜くように見つめた。その氷青色の瞳には、かつてないほどの激しい混乱と、得体の知れない恐怖が渦巻いていた。

「……答えろ、ロザリア。お前のその体は、なんだ。その異常な魔力の欠損と結晶化……ただの病ではないな」

「……」

「それに、あの薬湯の味だ。あれは昔、俺が受けた魔獣の呪いを和らげるために特別に調合されたものだ。なぜ、裏切り者であるクライス家の娘がそれを知っている。なぜお前が……その呪いのような症状を抱えている!?」

ウォルフ様の声は、問い詰めているというより、自分の中に芽生えた「ある恐ろしい可能性」を必死に否定しようとしているように聞こえた。

自分がずっと憎悪し、冷酷に虐げてきた女。

その女が、自分を救った恩人と同じ薬湯の味を知っており、恩人が受けたのと同じ「魔力結晶化の呪い」に蝕まれている。

だが、そんなはずはない。クライス家は自分の一族を陥れた卑劣な裏切り者だ。

その娘が、自分を庇って命を落としかけた美しい少女であるはずがない。

もしそうだとしたら、自分が彼女にしてきた仕打ちは、一体何になるというのか。

彼の顔は蒼白になり、ギリッと奥歯を噛み締める音が静かな室内に響いた。

「お前は……一体、何者だ? クライス家が、過去に俺を襲った魔獣の呪いを研究でもしていたというのか!?」

彼は、どうしても私と「あの日の少女」を直接結びつけることができず、あるいは結びつけることを恐れ、強引な解釈で私を睨みつけた。

(よかった。まだ、確信には至っていない……)

私はドレスの裾を強く握りしめ、肺に刺さる痛みを気力でねじ伏せながら、冷たく、感情のない声を作った。

「……何かの、見間違いでございましょう。私の血が硝子になるなど、あり得ません。それはただ、旦那様のお部屋が寒すぎるゆえに、吐き出した血が凍りついただけです」

「嘘をつくな! 氷と魔力結晶の区別くらい、俺がつかないとでも思っているのか!」

「それに、あの薬湯の調合は、我が家が領地で栽培している薬草の一般的な配合です。偶然、旦那様の記憶にある味と似ていただけでしょう」

私は視線を逸らさず、きっぱりと言い切った。

血に塗れた唇で、狂おしいほどの愛を隠し、ただ冷酷な「裏切り者の娘」を演じ切る。

「……もしご不快でしたら、今すぐ北塔へ戻ります。失礼、いたしま……」

立ち上がろうとした瞬間、極度の貧血と激痛が限界を超え、私の意識はふつりと途切れた。

最後に聞こえたのは、血相を変えて私を呼ぶ、ウォルフ様の悲痛な声だった。


***


深い、泥のような闇の中から意識が浮上した。

重い瞼を微かに押し上げると、まず視界に飛び込んできたのは、赤々と燃える暖炉の炎だった。

パチパチとはぜる薪の音が、静かな部屋の中に心地よく響いている。

(ここは……?)

凍えるような北塔の小部屋ではない。

肌に触れるシーツは最高級の絹のように滑らかで、掛けられた毛布は羽毛のように軽く、そして何よりも温かかった。

極寒の城に輿入れてからというもの、これほどまでに体が芯から温まったことは一度もなかった。

ゆっくりと視線を巡らせると、天蓋付きの豪奢なベッドの傍らに、一つの影があった。

「……気がついたか」

地を這うような、ひどく掠れた低い声。

漆黒の執務服を乱したウォルフ様が、椅子に深く腰掛けたまま私を見下ろしていた。

目の下には濃い隈があり、彼がずっとここで私の看病を――いや、私が無意識に真実をこぼすのを待ち構えていたのだと悟った。

「ウォルフ、様……私は……」

「丸二日間、熱を出して意識を失っていた」

ウォルフ様は冷たい声で事実だけを告げると、身を乗り出し、射抜くような視線で私の目を捕らえた。

「……侍医に見せた。お前の体は、極度の栄養失調と過労、そして魔力器官の異常な衰弱を起こしていると言われた」

彼の手は、椅子の肘掛けを白くなるほど強く握りしめていた。

彼は、私が北塔でまともな食事も与えられず、氷水で素手のまま床を磨くような重労働をさせられていた事実を、侍医や使用人への尋問でついに知ってしまったのだ。

「俺は、お前に北塔から出るなと命じたはずだ。なぜ、あのような下働きをしていた。なぜ、食事が黒パンの切れ端だけだと俺に言わなかった」

「……」

「俺はお前を妻として扱う気はないと言った。だが、俺の城で、俺の妻を名乗る人間を、餓死寸前まで虐げるなどと命令した覚えはない!!」

突然の彼の怒声に、私はビクリと肩をすくめた。

彼の怒りは私に向けられているようで、実は「自分の無関心が彼女を殺しかけていた」という事実に対する、彼自身の激しい自己嫌悪によるものだった。

「……申し訳ありません。ですが、私は罪人の娘です。皆様が私をそのように扱うのは、当然のことかと」

「当然だと……? 貴様は、自分が死んでも構わないと言うのか!」

ウォルフ様が荒々しく立ち上がり、ベッドに近づこうとした、その時だった。

「――閣下! 申し上げます!」

扉の外から、ライハルトの切羽詰まった声が響いた。

ウォルフ様が舌打ちをして扉を開ける。

「何事だ。騒々しい」

「申し訳ございません。ですが、城門の前に数台の馬車が到着いたしました。猛吹雪を強行突破してきたようです」

「馬車だと? こんな時期に、どこの馬鹿だ」

ライハルトは、一瞬だけ部屋の奥にいる私に視線を向け、苦々しい顔で報告した。

「王都より……クライス男爵と、ジュリアン子爵です。ロザリア様を『迎えに来た』と申しております」

その名を聞いた瞬間、私の全身の血の気がサッと引いた。

私をこの北の果てに「生け贄」として売り飛ばした父と、元婚約者のジュリアン。彼らがなぜ、今更こんな場所へ来たというのか。

「……王都より、クライス男爵とジュリアン子爵が、ロザリア様を『迎えに来た』と申しております」

ライハルトの口から告げられたその言葉に、私は全身の血の気がサッと引いていくのを感じた。

私をこの北の果てに「生け贄」として売り飛ばした父と、私を忌み嫌っていた元婚約者のジュリアン。彼らがなぜ、今更こんな場所へ来たというのか。

「迎えに来ただと……? どの口が言っている」

ウォルフ様の声は、地底から響くような恐ろしい怒りを孕んでいた。

彼にとってクライス家は、一族を裏切った不倶戴天の敵だ。

その当主が、厚顔無恥にものこのこと自分の城へやってきて、一度捨てた娘を返せと言い出したのだ。公爵である彼の顔に泥を塗るにも等しい愚行だった。

ウォルフ様はギリッと奥歯を鳴らし、乱れていた漆黒の執務服の襟を整えた。

「叩き出せと言いたいところだが……あのクズ共が何を企んでいるのか、直接面を拝んでやる。大広間へ通せ」

「はっ」

ライハルトが一礼して去っていく。

ウォルフ様は扉の前で一度立ち止まり、ベッドで震えている私を振り返った。

「お前はここで寝ていろ。……あの男たちの声など、聞く必要はない」

それは、命令というよりは、微かな庇護の色を帯びた言葉だった。

彼が部屋を出て行き、重い扉が閉まる。

温かいベッドの中に一人取り残された私は、嫌な予感に心臓を激しく脈打たせていた。

(お父様たちが、私を助けに来るはずがない。私という人間は、彼らにとってとうの昔に無価値なゴミだったはず……。それなのに、猛吹雪の北の領地まで、わざわざ足を運ぶなんて)

嫌な汗が背中を伝う。

胸の奥で、まだ治りきっていない硝子の傷跡がズキズキと痛んだ。

しばらくして、控えめなノックの音が鳴り、部屋に数人のメイドが入ってきた。先ほどの怒声に怯えたのか、彼女たちの態度は以前の冷酷なものとは打って変わり、ひどく怯え、そして腫れ物に触るようなものになっていた。

「ロザリア様……。旦那様より、身支度を手伝うようにと仰せつかりました。男爵様方が、どうしてもお顔を見たいと騒いでおられまして……」

私は小さく頷き、メイドたちの手を借りてベッドから起き上がった。

用意されていたのは、北塔で着ていたようなボロボロの薄絹ではなく、公爵夫人として恥じない、豪奢で温かなベルベットのドレスだった。

体に触れる柔らかな布の感触に戸惑いながらも、私は冷え切った指先を隠すように手袋をはめ、重い足取りで大広間へと向かった。


***


大広間の空気は、文字通り凍りついていた。

ウォルフ様は、広間の最奥、一段高い玉座のような椅子に深く腰掛け、見下ろすような絶対零度の視線で侵入者たちを睨みつけていた。

その周囲には、ライハルトをはじめとする完全武装した騎士たちが、いつでも剣を抜ける態勢で控えている。

そして中央には、上等な毛皮のコートに身を包んだ私の父と、元婚約者のジュリアンが立っていた。彼らは広間を満たす強烈な殺気と魔力に怯え、青ざめた顔で身を寄せ合っている。

「おお、ロザリア! 無事だったか!」

広間に案内された私を見るなり、父が芝居がかった大声で叫んだ。

そのわざとらしい安堵の声に、私は思わず後ずさりした。

「可哀想に、こんな極寒の地で、恐ろしい男に虐げられて……どれほど心細かったことか。さあ、もう大丈夫だ。お前は我が家の愛娘、父と一緒に王都へ帰ろう!」

ジュリアンも歩み寄り、私の手を取ろうと手を伸ばしてきた。

「ロザリア、君をこんな地獄に置いておくわけにはいかない。僕が君を救い出しに来たんだ。あの冷酷な公爵の元で、君は毎日死の恐怖に怯えていたのだろう? さあ、僕の手を取って」

甘い、甘い言葉。

かつての私なら、その言葉にすがりついて泣き崩れていたかもしれない。誰でもいいから私を愛してほしい、必要としてほしいと願っていたあの頃なら。

けれど、彼らが私を愛していないことなど、身をもって知っている。

私は無表情のまま、ジュリアンの手をスッと避けた。

「……どういう、ことですか。私をこの城に『人質』として嫁がせたのは、お父様たちではありませんか」

私の静かな問いに、父は一瞬言葉を詰まらせ、気まずそうに目を泳がせた。

その隙を埋めるように、ジュリアンが一歩踏み込み、私の耳元に顔を近づけた。周囲の騎士やウォルフ様には聞こえないほどの、極めて小さな囁き声。

「……君の『血』だよ、ロザリア」

「え……?」

「君が実家を追い出される前に、吐き散らしていったあの気味の悪い血の塊さ。あれが、王都の闇市場で、最上級の『魔力触媒マナ・クリスタル』として莫大な値で売れることがわかったんだ」

ジュリアンの唇が、私の耳元で醜く、そして貪欲に歪んだ。

「君が残していった血の付いたシーツやハンカチのおかげで、我が家の借金は一瞬で消え去った。あの硝子の結晶は、どんな希少な魔石よりも純度が高く、魔術師たちが喉から手が出るほど欲しがる代物だったんだよ」

吐き気がした。

目の前が真っ暗になり、立っているのもやっとだった。

「君は金の卵を産む鶏だ。こんな雪深い辺境の男に独占させて殺されてしまうには、あまりにももったいない。僕たちの元へ戻れ、ロザリア。一生、温かい部屋で不自由なく暮らさせてやる。ただ時々、僕たちのために少しだけ痛い思いをして、その血を流してくれれば、それでいいんだから」

彼らは私を救いに来たのではない。

私という「希少な素材」を回収しに来ただけなのだ。

娘としてでも、かつての婚約者としてでもない。血を吐き、命を削る『道具』としての価値を見出し、ここまで迎えに来たのだ。

「さあ、ロザリア。あの冷酷な男の顔を見てみろ」

ジュリアンが、私にだけ聞こえる声で囁きながら、顎でウォルフ様をしゃくった。

玉座に座るウォルフ様は、私に執拗に話しかけるジュリアンに対して、隠しようのない苛立ちと殺気を露わにしていた。

その視線は、彼らだけでなく、彼らと同じ血を引く私にも向けられているように見えた。

「あいつは君を憎んでいる。君も、あんな男に毎日のように冷たい言葉を浴びせられ、ボロ雑巾のように働かされて、もう限界だろう? 僕の元へくれば、少なくともひもじい思いはさせない。君を利用するだけの関係だとしても、あんな男に憎まれながら惨めに殺されるのを待つよりは、ずっとマシだろう?」

ジュリアンの言葉は、呪いのように私の心を縛り付けた。

引き裂かれるような葛藤が、胸の内で渦を巻く。

(外の世界へ戻れば……私は一生、彼らのための道具として、血を絞り取られ続ける)

それは間違いなく地獄だ。愛情など微塵もない、ただの飼い殺し。あの家で、また誰からも愛されずに死んでいくのだ。

けれど、この城に留まっても、待っているのはウォルフ様からの拒絶と憎悪だ。

私がここにいる限り、彼は過去の裏切りの記憶に苛立ち、私に氷の視線を向け続けるだろう。

彼に憎まれるたびに、私の心臓は砕け、遠からず呪いによって死に至る。

「おい、そこまでにしておけ。ネズミ共」

突然、広間の空気を震わせるようなウォルフ様の冷たい声が響いた。

玉座から立ち上がった彼が、ゆっくりとした足取りで階段を降りてくる。その放つ圧倒的な威圧感に、ジュリアンがヒッ、と短い悲鳴を上げて私から距離を取った。

「俺の所有物に、気安く触れるな」

ウォルフ様は、私とジュリアンの間に割って入るように立ち塞がった。

彼のその言葉は、「妻」として私を守ったわけではない。

単に、自分の城にあるものを勝手に持ち出そうとする泥棒に対する、領主としての当然の威嚇だ。

「ウォ、ウォルフ公爵閣下! 誤解しないでいただきたい、我々は決してそちらに敵対しに来たわけでは……!」

「黙れ。貴様らが何を企んでいようと興味はない。一度俺に押し付けたものを、今更どの面下げて返せと言いに来た。俺への当てつけのつもりか?」

ウォルフ様の氷のような視線が、父とジュリアンを射抜く。

しかし、欲に目が眩んだジュリアンは、恐怖で足の震えを隠しきれないながらも、必死に食い下がった。

「そ、その女は閣下にとって目障りな存在でしょう!? ならば、我々が引き取って処分いたします! 閣下の手を煩わせる必要はありません!」

「俺の領地で、俺がどう処分しようと俺の勝手だ。貴様らが口出しする権利はない。……今すぐ消えろ。二度と北の領地に足を踏み入れたら、お前たちのその首を氷漬けにして王都へ送り返すぞ」

圧倒的な力と恐怖。

父とジュリアンは顔面を蒼白にしながらも、私という「宝の山」を諦めきれないのか、ギリッと奥歯を噛み締めて私を睨みつけた。

「ロザリア! 自分の口で言え! こんな城にいるより、我々の元へ帰りたいと!!」

父が怒鳴り声を上げる。

広間にいる全員の視線が、私に突き刺さった。

ウォルフ様もまた、肩越しに冷ややかに私を見下ろしている。その瞳には「どうせお前も、このクズ共と同じ穴のむじなだろう」という不信感がはっきりと浮かんでいた。

私を利用するだけの、貪欲な外の世界か。

それとも、私を憎み、愛してくれない旦那様の隣か。

選択肢など、最初から決まっていた。

私は、彼に憎まれて死ぬために、この氷の城へ来たのだから。

私は、ゆっくりと顔を上げ、父とジュリアンを真っ直ぐに見据えた。

私を利用するだけの、貪欲な外の世界か。

それとも、私を憎み、愛してくれない旦那様の隣か。

大広間にいる全員の視線が、針のように私に突き刺さっている。

父の怒声も、ジュリアンの甘く悍ましい誘惑も、私の心にはもう届いていなかった。

私の目は、ただ真っ直ぐに、私と彼らの間に立ち塞がってくれているウォルフ様の、広く逞しい背中だけを見つめていた。

「……お断りいたします」

静寂に包まれた広間に、私の掠れた、けれどはっきりとした声が響いた。

ジュリアンの顔から、サッと余裕の笑みが消え失せた。

「私は、アイゼンブルク公爵閣下の妻です。例え旦那様が私を憎んでいようと、私がこの城を出て、お父様たちの元へ戻ることは絶対にありません。……どうぞ、お引き取りください」

言い切った瞬間、父は信じられないものを見るように目を剥き、ジュリアンは屈辱と激しい怒りに顔を真っ赤に染め上げた。

「この、恩知らずの馬鹿女が! 自分から進んで地獄に残るというのか!」

激昂したジュリアンが、ウォルフ様の威圧感すら忘れて私に飛びかかってきた。

「来い! お前のような気味の悪い病気の女、誰が愛してやるものか! お前は我が家の借金を返すための道具なんだよ! 力ずくで連れて帰って、地下室に鎖で繋いでやる!」

「やめてっ……!」

ジュリアンの手が、私の細い腕を乱暴に鷲掴みにした。

骨が軋むほどの強い力。引き倒されそうになったその時――。

――ヒュンッ!!

空気を鋭く裂く音とともに、ジュリアンの足元の石畳に、青白い魔力を帯びた巨大な氷の刃が突き刺さった。

「ヒィッ!?」

氷の刃が放つ絶対零度の冷気に触れ、ジュリアンは悲鳴を上げて私の腕を離し、無様に尻餅をついた。

いつの間にか、ウォルフ様が一歩踏み出し、ジュリアンを見下ろすように立っていた。

その手には、抜身の長剣が握られている。

「……誰の許可を得て、俺の城で、俺の妻に触れている」

ウォルフ様の声は、怒りを通り越し、静かな殺意に満ちていた。

広間の空気が一瞬にして凍りつき、呼吸すら白く染まるほどの魔力が彼から立ち昇っている。

「ウォ、ウォルフ公爵! 誤解しないでいただきたい、我々はただ、この強情な娘を……っ!」

「黙れ」

ウォルフ様が長剣の切っ先を、ジュリアンの喉元スレスレに突きつけた。

ジュリアンは恐怖で言葉を失い、父は腰を抜かして震え上がっている。

「この女は、俺の妻だ。俺がどう扱おうと俺の勝手だが、外野のゴミ屑どもが触れることは万に一つも許さん。……王都のネズミ共。俺の気が変わって、ここで貴様らの首を刎ねる前に、今すぐ俺の領地から消え失せろ」

圧倒的な力と恐怖。父もジュリアンも顔面を蒼白にし、言葉も出ないまま、這うようにして後ずさった。

私は、ジュリアンから庇うように私の前に立ち塞がってくれた、ウォルフ様の背中を呆然と見つめていた。

(ああ……)

視界が、不意に熱い涙で滲む。

漆黒の軍服に包まれたその背中。銀色の髪。

それは、十年前のあの夜、恐ろしい魔獣から私を守るために、震えながらも立ち塞がってくれた少年の背中と、完全に重なっていた。

『僕が、絶対に君を守るから』

あの時の記憶が、抑えきれないほどの激しい感情となって、私の心を激しく揺さぶった。

彼が私を所有物だと言ったこと。それでも、汚らわしいと言いながらも、私のために剣を抜いて護ってくれたこと。

この十年間、誰からも愛されず、誰からも必要とされなかった私。

極限の恐怖からの解放と、彼に対する狂おしいほどの愛しさと、もうこれで思い残すことは何もないという静かな諦観。

それらの巨大すぎる感情の波が、限界を迎えていた『硝子の心臓』の閾値を、ついに超えてしまった。

――パァンッ!!!

広間に響き渡るほどの、鼓膜を破るような決定的な破砕音。

「え……?」

ウォルフ様が振り返った瞬間、私の胸の中心から、眩いほどの青白い魔力の光が弾け飛んだ。

硝子の心臓が、完全に砕け散ったのだ。

「あ……、ウォルフ、様……」

彼へ伸ばそうとした手は空を切り、私の体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。

雪のように冷たい大理石の床に激突する直前、誰かの力強い腕が、私をしっかりと抱き止めた。

「ロザリア!? おい、どうした! ロザリア!!」

ウォルフ様だった。

彼は長剣を投げ捨て、床に膝をついて私を抱き抱えていた。

私の口からは、とめどなく鮮血と、キラキラと光る紅い硝子の破片が溢れ出し、彼の漆黒の軍服を汚していく。

「しっかりしろ! おい、誰か侍医を呼べ!! 早くしろ!!」

かつての冷徹さを完全に失い、悲痛な顔で私の名前を叫び続けるウォルフ様。その顔は、十年前、血だらけの私を抱きしめて泣いていたあの日の少年の顔、そのものだった。

(あぁ……泣かないで、私の、旦那様……)

私は血に塗れた手で、彼の頬に触れようとしたが、指先は届く前に力なく滑り落ちた。

「ひぃっ……! か、閣下、お怒りをお鎮めください!!」

広間の端で、私が突然血を吐いて倒れた異様な光景と、ウォルフ様の恐ろしいほどの取り乱しようにパニックを起こした父が、裏返った声で叫んだ。ウォルフ様の怒りの矛先が自分たちに向くのを恐れ、見苦しい言い訳を喚き散らす。

「そ、その娘が勝手に血を吐いて死にかけているのは、我々のせいではありません!! その娘はとうの昔から壊れていたのです!!」

「……何だと?」

ウォルフ様が、私を抱きしめたまま、凍てつくような目で父を睨みつけた。

「だから我々は、恩人である娘を、閣下に返して差し上げただけで……っ!!」

「恩人……だと? 貴様、何を言っている」

父の言葉に、ウォルフ様の全身が硬直した。

父は、自分の失言にすら気づかず、命惜しさにすべての真実をまくし立てた。

「その娘の奇病です! それは十年前、王都の森で、迷子になっていた閣下を庇って……『魔獣の呪い』を受けた日から発病したものなのです! 魔力器官が硝子化していく呪いに蝕まれ、もはや余命わずかな娘など、我が家に置いておくわけには……ヒッ!?」

父の言葉が、途切れた。

広間を包んでいた空気が、一瞬にして真空になったかのような、恐ろしいほどの沈黙が落ちた。

「……十年前、俺を庇って、魔獣の呪いを受けた……?」

ウォルフ様の声は、感情の底が抜けたような、ひどく虚ろな響きだった。

彼はゆっくりと視線を落とし、腕の中で血を流し、意識を失いかけている私の顔を見た。そして、床に散らばる『紅い魔力結晶』を見た。

すべてが、繋がった。

あの薬湯の味。魔力が硝子化する特異な症状。

そして、どんなに冷遇され、蔑まれても、決して自分を恨むことなく、静かに微笑んで耐え続けていた彼女の、狂おしいほどの献身の理由が。

「あ……ああ……」

ウォルフ様の喉の奥から、獣が呻くような、絶望の音が漏れた。

彼がずっと憎悪し、北塔に幽閉し、氷水で床を磨かせ、餓死寸前まで追い詰めていた「裏切り者の娘」。

それが、自分が十年もの間探し続け、絶対に守り抜くと誓った、たった一人の「命の恩人」だったのだ。

「俺は……俺は、なんてことを……!!」

薄れゆく私の意識の最後に響いたのは、すべてを知り、絶望のどん底に突き落仙された氷雪の公爵の、血を吐くような慟哭だった。

(ごめんなさい……ウォルフ様……)

私は心の中でそっと謝りながら、今度こそ、完全な暗闇の中へと落ちていった。





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