第4話 凍てつく回廊を素手で磨く日々。どれほど蔑まれても私はあなたを恨めない
氷の城の朝は、夜よりもさらに深い静寂と冷気に包まれていた。
「いつまで寝ているのです。さっさと起きなさい」
夜明け前。まだ陽の光さえ届かない暗がりのなか、アンナの冷酷な声と、乱暴に扉を叩く音が北塔の小部屋に響き渡った。
私は薄い毛布の中で体を丸め、凍りついた四肢を無理やり動かす。呪いのせいか、あるいは極寒のせいか、節々が鉛のように重い。
昨日、床に吐き散らした鮮血の跡は、すでに完全に凍りつき、微かに光る紅い結晶となって石畳に張り付いていた。
私はそれをショールの端で隠すように拭い取り、アンナから手渡された重い木桶を抱えて部屋を出た。
「今日の仕事は北回廊の清掃です。閣下がお目覚めになる前に、すべての塵を払い、鏡のように磨き上げなさい。……言っておきますが、お湯などという贅沢なものは、この城にはありませんよ」
「……はい。承知いたしました」
アンナは、私の青白い顔色を一瞥し、鼻を鳴らして去っていった。
彼女の中では、私は「贅沢に慣れた、身の程知らずな没落貴族の娘」でしかないのだろう。
そんな女が、冷たい水で床を磨く屈辱に耐えかねて、泣きながら慈悲を乞う姿を心待ちにしているのだ。
けれど、彼女は知らない。
私の指先がすでに感覚を失っていることも。
そして、冷たい水に触れるたびに、硝子化した魔力器官が鋭い悲鳴を上げ、寿命が削り取られていくことも。
北回廊は、城の中で最も風が吹き抜ける場所だった。
窓枠から入り込む雪が床を白く染め、石畳は氷の板のように冷え切っている。
私は木桶の冷水に、感覚のない素手を浸した。
「――っ……!」
あまりの冷たさに、心臓が跳ね上がる。
物理的な冷たさではない。
魔力回路が凍てつき、心臓の硝子体が内側から膨張するような、抉られるような激痛。
私は歯を食いしばり、雑巾を絞る。裂けた指先から滲んだ血が、桶の水を微かに桃色に染めた。
(痛くない……。これくらい、なんてことはないわ)
自分に言い聞かせながら、私は這いつくばって床を磨き始める。
もしウォルフ様がこの場所を通りかかったとき、一筋の汚れでも残っていれば、彼は不快に思うだろう。
彼の美しい城を、私の汚らわしい血で汚したくない。ただそれだけの思いが、崩れそうな体を支えていた。
その時だった。
カツン、カツンと、規則正しい軍靴の音が静かな回廊に響き始めた。
心臓が、ドクリと大きく波打つ。
聞き間違えるはずもない。その歩調、その重み――。
私は慌てて回廊の端に寄り、震える手で雑巾を握りしめたまま、深く頭を下げて平伏した。
「……こんな朝早くから、何をしている」
頭上から降ってきたのは、氷の粒を孕んだような、冷徹なウォルフ様の声だった。
「……掃除を、しております。閣下」
私は顔を上げず、ただ冷たい床を見つめたまま答えた。
ウォルフ様の視線が、私の背中に突き刺さるのを感じる。
その視線は、憎悪というよりは、ただの「不快物」を確認するかのような、ひどく無関心なものだった。
ウォルフ様は、私がここでどんな扱いを受けているかを知らない。
彼が私に命じたのは『北塔に留まれ』ということだけ。
彼にとって私は、北塔の奥で、生家からの仕送りや、用意された豪華な(と彼は思い込んでいる)食事に囲まれ、高慢な態度のまま過ごしているはずの「悪女」なのだ。
まさか私が、使用人の下着さえ洗うような劣悪な環境で、血を吐きながら床を磨いているなどとは、彼は夢にも思っていないだろう。
彼にとって、私は「ただそこに存在しているだけで不愉快な人質」に過ぎず、その詳細な生活にまで気を配る価値などない存在なのだから。
「ふん。クライス家の令嬢が、床磨きとはな。殊勝な心がけだと言ってほしいのか? それとも、そうして惨めな姿を晒せば、俺が同情するとでも思ったか」
ウォルフ様は冷笑を浮かべ、私のすぐ横を通り過ぎようとした。
その瞬間、彼が何かに気づいたように足を止めた。
彼の視線の先には、私が先ほど絞った雑巾が置いてあった。
そして、その横にある木桶。そこには、私の裂けた指から滴り落ちた血が混じり、氷水の中で凍りかけた、薄紅色の「硝子の破片」が浮かんでいた。
「……これは、なんだ」
ウォルフ様の声が、僅かに低くなった。
心臓が、パリンと乾いた音を立てた。
(気づかないで……。お願い、見ないで……!)
私は必死に、血の滲んだ両手をドレスのボロボロの袖の中に隠した。
「…これは、なんだ」
ウォルフ様の氷を透かしたような低い声が、北回廊の凍てつく空気をさらに一段階冷たくした。
心臓の奥で、パリン、とひび割れた硝子が微かに擦れ合う嫌な音が鳴る。
私の視線の先――彼の黒革の軍靴のすぐ傍らに置かれた粗末な木桶。そのどんよりと濁った冷水の中には、雑巾を絞った私のひび割れた指先から滴り落ちた血が混じっていた。
本来なら水に溶けて赤く滲むはずの血液は、私の『硝子化の呪い』と極寒の気温のせいで、水に触れた瞬間に微細な結晶へと変貌を遂げていた。
薄暗い回廊の光を乱反射し、水底で不気味なほど美しく、紅い硝子の砂のように煌めいている。
(見られないで……! 気づかないで……!)
もし彼がこれに興味を持ち、指先でその結晶を掬い上げでもしたら。
彼がかつて受けた魔獣の『死の呪い』が、人間の生体魔力を硝子化させる性質を持っていたことを思い出すかもしれない。
私がその呪いを受け継いでいると知られれば、十年前の真実――彼を庇って呪いを受けた『あの日の少女』が私であるという事実に、彼の手が届いてしまう。
「……っ」
私は弾かれたように身を乗り出し、震える両手で木桶を隠すように覆い被さった。
勢い余って桶の縁に腕がぶつかり、氷のように冷たい水が跳ねて、私の薄いドレスの裾と冷え切った膝を容赦なく濡らした。
「な、なんでもございません、旦那様……!」
声が上擦らないよう、必死に喉の奥の震えを殺す。
「なんでもないわけがあるか。その水底に沈んでいる赤いものはなんだ。まさか、俺の城に奇妙な呪物でも持ち込んだのではあるまいな」
「違います! これは……その……」
私は伏せた顔のまま、必死に言い訳を探した。
「これは、私が着ていた古い衣の……染料が落ちたものでございます。実家から持たされた布切れを雑巾代わりにしておりましたゆえ、安価な染料が水に溶け出し、寒さで固まってしまっただけで……っ、決して、怪しいものではございません」
苦しい嘘だった。いくら安物の染料でも、水の中で硝子のように結晶化するなどあり得ない。
彼が魔力探知を少しでも働かせれば、一瞬で見破られてしまう。
だが、私の恐れは杞憂に終わった。
ウォルフ様は、私の必死の弁明を聞いて、それ以上桶の中身を確かめようとはしなかった。
彼にとって、私が持ち込んだ安物の布や、そこから落ちた安っぽい染料など、触れるのもおぞましい「汚物」でしかなかったからだ。
「……下らない。貴様の生家は、娘にまともな布一枚持たせる財力もなくなったか」
頭上から降ってきたのは、心底からの侮蔑と、吐き捨てるような嘲笑だった。
「俺の視界をうろつくなと言ったはずだ。そんな汚らしい水で俺の城の床を磨くなど、嫌がらせのつもりか? さっさとその汚水を片付けて消えろ。朝から貴様の顔を見るだけで、虫唾が走る」
ウォルフ様は忌々しげにマントを翻すと、私を汚物のように避け、足早に回廊の奥へと歩き去っていった。
遠ざかる軍靴の音を聞きながら、私は濡れた石畳の上に力なく崩れ落ちた。
彼から叩きつけられた『虫唾が走る』という明確な嫌悪の言葉が、遅効性の猛毒のように私の心臓を激しく侵食し始める。
――ピキッ、ピキピキッ、パリンッ!!
「がはっ……、う、あぁ……っ!」
痛い。胸の奥で、無数の硝子の刃が乱舞しているように痛い。
私は濡れた床にうずくまり、両手で胸を掻き毟りながら、血の混じった唾液を飲み込んで必死に耐えた。
***
回廊の清掃を終え、這うようにして北塔の小部屋に戻った私を待っていたのは、アンナからの冷酷な労いだった。
「遅いですね。たかが回廊の床磨き一つに、どれだけ時間をかけているのですか」
アンナは、冷気と疲労で立っているのもやっとの私を見下ろし、小さな盆を粗末なベッドの上に放り投げた。盆の上に乗っていたのは、石のように硬く乾燥した黒パンの切れ端と、僅かな塩だけだった。
「それが今日のあなたの食事です。それを食べたら、すぐに大図書室へ向かいなさい。高い書棚の上の埃が気になります。……もちろん、閣下の大切な蔵書に、あなたのその汚い手を直接触れることは許しませんよ」
それだけを言い残し、アンナは再び鍵をかけて去っていった。
私は自分の唾液だけで硬い黒パンを少しずつ飲み込み、再び重い体を引きずって大図書室へと向かった。
図書室は、重厚な樫の扉の向こうに広がる、北塔とはまるで別の世界だった。
壁一面の書棚、足音が吸い込まれるほどの分厚い絨毯。そして部屋の奥にある巨大な暖炉には、赤々と火が燃え盛っていた。
私は吸い寄せられるように暖炉へと近づき、凍えきった両手を炎の熱にかざした。
「……っ、痛い……!」
芯まで冷え切っていた指先が急激な熱に晒され、まるで無数の針で刺されているような激痛が走った。温かい場所にいると、体が本来の機能を取り戻そうとして、逆に隠されていたダメージが表面化してしまう。私の体はすでに、この城の冷たさに麻痺してしまっていたのだ。
痛む手をさすりながら、私は重い木製の梯子を引きずり出し、書棚の最上段へと登った。
アンナの言いつけ通り、本には直接触れず、羽箒で慎重に埃を払っていく。高い場所での作業は、貧血と呪いの後遺症でひどい目眩を引き起こした。
どれくらいの時間が経っただろうか。
背後で、重厚な扉が音もなく開く気配がした。
「――誰の許可を得てここに入った」
背筋が完全に凍りつくような、絶対零度の声。
振り返るよりも早く、強烈な魔力の圧が部屋の空気を重く押し潰した。
漆黒の執務服の首元を少し緩めたウォルフ様が、梯子の上で固まっている私を視界に捉え、氷青色の瞳に鋭い怒りと嫌悪を滲ませていた。
「も、申し訳ございません……旦那様」
私は震える声を絞り出した。
「メイド長のアンナより、この部屋の清掃を命じられまして……決して、勝手に入り込んだわけでは……っ」
「嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をつけ」
ウォルフ様の低い声が、私の弁明を無残に切り捨てた。
「俺の私室も同然のこの場所に、俺が最も嫌悪する『お前』をあえて寄越すメイドなど、この城にはいない。……俺の執務資料でも漁りに来たか? それとも、俺の気を引くために、わざとらしくこんな所で埃まみれの真似事をしているのか」
「違います……! 私はただ……っ」
ウォルフ様は、アンナたちが私に過酷な労働を強いている事実を知らない。だからこそ、私が嘘をついて彼の私室へ忍び込んだと疑っているのだ。
否定しようと身を乗り出した瞬間だった。
一日中氷水で床を磨き続け、完全に感覚を失っていた私の両手が、梯子の手すりから力なく滑り落ちた。
「あ……っ」
体が宙に浮く。
梯子から真っ逆さまに落下していく一瞬、ウォルフ様が一歩だけ、無意識に私を受け止めようと足を踏み出したのが見えた。十年前の、あの時のように。
しかし、彼の動きは途中でピタリと止まり――。
私はそのまま、分厚い絨毯の上に背中から叩きつけられた。
「がはっ……!!」
凄まじい衝撃が背骨から心臓へと突き抜ける。
――パリンッ!! バキバキッ……!!
体内で、かつてないほど巨大な硝子の破砕音が鳴り響いた。
落下の衝撃と、彼から向けられた冷酷な不信感。鋭利な破片が内側から胸を突き破るような激痛に、私は絨毯の上で海老のように身を丸め、痙攣した。
「ごほっ、かはっ……! あ、うぅ……っ!」
喉の奥から鮮血が逆流してくる。
私は慌てて、古びたハンカチを引き抜き、口元を強く押さえた。
真っ白だった布地が瞬く間にどす黒い赤に染まり、血の中の『硝子の結晶』がジャリジャリと嫌な感触を立てた。
「……何をしている」
ウォルフ様が、丸まり咳き込む私を冷ややかに見下ろしている。
「怪我をしたふりをして、俺に抱き起こしてでもらうつもりか? ……安い芝居だ。病弱な悲劇のヒロインでも演じているつもりだろうが、俺の目には滑稽にしか映らん」
彼は、私が吐血していることなど気づきもしない。
(見られないで……! この血を見られたら、終わってしまう!)
私は激痛に狂いそうになる意識を必死に繋ぎ止め、血に染まったハンカチを胸の奥底に隠した。そして、ふらつく両手で床をつき、どうにか膝立ちの姿勢をとる。
「お見苦しいところを……お見せいたしました……」
「目障りだ。今すぐ俺の視界から消えろ」
私は壁伝いに立ち上がり、彼に背を向けた。一歩歩くごとに肺に破片が刺さるように痛む体を抱え、私は彼が睨みつけている図書室から這うようにして逃げ出した。




