第3話 北塔の牢獄と母の面影。私を蝕む『出来損ない』の血の正体
メイド長であるアンナに腕を乱暴に引かれ、私は這うようにして城の奥深くへと連行された。
絢爛豪華な大広間や、温かな魔石の灯りがともる客室の並びを過ぎると、空気は急激に温度を下げ、カビと氷の混じったような淀んだ匂いに変わっていった。
北塔へと続く螺旋階段は、足を踏み外せば命を落としかねないほど急で、石造りの壁には霜が分厚く張り付いている。
窓ガラスすら満足にはめられていない隙間からは、刃物のような吹雪の風が直接吹き込んでいた。
「さあ、入りなさい」
最上階に行き着くと、アンナは重い鉄格子のついた樫の木の扉を開け、私を突き飛ばすように中へ入れた。
床に手をつき、すりむいた掌の痛みに顔をしかめながら立ち上がる。
そこは、一目見て「牢獄」だとわかる部屋だった。
石張りの床には絨毯の欠片もなく、壁にはひび割れが走っている。
暖炉は石組みが崩れており、薪も魔石も用意されていない。
部屋の隅には、申し訳程度の硬い木枠のベッドと、薄汚れた灰色の毛布が丸められているだけだった。
水差しの中の水は、すでに完全に凍りついて膨張し、ガラスの器を割ってしまっている。
「……ここが、今日からお前の部屋だ。いや、豚小屋と言うべきでしょうかね」
アンナは、冷え切った部屋の中で呆然とする私を、鼻で笑って見下ろした。
その瞳には、私を一人の人間として見るような温かみは微塵もなかった。
ただ、主君を悩ませる忌々しい過去の「残骸」を、義務的に片付けているかのような冷淡さだけがそこにある。
「勘違いするなよ、没落貴族の小娘。お前は公爵夫人などではない。旦那様の深い慈悲によって、ただ生かしておいていただいているだけの罪人だ。明日からは夜明け前に起き、下働きとして回廊の床磨きを命ずる。少しでもサボれば、食事は抜きだ」
「……はい。承知いたしました」
私が静かに、そして逆らうことなく深く頭を下げると、アンナは面白くなさそうに顔を顰めた。
悲鳴を上げ、泣き喚いて許しを乞う姿を期待していたのだろうが、私の淡々とした態度は彼女の加虐心を逆撫でするだけだったようだ。
「ふん。いつまでその気取った態度が持つか、見物ですね」
バタンッ! と、鼓膜を破るような乱暴な音を立てて扉が閉められ、外から重々しい鍵がかけられた。
足音が階段を下りていき、完全に聞こえなくなるのを待ってから。
私は、限界を迎えていた足の力を抜き、冷たい石の床にその場へ崩れ落ちた。
「はぁ……っ、あ、うぅ……っ!」
途端に、堰を切ったように激痛が全身を襲った。
喉の奥から、ヒューヒューと浅く掠れた呼吸が漏れる。胸を両手で強く掻き毟るように押さえ込み、私は冷たい石の床に額を擦り付けた。
――ピキッ、パリンッ。
私の体内で、鋭く硬質な音が鳴り響いている。
ウォルフ様の、あの絶対零度の視線。
『妻として扱う気も一切ない』『吐き気がする』という、明確な拒絶と憎悪の言葉。
それらが毒のように私の血液を巡り、魔力を司る心臓を急激に硬化させていく。
硝子と化した心臓の一部が、ひび割れ、砕け散る感覚。砕けた硝子の破片が肺や血管に突き刺さるような、息もできないほどの物理的な激痛だった。
(痛い……っ、痛い……っ!)
痛みにのたうち回りながら、私はなんとか這いずってベッドまで辿り着き、薄い毛布を引きずり下ろして全身を包み込んだ。
それでも、震えは一向に止まらない。外気の寒さではなく、命そのものが削り取られていく冷たさだった。
「げほっ、こほっ……!」
激しく咳き込むと、手のひらに生温かいものが飛び散った。
薄暗い部屋の窓から差し込む、僅かな月の光。それに照らされた私の手のひらには、どす黒い赤色と……それが急激に冷えて硬化し、微かに青白く光る「硝子の結晶」のようなものが混じっていた。
限界が、近づいている。
王都にいた頃よりも、確実に呪いの進行は早まっていた。ウォルフ様から向けられる殺意と憎悪のストレスが、この地の清浄な魔力による延命効果を上回ってしまっているのだ。
(あと、どれくらい持つかしら……。一年? 半年?……いいえ、数ヶ月かもしれない)
血に塗れた硝子の破片を力なく握りしめ、私は毛布にくるまりながら、目を閉じた。
痛みを紛らわすために、ただ一つの温かい記憶を、何度も、何度も繰り返し反芻する。
十年前の、あの夜のこと。
私の母は、私を産み落とすと同時に命を落とした。
父にとって母は生涯でただ一人の最愛の女性だったらしく、その命と引き換えに生まれた私は、物心ついた時から「妻を殺した悪魔の子」として激しく憎悪されていた。
さらに不運なことに、私は生まれつき魔力器官に致命的な欠陥を抱えていた。少しでも魔力を使おうとすれば胸が激しく痛み、高熱を出して倒れ込んでしまう「出来損ない」。誇り高い名門貴族である男爵家にとって、私は一族の面汚しでしかなかった。
『お前など産まれなければよかった! お前が身代わりに死ねばよかったのだ!』
酒に酔った父から鞭で打たれ、周囲からは使用人以下の扱いを受ける日々。
誰からも必要とされず、私が生きていること自体が罪なのだと骨の髄まで刷り込まれていた。
だからこそ、あの夜。
痛む体を引きずって屋敷を逃げ出し、死に場所を求めて深い森を彷徨っていた私は、美しい銀の髪を持つ少年――ウォルフ様を見つけた時、何の躊躇いもなくその身を投げ出すことができた。
迷子になっていた彼を狙い、森の奥から現れた恐ろしい魔獣。
魔獣が彼に向かって、死の呪いが込められた黒い霧を放った瞬間、私は彼を突き飛ばし、自らその黒い霧の盾となった。
『どうせ死ぬだけの命なら、せめて最後に、誰かの役に立って死にたい』
本気でそう思っていた。
『どうして……! 君は関係ないのに!』
私の欠陥だらけだった魔力器官は、呪いに侵食されて硝子化し、全身から血を流して倒れ伏した。
けれど、彼は自分の危険も顧みず、泥だらけになって私を強く抱きしめてくれた。
大粒の涙が、私の頬に落ちて、酷く温かかった。
『死なないで……っ、僕を庇って死ぬなんて許さない! 絶対に僕が君を守るから! 君を助けるから!』
私なんかのために。生きていてはいけないと罵られ続けた私の命のために、あんなに美しく気高い人が、なりふり構わず声を枯らして泣いてくれたのだ。
誰からも望まれなかった私の命が、初めて意味を持った瞬間だった。
(だから、これでいいの)
冷え切ったベッドの中で、私は膝を抱え、小さく身を丸めた。
私が生きているうちは、あの『硝子化の呪い』は彼には移らない。彼が健やかに、あんなにも逞しく、美しく成長してくれた。公爵としての地位を確立し、立派に領地を治めている。
無価値だった私の命一つで、彼のその輝かしい未来を守れたのだとしたら、こんなに幸せなことはないではないか。
もし、彼が「私が過去の恩人である」と知ってしまったら、どうなるだろう。
責任感が強く、心優しい彼は、間違いなく激しい絶望と自責の念に駆られるはずだ。自分が憎悪し、冷酷に扱っていた女が、自分の命を救うために余命を削られていると知れば、彼は一生、その後悔から逃れられなくなってしまう。
私の死後も、彼はずっと「呪い」と「罪悪感」に囚われ続けることになる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
私は、彼が憎んでいる『卑劣な裏切り者の娘』として、彼に蔑まれたまま、この冷たい塔で一人静かに死んでいくべきなのだ。彼が一切の良心の呵責を感じることなく、「目障りな女がようやく死んだ」と清々しく笑ってくれるように。
「……ウォルフ様」
凍りついた窓の外、猛吹雪の向こうで白く霞む月に向かって、私はそっと祈りを捧げた。
「私がこの世を去るその日まで……どうかあなたが、何一つ真実に気づきませんように」
彼を騙し続けることへの、静かな懺悔。
胸の奥で、再び小さな硝子の軋む音が鳴った。それは悲鳴ではなく、彼への狂おしいほどの愛を封じ込めた、私だけの秘密の音だった。
明けない夜のような氷の城での日々が、今、静かに幕を開けた。




