第1話氷の城への輿入れ。「目障りだ」と蔑まれても、この呪われた命が尽きるまではあなたの側に
北の果て、一年中厚い氷雪に閉ざされたアイゼンブルク公爵領。
その苛酷な大地を、一台の馬車が軋み声を上げながら進んでいた。
窓の外は、視界を無慈悲に白く塗り潰すほどの猛吹雪だ。飢えた獣の咆哮にも似た風の音がヒューヒューと耳をつんざき、車輪が凍てついた雪を砕く重々しい音が、絶望的な単調さで響き続けている。
分厚い雲に遮られ、太陽の光は一筋も差し込まない。灰色の空と純白の大地が溶け合う境界線を見つめていると、世界から完全に孤立してしまったような錯覚に陥る。
暖炉の魔石などとうの昔に効力を失った薄暗い車内で、私――ロザリアは、ただ一人、凍える両手で自身の華奢な肩を抱きしめていた。
実家の男爵家からあてがわれたのは、春先に着るような薄い絹のドレス一枚と、すり切れた薄手のショールだけだった。北地の、それも大吹雪の冷気を防ぐことなど到底できるはずもない。
指先はとうに感覚を失い、青白く変色している。吐く息は微かな白煙となって虚空に消え、睫毛には細かな霜が降りていた。
ガチガチと鳴りそうになる歯の根を必死に噛み締め、私はただ、この地獄のような寒さに耐え忍んでいた。
けれど、外気の尋常ではない寒さよりも、私の内側から這い上がってくる冷たさと痛みの方が、ずっと恐ろしく、そして残酷だった。
――ピキッ。
不意に、胸の奥深い場所で、硬いものが軋むような、ひび割れの音が響いた。
「っ……」
声にならない悲鳴を飲み込み、私は前かがみになって胸元を強く押さえる。肋骨の下、魔力を司り、命を拍動させる心臓のあたり。
そこに、鋭く研ぎ澄まされたガラスの破片が幾千も突き刺さったような、息が止まるほどの激痛が走った。
痛みに耐えかねて身を屈めると、浅い呼吸とともに、冷たい汗が背中を伝い落ちる。
『硝子化の呪い』。
極度の悲しみや絶望、強いストレスを受けるたびに、命の源である魔力器官が少しずつガラスのように硬化し、内側から砕け散っていくという、世にも恐ろしい呪い。
それが、私の体を静かに、しかし確実に蝕んでいる病の正体だった。
呪いが進行すればするほど、心臓は透明な硝子へと変貌し、ほんの僅かな感情の揺れ動きすらも物理的な痛みとなって私を責め立てる。
最終的に心臓が完全に硝子化し、砕け散った時が、私の命の終わりだ。
この呪いの進行を遅らせる唯一の方法は、寒冷で清浄な魔力に満ちた場所で、一切の感情を殺して静かに過ごすこと。温暖な気候の王都にいれば、私の命はとうの昔に尽きていただろう。
だからこそ、この猛吹雪に閉ざされた極寒の公爵領は、皮肉なことに、私にとって命を長らえさせるための「唯一の療養地」でもあった。
「はぁ……っ、う……」
痛みの波が少し引くのを待ち、私はゆっくりと息を吐き出した。
震える手で窓枠にすがりつき、再び外の景色に目を向ける。
真っ白な雪原は、私の心の中の空洞を映し出しているようだった。
私の生家である男爵家は、そんな私の呪われた体質を、最大限に利用した。
『どうせ長くは生きられない体なのだ。せめて我が家のために、あの恐ろしい魔将への生け贄となって、時間稼ぎの役目を果たしてこい』
出立の朝、父は私に向けて、ゴミを見るような目でそう言い放った。
かつて私と婚約していたジュリアン子爵も、私の横を通り過ぎる際、嘲笑を浮かべて囁いたものだ。
『君のような気味の悪い呪いを持った女、誰が愛するものか。あの冷酷な公爵に殺されるまで、精々我が家の盾として役立ってくれよ』
政略結婚という名の、人身御供。
アイゼンブルク公爵家は、かつて私の生家である男爵家の裏切りによって深い傷を負い、没落の危機に瀕したという因縁がある。父たちは、復讐に燃える公爵の怒りを逸らすため、不要な娘である私を「妻」という名目で差し出したのだ。
私が向かっているのは、希望に満ちた新婚の家庭などではない。明確な殺意と憎悪が渦巻く、処刑台のような場所だ。
胸の奥で、再びピキリと小さな音が鳴る。
死地へと向かう恐怖からではない。
これから会う人に、決定的に憎まれ、氷のように冷たく蔑まれる未来が分かっているからこその、絶望の音だった。
「……ウォルフ様」
青ざめ、震える唇で、その名をそっと紡いでみる。
氷雪の魔将、ウォルフ・フォン・アイゼンブルク公爵。
彼が我が家を――そしてその忌まわしい血を引く私を、心の底から憎悪していることは疑いようがない。彼にとって私は、家族を苦しめた裏切り者の娘であり、目障りなスパイ以外の何物でもないのだから。
それでも。
私は目を閉じ、窓ガラスの冷たさに額を押し当てながら、色褪せることのない過去の記憶を呼び起こした。
『泣かないで。僕が、絶対に君を守るから』
もう十年前のことになる。
王都の森の外れ。両親から疎まれ、居場所のなかった幼い私は、迷い込んだ森の奥で、恐ろしい魔獣に襲われそうになっていた一人の少年を見つけた。
月の光を紡いだような美しい銀色の髪と、宝石のように澄んだ氷青色の瞳を持つ少年。
魔獣の鋭い爪と、黒い呪いの霧が彼を引き裂こうとした瞬間、私は考えるよりも先に飛び出していた。
誰にも必要とされていない自分の命など、どうなってもよかったから。
私を包み込んだ黒い霧は、全身の骨が砕けるような激痛を伴って私を蹂躙した。あまりの痛みに声すら出せず、血を吐いて倒れ伏した私を、彼は泣きながら力強く抱きしめてくれた。
『死なないで……っ、僕を庇って死ぬなんて許さない! 絶対に僕が君を守るから! 君を助けるから!』
その時の彼の涙の熱さと、不器用だけれど優しかった彼の手の温もりを、私は今でも鮮明に覚えている。私の硝子の心臓の奥底には、あの日の彼の温もりが、ただ一つの希望として封じ込められているのだ。
あの時、彼を庇って呪いを受けたのは私だという事実を、彼は知らない。
そして私は、この先も彼に真実を知らせるつもりはなかった。
誇り高く、誰よりも優しい彼が真実を知れば、「自分のせいで命の恩人を呪縛し、死に追いやっている」と一生苦しむことになる。そんな残酷な真実を、愛する人に背負わせることなど絶対にできない。
彼が私を憎んでいてもいい。氷のように冷たい言葉を投げつけ、私をゴミのように扱っても構わない。
この砕けかけの命が尽きるその日まで、同じ屋根の下で、彼が力強く生きる姿を見つめることができるのなら。
同じ空気を吸い、彼の声を聞き、彼の冷たい視線に射抜かれることすらも、私にとっては過ぎた幸福なのだから。
(私が死ぬその日まで……どうか、あなたが真実に気づきませんように)
これは、誰にも望まれてこなかった私が抱いた、最初で最後の、そして最も狂おしい我儘だった。
「……奥様。見えてきましたぜ」
不意に、御者のくぐもった声が聞こえ、私はゆっくりと目を開けた。
硝子のように冷たく曇った窓を、すり切れたショールの袖で拭う。
猛吹雪の向こう側、白に塗り潰された視界の先に、まるで天を突くように聳え立つ巨大な影が現れた。
黒々とした尖塔がいくつも連なり、分厚い氷の壁に覆われた堅牢な要塞。
それが、北の領地を統べるアイゼンブルク公爵の居城、文字通りの『氷の城』だった。
城に近づくにつれ、大気中の魔力濃度が劇的に跳ね上がるのがわかる。
肌を刺すような高濃度の冷気と魔力は、健康な人間にとっては息苦しいほどの威圧感を与えるが、硝子化の呪いに蝕まれている私の心臓にとっては、唯一の痛みを和らげる鎮静剤でもあった。
馬車は、城を囲む巨大な鉄格子の門を抜け、凍てついた石畳の広場へとゆっくりと進入していく。
軋む車輪の音が止まり、静寂が訪れた。
風の音だけが響く中、私は両手を胸の前で固く握りしめ、これから始まる過酷な運命に向けて、静かに深呼吸をした。
(会える……。ウォルフ様、あなたに)
恐怖と絶望、そして狂おしいほどの恋心が混ざり合い、硝子の心臓が再び、ピキリと小さな音を立てた。




