知床旅行の後の学校
知床旅行あとの学校】
――8月の終わり、夏の名残を感じさせる陽ざしが、小学校の教室に差し込んでいる。
外では赤とんぼがふわふわと飛び交い、子どもたちの声が元気に響く朝。
1年1組の教室では、週明け恒例の「週末なにした?」の発表が始まっていた。
「じゃあ今日は、上川恵さん、お話してくれるかな?」
清里緑先生がやさしく声をかけると、
恵はちょっと恥ずかしそうに立ち上がって、前に出た。
「えっとね……お母さんと、しれとこ、行ってきたの〜」
「知床? それはすごいねぇ」
先生が目を丸くすると、教室の数人から「えっ、しれとこってどこ?」と声が上がる。
「なんかね、おっきい滝があってさ、オシンコシンの滝っていうんだよ。しゅーって水が流れてて、気持ちよかった〜」
「へぇ〜!」
子どもたちが興味津々の顔で聞き入るなか、
一番前の席の門別光希が手を挙げた。
「恵ちゃん、温泉も入ったん?」
「うん!ウトロの温泉!おっきいおふろで、海もみえたの〜。お母さんといっしょに、ずーっとつかってた〜」
「うらやましいなぁ〜。ぼくも、知床行ってみたいな」
光希が素直に目を輝かせながら言うと、恵はにんまり笑った。
「光希くんもいってみて〜。オホーツクの海、きれいだったよ〜。あとね、湖のところで、おさかな食べたの。ほっけ! おいしかった!」
清里先生は、そんな二人のやりとりを微笑ましそうに聞いていた。
「恵ちゃん、すてきなお話ありがとう。知床の自然のこと、よく覚えてたね〜。今度は絵に描いてみたらどうかな?夏休みの思い出、ってかんじで」
「うんっ!かく〜!」
教室に、ぱっと明るい声と笑顔が広がった。
【教室:写真を見せながら】
「それでね、それでね……おかあさんが、しゃしん、いーっぱい撮ってくれたの」
恵はランドセルから、大事そうにクリアファイルを取り出した。
中には数枚の写真プリントが入っていて、先生と子どもたちが自然と机のまわりに集まってくる。
「これ、オシンコシンの滝。ほら、ここにおっきい滝あるっしょ?」
と、恵が写真を掲げると、そこには滝を背にピースサインする恵の姿。
「うわ〜、でっかいな〜この滝! すごいすごい!」
「恵ちゃん、顔びしょびしょじゃないの?」
「ちょっとだけ、しぶきとんできた〜、でも気持ちよかったよ〜」
次に見せたのは、ウトロ温泉のホテルの窓から見た夕暮れの海の写真。
光のグラデーションと広がる水平線が美しい。
「これ、おふろのとこのホテルのまどから見たやつ〜。海が、きらきらしてた」
「え〜!こんなとこ泊まったんかい? うらやましいなぁ…」
「こんど、うちも連れてってってお母さんに言ってみよ」
そして最後に見せたのは、網走湖畔近くの市場で見つけた魚たちの写真。
ホッケや鮭、カレイにタラ…魚の名前がわからなくても、子どもたちは大盛り上がり。
「これ、ぜーんぶ食べもん? うわー!」
「めぐちゃん、これ、食べたの?」
「うん、ホッケ食べた〜。すごーくおいしかったの。おっきくって、じゅーってなってたの!」
清里先生も写真をひとつひとつ見ながら、ふんわり微笑んだ。
「恵ちゃん、いい夏の思い出ができたねぇ。ちゃんと見て、ちゃんと覚えてて、すごいなぁ。お母さんと一緒に、いっぱい楽しんできたのが伝わってくるわ」
恵は照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った。
「うん、またいきたいな〜、しれとこ」
光希も、小さな声で「いっしょに行けたらいいな……」とつぶやいたが、
それは誰にも聞こえなかった。
【秋の運動会】
知床の旅がすぎ、朝夕の空気に冷たさが混じるようになった。
稲穂の色が少しずつ金色に近づいてきた頃、
恵の通う小学校でも、はじめての運動会の日を迎えた。
空は澄みきった青。白い雲がいくつか、ゆっくりと流れていた。
校庭の土は少し湿っているけれど、晴れ間に照らされて、ほんのり温かい。
「めぐ〜、ゼッケンつけたか? ハチマキもしっかり結んでるかい?」
「うん! お母さん、見ててね〜! めぐ、走るの、いっちばん好きなんだよ!」
恵は元気いっぱい、運動靴のつま先で地面をトントンと鳴らしながら、整列の列へ駆けていった。
雪はビデオカメラと、おにぎりの入った保冷バッグを抱えながら、
観覧席の最前列に腰をおろす。
上川の義父母も、雪の両親も、少し後ろに椅子を持ち込んで並んでいた。
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【かけっこ】
「よーい……ドン!」
ピストルの音とともに、恵は真っ直ぐなフォームで飛び出した。
背筋をぴんと伸ばして、膝を高くあげて、風を切るように走る。
「あれ、早いなぁ…」「あれが雪ちゃんとこの?」
観覧席のあちこちから、驚きの声が漏れた。
ゴールテープを切った時、恵はにこにこしながら小さくガッツポーズ。
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【玉入れと、親子競技】
玉入れでは、小さな体をめいっぱい伸ばしながら、赤い玉を次々にかごへと投げ入れた。
そして、親子で参加する「大玉ころがし」。
「おかあさん、もっともっと押すよ〜!」
「わかったわかった、でも転ばないでよ〜!」
2人で笑いながら、声を合わせて大玉を転がす姿に、周囲から拍手が起こった。
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【閉会式】
運動会の終わりに、1年生がそれぞれ前に出て、一言ずつ感想を言う時間。
恵の番になり、少し緊張した面持ちでマイクの前に立った。
「わたし、きょう、いっしょうけんめい はしったのが、たのしかったです。
おかあさんが、ずっと みててくれて、うれしかったです。
もっともっと じょうずに なりたいです。ありがとうございました!」
はっきりとした声に、拍手がわき起こった。
恵は、観覧席の雪に向かって、まっすぐ手を振った。
雪は、小さく手を振り返しながら、
目の端ににじんだ涙をぬぐった。
「……そうちゃん、見たかい? めぐ、がんばったっしょ。
おっきくなったね……ちゃんと、まっすぐ育ってるよ」
空に、少し高くなった秋の雲が流れていった。
【運動会の夜 〜めぐ、がんばった会〜】
運動会が終わり、夕暮れが少しずつ空を染め始めた頃。
家に戻った恵は、少しぐったりした様子で玄関に腰を下ろした。
「めぐ、だいぶ つかれたべか?」
「……うん。でも、たのしかったぁ……」
雪に言われて、汗をかいたシャツを脱ぎ、シャワーを浴びた。
きれいに体を洗って、パジャマに着替えると、恵はそのままふかふかのソファにごろん。
数分もしないうちに、小さな寝息が聞こえてきた。
雪がタオルケットをかけると、恵は気持ちよさそうに眉をゆるめ、
時おり、口元にふわっと笑みを浮かべた。
「……夢でも、走ってるんでないかい?」
静かにそうつぶやき、雪はキッチンで、今夜の準備を始めた。
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【カフェ雪で「めぐがんばった会」】
夜七時。カフェ雪には、雪の両親と、上川の義父母が集まっていた。
今日は特別に店を早めに閉めて、「めぐがんばった会」の開宴である。
「恵、ほんと立派だったわ〜、あの走り。将来はアスリートだな!」
「そうだよな、そうちゃんの血が流れてるもなぁ……んだんだ!」
賑やかな声に包まれて、恵は照れくさそうに笑った。
「お母さんもいっしょに はしったの、たのしかったよ〜!」
「そうかいそうかい、また来年も、がんばるんだよ」
手作りのおにぎりや、畑で採れた野菜の素朴な料理がテーブルいっぱいに並ぶ。
みんなの笑顔と笑い声が、店いっぱいに広がっていった。
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【夜のお風呂と、眠り】
家に帰ると、恵と雪は一緒にお風呂へ。
「今日の運動会、ほんとにがんばったねぇ。つかれたべ?」
「……うん。でも、おかあさんと いっしょにころがした大玉、いっちばん たのしかった〜」
湯船につかりながら、ぽつぽつと運動会の話を思い出すように話す恵。
少しずつ、瞼が重たくなっていく。
「ねぇ、おかあさん……きょう、しあわせだったよ」
「んだかい。めぐの笑った顔見れたら、それだけで、おかあさんもしあわせだよ」
お湯から上がると、髪を乾かして、布団へ。
ふかふかの布団にくるまり、まだほんのり熱の残る頬を雪の腕にくっつけながら、
恵は静かに眠りについていった。
寝顔は穏やかで、どこか誇らしげでもあった。
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(モノローグ・雪)
「……そうちゃん。めぐ、すっかりお姉ちゃんになったよ。
あのちっちゃかった手が、もうすっかりしっかりしてきて。
あの子の今日の笑顔、いちばん見せてやりたかったのは、そうちゃんだったんだよ」
部屋の隅にある、層一の遺影に向かって、そう優しく語りかけた。
そして雪も、恵の隣の布団に潜り込み、やさしい寝息のリズムに寄り添うように、
目を閉じた。
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【その夜の夢】
夜更け、雪はふと夢の中で、やわらかな光に包まれた場所に立っていた。
目の前には、懐かしい姿。穏やかな笑顔を浮かべる層一が、そこにいた。
「雪……めぐ、しっかり育ててくれて、ありがとな」
層一の声は、やさしくて、懐かしい風みたいだった。
「めぐ、きっと立派なジャンパーなるど。
空、飛ぶの楽しそうにしててさ、見てる人らも笑顔になんだ。
人にも、あったかく接せる子に育つべさ」
雪は涙こらえきれず、層一の顔を見つめた。
「……そうちゃん、ありがと。
また……また会えたら、うれしいわ……」
層一はふわっと笑って、何も言わずにうなずいた。
やがて、まぶしい朝の気配が近づいてきて、夢の光はすぅっと消えていった。
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【目覚めと寝顔】(道北方言入り)
「……はっ」
雪はぱちっと目を開けた。
部屋ん中は、まだ夜の静けさに包まれたまんま。
隣じゃ、恵がぬくもりたっぷりの寝息立ててる。
(そうちゃん……私、寂しゅうしてねぇか見にきてくれたんだべか)
目の端をそっと拭いながら、雪はぽつりと微笑んだ。
「夢で会えて、うれしかったわ。ほんと、ありがとね……そうちゃん」
そして、恵の小さな頭をそっと撫でた。
「……めぐ、今日もようがんばったねぇ」
もういっぺん布団にくるまって、
恵のあったけぇぬくもり感じながら、
雪もまた、すぅっと目を閉じた。
遠くで、風が優しく、窓を揺らす音がしていた。
――その夜、雪は、久しぶりにぐっすり、安らかに眠った。