夏の終わりの知床へ
小さな一歩、大きな決意
季節は再び冬。
雪深い上川のジャンプ台には、いつものように真っ白な雪が積もり、空気は張り詰めるように澄んでいた。
「よし、今日もいっちょ、飛ぶか」
小学生になった恵は、ジャンプスーツに身を包み、軽くストレッチをしながら助走台を見つめる。
その眼差しには、もう“遊び”ではない、競技者としての覚悟が芽生え始めていた。
「こうきくん、きょうはクロカン? それともジャンプ?」
「両方! ぼく、ノルディック複合やるって決めたんだ」
そう言った光希は、ジャンプ板とクロスカントリースキーの両方を背負っていた。
彼もまた、恵と同じように、自分の競技道を見つけ始めていた。
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初めてのジュニア大会登録
その冬、地元のスキー連盟から、小学1年生以上を対象にした道北ジュニア大会の案内が届いた。
「……めぐ、出てみたいかい?」
雪がそう問いかけると、恵は一瞬だけ考え、それから――
「うん。でる。お父さんとおんなじ、ジャンプのせんしゅになるの」
雪はその決意に、ぎゅっと胸が詰まった。
「……そうちゃん、聞こえたべか。めぐ、本気だわ」
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種目の分かれ道
恵はスキージャンプ一本にしぼった。
あの風を切る助走、空に飛び出す感覚、すべてが大好きだった。
一方で光希は、体力と持久力、そしてジャンプ――すべてを活かせるノルディック複合に惹かれていった。
海斗や寄子、そして地元コーチの支えを受けながら、それぞれの練習をこなしていく。
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冬の夕暮れ、2人並んで帰る道
練習後、雪の上を踏みしめながら2人で歩く。
「こうきくん、ジャンプも、クロカンも、ぜんぶだいじょぶ?」
「ちょっとつかれるけど……楽しいよ。
めぐちゃんがジャンプでいっしょにがんばってるから、ぼくもがんばれる」
「うん。……めぐ、こんど、お父さんみたいに、レコードつくるの」
「うん。ぼく、めぐちゃんの応援、いっぱいする!」
遠くから、カフェ雪の灯りが見えてきた。
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それぞれの未来へ
スキージャンプと、ノルディック複合――
選んだ種目は違っても、2人の心の芯には同じものが流れている。
空を飛ぶ夢、そして父や家族の想いを背負う強さ。
まだ雪深い北海道の空の下で、2人の未来が、そっと動き出していた。
卒園──夢のはじまり
道北の春はまだ遠く、朝の空気は肌寒い。けれど、園舎の中には温かな日差しと、子どもたちの声が満ちていた。
――今日は、卒園式。
雪は胸にコサージュをつけ、礼服を整えると、恵の名札を優しく胸元につけてやった。
「きょうで、ようちえんおしまいなんだね」
「そうだね……もうすぐ一年生だ」
「……ちょっと、ドキドキするね」
恵は少しだけ口元を緩めて、雪の手を握った。
式典が始まり、ひとりひとりの名前が呼ばれて、子どもたちは立派に返事をして壇上へ向かう。
その姿に、保護者席では何度も小さなすすり泣きが聞こえた。
そして、いよいよ「将来の夢」の発表。
壇上に立った恵は、マイクの前に立つと、まっすぐな目で前を見据えた。
「わたしの、ゆめは……スキージャンプせんしゅになって、オリンピックで……きんメダルを、とることです!」
会場が一瞬静まり、そのあとでどっと拍手が広がった。
雪は、恵の姿を見つめながら、そっと膝の上の層一の遺影を抱きしめた。
「……そうちゃん。恵、ちゃんとここまで大きくなったよ」
涙が、頬をすっと流れていった。
あの日から、何度も立ち止まりそうになったけど。
それでも、母として歩いてきた日々のすべてが、この一瞬に報われた気がした。
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入学──はじまりの春
まだ雪の残る四月初旬。
上川町の小さな小学校の体育館には、真新しいスーツに身を包んだ保護者たちと、ピカピカのランドセルを背負った子どもたちの姿が並んでいた。
「……ちょっと大きいかな、ランドセル」
「うん、ちょっとだけね」
雪は微笑みながら、恵の背中のベルトを軽く直してやった。
校長先生の言葉、担任の先生の紹介。ひとつひとつが新しい世界への扉だった。
式が終わると、体育館の外で保護者たちが我が子の記念写真を撮っていた。
雪もまた、雪解けの地面に気をつけながら、恵の正面にしゃがんだ。
「はい、笑って〜……ほら、いつものピースサイン」
「えへへ……ん〜、こう?」
少しはにかんだ笑顔と、指先で作った小さなピース。
ランドセルには、春の光が反射してキラリと光っていた。
「お父さんも見てるよ、きっと……今日のこの日を」
雪は胸の中でそう呟いた。
そうちゃんがいてくれたら、きっと、もっともっと誇らしかったはずだけど、
でも、今ここにいる娘の成長が、すべてを語ってくれていた。
夏の記憶──知床ドライブ
お盆が明けたばかりの八月下旬。
空は高く、道北の夏とはいえ、照りつける日差しは少し汗ばむくらいだった。
雪は車の窓を少し開けて、助手席で歌を口ずさむ恵に笑いかける。
「風、気持ちいいねえ、恵」
「うんっ! お母さん、次のとこ、まだ〜?」
恵はサンバイザーをつけたまま、窓の外をせわしなく見ていた。
行き先は、雪がずっと連れて行ってあげたいと思っていた場所――知床。
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オシンコシンの滝にて
国道334号を東へ進み、斜里を過ぎると、滝の音が近づいてきた。
「ここだよ、オシンコシンの滝。恵、見てごらん」
「うわぁ〜〜! すごいね、すごいねっ!」
恵は両手を広げて、滝の前でピースサイン。
水しぶきが風に乗って頬に触れるたび、くすぐったそうに笑った。
「お母さん〜! 写真撮って〜!」
雪は笑いながらスマホを取り出し、恵のはしゃぐ姿を連写した。
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ウトロ温泉でひと息
滝の近くから少し上がった高台にある温泉宿。
海が見下ろせる露天風呂に、親子で肩までつかる。
「ふぅ〜……いいお湯だねえ」
「ねぇ、お母さん……きょう、めっちゃ楽しい」
お湯の中で頬をピンクに染めた恵が、ぽつりとつぶやいた。
「よかった。恵が楽しいなら、お母さんも楽しいよ」
湯気の向こうに見えるオホーツク海が、金色に染まり始めていた。
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網走湖畔の夕暮れ
その日の夕食は、網走湖畔にある地元のレストランで。
新鮮なホタテのバター焼き、トウモロコシの天ぷら、そして道産牛のステーキ。
「おいしい〜! お母さん、これなぁに?」
「それはね、知床どりの唐揚げ。ジューシーでしょ?」
恵はお子様プレートの旗を大事そうに取り外し、空にかざして笑っていた。
湖面に映る夕陽がゆっくり沈み、空は紫から藍色へ。
食後、湖畔のベンチに座りながら、恵はぼそっとつぶやく。
「また来ようね。お母さんといっしょに」
「うん、また来よう。今度は……お父さんにも見せてあげよっか」
恵はうなずいて、湖の向こうをじっと見つめた。
きっとそこにも、父の笑顔があるように感じたのだろう。
帰り道──恵の寝息と、成長の重み
知床の夕空がすっかり紺に染まり、網走を出た頃には、車内には静かな音楽と、エンジン音だけが流れていた。
助手席の恵は、ウトロの温泉と、美味しかった夕飯、そして一日じゅうはしゃいだ疲れがどっと来たのだろう。
チャイルドシートの中で、小さな寝息を立てていた。
「……寝ちゃったねぇ」
バックミラー越しに見える寝顔に、雪は微笑む。
街灯もまばらな峠道を、ゆっくりと車は進む。
時折、鹿の影が遠くを横切っていった。
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家に着いたのは、もうすっかり夜も更けたころ。
車を停めて、そっと後部座席のドアを開ける。
「恵、起きるよ〜……」
反応はない。スースーという寝息だけが聞こえる。
「ん〜……仕方ないね。よいしょ……」
抱き起こしたその体は、かつてよりもずっしりと重く、
肩の丸みも、太もものしっかりした筋肉のつき方も、
少し前の“子ども”のそれとは、明らかに違っていた。
――いつの間にか、こんなに大きくなってたんだね……
寝息を立てたまま雪に体を預ける恵の頬を、そっと撫でる。
その横顔に、ふと、層一の面影が重なった。
「……そうちゃん。見てる? こんなに、大きくなったよ……」
胸の奥にじわりと広がる、温かさと寂しさ。
見せてあげたかったな。あなたの娘の、今日の笑顔を――
雪は離れの玄関を開け、そっと布団へ恵を寝かせる。
柔らかな寝息が、静かな部屋の中に心地よく響いた。そして、お風呂が沸くと、恵みを起こして、二人で入浴。
【第三章:知床の夏・帰り道の夜】
知床からの長いドライブを終えて、上川の家に帰り着いたのは、夕暮れをとうに過ぎたころ。ウトロ温泉の広いお風呂とは違い、家の風呂はこぢんまりとしているが、やっぱり落ち着く。誰にも気を遣わず、ふたりだけの空間だ。
「めぐ、お風呂入るよ〜。寝ちゃう前にさっぱりしとこう」
「うん……めぐ、ウトロのおふろ、すっごく大きかったね〜!」
「んだねぇ。あれは旅館のお風呂だもんねぇ。でも、やっぱりここの風呂が一番落ち着くしょ?」
「あったかい〜……ほっとする〜……」
お湯につかりながら、ふたりは今日の思い出をぽつぽつと話す。
「おかあさん、きつね、かわいかったね!」
「んだんだ。めぐの見つけた目、すごかったねぇ。あれ、運転中だったら気づかんかったわ〜」
「おしんこしんの滝も、すっごいお水いっぱいだった〜。めぐ、びっちょびちょになったけど、たのしかった〜」
「はは……。また行きたいねぇ、今度は冬の知床もええかもよ?」
「え〜? 雪すごいでしょ? でも行ってみたい〜!」
お湯がすっかりぬるんでしまうまで、ふたりはのんびりと体を温めた。
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お風呂から上がると、雪はふかふかの布団を二つ並べて敷いた。湯冷めしないように、恵の髪をしっかり乾かして、パジャマの袖を直してやる。
「おかあさん、きょう、すっごいたのしかったね」
「んだねぇ。めぐと一緒だったから、なおさらたのしかったわ」
「また、こんども一緒に行こうね。……おとーさんも、いっしょにお空からついてきてくれたかな?」
「んだ。ぜったい、ずーっとめぐのこと、見ててくれてたよ」
灯りを落とし、布団にもぐりこんだ恵は、くすくす笑いながら雪の腕をつかんだ。
「おかあさん、めぐ、ねむくなってきた〜」
「ん〜そっか……じゃあ、ぎゅ〜ってしてあげるから、おやすみね」
「おやすみ〜……だいすき〜……」
「ん〜、おかあさんもだよ……めぐ、おやすみ……」
静かな夜。上川の家の離れに、ふたりの穏やかな寝息が静かに重なっていた。
おみやげを持って、生田の実家へ】
知床から帰って一夜明けた朝。まだほんのりと体に旅の疲れが残っていたが、窓から差し込むやわらかな陽射しに、雪も恵も自然と目を覚ました。
「めぐ、おっきしたかい?」
「うん、おかあさん、おなかぺっこぺこ〜!」
「ほれ、じゃあ朝ごはんにしよう。じいちゃんばあちゃんと、生田のおうち行くからね」
「うんっ! ばあちゃんに、カニのおみやげ渡すんでしょ〜?」
「んだんだ。あのカニ、網走で買ったやつ。喜ぶわ〜、きっと」
朝食を終えたあと、恵はしっかりとした薄手の長袖シャツを羽織って車へ。後部座席に積んだのは、知床で買った干物や昆布、そして、旅の帰りに立ち寄った網走で仕入れた立派な毛ガニ。
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上川の家から車で30分ほど、生田の雪の実家に着いたときには、庭先に雪の父・政人が薪割りをしている姿が見えた。
「ほれ、じいちゃん、なんぼ元気なもんだわ〜」
「おとーさん! 来たよ〜!」
「おお、おお、めぐも来たか! やっとか〜、知床はどうだった?」
「キツネ見た〜! 滝にも行った〜! カニも食べた〜!」
「んははは、そりゃあよかった! んだ、んだ!」
雪の母・幸恵が、玄関から顔をのぞかせる。
「おやまぁ、めぐも大きくなったわね〜。ほれ、おみやげって?」
「ばあちゃん、これ、カニ! おかあさんが選んだやつ〜!」
「ほう、これはまた立派なもんだねぇ。ありがとねぇ」
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居間では、層一の両親と、雪の両親とでお茶を囲みながら、ゆっくりと話に花が咲いた。
「めぐ、ほんとによく喋るようになったなぁ」
「んだんだ、元気そのもんだ。まぁ、あの子(層一)の子だもんなぁ」
「そうちゃんの小さい頃に、めぐそっくりだったよ」
「……うん。やっぱり時々、目元がそっくりで、ドキッとするわ」
雪がふと、膝に置いた手をぎゅっと握る。恵はというと、両家の祖父母に囲まれて、自慢げに知床の話を繰り返していた。
「お父さんも、見ててくれてたよね? めぐのこと、いっぱい聞いててくれたよね?」
「んだ、んだ。そうちゃん、きっと横で“めぐ、すごいべや”って言ってるわ」
「……ふふ。ほんとに、そう言ってそう」
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帰りがけ、雪の母が恵の手に小さなおやつ袋を渡す。
「ほれ、ばあちゃんからのおみやげ。おうち帰ってから食べなさいね」
「ありがと、ばあちゃん! おかあさんと一緒に食べる〜!」
「今度は、冬の生田にも泊まりにおいでな〜」
「うんっ! 雪合戦しようね!」
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車に乗り込み、ふたたび上川への帰路につくころ、恵は後部座席で歌を口ずさみながら、気づけばまた、眠りについていた。
静かに雪がつぶやく。
「……ほんとに、大きくなったねぇ、めぐ。そうちゃんにも見せたかったな」
車の窓の向こう、山々の稜線にはもう薄く雪がかぶっていて、
短かった夏が終わり、秋の気配が近づいていた。




