小さなジャンパーの夢
朝、霜の降りた道を車で走りながら、
雪はふと、助手席の恵を横目で見た。
眠たい目をこすりながら、それでも笑顔を浮かべ、
「今日もジャンプある?」と聞いてくる。
ほんとうに――この子は、からだを動かすのが、何より好きなんだなぁと雪は思う。
スキージャンプを始めて数ヶ月。
最初は雪も、ちょっと心配していた。
「怖がるべさ……あんな高いとこから飛ぶなんて」――そう思っていたのだ。
でも恵は違った。
初めてジャンプ台の上に立った日、ちょっとだけ緊張した顔をしていたくせに、
滑り出して、風を切って、空に飛び出したその瞬間――
着地した恵は、スキージャンプ場に響くような声で叫んだのだった。
「楽しい〜〜っ!! もっかいやる〜〜っ!!」
その笑顔が、まるで――
「そうちゃん、そっくりだったのさ……」
雪は今でも、その時の恵の顔を思い出すたびに胸が熱くなる。
滑り出す時の低い体勢。無意識に取るフォーム。
空中での姿勢、風の捉え方――どれも、小さな体には似つかわしくないほど、自然でしなやかだった。
「……やっぱり、あの子の中に、そうちゃんのジャンプの感覚が、生きてるんだわ」
空を飛ぶ感覚が、とにかく「たまらない」という。
「スーッて風がきて、パーって浮くの。なんか、お空がぎゅってなるの!」
そんなふうに、恵は飛んだ感覚を言葉にしようとする。
それを聞いて、雪は思わず笑ってしまった。
「ぎゅってなるなんて、なまら変な表現だけど……でも、わかる気するわ」
ジャンプだけじゃない。
幼稚園でも、サッカーや鬼ごっこになると、恵の足はとにかく速い。
コーンを置いてのリレーでは、ターンの鋭さも、反応の速さも、他の子どもたちをひとまわり上回っていた。
担任の先生も、笑って言っていた。
「めぐみちゃんは、何しても身体の使い方が上手ですよ〜。
サッカーやらせたら、男の子たちより動けてます!」
体力もある。持久力も、瞬発力もある。
空間感覚に優れていて、なにより――負けず嫌い。
「よっしゃ、もう一回飛ぶっ! もっとまっすぐ!」
ジャンプ練習でも、本人が納得するまで繰り返す。
〈雪・モノローグ〉
――あんたにそっくりだよ、そうちゃん。
この子ね、ほんと、飛ぶために生まれてきたみたいだわ。
空が好きで、風が好きで、走るのが好きで――
ジャンプが楽しくて、仕方ないんだって。
……それって、あんたの心そのまんまじゃないかい。
白いヘルメット。小さなゴーグル。大きいジャンプスーツ。
ふわふわの手袋をぎゅっとはめて、スキー板をかかえて歩く。
「よいしょ、よいしょ、えいっ……」
ちょっと重たいけど、がんばれる。
だって――ジャンプ、たのしいんだもん!
ジャンプ台のてっぺんは、ちょっとだけこわい。
けど、コーチのおじさんが「いいぞ〜、めぐみ〜」って言ってくれると、なんかつよくなったみたいな気がする。
深呼吸して、足をちゃんとそろえて――
「すべるよっ!」
すいーーーっとすべると、おかぜがびゅーってくる。
ぴゅーーって、おくびがとびそうなくらい、つよい風。
でもこわくない。**これ、たのしいやつ!**って、もう知ってる。
びゅんって風の中を走って――
「とんじゃえーっ!」
ぽーん!
……ふわっ
……ふわわわっ!
おなかが、くすぐったい。
そらに、ちょっとだけ、ふれてるみたい。
じぶんのからだが、なんだかかるくて、
「スキーのおはな」が、すーってういてるみたいなきもち。
「……えへへ〜っ!!」
たのしい! たのしい〜〜!!
「もっかいっ! もっかいとぶ〜っ!」
スキーをかかえて、階段をまたのぼる。
足、つかれても、へーき。ジャンプしたいから。
⸻
休けい時間。おかあさんが、タオルとお茶を持ってきてくれる。
「ほら、めぐみ、汗かいてるよ。のど渇いたべさ」
「おかあさん! いまね、ふわーってとんだの!」
「んだか〜。見てたよ。すっごいジャンプだったねぇ」
「おそら、さわれそうだった!」
雪は笑って、しゃがんで恵の顔をふいてやる。
「そうかい。……めぐみ、ほんとにとぶの、すきなんだね」
恵は、にっこにこ。
「うん! おとうさんみたいに、とびたいの!
おかぜと、なかよしになりたいの!」
その声に、雪の目元が、ほんのり潤む。
〈雪・モノローグ〉
――そうちゃん、聞いてるかい?
この子、風と遊びたいって言ってるよ。
あんたが愛した空の中を、笑いながら飛んでるよ。
午後の光が差し込むリビング。
小さなおやつの時間のあと、ふとした会話から、恵の目が輝いた。
「めぐ、ね……おおきくなったら、いっぱいとびたいの。
こーんなに、とーくまで!」
両手を大きく広げて、空に届くみたいに。
雪は笑って、その小さな肩をそっと撫でた。
「……じゃあさ、お父さんがとんだときの映像、見てみるかい?」
「……おとーたんの? ジャンプ? うん、みたい!」
恵はテレビの前にちょこんと座る。
雪はそっとDVDを入れ、リモコンを押した。
画面に映るのは、2020年、サンモリッツのW杯。
白銀のジャンプ台。冷たい風の中に立つ、一人のジャンパー。
グレーと黒のジャンプスーツ。きりっとした表情。
解説の声が静かに流れる中――
「これ……おとーたん?」
「んだよ。ほら、あのすべってる人。あれが、お父さん」
雪の声がどこか懐かしそうにふるえた。
画面の中の層一は、空気を切るような美しい助走から、
一気に宙へと飛び出した。
「……わぁ……」
恵は、口をぽかんと開けて、ただただ見入っていた。
風に乗って、まっすぐに、遠くへ――
まるで鳥みたいに、ひとりで空をすべる「おとーたん」。
「……すごいね……おとーたん、とーくまで、とんでった……」
手を胸の前でぎゅっと握りしめて、目をこすりもせずに映像を追いかけていた。
「めぐ、ね……おとーたん、みたいになりたいの。
おそら、とびたいの……おとーたん、みたいに……」
その声は、いつもの元気な恵とは少し違って、
どこか、ぽつんとした、心の奥にぽつりと落ちるような声だった。
雪は、恵の隣に腰を下ろして、そっと腕をまわした。
「……そうかい。……お父さんも、空の上から、見てるべさ。
めぐみが、こーんなにジャンプすきだって、きっと、うれしいよ」
〈雪・モノローグ〉
――そうちゃん、見てるかい?
めぐみのなかに、あんたの「とびたい」って気持ち、ちゃんと息づいてるよ。
あの子は、もうあんたの背中、追いかけ始めてる。
テレビの中で、層一が着地して、両手を掲げる。
バッケンレコードの表示とともに、観客の歓声がわっと響いた。
「おとーたん、いっちばんだったの?」
「んだよ。あのとき、お父さんがいちばん、遠くまで飛んだの」
「……めぐも、いっちばん、とびたいの。
おとーたん、みててね……」
小さな手をぎゅっと握って、空を見上げるような恵。
そのまなざしは、雪にとってもまぶしいものだった。
「めぐみ、ちょっと、おいで」
ある日、ジャンプの練習帰りの午後。
カフェの片づけを終えたあと、雪は静かに恵を呼んだ。
「なぁに?」
「見せたいもの、あるんだわ」
手をつないで向かったのは、母屋の奥――
層一の思い出が、そっと息を潜めて眠る一室だった。
押し入れの上の棚から、雪は布で包まれた箱を取り出す。
恵は、小さな背で背伸びしながら、その様子をじっと見上げていた。
「めぐがね、いっぱいジャンプ好きになってくれて……
そしたら、これも見せたいなって思ってたの」
布をめくると、中にはいくつものトロフィーが並んでいた。
金色に光る優勝カップ、重みのあるメダル、丁寧に額に入った賞状――
「……これ……なあに?」
「お父さんのだよ。
世界で一番遠くまで飛んだときにもらった、金メダル。
これが、W杯のトロフィー。
ここにあるの、ぜんぶね、お父さんがジャンプでとったものなんだ」
「……すごーい……!」
恵は、そっと金色のトロフィーに触れた。
その表面に映る自分の顔をのぞき込んで、きらきらした目で笑った。
「これ、もって、とんだの?」
「ううん。これはね、飛んだあと、もらうんだよ。
頑張ったね、って、世界中の人が言ってくれるんだ」
雪は、次に白いケースを開けた。
中から出てきたのは、グレーと黒のジャンプスーツ。
2020年、サンモリッツで着ていた、あの一着。
「……おとーたんの……ふく?」
「んだよ。ジャンプのときに着てたの。
これ着て、あの空、とんでたんだ」
恵は、両手でそっとスーツの袖をつかんで、顔にすり寄せた。
「……いいにおい……おとーたんのにおいする……」
その小さな声に、雪の目の奥が熱くなる。
「……それとね、ほら、これ」
最後に、木製のスキー板を一本、そっと立てかけた。
白地に黒のラインが入った、層一モデルの板。
恵は、その長さに驚いて、思わず後ろにのけぞった。
「なが〜〜〜い! めぐの、よりずっとながい〜!」
「大人の板は、こんなに長いんだよ。
お父さんは、これに乗って空を飛んでたんだわ」
恵は、そのスキー板の上に、そっと手をのせて言った。
「……めぐ、これでとびたい。
……おとーたんみたいに、とびたいの」
「……もうちょっとおっきくなったら、きっとね。
お父さんも、めぐがこの板にのってとぶとこ、見たがってるべさ」
〈雪・モノローグ〉
――そうちゃん、ちゃんと届いてるよ。
この子、あんたのジャンプ、ちゃんと受け取ってる。
まだ小さい手だけど、その手で、あんたの夢をつかもうとしてるんだわ。
昼休み。園庭のすみには雪がこんもり。
子どもたちは真新しいスノーウェアに身を包み、雪玉を投げ合って遊んでいる。
そんな中、雪にまみれた手袋をぱたぱたさせながら、恵が先生のもとに駆け寄ってくる。
「せんせいっ! ゆうべね、すっごいの、みたの!」
「また何かあったの、恵ちゃん?」
「おとーたんのトロフィーと、スーツと、スキー!
おかあさんが、みせてくれたの! きんぴかの、トロフィーだよ!」
頬を赤く染めながら話すその横に、いつの間にか門別光希が立っていた。
「ぼくも、ジャンプっての、やってみたいな……」
恵がぱっと顔を上げる。
「えっ、ほんと? いっしょにとぼうよ、こうきくん!
めぐ、こないだ、ちっちゃいジャンプでとんだの! ぜんぜんこわくないの!」
光希は少しだけ照れくさそうに、でもしっかりとうなずく。
「うん。めぐちゃんといっしょなら……やってみたい」
「やったぁ〜! おとーたんも、そらからみてるかも!」
2人は手袋をぶつけ合って、笑い合った。
白い雪の中で、子どもたちの声が澄んだ空へ舞い上がっていく。
〈先生のモノローグ〉
――小さな背中が、夢に向かって動き出してる。
寒い冬なのに、不思議と心がぽかぽかするのは、子どもたちの力かな。
やがて迎えた、クリスマスの夜
夜、薪ストーブの火が、ぱちぱちと静かに弾けていた。
大雪山から吹き下ろす風は冷たかったけれど、母屋の離れのリビングは、ぬくぬくと温かかった。
ツリーの下には、小さなプレゼントの包みと、雪が作ったクッキーの香り。
「めぐ、プレゼントのまえにね、ちょっとだけ……いいもん、見せてあげるわ」
「いいもん〜?」
恵が目を丸くすると、雪はテレビのリモコンを取り出して、録画リストを開いた。
そこには、**「2022年 北京五輪 ジャンプ・男子団体」「ジャンプ個人金 喜多見海斗」**の文字が並んでいる。
「おかあさんね、ぜったい消さないでって思って、録っといたんだ。
ほら、これ――かいとおじさんのジャンプよ」
画面に映し出されるのは、世界中が注目するなか、深く構え、踏み切り、空へ飛び立つ一人の男。
風を切って、まっすぐ、美しく――氷の空を飛ぶ喜多見海斗のジャンプ。
「……おお〜……」
恵はじっと画面にくぎづけになっていた。
あっという間に着地の瞬間。スキー板が雪をかすめ、観客の歓声と実況の声が重なる。
「すご……い……これ、ほんとに、かいとおじたん?」
「そうよ。かいとおじさんがね、金メダルをもらったジャンプ」
「おとーたんと、ともだちだったの?」
「そう。おとうさんと、同じチームでも飛んでたんだよ。それでね……」
今度は男子団体の録画を再生する。
そのなかに、層一のかつての姿もチラッと映っていた。
「このときの団体には、そうちゃんはいなかったけどね……でも、かいとも、よこちゃんも、みんなおとうさんと飛んできた仲間なの」
恵は小さくうなずいて、またじっと映像に見入っていた。
遠くで降る雪の音だけが、静かに夜を包んでいた。
「……めぐね、
おとーたんと、かいとおじたんと、おんなじチームで、とびたい……」
そう小さな声でぽつりと呟いた恵の表情は、いつになく真剣だった。
雪は、そっと恵の頭を撫でた。
「……きっとね、空の上でそうちゃん、びっくりして笑ってるよ。
“めぐも飛ぶのか〜”ってさ」
「ふふっ……。めぐ、がんばるの」
クリスマスの夜。
星空の下、亡き父と、空を飛ぶ仲間たちの姿に、幼い憧れの灯がともった。
クリスマスプレゼントとスノーグローブ
画面の中では、まだジャンプ台の頂上に立つ選手が映っていたけれど、雪はそっとテレビを止めた。
「……さぁて、めぐ。クリスマスといえば、忘れちゃいけないもんが、もうひとつあるんでないかい?」
「ぷれぜんと!」
恵が両手を挙げて笑うと、雪はこたつの下から、小さな包みを取り出して、ぽんと膝の上に置いた。
「はい、サンタさんからだよ。開けてごらん」
「やった〜! ……これ、めぐの?」
ごそごそと丁寧に包装紙を開けていくと、中から出てきたのは、
小さな手にぴったり合う、真新しいスノーグローブ。
左の手の甲には、雪の結晶の刺繍。右手には小さく「MEGU」のネームが入っていた。
「……これ……めぐの、ジャンプの?」
「そうさ。あったかいだけじゃなくて、飛ぶ時にも使えるやつだよ。
雪の日でも風の日でも、めぐの手、守ってくれるようにって」
恵は、もぞもぞと両手を通してみた。ぴったり。
「……おとーたんも、つけてた?」
「お父さんのは、もっと大人用だったけど……
その手袋つけて、めぐが飛ぶとき、お父さんがそばにいてくれる気がするべさ」
「ん……めぐ、がんばる……。
これつけて、とぶ! かいとおじたんみたいに!」
そう言って、恵は両手をぐっと空に向けて掲げた。
雪は、そんな恵の姿をじっと見つめて、胸の奥がきゅっと温かくなるのを感じていた。
「そうちゃん……
プレゼント、ちゃんと届いたよ。
……めぐ、あんたにそっくりだわ」
その翌朝――スノーグローブと、はじめての雪原
夜が明けて、窓の外は一面の銀世界。
屋根に積もった雪が朝日にきらめいている。
「おかあさん、みて〜! これ、つけてくよ!」
恵は、昨晩もらったばかりのスノーグローブを誇らしげに掲げた。
ジャンプスーツの上に、真新しい手袋がちょこんと似合っている。
「ほんと、ぴったりだね。あったかいかい?」
「ん! ぜんぜんさむくない!」
ジャンプ練習用の小さな台に向かって、雪の中をトコトコと歩く恵。
いつもの練習場所には、すでに海斗が来ていた。
「お、めぐ! サンタからいいのもらったな〜」
「かいとおじたん! めぐ、これつけて、いっしょにとぶ!」
海斗はくしゃっと笑って、軽く片手をあげた。
「よし、じゃあ今日は“金メダル仕様のめぐジャンプ”を見せてもらおうかな」
その少しあとには、寄子も姿を見せた。
彼女はジャンプ板を片手に、ニット帽を深くかぶっていた。
「お、今日も飛ぶ気満々だね〜。……あれ、その手袋、いいね」
「これね、ぷれぜんと! おとーたんといっしょの、てぶくろ!」
寄子は一瞬、目を細めてうなずいた。
「そっか……。じゃあ、お父さんも見てるね、空から」
⸻
小さなジャンプ、そして仲間
助走路の雪を整えながら、恵は小さく腕を振る。
「じゃ、いってきまーすっ!」
ごうっと風を切る音。踏み切り台でぴょんと跳ねると、小さな体がふわりと宙を舞った。
距離は短くても、誰よりも高く、誰よりも楽しそうに。
「ナイスジャンプ!」「きれいに飛べたな〜」
海斗と寄子が拍手を送る。
すると、斜面の下から誰かが駆け上がってくる。
「めぐちゃ〜ん! すごい!」
光希だった。耳まで赤くして息を弾ませている。
「めぐ、ほんとに空、飛んでた……!」
「こうきくん、めぐね、これでとんだの!」
恵は手袋を見せて、両手をパーに広げる。
「ぼくも、スキー、はじめたいな……。
めぐちゃんといっしょに、とびたい」
「いっしょにとぼ〜!」
2人の笑顔が、白い息といっしょに空に溶けていく。
⸻
夜、母屋にて――
お風呂に入り、温まった体でこたつに入ったあと、雪はそっと層一の遺影に向かって語りかけた。
「そうちゃん……
めぐ、ほんとに楽しそうだったよ。
光希くんと一緒に飛びたいんだって。
……そうちゃんのジャンプ、ちゃんとめぐの中で生きてる」
その夜も、恵はふかふかの布団に包まれて眠る。
雪は隣に布団を敷き、ランプの灯りを落として、そっと一息ついた。