上川と旭川のあいだで、笑いながら育つ
上川と旭川のあいだで、笑いながら育つ
オリンピックが終わったあとも、
時間だけは不思議なくらい普通に流れていった。
金メダルを取っても、
町の人に泣いて喜ばれても、
札幌でパレードをしても、
翌朝になれば、机の上には問題集が置いてある。
数学。
英語。
理科。
社会。
国語。
それらは、まるで恵がどこで何を成し遂げたのかなんて全然知らないみたいな顔をして、
同じようにそこに積み上がっていた。
カフェ「雪」の二階。
窓の外には、白い屋根と、朝のまだ細い光。
恵はシャーペンを持ったまま、ノートに額を近づけていた。
「……五輪の決勝より、こっちの方が風読めねぇべさ」
そのつぶやきに、下の階から雪の笑い声が上がる。
「受験にはウィンドファクターつかないからねー」
恵は、うぅ、と情けない声を出しながら顔を上げた。
「不公平だべ……」
でも、そこで机を離れはしない。
泣き言は言う。
文句も言う。
だけど、やることはやる。
それが、恵という人間だった。
⸻
1 受験の日々
朝は早い。
雪がまだ店の準備を始める前に起きて、
顔を洗って、ストーブの前で体を温めて、
眠気の残る頭のまま英単語帳を開く。
最初のうちは、金メダルの余韻がどこかに残っていた。
ニュース番組ではまだ自分の顔が流れるし、
「腹くくったべ」がやたらと切り取られて、
町のあちこちで「だべ」が増殖していた。
でも、受験勉強というものは容赦がない。
たとえば英語の長文一題を前にしただけで、
「世界で勝つ」だの「風を読む」だのという話は一度全部後ろに下がる。
目の前にあるのは、単語の意味。
文法の構造。
設問の意図。
恵は何度も気づいた。
(ああ、これも同じだべ)
ジャンプだって、
大きな夢を語る前に、
目の前の助走と踏切りと着地を揃えなければ勝てない。
受験も同じ。
「旭川東高校に行く」という大きな目標の前に、
いま目の前の一問を解かなければ前に進まない。
海斗はそれを、まるで最初から分かっていたみたいに言った。
「受験を甘く見るな。
集中力を、別の場所で鍛える時間だ」
練習場の帰り、薄暗い車の中でのことだった。
ハンドルを握る雪の横で、恵は参考書を膝に乗せていた。
「ジャンプの集中と、勉強の集中って、同じなんだべか」
そう聞くと、海斗は助手席で前を見たまま答えた。
「同じじゃない。だが、根っこは同じだ。
余計なことを切って、やるべきことに戻す。
お前の“無音の一秒”は、机の前でも使える」
寄子が後ろからすぐに補足する。
「不安になっても、焦っても、まず戻す。
“あー、受からなかったらどうしよう”って先のことに飛ばない。
“いま何をやるか”に戻す。めぐ、得意でしょ?」
恵は少しだけ考えて、頷いた。
「……得意、かもしれんべ」
コスキネンは、日本語と英語の真ん中みたいな口調で言う。
「Study also jump.
同じ fear(怖さ)、違う table(机)」
恵は吹き出した。
「なんだべ、その名言っぽいの」
寄子が笑う。
「でも本質だよ」
そうして、受験の日々は進んでいった。
朝に勉強して、
学校に行って、
帰ってきたら短い基礎トレーニングとストレッチ、
そのあとまた机に向かう。
五輪のあとに「休む」という発想は、
この家にはあまりなかった。
でも、それは苦しいだけではなかった。
雪は毎晩、机の横に温かいココアかスープを置いてくれた。
層一の遺影は、いつも棚の上から見ていた。
ときどき、その前に立って、恵は小さく言う。
「父ちゃん、受験も追い風にならねぇべかな」
もちろん返事はない。
でも、何となく、
“押すなよ”と言われた気がして、ひとりで笑う。
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2 博多の双子、受験期でも容赦なし
ただし、静かな時間ばかりではなかった。
夜、英語の長文を読んでいると、
机の端に置いたスマホが震える。
画面には、だいたい決まって二人の顔。
光子と優子。
博多の、あの賑やか双子姉妹だ。
接続した瞬間に音量が二倍になる。
「めぐーーー!!今なにしよると!?」
「受験勉強!?ほんとに!?めぐが!?」
恵は眉を寄せて言う。
「受験生にその第一声はひどいべさ」
光子が大げさに目を見開く。
「いや、だって、めぐって“風読んで飛ぶ人”やろ?
英語の長文とか読むタイプに見えんったい!」
優子がすぐにツッコむ。
「それ偏見たい!
……でも、まあ、わからんでもない」
恵はため息をつきながらも、少し笑う。
「うるせぇべ。
今、“however”が敵だべ」
光子が身を乗り出す。
「よし!うちらが教える!」
優子がすかさず言う。
「やめとけ。お前が教えたら“however=しかしながら知らんけど”になる」
恵は結局、笑ってしまう。
腹筋が揺れる。
さっきまでの緊張が少し溶ける。
そういう意味では、
双子の乱入は迷惑であり、
でも同時に、よく効く気分転換でもあった。
雪は下から声をかける。
「めぐー、笑いすぎて問題集閉じるなよー」
恵が言う。
「原因、あっちだべ!」
光子と優子は、画面の向こうで得意げだった。
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3 合格発表
合格発表の日の朝は、
変に静かだった。
いつもなら鳥の声がするとか、
隣の家の車の音がするとか、
何かしら生活の気配があるのに、
その日は全部が少し遅れているみたいだった。
雪も、妙に言葉数が少ない。
コーヒーを入れる手つきだけが、いつも通りだった。
「ブラックでいい?」
「いいべ」
「砂糖いる?」
「いらねぇべ」
それだけの会話。
恵も、心臓の音がうるさくて、
自分が何を考えているのかはっきりしなかった。
旭川へ向かう車の中で、
寄子は余計な励ましを言わなかった。
海斗も黙っていた。
コスキネンだけが、小さく言った。
「Breathe.
呼吸、だべ」
恵は、それにだけ笑った。
「なんでそこで“だべ”足すべ」
でも呼吸はした。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
掲示板の前に立ったとき、
周りの音が急に遠くなった。
受験番号を探す。
数字の列が、やけに長い。
一度見逃して、
もう一度戻って、
それで――あった。
自分の番号。
「……あった」
小さく言ったはずなのに、
雪がすぐ隣で泣きそうな声を出した。
「めぐ……!」
寄子が大きく息を吐く。
海斗が、ほんの少しだけ顎を引く。
コスキネンが真顔で言う。
「Good.
Now next work.」
恵は、そこでようやく笑った。
「合格した瞬間に“次の仕事”言うなって」
でも、それでよかった。
“おめでとう”だけで終わらない。
その先に進む前提の人たちが周りにいることが、
ものすごく心強かった。
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4 旭川東高校、そして二重生活の始まり
春。
制服が届いた。
鏡の前で着てみると、
なんだか自分が急に“普通の高校生”に見える。
でも、その普通さが嬉しかった。
旭川東高校は、
ジャンプの強豪であると同時に、
勉強にもきちんと向き合う学校だった。
初日、教室に入ったときの視線は、
さすがに少し集中した。
テレビで見た顔。
ニュースで見た顔。
でも本人は、ちゃんと制服を着て、
少し緊張して立っている。
「上川恵だべ。よろしく」
その一言で、
教室の空気が少し緩んだ。
「ほんとに“だべ”言うんだ」
「え、上川弁かわいい」
「テレビのまんまだ」
恵は、そういう反応に慣れているようで、
実はまだ少し照れる。
でも、学校生活が始まると、
“金メダリスト”の看板だけではやっていけないこともすぐに分かった。
授業。
提出物。
体育。
掃除。
友達付き合い。
その上で、
放課後には練習がある。
基礎と体幹トレーニングは、学校の体育館。
実戦ジャンプは、上川のジャンプ台。
つまり、
旭川と上川のあいだを、毎日行ったり来たりする生活だ。
最初は大変だった。
学校が終わって、体育館でトレーニング。
それから車で上川へ戻る。
台に立つころには、空の色が変わっている。
でも恵は、だんだんそのリズムに馴染んでいった。
朝は上川の空気で始まる。
昼は旭川の学校にいる。
夕方はまた上川の風に触れる。
二つの町のあいだに、自分の生活が橋みたいにかかっている。
そんな感じだった。
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5 三人のコーチ
コーチは、三人体制だった。
海斗。
寄子。
コスキネン。
海斗は、相変わらず短い。
風、助走、踏切り。
全部を“現象”として見る人。
寄子は、言葉にしてくれる。
今、心がどう動いているのか。
どこで力が入ったのか。
戻し方はどうか。
コスキネンは、その両方のあいだにいるような人だった。
「Strong. But too hard.」
「今日の上半身、まだ固い」
「骨盤先、胸あと」
「呼吸、深く」
彼女の日本語は、最初は単語の列だった。
でも、毎日一緒にいるうちに、
どんどん“生活の言葉”を覚えていった。
最初は「おはよう」だけ。
次に「寒い」「大丈夫」「もう一回」。
そこから、「いいっしょ」「そうだね」「だめだべ」と増えていく。
雪がカフェで笑った。
「コスキネンさん、もう半分道北の人だね」
コスキネンは真顔で答えた。
「半分じゃない。
ほぼ上川」
恵はコーヒーを吹きそうになる。
「どこで覚えたべ、それ!」
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6 カフェ雪の朝が“定番”になる
朝のルートは完全に定着した。
カフェ雪でコーヒーを飲む。
シャキッとする。
そのまま練習へ行く。
これが、上川組の“儀式”になった。
恵はブラック。
海斗もブラック。
寄子は日によってカフェラテ。
コスキネンも、気づけばブラックに落ち着いた。
カップを持ち上げて一口飲んだあと、
コスキネンの背筋がすっと伸びる。
恵が言う。
「出た。“シャキッ”」
コスキネンは、覚えたての道北のリズムで返す。
「シャキッ、なるべ」
寄子が腹を押さえて笑う。
「その“なるべ”反則」
雪がカウンター越しに言う。
「いいよいいよ、もう完全にうちの店の朝の人だ」
コスキネンは、少し照れたように、でも平然と答える。
「Coffee here.
Then jump.
Good life.」
恵は頷く。
「いい生活だべさ」
その“だべさ”が、
だんだんコスキネンにも移っていく。
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7 博多の双子、そして事故
そして、問題は夜だった。
博多の双子――光子と優子は、
なぜか人の生活が落ち着く時間帯を、
的確に嗅ぎつけてくる。
ストレッチ中。
風ログ整理中。
フォーム動画を見返している最中。
そんな時に限って、リモートが繋がる。
「めぐーー!!」
「今日、腹筋残っとるー!?」
恵は床に寝転んだまま言う。
「今から残らなくなる予感しかしねぇべ」
光子が言う。
「今日は特別講座たい。
『フィンランド人が博多ギャグを覚えたらどうなるか』」
優子がツッコむ。
「いやもう、結論見えとる。
めちゃくちゃになる」
最初の頃、コスキネンは意味が分かっていなかった。
でも、音の勢いと、
恵や雪や寄子が転げて笑う様子を見て、
“これは大事な文化だ”と判断したらしい。
彼女は、道北言葉と同じように、
博多の言い回しも少しずつ覚え始めた。
「なんしようと?」
「よかろうもん」
「そげん言わんでも」
「しよーもなか」
最初にそれを自然に口にした日のことを、
恵はしばらく忘れられなかった。
ストレッチで股関節を伸ばしていて、
恵が顔をしかめた。
「いてて……」
その瞬間、横で見ていたコスキネンが真顔で言った。
「めぐ、股関節がストライキ起こしとうと?」
一秒、誰も動かなかった。
次の瞬間、
寄子が吹き出して椅子から落ちそうになり、
雪がカウンターを叩き、
恵は床を転がった。
「なんでそんな自然なんだべ!!」
画面の向こうで、光子が立ち上がって叫ぶ。
「コスキネンさん、天才たい!!」
優子も手を叩く。
「うちら、弟子入りする!!」
コスキネンはきょとんとしていた。
「Good joke?」
恵が笑いすぎて息を整えながら言う。
「良すぎるべ……!」
そこから先は早かった。
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8 コスキネン、ボケもツッコミも覚える
三ヶ月も経つと、
コスキネンは普通に日常会話ができるようになっていた。
それだけじゃない。
道北言葉がうつる。
さらに、博多ギャグも入る。
ある夜。
光子がリモートで言った。
「めぐ、今日の練習どうやった?」
恵が真面目に答える。
「助走は悪くねぇべ。
でも踏切りが、まだ少し硬いべさ」
するとコスキネンが横からすっと入った。
「そげん硬かったら、風も困るばい」
恵が固まる。
「……今、自然に混ぜたべ!?」
優子が画面の向こうで大爆笑する。
「コスキネンさん、完全にわかっとる!」
今度は光子がわざと大げさにボケる。
「じゃあ次の試合では、踏切りの前に“めんたいこパワー”入れたらどうやろうか!」
一瞬の間。
コスキネンがすかさず言う。
「いや、めんたいこは入れたら塩分過多たい」
沈黙。
そして大爆笑。
恵は床に突っ伏す。
「もうやめれぇぇぇ!!
なんでそんな普通にツッコめるべ!!」
雪が涙を拭きながら笑う。
「博多と道北のハイブリッドできちゃった」
寄子が肩を震わせる。
「これは強い。競技的には何の意味もないけど強い」
海斗だけが額に手を当てて言った。
「明日のメニュー、増やす」
全員
「やめて!!」
コスキネンは、少しだけ口元を上げる。
「Laughing is also training.
笑うのも、トレーニングだべ」
恵はもう笑いすぎて反論できない。
(これ……腹筋、普通に鍛えられてるべな)
それがまた悔しい。
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9 変わること
そんな日々の中で、
恵の体は少しずつ変わっていった。
肩の幅。
腰の安定。
筋肉のつき方。
大人の体へ向かう、静かな変化。
でも、怖くなかった。
前なら、少しフォームが変わるだけで不安になった。
“今までできたことができなくなるかもしれない”と、
そればかり考えていた。
でも今は違う。
海斗が言う。
「変わる前提で組め」
寄子が言う。
「いまの成功体験にしがみつかない」
コスキネンが言う。
「Update. Not destroy.
更新する。壊すんじゃない」
恵は、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。
更新する。
それは、今までの自分を否定することじゃない。
今までの自分を持ったまま、次へ行くことだ。
風の中で勝つために。
大人の体でも、もっと長く飛ぶために。
自分を少しずつ変えていく。
それを、
カフェ雪のコーヒーと、
上川の風と、
旭川東高校の体育館と、
博多の爆笑ツインズと、
三人のコーチと一緒にやっていく。
こんな贅沢な更新作業は、
たぶん世界中探してもそうそうない。
夜、上川のジャンプ台の下で、
恵はひとり、鈴を鳴らした。
ちりん。
風が吹く。
冷たくて、でも優しい。
「……更新してるべさ」
自分に向かって言う。
誰に聞かせるでもなく。
その声は、小さかった。
でも、芯は強かった。
もう、金メダルを取った中学生ではない。
これからもっと強くなる高校生だ。
変わることを怖がらない。
笑うことをやめない。
そして、また飛ぶ。
上川と旭川のあいだで、
新しい恵は、そうやって育っていった。
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