未来を跳ぶ
◆
― 上川と旭川のあいだで、未来を跳ぶ ―
オリンピックが終わったあとも、
恵の時間だけは、どこか“平常運転”だった。
金メダルが三つ。
上川の凱旋。
札幌のパレード。
全国に広がった「だべ」。
でも、机の上に置かれた問題集は、
そんなことには一切興味がなかった。
数学。
英語。
理科。
社会。
国語。
恵は、ため息をついて、鉛筆を持ち直した。
「……五輪より、こっちの方が風読めねぇべさ」
雪がカフェの奥から笑う。
「受験はウィンドファクターつかないからね」
恵は机に突っ伏した。
「不公平だべ……」
でも、逃げなかった。
ジャンプでも、受験でも、
“やることをやる”しかないのは同じだったから。
◆ 受験勉強の日々 ― 勝負師は、机にも座る
朝はカフェ雪でコーヒー。
学校。
帰って勉強。
そして短い体幹メニュー。
五輪のあとも、体は鈍らせない。
でもこの時期は、ジャンプそのものより“土台を残す”ことが優先だった。
海斗コーチが言った。
「受験を甘く見るな。
今、お前が集中を学ぶ時間だ」
寄子コーチが補足する。
「ジャンプの無音の一秒って、結局“自分を戻す技術”でしょ。
勉強も同じだよ。焦りを戻す」
コスキネンも頷いた。
「Study is also jumping.
Same fear, different table.(勉強もジャンプ。怖さは同じで、机が違うだけ)」
恵は、英語のノートを閉じながら言った。
「……名言だべさ。
でも英単語は増えてくれねぇべ」
◆ 旭川東高校 ― 合格発表の日
三月。
風はまだ冷たい。
でも雪の匂いが少し変わっていた。
掲示板の前。
旭川東高校。
受験番号を探す、あの時間だけは、
どんなスタート台より心臓に悪かった。
「……あった」
自分の番号を見つけた瞬間、
恵は深く息を吐いた。
(合格したべ)
一拍遅れて、雪が両手で口を覆う。
目がもう潤んでいる。
「めぐ……!」
恵は照れくさそうに笑って、でもちゃんと言った。
「旭川東、受かったべさ」
雪が抱きしめる。
その少し後ろで、海斗が頷き、寄子が拍手し、コスキネンが真顔で言った。
「Good. Now more work.(よし。じゃあ、もっと仕事だね)」
恵
「合格直後の一言がそれだべか!」
でも、その言葉が妙に嬉しかった。
“おめでとう”だけじゃ終わらない。
それが、このチームだった。
◆ 新生活 ― 旭川東高校 × 上川ジャンプ台
高校生活が始まった。
旭川東高校。
ジャンプの強豪。
勉強も厳しい。
部活の熱も高い。
でも、恵の生活は少し特殊だった。
学校が終わるまでは旭川。
実戦のジャンプ練習は上川のジャンプ台。
基礎と体幹トレーニングは学校の体育館。
つまり、
二つの場所を行き来しながら、
二つの自分を同時に育てる毎日。
朝は旭川東へ。
授業が終わると、体育館で基礎メニュー。
股関節。背中。腹圧。バランス。
コスキネンの“しなやかさ”メニューが、じわじわ効く。
その後、車で上川へ戻り、ジャンプ台で実戦練習。
日が落ちたあと、
上川の空の下で助走に入る自分を見て、
恵は時々思った。
(うち、いま、二つの町に育てられてるべさ)
◆ 三人体制 ― コスキネン × 海斗 × 寄子
コーチは三人体制になった。
海斗:踏切り、風の読み、試合構成
寄子:メンタル、体の使い方の調整、言語化
コスキネン:しなやかさ、長く勝ち続けるための更新設計
この三人が、
それぞれ違う角度から恵を見てくる。
海斗
「踏切り、0.2秒早い」
寄子
「心が先に飛んでる。戻して」
コスキネン
「Strong. But too hard. More soft.(強い。でも硬い。もっと柔らかく)」
恵
「三方向から刺してくるべ……」
でも、その三方向があるから、
恵の飛びは細く、強く、そして“長持ちする形”になっていった。
◆ 博多の双子、定期的に乱入する
そして、忘れてはいけない。
この生活には、定期的に“爆笑災害”が発生する。
原因は、ほぼ毎回――
博多の双子、光子と優子。
夜。
ストレッチの途中。
体幹トレーニングの最中。
あるいはコスキネンが風ログを整理している時。
突然、リモート通話が入る。
光子
「めぐー!今なにしよる!?」
優子
「今日の腹筋、何割残っとる!?こっちは崩壊させる気満々たい!」
恵
「やめれって!今プランク中だべ!!」
光子
「プランク中!?じゃあちょうどよか!
題して『フィンランド人に博多ギャグ教えよう選手権』ー!!」
寄子
「最悪のタイミング」
海斗
「切れ」
雪
「でも、ちょっと見たい」
コスキネン
「I am ready.(準備できてる)」
恵
「なんでコスキネンさんまで前のめりだべ!?」
◆ コスキネン、博多ギャグを覚える
最初は、意味が分かっていなかった。
でもコスキネンは吸収が早い。
道北言葉も三ヶ月で覚えた人だ。
博多のテンポも、意外とすぐ身体に入った。
ある夜。
光子
「コスキネンさん、今日は“なんしようと?”って言ってみて!」
コスキネン(真顔)
「なんしようと?」
優子
「うわ、発音うますぎ!!」
恵
「なんでそこだけ完璧なんだべ!」
別の日。
光子
「次は“よかろうもん”たい!」
コスキネン
「よかろうもん」
雪
「似合う……!」
寄子
「いや、なんで似合うの」
海斗
「練習しろ」
でも一番ひどかったのは、
コスキネンが“ボケ”まで覚えた日だった。
恵が柔軟していて、股関節が痛そうに「いてて」と言った瞬間。
コスキネンが真顔で言った。
「めぐ、股関節が“ストライキ起こしとうと?”」
一瞬の静寂。
そして全員、爆発した。
恵
「な、なんでそんな自然に博多ボケ入れるべ!?!?」
光子
「コスキネンさん、天才たい!!」
優子
「もううちら、弟子入りした方がよかかもしれん!!」
寄子は涙を流して笑い、
雪はテーブルを叩いて笑い、
恵は本気で床に転がった。
「腹筋……腹筋終わるべ……!」
海斗だけが額を押さえて言った。
「……今日の体幹メニューは中止だな」
コスキネンは少し首を傾げて、静かに言った。
「Good core training. Laughing is strong.(いい体幹トレーニング。笑うのは強い)」
全員
「たしかに!!」
◆ 上川と旭川のあいだで、“次の恵”が育つ
勉強して、
体育館で基礎をやって、
上川の台で飛ぶ。
その合間に、
博多の双子が腹筋を壊しに来る。
普通なら、バラバラになる生活。
でも恵には、それがちょうど良かった。
張り詰めすぎない。
でも緩みすぎない。
笑いながら、研ぎ澄ます。
それが、恵の勝ち方だった。
ある夜、練習後のジャンプ台の下で、
恵は鈴を鳴らした。
ちりん。
空を見上げる。
(うち、更新してるべさ)
体は少しずつ大人になっていく。
でも怖くない。
変わることは、負けることじゃない。
変わることは――
次の勝ち方を覚えることだ。
海斗が後ろから言う。
「明日、フォームの最終確認するぞ」
寄子
「心の方もね」
コスキネン
「And coffee first.(そして、まずコーヒー)」
恵は笑った。
「んだ。カフェ雪でシャキッとしてからだべ」
風が、上川のジャンプ台をなでていく。
その音は、もうずっと“相棒”のままだった。
⸻
上川と旭川のあいだで ― 新しい飛び方
春の道北は、雪と光の境目みたいな季節だった。
まだ地面には白いものが残っているのに、
太陽の光はどこか柔らかい。
空気は冷たい。
けれど、冬の鋭さとは違う。
雪解けの匂いが混ざる。
そんな朝、恵はいつものように
**カフェ「雪」**のドアを押した。
ちりん。
鈴が鳴る。
店の中には、もうコーヒーの香りが広がっていた。
カウンターの向こうで、母の雪が振り向く。
「おはよう、めぐ」
恵は少し眠そうな顔で言った。
「おはよ……」
そして椅子に座る。
雪は慣れた手つきでカップを置いた。
「ブラック?」
恵はうなずく。
「ブラックだべ」
そこへ、もう一人入ってくる。
ドアが開く。
ちりん。
コスキネンだった。
長身の体を少し縮めるようにして入ってくる。
「おはようだべ」
恵は思わず笑う。
「まだ言うんだべ、それ」
コスキネンは真顔で言う。
「Important word.(大事な言葉)」
雪が笑いながらコーヒーを出す。
「はい、ブラック」
コスキネンは一口飲んだ。
そして、背筋が伸びる。
恵がそれを見て言う。
「出た。シャキッ」
寄子コーチがドアを開けて入ってくる。
「今日も儀式してるの?」
海斗コーチも続く。
腕を組んで言う。
「コーヒー終わったら台行くぞ」
恵が言う。
「わかってるべ」
コスキネンがうなずく。
「Coffee first. Then jump.」
雪が静かに言った。
「上川の朝は、これで始まるね」
⸻
旭川東高校
恵の生活は、この春から変わった。
旭川東高校
ジャンプの強豪。
勉強も厳しい。
金メダリストであっても、
学校ではただの一年生だった。
教室に入る。
クラスメイトがざわつく。
「え…あの…」
「テレビの…」
恵は少し困った顔で言う。
「上川恵だべ」
それだけで、場が少し和む。
一人の男子が言う。
「だべって、本当に言うんだ」
恵は笑った。
「言うべ」
教室が笑う。
その瞬間、恵は思った。
(あぁ…普通だ)
それが、少し嬉しかった。
⸻
体育館 ― 基礎トレーニング
放課後。
体育館。
ジャンプの基礎練習が始まる。
寄子が声をかける。
「股関節、ゆるめるよ」
恵がストレッチする。
コスキネンが後ろから見る。
「Too hard.」
海斗が言う。
「踏切り前の力抜け」
恵は息を吐く。
ジャンプは空中競技だ。
でも、
実は地上のトレーニングの方が多い。
体幹。
柔軟。
バランス。
ジャンプ台に立つのは一瞬。
でも、その一瞬を作るために
何百時間も積み上げる。
コスキネンが言う。
「Strong body break fast. Soft body last long.」
寄子が訳す。
「硬い体は壊れる。柔らかい体は長く勝つ」
恵は頷いた。
「更新するべ」
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上川ジャンプ台
夕方。
上川。
ジャンプ台の影が長い。
恵は助走路に立つ。
海斗が風を読む。
旗が揺れる。
「右から浅い」
寄子が言う。
「心落ち着かせて」
コスキネンが短く言う。
「Soft jump.」
恵は助走に入る。
スピードが上がる。
風が頬を叩く。
踏切。
体が浮く。
空。
静かな時間。
着地。
海斗が頷く。
「いい」
コスキネンが言う。
「Better」
恵は笑う。
「まだまだだべ」
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爆笑災害
夜。
ストレッチ中。
突然スマホが鳴る。
画面に現れる二人。
光子と優子。
光子
「めぐー!!」
優子
「体幹しよるー!?」
恵
「今プランク中だべ!」
光子
「よかタイミングたい!」
優子
「題して!」
二人同時
「フィンランド人に博多ギャグ教えよう選手権!!」
寄子
「また始まった」
海斗
「切れ」
雪
「ちょっと見たい」
コスキネン
「Ready.」
恵
「なんで準備万端なんだべ!!」
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博多ギャグ修行
光子
「コスキネンさん、“なんしようと?”言ってみて!」
コスキネン
「なんしようと?」
優子
「完璧!!」
恵
「早いべ!!」
次。
光子
「“よかろうもん”たい!」
コスキネン
「よかろうもん」
寄子
「似合う…」
海斗
「練習しろ」
だが最悪だったのは、そのあと。
恵がストレッチで顔をしかめる。
「いてて…」
コスキネンが言う。
「めぐ、股関節ストライキ起こしとうと?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
爆笑。
恵
「なんでそんな自然に博多ボケ入れるべ!!」
光子
「コスキネンさん天才!」
優子
「うちら弟子入りする!」
寄子は涙を流して笑う。
雪はテーブルを叩く。
恵は床に転がる。
「腹筋…終わるべ…」
海斗だけが言った。
「今日の体幹中止」
コスキネンは真顔。
「Good core training.」
⸻
上川の夜
笑いが落ち着いたあと。
恵はジャンプ台の下に立つ。
空は静かだった。
鈴を鳴らす。
ちりん。
(更新してる)
体は大人になっていく。
でも、怖くない。
変わることは
弱くなることじゃない。
変わることは
新しい勝ち方を覚えること。
海斗が言う。
「明日、フォーム最終確認」
寄子
「メンタルもね」
コスキネン
「Coffee first.」
恵は笑った。
「んだ。シャキッしてからだべ」
風が吹く。
上川の夜の風。
それはずっと、
恵の背中を押していた。
⸻




