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恵の物語  作者: リンダ


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20/23

オリンピックへ

◆ シニア大会 ― “本番で強い”の証明


会場は、冬の張りつめた空気に包まれていた。

スタンドは満員。

代表選考にも関わる大事な一戦。


実況席が言う。


「今日の優勝候補は北欧勢とドイツ勢。

日本の上川恵も有力ですが――」


“ですが”のあとに含みを持たせる声。


恵は聞いていない。

聞く必要がない。


胸ポケットの鈴に、指を触れる。


ちりん。


(作法だけ。

勝ちは結果)


◆ 1本目 ― ヒルサイズに迫る


スタート台。

旗が揺れ、観客のざわめきが遠くなる。


無音の一秒。


バーを押す。


カラン。


助走がまっすぐ伸びる。

踏切りは薄く、静か。

空中で余計な動きがない。


観客が息を呑む。


距離表示が近づく。

ヒルサイズのラインが迫る。


HS目前。


着地――スッ。


完璧なテレマーク。

飛型点が高く並ぶ。


掲示板が光る。


「ヒルサイズにあとわずか!

飛型点もトップ!」


会場がどよめく。

2位に大きな差がついた。


海斗コーチが静かに言う。


「押してない。いい」


寄子コーチが微笑む。


「静かすぎる」


恵は表情を変えない。


(一本目。まだ半分だべ)


◆ 2本目 ― “勝ちに行かない強さ”


2本目。

他の選手は、1本目の距離を見て焦る。


押す。

空で動く。

着地が流れる。


恵は違う。


スタート台に座り、

もう一度、白風の礼。


無音の一秒。


(父ちゃん。母ちゃん。

見てるなら、ちゃんと見てて)


バーを押す。


助走。

踏切り――薄い。

空中――一本。

風が触るが、動かない。


谷が来る。


膝の待ち、半拍。

さらに半拍。


スッ。


観客が立ち上がる。


距離は再びヒルサイズに迫る。

飛型点はさらに高い。


実況が叫ぶ。


「圧巻です!

上川恵、他を寄せ付けません!」


最終順位が確定する。


第1位 上川 恵

2位に大差。


◆ 表彰台 ― “本番で強い”


メダルをかけられた恵は、深く息を吐いた。


(ここぞってときに強い……か)


母の夢の話は知らない。

でも、なぜか心の奥が静かだった。


鈴をそっと鳴らす。


ちりん。


(本番、やれたべさ)


海斗コーチが言う。


「今日は“勝った”じゃない。

“差を作った”」


寄子コーチが続ける。


「勝ちたいを出さずに勝つ。

それが一番強い」


スタンドでは、雪が静かに涙を拭いていた。

隣には祖父母。

皆、黙ってうなずいている。


雪の心に、夢の宗一の声がよみがえる。


――恵はここぞってときに強いんだべ。

――本番でも必ずやってくれる。


雪は小さく笑った。


「うん。ほんとだね」


◆ そして、オリンピックへ


この勝利で、代表選考は一気に現実味を帯びる。

ポイントは十分。

実績もある。


でも恵は浮かれない。


ノートに書く。


HS目前=次は超える


差を作る飛び=継続


本番で静か=維持


最後に一行。


「2038 リレハンメル」


ペンを置き、鈴を鳴らす。


ちりん。


(次は、本当に“父ちゃんの台”だべさ)


風はもう、恵を試す存在ではない。

一緒に飛ぶ相棒になっていた。




◆ 夢の中 ― 層一そういち


白馬の夜のあと、

雪が見た夢に現れたのは――層一だった。


静かな空の下、

やわらかな風の中で、層一は立っていた。

あの頃と同じ、少し照れた笑顔で。


雪が呼ぶ。


「……そうちゃん」


層一はうなずいて、やさしく微笑んだ。


「見てたよ。白馬のジャンプ」


その声は、あたたかくて、揺るがない。


「恵はな、ここぞってときに強いんだべ」


雪の胸が、きゅっと締まる。


層一は続ける。


「怖さがなくなるわけじゃない。

怖さを連れて、それでも飛べる。

あの子は、そういう子だ」


そして、はっきり言った。


「本番でも、必ずやってくれる」


雪が不安をにじませて聞く。


「……本当に?」


層一は、少しだけ笑って答える。


「本当だべ」


そして、あの一言。


「だって――

俺と雪の子供だべ?」


その言葉に、雪の不安はほどけた。


目が覚めたとき、

胸の奥にあったざわつきは、消えていた。


白馬のワールドカップ優勝も、

ドイツでの2連勝も、

そしてシニア大会での大差優勝も――


層一の言葉の通りだった。


恵は、本番で強い。


そしていよいよ、

2038年リレハンメルへ向かう



◆ 12月 カルガリーW杯ノーマルヒル

― 追い風2.0m、逆境で“105m→106m”を揃える日


空が高い。乾いた冷気が肺の奥まで刺さる。

カルガリーのジャンプ台は、白い器みたいに静かに光っていた。


電光掲示板に、風の数字が出る。


TAILWIND 2.0 m/s(追い風)


観客席がざわめいた。追い風は不利。

背中から下へ押される力が働いて、浮力が減る。

つまり――落ちやすい。伸びにくい。


実況アナ

「さあ、女子ワールドカップ、カルガリー! 追い風2.0メートル。これは難しい条件です!」


解説

「ええ。追い風は空気が“支えてくれない”。浮きにくいし、滞空が短くなる。ここで距離を出すには、踏切りの精度と空中姿勢の“静かさ”が要ります」


カメラがスタート台へ寄る。

バーに座る恵の横顔。ヘルメットの顎紐がきゅっと締まる。

胸ポケットの鈴に、指が触れる。


ちりん。


(追い風か……いいべ。条件は同じだべさ)

(勝ちに行かない。現象を出すだけだべ)


◆ 1本目 ― 105m(追い風2.0mで、異常値)


審判の青信号。

恵は白風の礼――無音の一秒。


実況アナ

「上川 恵! スタートします!」


カラン――バーの音。

助走が走り出す。雪が弦みたいに鳴る。


解説

「助走フォームがもう安定してます。上体が揺れない。追い風の時は特に“踏切りで押したくなる”んですが、彼女は押さない」


踏切り――


実況アナ

「行ったぁっ!!」


その瞬間、追い風が背中を押し下げようとする。

普通なら、板先が落ちて、沈む。


でも恵は――立てない。動かない。

板が空気を“切る”角度を保ったまま、体幹一本で前へ抜ける。


解説

「うまい! 追い風に対して無理に角度を立てない! これやると失速して落ちるんです。彼女は“前へ抜ける”選択をしました」


カメラが横から追う。

恵の姿勢が、ほとんど変わらない。

風が触っても、揺れない。

空中に“余計な音”がない。


実況アナ

「おお……落ちない! 落ちない!」


着地の谷が迫る。

膝の“待ち”――半拍、もう半拍。


スッ。


完璧なテレマーク。雪煙が小さく舞う。


実況アナ

「決めたぁぁぁ! テレマーク!!」


電光掲示板が点く。


105.0 m


会場が一瞬、無音になって――爆発した。


解説

「追い風2メートルで105メートルは、とんでもないです。条件的に距離が落ちるはずなのに、踏切りで“速度を距離に変換”してる。空中で動かないから失速が少ない」


実況アナ

「そして風補正ウィンドファクターも加点されます! 不利な追い風の中でのこの距離! これは大きい!」


表示が切り替わる。


LEADER – KAMIKAWA MEGUMI

2位との差が、いきなり“数字で見える”。


恵はヘルメットを胸に抱えて、息を吐く。


(一本目で浮かれるな。

まぐれって言われたら、二本目で消すべさ)


◆ 2本目 ― 106m(“証明”の一本)


風表示はまた出る。


TAILWIND 2.1 m/s


実況アナ

「追い風、さらに強くなりました! 2.1メートル! さあ2本目、上川はどうする!」


解説

「ここで怖いのが“欲”です。一本目が良いと、踏切りで取りに行ってしまう。追い風でそれをやると、即、沈む。彼女が同じ作法でいけるか」


恵はスタート台に座る。

観客の歓声は遠い。旗の金具の音だけが聞こえる。


白風の礼――無音の一秒。


(勝ちたいは後ろ。作法は前)

(追い風? なら“静かさ”で勝つべさ)


青信号。


カラン。


助走。

速度が乗る。

踏切り――薄い。押さない。

足裏が台の最後を“刈る”みたいに、柔らかく離れる。


実況アナ

「踏切り、完璧だ! きれいに飛び出した!」


空中。

追い風がまた背中を押す。

でも恵の体幹は一本。板がぶれない。

空気の抵抗が最小になる“静けさ”のまま、前へ前へ伸びる。


解説

「見てください、上半身が動かない。板の角度も一定。追い風の中で“ぶれない”っていうのは、体幹とメンタルが揃ってないと無理です。これ、世界トップの飛びです」


実況アナ

「おおっと、ラインが迫る! まだ伸びる! まだ――!」


着地の谷。

膝の待ち――半拍、さらに半拍。


スッ。


また決めた。雪が軽く跳ねて、恵のテレマークが一本の線になる。


実況アナ

「テレマーク! 2本ともテレマーク!!」


電光掲示板。


106.0 m


会場がもう一度、割れるように湧く。

歓声が雪面を走って、スタート台まで戻ってくる。


解説

「追い風2メートル超で106メートル……これは“偶然”じゃない。

条件が厳しいほど、技術差が出るんです。上川はその差を“静かさ”で作りました」


実況アナ

「さあ得点! 風補正も入って――大きい! 大きい差です!」


表示が確定する。


WINNER – KAMIKAWA MEGUMI

2位以下に、決定的な差。


実況アナ

「カルガリー、完全制圧! 上川 恵、優勝!!」


解説

「これで“国内だから”とか“たまたま”とか、言えないですよ。

追い風という不利条件で、距離と飛型点を両方取って、さらに風補正も味方にした。世界で勝つ飛びです」


恵はゆっくり息を吐いて、胸ポケットの鈴をそっと鳴らす。


ちりん。


(リレハンメルの空に続く……か)

(うん。続くべさ。うちは、そこへ行く)


◆ 放送締め(実況・解説の“余韻”)


実況アナ

「ワールドカップ10戦で、優勝5回・2位3回・3位2回。表彰台100%。

まさに“本番で強い”選手――上川 恵!」


解説

「大舞台で“同じ作法”を出せる選手が、最後に勝ちます。

彼女は今、それができる。次はオリンピックですね」


カメラが恵の表情を抜く。

笑っている。

でも目は、笑っていない。

勝負師の目だ。


(次は、リレハンメルだべ)


◆ 2038 リレハンメル五輪 ― 全部行くべさ


カルガリーの追い風で「105m→106m」を揃えた夜から、流れは止まらなかった。

ワールドカップの表彰台を“当たり前”にしていくほど、ポイントランキングの数字は固くなっていく。


そして――発表の日。


◆ 五輪代表決定 ― 上川駅前カフェ「雪」、一瞬だけ無音


上川駅前。カフェ「雪」。

昼のピークが一段落したタイミングで、ゆきのスマホが震えた。


【女子代表 内定:上川 恵】


雪は、言葉が出なかった。

エスプレッソマシンの音も、食器の音も、急に遠くなる。


裏の小さな休憩スペース。

雪はバッグから遺影を取り出し、机の上にそっと置いた。


「……そうちゃん」


声は小さい。でも、強かった。


「決まったよ。恵、五輪行くよ」


遺影の層一は笑っている。

雪は、泣かない。代わりに、息を深く吸った。


「ここまで来た。ここからは――本番だね」


店の表に戻ると、常連さんが気づいて拍手をした。

「雪さん、恵ちゃんだべ?」「おめでとう!」


雪は笑って、いつものトーンで返した。


「ありがとうございます。

……でもね、うちはまだ“おめでとう”は半分だけ。

残り半分は、リレハンメルで取ってくるから」


◆ リレハンメル現地入り ― 空気が違う。風が違う。


機内の窓から見える北欧の白は、北海道よりもさらに“硬い白”だった。

雪と海斗コーチ、寄子コーチが現地入りし、先に会場を見に行く。


ジャンプ台は、線が美しい。

空に向かって真っ直ぐ伸びる輪郭が、恵を試す形をしている。


海斗コーチが言う。


「ここは“押したら負ける”。風がそれを全部教える」


寄子コーチが頷く。


「恵はね、もう大丈夫。

でも“五輪の空気”は別物。

だから、前日は“静かに慣れる日”にする」


雪はフェンス越しにジャンプ台を見上げて、鈴の音を思い出す。


(白風の礼。無音の一秒。――あれは、この場所のために育てた作法だ)


◆ 応援団、到着 ― 北京の“あの戦い”を知る人たち


翌日、恵の到着に合わせるように、空港ロビーが少し騒がしくなった。

人波の中に、海斗コーチが一瞬だけ表情を変える。


「……来たな」


そこにいたのは、かつて北京で海斗コーチと“優勝を争ったメンバー”。

選手だった人、コーチだった人、サポートに回った人。

みんな年を重ね、立場は変わった。

でも、目の奥の火だけは、あの頃と同じだった。


一人が海斗に手を差し出す。


「久しぶり。

お前が“次の世代”で勝負してるって聞いて、いてもたってもいられなくてね」


海斗コーチは短く笑う。


「来るなら、もっと早く言え。

……だが、助かる」


寄子コーチが空気を和らげるように言う。


「心強いです。

五輪って、技術だけじゃなくて“空気”も戦うから」


雪は静かに頭を下げた。


「ありがとうございます。

恵の母です。――よろしくお願いします」


相手は柔らかく笑った。


「こちらこそ。

あの子、飛び方が“静かで強い”ね。

あの静けさは、才能だけじゃ作れない」


雪は胸の奥で、層一の声を思い出す。


――恵はここぞってときに強いんだべ。


◆ 初戦ノーマルヒル前日 ― “静けさの仕込み日”


夕方。会場の公式練習は軽め。

恵は飛ばない。

飛ぶのは明日だ。今日は“整える”。


宿の部屋で、恵は窓の外の旗を見ていた。

リレハンメルの旗は、揺れ方が違う。

一定に見えて、突然だけ“返す”。

それがいやらしい。


そこへノック。


「めぐ、入るよ」


雪が入ってくる。

後ろに海斗コーチ、寄子コーチ。

そして廊下に、北京の“あのメンバー”の影が見えた。


恵は立ち上がって、深く礼をした。


「……来てくれたんだべか」


雪が笑う。


「来るに決まってるしょ。

母ちゃん、先に“半分のおめでとう”しか言ってないべ」


恵は照れくさそうに鼻で笑った。


「残り半分、明日から取りに行くべさ」


◆ 海斗コーチの確認 ― 「明日やること、ひとつだけ」


海斗コーチが椅子に座る。

声が低く、短い。


「ノーマルヒル。明日やることはひとつ」


恵が頷く。


「作法だべ」


海斗は指を一本立てる。


「そう。

“勝ちたい”は後ろに置け。

“勝つ飛び”は前に出せ」


恵は鈴を握って、ちりん、と鳴らす。


「戻す道具」


海斗が頷く。


「戻せ。

五輪は、心が前に出ると踏切りが1ミリ押す。

その1ミリで終わる」


◆ 寄子コーチの言葉 ― 「明日は“人の空気”も来る」


寄子コーチは、柔らかい声で、でも核心を刺す。


「恵。明日はね、風だけじゃなくて、

“人の空気”がいっぱい来るよ」


恵が目を細める。


「人の空気……?」


「歓声、期待、雑音、記者、SNS、ランキング――

全部が追い風みたいに見えて、実は“追い風じゃない”」


恵は小さく笑った。


「追い風は下に押すべ。

空気も同じだべな」


寄子コーチが微笑む。


「そう。

下へ押されそうになったら、どうする?」


恵は即答する。


「角度立てない。動かない。前へ抜ける」


「完璧」


◆ 北京の“あのメンバー”が言う ― 「勝負は、一本目の“顔”で決まる」


そこへ、北京組の一人が言った。

声は落ち着いていて、経験の重みがある。


「明日の一本目。

スタート台で“どういう顔をしてるか”で、勝負の半分が決まる」


恵はまっすぐ見る。


「どんな顔がいいべ?」


相手は少し笑った。


「怖くない顔じゃない。

勝ちたい顔でもない。

“いつもの仕事”の顔だ」


恵は、ふっと笑う。


「相棒課の出勤顔だべさ」


部屋が一瞬、和む。

雪が吹き出した。


「それそれ。めぐ、その顔」


恵は照れて、肩をすくめた。


「……笑うなって」


◆ 夜 ― 雪が層一に“前日報告”


みんなが部屋を出たあと。

雪は廊下の静かな窓際で、バッグから遺影を取り出した。


「そうちゃん。明日、ノーマルヒルだよ」


窓の外で旗が小さく鳴る。


「恵、いい顔してた。

怖さはいる。でも押されない。

“前へ抜ける”って言ってた」


雪は遺影に微笑んだ。


「……あなたの子だね」


遺影の層一は、何も言わない。

でも雪は返事を聞いた気がして、頷いた。


◆ 恵の夜 ― “白風の礼”、五輪前夜版


恵はベッドの端に座り、ノートを開いた。

書くことは多くない。増やさない。削る。


無音の一秒:深く


踏切り:薄く


空:動かない


膝:半拍+半拍


鈴:戻す


最後に一行だけ。


「明日、作法」


ペンを置いて、鈴を鳴らす。


ちりん。


(父ちゃん。母ちゃん。海斗コーチ。寄子コーチ。

みんなの空気は、うちの背中を押すんじゃなく――

うちの“前”を照らすだけだべ)


窓の外で旗が鳴り、

リレハンメルの夜が、静かにページをめくった。

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