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恵の物語  作者: リンダ
2/9

父の背中

初冬の風が吹く週末、ジャンプ台の麓には地元の親子が集まり、スキージャンプ体験会が開かれていた。

 雪と恵、そして両家の祖父母たちも、防寒の上着を着込みながら、わくわくとした表情で集まっていた。


 恵は、ヘルメットにゴーグル、そしてジャンプスーツを身にまとい、小さなスキー板を履いて、コーチの手を借りながら練習用の小さなジャンプ台へと向かっていく。


「がんばれ〜、めぐみ〜!」


「しっかりつかまってね〜!」


 家族の声援に、恵はうん!と元気にうなずき、ニコッと笑った。


 ――そして、いよいよ自分の番。

 小さな踏切台の上で、真剣な顔で前を見つめる恵。


 深く息を吸い、コーチの合図で小さな足を滑らせ、斜面をすーっと降りて――


 ふわっ。


 ジャンプ台の先端を過ぎた瞬間、ほんの一瞬だが、空に浮いた。

 たとえ小さなジャンプでも、その浮遊感は間違いなく、空と風に触れる体験だった。


 無事に着地し、ブレーキをかけて止まった恵の顔には、満面の笑みが広がっていた。


 体験が終わったあと、雪はそっと恵の頬を手のひらで包んで尋ねた。


「……こわくなかったかい?」


 すると、恵はにこにこしながら首を振って言った。


「ううん、ぜ〜んぜんこわくなかった!

 ……ねぇ、お母さん、いまのわたし……お父さんみたいだった?」


 その言葉に、雪の胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられた。


 ――そうちゃん……聞いたかい?


〈雪・ナレーション〉

 めぐみの中に、あんたの思いがちゃんと生きてるよ。

 空を飛ぶって、どんな感じ?って、わたしにはわからなかったけど、

 今日、あの子がほんの一瞬だけ、空に浮かんだ時の顔……

 あれは、あんたがジャンプから帰ってきた日の、顔とおんなじだった。


「んだ……すっごく、お父さんみたいだったよ。

 あんたは、ほんとに……空、飛んだんだわ」


 雪の言葉に、恵は胸を張ってうん!とうなずき、冷たい風の中、もう一度空を見上げた。




それからというもの、恵はすっかりジャンプに夢中になっていった。

 毎週末のたびに、雪と一緒に町のジャンプ場に向かい、幼児用の小さなK点台から、真剣な眼差しで空を見つめ、飛んだ。


 雪は仕事の合間を縫って車を走らせ、祖父母たちも交代で送り迎えを手伝った。

 寒くなると、指先がかじかみ、ジャンプスーツの上からベンチコートを着てもまだ寒い日もあったが、恵の顔にはいつも笑顔があった。


 そんなある日、練習場に懐かしい姿が現れた。


「お〜い、めぐみ〜! おじさん来たぞ〜!」


「うわっ、海斗おじさんだ〜!!」


 金メダリスト・喜多見海斗が、ニット帽にダウンジャケット姿で、片手を大きく振りながらやってきた。

 そのすぐ後ろには、すらりと背の高い女性――名村寄子。

 かつて世界を舞台に飛んだ女子ジャンパーのエースだった。


「やぁ、恵ちゃん、はじめまして。寄子お姉ちゃんだよ。今日はね、ちょっとだけ遊びに来たの。」


「うわ〜、ほんとに? いいの?」


 目を輝かせる恵に、海斗がニヤッと笑って言った。


「ん〜、教えるっちゅうより、一緒に飛んで遊ぼうかな〜ってくらいよ。

 な、寄子?」


「うんうん。こっちのジャンプ台、なまら可愛いしね〜。でも、風のつかまえ方は本物と一緒だよ、恵ちゃん」


 それからの数時間、ジャンプ場は子どもたちの笑い声と、

 トップジャンパーたちの掛け声が響く、まるでお祭りのような空気に包まれた。


 海斗は、笑いながらも、恵の踏み切りのタイミングや姿勢をしっかりと見ていた。


「お〜し、いまだ、今が風の背中のっかるタイミングだぞ! いけっ、めぐみ!」


 ふわり。


 恵が飛んだ。


 小さな体が、空中で真っすぐに伸びるその一瞬。

 ほんのわずかだが、風に乗った――そんな瞬間だった。


 雪は、その様子を少し離れた場所から見つめていた。

 周囲の笑い声の中で、ひとり、心が静かに震えていた。


〈雪・ナレーション〉

――そうちゃん、恵がね……遊びながら、飛ぶようになったよ。

 風を怖がらず、空を追いかけるようになってきた。

 海斗も寄子ちゃんも、笑いながら教えてくれるから、あの子も、自然に空に向かっていけるんだべさ。

 ……これが、あんたが夢見てた未来なんだべか?

 きっと、そうだよね――



午後のジャンプ練習がひと段落し、恵が仲間たちとじゃれ合っているのを見ながら、

 雪、海斗、寄子の三人は、雪でできた観覧席の縁に腰を下ろしていた。

 冷たい風が頬をなでるが、太陽の光はどこか優しく、遠くの山並みは白くけぶっている。


 紙コップに注がれたあたたかい紅茶から、ふわりと湯気が立つ。


「……めぐみちゃん、ほんとにあいつにそっくりだな」


 海斗が、手袋越しに紙コップを包みながら、遠くのジャンプ台を見つめた。


「うん……顔もだけど、飛ぶ前のあの構え……層一とおんなじ癖なんだわ」

 雪も、そっと目を細める。


 寄子も微笑みながらうなずいた。


「ほんと。わたし初めて見たとき、ドキッとしたもん。え?層一?って思っちゃったくらい。

 でも、笑い方は雪ちゃんにそっくり」


「んだしょ? わたしに似たのはそこくらいかいな……」


 3人のあいだに、ふっと小さな笑いが生まれた。

 でも、それはあたたかく、少しだけ胸の奥がキュッとなるような、優しい笑いだった。


 海斗が、手をポケットに入れて、懐かしそうに言った。


「……あいつ、さ、最後の全道大会ん時、試合の前に言ったんだよな。

 『オレ、雪のために飛ぶんだ。めぐみに話してやれるようなジャンプ、するから』って」


「うそ……そんなこと、あの人……」


「言うわけないよな、雪ちゃんには。俺らにだけポロッとな。真面目で、頑固で、口ベタでさ……」


「でも、ほんとはすごく優しかったよね」

 寄子の声は少し震えていた。


 雪は、小さくうなずきながら、視線を空へ向けた。

 雲ひとつない空の青が、胸に沁みる。


「……あんときのジャンプ、今でも覚えてるよ。

 テレビで見てたの。めちゃくちゃ風が悪くて、みんな失敗してたのに、層一だけが……飛んだ」


「……あれは伝説だべ。風、読んだっていうより……風を味方につけたって感じだったもんな」


「……そうちゃん、風と話せたんだべかね……」


 雪がふとつぶやいたその言葉に、二人は静かにうなずいた。


 遠くのジャンプ台で、恵がもう一度助走を始めている。

 小さな体が、軽やかに滑り出す。


 踏切台の端、両脚がしなやかに伸びる――


 ふわり。


 ほんの一瞬だけど、空をつかんだ。


「……飛んだな」


 海斗が、かすれた声でつぶやいた。


「んだ。めぐみ、ちゃんと、飛んだわ」


 雪の瞳が、うっすらと潤む。けれど、それは悲しみじゃなかった。


〈雪・ナレーション〉

――そうちゃん……聞こえるかい?

 あなたのジャンプは、まだ終わってないよ。

 ちゃんと、ここに残ってる。

 空を見上げる子どもたちの中に――

 風を信じて踏み切る、その足元に――



陽が傾き始めた帰り道、町の端にあるカフェ雪の小さな看板が、夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。

 店の片付けを済ませ、恵と車に乗り込み、山道をゆっくり走って家へ向かう。


 ジャンプの練習で少し疲れたのか、後部座席で揺られながら、恵はしきりにあくびをしていた。


 家に着いて、灯りをつけ、雪は手慣れた手つきで晩ごはんの支度をする。

 今日の献立は、畑でとれたばかりのじゃがいもとにんじんを使ったけんちん汁、

 そして、鮭のちゃんちゃん焼きと、漬け物。

 恵も「おいし〜!」とぱくぱく食べて、空になったお茶碗を両手で差し出す。


「ごちそうさま〜!」


「んだんだ、よう食べたねぇ。ほら、お風呂沸いたよ」


 ゆっくりとお湯を張った湯船に、母娘で肩まで浸かる。


 外の風は冷たいけれど、家の中には蒸気が満ちて、ふたりの頬はほんのりと桜色に染まっていた。


 ぽちゃん、とお湯の音が静かに響く。


「……気持ちいいねぇ」


「……ん〜……」


 恵の目が、だんだん細くなっていく。


 雪は微笑んで、そっと声をかけた。


「眠たいかい?」


 すると、恵は湯の中で腕を伸ばして、甘えるように言った。


「……お母さん、だっこ〜」


「ん、いいよ。ほれ、こっちおいで」


 そっと胸に引き寄せると、恵は温もりに包まれて、ほっ……と小さく息をついた。

 そして、雪の肩に顔を埋めると、そのまま小さな寝息をたて始めた。


〈雪・モノローグ〉

――あんた、今日もたくさんがんばったね。

 ジャンプも、いっぱい飛んだし、お友だちとも遊んでたし……

 ほんと、えらいよ。


 雪は、湯からあがると、恵の体をやさしく拭いて、ふわふわのパジャマを着せる。

 髪の毛も丁寧にドライヤーで乾かして、湯冷めしないように毛布で包んでから、

 柔らかいふとんにそっと寝かせた。


「……おやすみ、めぐみ。いい夢みてね」


 電気を落とし、寝息のリズムを確認しながら、雪はリビングのちゃぶ台に座る。

 引き出しから一冊のノートを取り出し、ペンを手に取った。


〈雪・ナレーション〉

――2025年10月26日。くもり時々晴れ。

 めぐみ、ジャンプ、今日も頑張った。

 海斗と寄子ちゃんも来てくれて、嬉しそうだった。

 ……踏切のタイミング、うまくなってきた。

 そうちゃん、見ててくれたべか?


 恵が空を飛ぶたびに、わたしの胸ん中で、

 あんたのジャンプが、またひとつ甦る。


 あんたの夢は、終わってなかったんだね。


 ……おやすみ、そうちゃん。


ペンを置いた雪は、日記帳をそっと閉じると、立ち上がって、棚の上に飾られた層一の遺影の前へ歩み寄った。

 写真の中の彼は、変わらぬ笑顔で、静かに見つめ返してくる。


「……そうちゃん、今日も、めぐみ、いっぱいがんばったよ」


 雪はそっと、遺影の前に手を合わせる。

 その横には、今も変わらず飾られている、層一のジャンプ大会のトロフィー。

 幼い恵が、それを拭いてくれた日もあった。


「海斗も、寄子ちゃんも来てくれてさ……みんな、めぐみのジャンプ見て『そっくりだ』って言ってたの。

 そうちゃんの飛び方、そのまんまだって」


 ほんの少し、雪の目元が潤む。


「……あの子、お父さんのこと、誇りに思ってるよ。

 そして、ちゃんとお父さんの背中、追いかけてる。

 まだ小さいけど、もう風と話せる日も近いかもしれんね」


 ふっと、小さな笑みがこぼれた。


「……おやすみ、そうちゃん。また明日、今日のこと、めぐみと一緒に話すからね」


 そう言って、遺影に軽く頭を下げ、雪は寝室へ向かった。



 ふとんの中では、恵がすやすやと寝息を立てていた。

 今日はたくさん飛んで、たくさん笑って、たくさん疲れたのだろう。

 顔を布団にうずめて、安心しきった表情で眠っている。


 その横に、もう一組のふかふかの布団を敷く。


 ゆっくりと布団に身を沈めると、雪は静かに目を閉じた。

 暗い部屋には、かすかな風の音と、薪ストーブの木がはぜる音だけが響いている。


〈雪・モノローグ〉

――また明日も、がんばるね。

 あんたが残してくれたものを、ちゃんと守りながら――

 めぐみの笑顔と、お父さんの記憶を、繋いでいくよ。

 短い夏が終わって、もうすぐ冬が来る。

 でも、きっと大丈夫。この子となら、越えていける。


 そう思いながら、雪も静かに目を閉じた。

 道北の夜の静けさに包まれながら、母と娘、二つの布団にぬくもりが満ちていく。




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