父の背中
初冬の風が吹く週末、ジャンプ台の麓には地元の親子が集まり、スキージャンプ体験会が開かれていた。
雪と恵、そして両家の祖父母たちも、防寒の上着を着込みながら、わくわくとした表情で集まっていた。
恵は、ヘルメットにゴーグル、そしてジャンプスーツを身にまとい、小さなスキー板を履いて、コーチの手を借りながら練習用の小さなジャンプ台へと向かっていく。
「がんばれ〜、めぐみ〜!」
「しっかりつかまってね〜!」
家族の声援に、恵はうん!と元気にうなずき、ニコッと笑った。
――そして、いよいよ自分の番。
小さな踏切台の上で、真剣な顔で前を見つめる恵。
深く息を吸い、コーチの合図で小さな足を滑らせ、斜面をすーっと降りて――
ふわっ。
ジャンプ台の先端を過ぎた瞬間、ほんの一瞬だが、空に浮いた。
たとえ小さなジャンプでも、その浮遊感は間違いなく、空と風に触れる体験だった。
無事に着地し、ブレーキをかけて止まった恵の顔には、満面の笑みが広がっていた。
体験が終わったあと、雪はそっと恵の頬を手のひらで包んで尋ねた。
「……こわくなかったかい?」
すると、恵はにこにこしながら首を振って言った。
「ううん、ぜ〜んぜんこわくなかった!
……ねぇ、お母さん、いまのわたし……お父さんみたいだった?」
その言葉に、雪の胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられた。
――そうちゃん……聞いたかい?
〈雪・ナレーション〉
めぐみの中に、あんたの思いがちゃんと生きてるよ。
空を飛ぶって、どんな感じ?って、わたしにはわからなかったけど、
今日、あの子がほんの一瞬だけ、空に浮かんだ時の顔……
あれは、あんたがジャンプから帰ってきた日の、顔とおんなじだった。
「んだ……すっごく、お父さんみたいだったよ。
あんたは、ほんとに……空、飛んだんだわ」
雪の言葉に、恵は胸を張ってうん!とうなずき、冷たい風の中、もう一度空を見上げた。
それからというもの、恵はすっかりジャンプに夢中になっていった。
毎週末のたびに、雪と一緒に町のジャンプ場に向かい、幼児用の小さなK点台から、真剣な眼差しで空を見つめ、飛んだ。
雪は仕事の合間を縫って車を走らせ、祖父母たちも交代で送り迎えを手伝った。
寒くなると、指先がかじかみ、ジャンプスーツの上からベンチコートを着てもまだ寒い日もあったが、恵の顔にはいつも笑顔があった。
そんなある日、練習場に懐かしい姿が現れた。
「お〜い、めぐみ〜! おじさん来たぞ〜!」
「うわっ、海斗おじさんだ〜!!」
金メダリスト・喜多見海斗が、ニット帽にダウンジャケット姿で、片手を大きく振りながらやってきた。
そのすぐ後ろには、すらりと背の高い女性――名村寄子。
かつて世界を舞台に飛んだ女子ジャンパーのエースだった。
「やぁ、恵ちゃん、はじめまして。寄子お姉ちゃんだよ。今日はね、ちょっとだけ遊びに来たの。」
「うわ〜、ほんとに? いいの?」
目を輝かせる恵に、海斗がニヤッと笑って言った。
「ん〜、教えるっちゅうより、一緒に飛んで遊ぼうかな〜ってくらいよ。
な、寄子?」
「うんうん。こっちのジャンプ台、なまら可愛いしね〜。でも、風のつかまえ方は本物と一緒だよ、恵ちゃん」
それからの数時間、ジャンプ場は子どもたちの笑い声と、
トップジャンパーたちの掛け声が響く、まるでお祭りのような空気に包まれた。
海斗は、笑いながらも、恵の踏み切りのタイミングや姿勢をしっかりと見ていた。
「お〜し、いまだ、今が風の背中のっかるタイミングだぞ! いけっ、めぐみ!」
ふわり。
恵が飛んだ。
小さな体が、空中で真っすぐに伸びるその一瞬。
ほんのわずかだが、風に乗った――そんな瞬間だった。
雪は、その様子を少し離れた場所から見つめていた。
周囲の笑い声の中で、ひとり、心が静かに震えていた。
〈雪・ナレーション〉
――そうちゃん、恵がね……遊びながら、飛ぶようになったよ。
風を怖がらず、空を追いかけるようになってきた。
海斗も寄子ちゃんも、笑いながら教えてくれるから、あの子も、自然に空に向かっていけるんだべさ。
……これが、あんたが夢見てた未来なんだべか?
きっと、そうだよね――
午後のジャンプ練習がひと段落し、恵が仲間たちとじゃれ合っているのを見ながら、
雪、海斗、寄子の三人は、雪でできた観覧席の縁に腰を下ろしていた。
冷たい風が頬をなでるが、太陽の光はどこか優しく、遠くの山並みは白くけぶっている。
紙コップに注がれたあたたかい紅茶から、ふわりと湯気が立つ。
「……めぐみちゃん、ほんとにあいつにそっくりだな」
海斗が、手袋越しに紙コップを包みながら、遠くのジャンプ台を見つめた。
「うん……顔もだけど、飛ぶ前のあの構え……層一とおんなじ癖なんだわ」
雪も、そっと目を細める。
寄子も微笑みながらうなずいた。
「ほんと。わたし初めて見たとき、ドキッとしたもん。え?層一?って思っちゃったくらい。
でも、笑い方は雪ちゃんにそっくり」
「んだしょ? わたしに似たのはそこくらいかいな……」
3人のあいだに、ふっと小さな笑いが生まれた。
でも、それはあたたかく、少しだけ胸の奥がキュッとなるような、優しい笑いだった。
海斗が、手をポケットに入れて、懐かしそうに言った。
「……あいつ、さ、最後の全道大会ん時、試合の前に言ったんだよな。
『オレ、雪のために飛ぶんだ。めぐみに話してやれるようなジャンプ、するから』って」
「うそ……そんなこと、あの人……」
「言うわけないよな、雪ちゃんには。俺らにだけポロッとな。真面目で、頑固で、口ベタでさ……」
「でも、ほんとはすごく優しかったよね」
寄子の声は少し震えていた。
雪は、小さくうなずきながら、視線を空へ向けた。
雲ひとつない空の青が、胸に沁みる。
「……あんときのジャンプ、今でも覚えてるよ。
テレビで見てたの。めちゃくちゃ風が悪くて、みんな失敗してたのに、層一だけが……飛んだ」
「……あれは伝説だべ。風、読んだっていうより……風を味方につけたって感じだったもんな」
「……そうちゃん、風と話せたんだべかね……」
雪がふとつぶやいたその言葉に、二人は静かにうなずいた。
遠くのジャンプ台で、恵がもう一度助走を始めている。
小さな体が、軽やかに滑り出す。
踏切台の端、両脚がしなやかに伸びる――
ふわり。
ほんの一瞬だけど、空をつかんだ。
「……飛んだな」
海斗が、かすれた声でつぶやいた。
「んだ。めぐみ、ちゃんと、飛んだわ」
雪の瞳が、うっすらと潤む。けれど、それは悲しみじゃなかった。
〈雪・ナレーション〉
――そうちゃん……聞こえるかい?
あなたのジャンプは、まだ終わってないよ。
ちゃんと、ここに残ってる。
空を見上げる子どもたちの中に――
風を信じて踏み切る、その足元に――
陽が傾き始めた帰り道、町の端にあるカフェ雪の小さな看板が、夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。
店の片付けを済ませ、恵と車に乗り込み、山道をゆっくり走って家へ向かう。
ジャンプの練習で少し疲れたのか、後部座席で揺られながら、恵はしきりにあくびをしていた。
家に着いて、灯りをつけ、雪は手慣れた手つきで晩ごはんの支度をする。
今日の献立は、畑でとれたばかりのじゃがいもとにんじんを使ったけんちん汁、
そして、鮭のちゃんちゃん焼きと、漬け物。
恵も「おいし〜!」とぱくぱく食べて、空になったお茶碗を両手で差し出す。
「ごちそうさま〜!」
「んだんだ、よう食べたねぇ。ほら、お風呂沸いたよ」
ゆっくりとお湯を張った湯船に、母娘で肩まで浸かる。
外の風は冷たいけれど、家の中には蒸気が満ちて、ふたりの頬はほんのりと桜色に染まっていた。
ぽちゃん、とお湯の音が静かに響く。
「……気持ちいいねぇ」
「……ん〜……」
恵の目が、だんだん細くなっていく。
雪は微笑んで、そっと声をかけた。
「眠たいかい?」
すると、恵は湯の中で腕を伸ばして、甘えるように言った。
「……お母さん、だっこ〜」
「ん、いいよ。ほれ、こっちおいで」
そっと胸に引き寄せると、恵は温もりに包まれて、ほっ……と小さく息をついた。
そして、雪の肩に顔を埋めると、そのまま小さな寝息をたて始めた。
〈雪・モノローグ〉
――あんた、今日もたくさんがんばったね。
ジャンプも、いっぱい飛んだし、お友だちとも遊んでたし……
ほんと、えらいよ。
雪は、湯からあがると、恵の体をやさしく拭いて、ふわふわのパジャマを着せる。
髪の毛も丁寧にドライヤーで乾かして、湯冷めしないように毛布で包んでから、
柔らかいふとんにそっと寝かせた。
「……おやすみ、めぐみ。いい夢みてね」
電気を落とし、寝息のリズムを確認しながら、雪はリビングのちゃぶ台に座る。
引き出しから一冊のノートを取り出し、ペンを手に取った。
〈雪・ナレーション〉
――2025年10月26日。くもり時々晴れ。
めぐみ、ジャンプ、今日も頑張った。
海斗と寄子ちゃんも来てくれて、嬉しそうだった。
……踏切のタイミング、うまくなってきた。
そうちゃん、見ててくれたべか?
恵が空を飛ぶたびに、わたしの胸ん中で、
あんたのジャンプが、またひとつ甦る。
あんたの夢は、終わってなかったんだね。
……おやすみ、そうちゃん。
ペンを置いた雪は、日記帳をそっと閉じると、立ち上がって、棚の上に飾られた層一の遺影の前へ歩み寄った。
写真の中の彼は、変わらぬ笑顔で、静かに見つめ返してくる。
「……そうちゃん、今日も、めぐみ、いっぱいがんばったよ」
雪はそっと、遺影の前に手を合わせる。
その横には、今も変わらず飾られている、層一のジャンプ大会のトロフィー。
幼い恵が、それを拭いてくれた日もあった。
「海斗も、寄子ちゃんも来てくれてさ……みんな、めぐみのジャンプ見て『そっくりだ』って言ってたの。
そうちゃんの飛び方、そのまんまだって」
ほんの少し、雪の目元が潤む。
「……あの子、お父さんのこと、誇りに思ってるよ。
そして、ちゃんとお父さんの背中、追いかけてる。
まだ小さいけど、もう風と話せる日も近いかもしれんね」
ふっと、小さな笑みがこぼれた。
「……おやすみ、そうちゃん。また明日、今日のこと、めぐみと一緒に話すからね」
そう言って、遺影に軽く頭を下げ、雪は寝室へ向かった。
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ふとんの中では、恵がすやすやと寝息を立てていた。
今日はたくさん飛んで、たくさん笑って、たくさん疲れたのだろう。
顔を布団にうずめて、安心しきった表情で眠っている。
その横に、もう一組のふかふかの布団を敷く。
ゆっくりと布団に身を沈めると、雪は静かに目を閉じた。
暗い部屋には、かすかな風の音と、薪ストーブの木がはぜる音だけが響いている。
〈雪・モノローグ〉
――また明日も、がんばるね。
あんたが残してくれたものを、ちゃんと守りながら――
めぐみの笑顔と、お父さんの記憶を、繋いでいくよ。
短い夏が終わって、もうすぐ冬が来る。
でも、きっと大丈夫。この子となら、越えていける。
そう思いながら、雪も静かに目を閉じた。
道北の夜の静けさに包まれながら、母と娘、二つの布団にぬくもりが満ちていく。