シニア大会
◆ 2037年 ― 恵、シニアへ。「勝負の舞台」が変わる
カルガリーで掴んだ“これだ”は、消えなかった。
むしろ、帰国してからの恵は――静かに、確実に強くなっていった。
そして、年が進むにつれて“枠”が変わった。
ジュニアの大会だけじゃない。
恵はシニアの大会にも出られるようになり、そこから先はもう、ひとつしかない。
オリンピック出場権をかけた戦い。
勝てば夢が現実に近づく。
負ければ、時間が削られる。
恵は13歳、14歳のころの自分を思い出して、鼻で笑った。
(落ち込んでる暇なんて、ないべさ)
白風の礼。
無音の一秒。
鈴は“上げる”ためじゃなく、“戻す”ために鳴る。
恵は、世界仕様のまま、シニアの空へ入っていった。
◆ 2037年 ― 浮上の年、国内は“常にトップ”
2037年。
この年の恵は、最初から違った。
飛距離が伸びるだけじゃない。
飛型点が落ちない。
むしろ、強風の日ほど強い。
国内の大会では、飛距離も飛型も常にトップ。
誰かが“調子いい日”を作る間に、恵は“普通の日”を積み重ねた。
そしてその強さは、国内だけの話じゃなくなった。
ワールドカップ。
国際大会。
表彰台争いが“奇跡”じゃなく、いつもの仕事になっていく。
北欧勢のコーチが言う。
「あの日本の子は、風で崩れない」
解説が言う。
「静かすぎる。動かない。失速がない」
恵はただ、いつも通りにやっていた。
(勝ちに行かない。現象を出す)
◆ 2037年1月 ― 白馬。層一が最後に飛んだ台
そして迎えた、白馬のワールドカップ。
雪は日本の雪だ。
湿り気があって、空気が重い。
でも恵はもう、そこを“有利”とも思わなかった。
ここはただ――
父・層一が、生前最後に飛んだジャンプ台。
恵はスタートに向かう前、
バッグの中の遺影には触れなかった。
触れなくても、そこにいるのが分かったから。
胸ポケットの鈴を握る。
ちりん。
(父ちゃん。今日は、うちがここで勝つべ)
◆ 白馬・1本目 ― 風の中で“無音”
旗が揺れる。
追い風気味。タイミングが難しい。
周りの選手が、少し押し気味に踏む。
それでも距離は出るが、飛型が乱れる。
恵はスタート台で、白風の礼。
無音の一秒。
海斗コーチの声は短い。
「押すな。待て。作法だけ」
恵は頷く。
(勝ちたいは後ろ。作法は前)
バーを押す。
カラン。
助走――一直線。
踏切り――薄い。押さない。
空中――動かない。
風が触っても、恵は触り返さない。
谷が来る。
膝の待ち――半拍、もう半拍。
スッ。
飛型点が伸びる。
距離も出る。
トップに立つ。
観客のざわめきが、雪面を走った。
◆ 白馬・2本目 ― “勝ち”を取りに行かない
2本目。
ここで崩れる選手は多い。
「初優勝」が近づくほど、押してしまう。
でも恵は違った。
恵は、同じように座って、同じように息を整えて、
同じように無音の一秒。
(勝ちは結果。うちは、現象)
バーを押す。
雪が走る。
踏切りが薄く決まる。
空が静か。
着地――
スッ。
会場が爆発した。
「また完璧だ!」
「崩れない!」
「この子、何歳!?」
スコアが確定する。
ワールドカップ初優勝。
白馬で。
恵はヘルメットを抱えて、ほんの少しだけ天を仰いだ。
(父ちゃん。届いたべ)
◆ 雑音 ―「国内だから」「たまたま」「雪質が…」
優勝の夜、恵の耳にも入ってきた。
周りの雑音。
「白馬は日本だしね」
「国内の雪質が合っただけ」
「たまたま風が味方した」
「まぐれ」
恵は、うんざりするほど聞いたことがある言葉だった。
小学生のころ、怪我したあと、復帰したとき。
勝ち始めたとき。
でももう、恵は揺れなかった。
(雑音ってのは、風より軽い)
鈴を鳴らす。ちりん。
(戻れ。うちはうち)
◆ ドイツW杯 ― 2連勝。「実力で黙らせる」
次戦はヨーロッパ。
ドイツのワールドカップ。
空気が乾いて、風が鋭い。
白馬の雪とは別物。
――だからこそ、最高だった。
ここで勝てば、言い訳は消える。
「国内だから有利」は通じない。
恵はスタート台で一拍、無音。
(雑音、定時退社。残業なし)
バーを押す。
踏切りは薄い。
空は静か。
着地――スッ。
一本目でトップに立つ。
二本目。
風が変わる。
北欧勢が揺れる。
恵は揺れない。
同じ作法を、もう一度。
スッ。
電光掲示板が確定する。
優勝。
これで、2連勝。
会場がどよめく。
実況が言う。
「白馬がまぐれではないことを、完全に証明しました!」
恵はメダルを指で軽く弾いた。
チン。
(黙らせるのは、言葉じゃなく結果だべ)
◆ そして、戦いは“出場権”へ
2連勝はゴールじゃない。
むしろ、ここからが本題になる。
オリンピック出場権。
代表枠。
選考。
恵は知っている。
世界で勝てても、代表枠の戦いは別の強さがいる。
でも恵の目は、もう迷っていなかった。
(2038年、リレハンメル。
うちはそこへ行く。
父ちゃんが飛んだ台で、うちが戦う)
白風の礼。
無音の一秒。
鈴は戻す。
そして恵は、世界の表彰台の“常連”から、
オリンピックの本命へと変わっていった。
白馬の夜は、静かだった。
会場の熱はもう引いて、外は雪がやわらかく降っている。
ホテルの廊下の窓ガラスに、街灯の光がにじんで見えた。
恵が部屋でシャワーを浴びている間、
雪はロビーの隅の小さなソファに腰を下ろした。
バッグの中から、そっと――遺影を取り出す。
層一の笑顔は、いつもと同じ。
なのに今日は、胸の奥の何かがほどけて、息が深くなった。
雪は遺影を膝の上に置き、両手でそっと支えた。
まるで、会話の席を作るみたいに。
◆ 雪のささやき ―「そうちゃん、見た?」
「……そうちゃん」
声は小さかった。
でも、ちゃんと届くように話した。
「見た? 今日の恵」
窓の外で風が一度回って、
遠くで旗の金具がちん、と鳴った気がした。
雪は息を吐いて、笑った。
泣き笑いの、いちばん綺麗なところの笑い。
「優勝だよ。白馬で。
あなたが……最後に飛んだ台で」
言いながら、雪は遺影のガラスを指でなぞる。
ひんやりしている。
でも、その冷たさが今日は嫌じゃなかった。
「ねぇ、そうちゃん。
あの子、もう“勝つために押す”みたいな飛び方しないんだよ」
雪は目を細めた。
「無音の一秒、ちゃんと置いて。
風が変わっても慌てないで。
空で動かないで、着地まで“待てる”ようになった」
ふっと、少しだけ声が震えた。
「……怪我したときさ。
車いすで学校行って、笑って、でも夜に泣いて、
それでも毎日リハビリしてたの、わたし見てたじゃない」
遺影に話すのに、
雪はまるで隣に本人がいるみたいに、
言葉を選んで、ゆっくり続けた。
「今日の一本にはね、あの全部が入ってた。
飛べなかった日、悔しかった日、
それでも笑ってた日、勝負師の目になった日」
雪は一度、目を閉じた。
「……わたしね、今日、怖かった」
小さく告白して、笑う。
「“もし崩れたら”って怖さじゃないよ。
あの子が強くなりすぎて、
もう、わたしの手が届かないところへ行っちゃう気がして」
でも次の瞬間、雪の声はまっすぐになった。
「でもね。
届かなくなるなら、それはそれでいい。
だって――そこが、あの子の空だもんね」
窓の外の雪が、静かに落ちていく。
「そうちゃん。
あなたが飛んだ台で、恵が勝ったよ。
……これ、まぐれじゃない。ほんものだよ」
雪は遺影を少しだけ持ち上げた。
頭を下げるように、丁寧に。
「ありがとう。
見守ってくれて」
そして、少し照れたみたいに付け足す。
「……それとね。
今日の恵の飛び方、あなたに似てたよ。
“静かに強い”ところが」
その言葉を言った瞬間、
雪の目から、ようやく一粒だけ涙が落ちた。
「……あぁ、悔しいな。
本当は隣で、一緒に見たかったよ」
涙を拭って、雪は笑う。
「でも大丈夫。
あなたのぶんまで、わたしが見てる。
恵の風を、最後まで」
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
恵が戻ってくる。
雪は遺影をそっとバッグにしまい、
何もなかったように立ち上がった。
でも胸の中には、確かに残っていた。
――白馬の夜に、
「そうちゃん、恵が勝ったよ」と言えた温度が。
そして、次の戦いはもう始まっている。
◆ 夢の中 ― 層一
静かな場所だった。
白でも黒でもない、夜明け前みたいな色の空。
風だけが、やさしく流れている。
その中に、層一が立っていた。
昔と同じ服装で、
あの頃と変わらない、少し照れたような笑顔。
「……そうちゃん」
雪が名前を呼ぶと、
層一はゆっくりうなずいて、近づいてきた。
「見てたよ。白馬のジャンプ」
声は穏やかで、どこか誇らしげだった。
雪は胸の奥がいっぱいになって、
言葉がすぐに出てこなかった。
「……あの子、強くなったね」
そう言うと、層一は小さく笑った。
「最初から、そうだべ」
雪が驚いたように顔を上げる。
層一は、空を見上げるみたいに少し視線を外してから、
ゆっくり言った。
「恵はな、ここぞってときに強いんだべ」
その言い方が、あまりにも“父親”で、
雪は思わず息を詰めた。
「怖さが消えるんじゃない。
怖さを連れて、ちゃんと飛べる」
層一は、指で胸のあたりを軽く叩く。
「本番でも、必ずやってくれる。
世界でも、オリンピックでもだ」
雪の目に、涙が滲む。
「……本当に、そう思う?」
層一は即答だった。
「思うさ」
そして、少しだけ悪戯っぽく、
でも何より優しい声で、こう続けた。
「だって――
俺と雪の子供だべ?」
その瞬間、
雪の胸の奥にあった不安が、すっとほどけた。
「……ずるい言い方するね」
そう言いながら、雪は笑った。
泣きながら、でもちゃんと笑って。
層一は、満足そうに頷く。
「雪は、ちゃんと母ちゃんやってる。
恵は、ちゃんと自分の空を飛んでる。
もう心配すること、ないべさ」
風が一度、強く吹いた。
層一の輪郭が、少しずつ薄くなる。
雪は慌てて言った。
「そうちゃん……!」
層一は最後に、もう一度だけ笑った。
「大丈夫だ。
あの子は、必ず“本番”で強い」
「それに――」
声が、風に溶ける直前。
「雪が見てる限り、
恵は迷わない」
◆ 目覚め
雪は、静かに目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光。
胸の奥が、あたたかい。
涙は出ていなかった。
でも、不思議と心が軽い。
雪は小さく呟く。
「……そうだね」
窓の外の空を見て、うなずいた。
「うちらの子だもんね」
その日、雪は誰よりも穏やかな顔で、
恵の次の戦いを見送る準備を始めた。
――本番で強いことを、
もう、疑っていなかったから。




