リレハンメル、世界の空気
◆ ジュニア初戦 ― リレハンメル、世界の空気
飛行機を降りた瞬間、空気が違った。
冷たいのに、乾いていて、軽い。
雪の匂いが、北海道よりも“硬い”。
恵はマフラーを引き上げて、息を吐く。
「……ここが、リレハンメルかぁ」
胸ポケットの鈴を指で弾く。ちりん。
音が、妙に遠くまで飛んでいく感じがした。
(父ちゃんも、ここで飛んだんだべな)
ジャンプ台が見えてきた。
空へ向かって伸びる線。
大きいのに、静かで――何かを試してくる形をしている。
◆ 公式練習 ― 北欧勢の“しなやかさ”
公式練習の一本目。
恵は助走の感触を確かめるように飛んだ。
悪くない。国内なら上位に入れる質。
でも、次に飛んだ北欧の選手が――空気を変えた。
踏切りが“押す”じゃない。
体をしならせて、風の中に“置く”。
空中で余計な動きが一切ないのに、距離が伸びる。
着地が軽い。膝が柔らかいのに、芯が折れない。
恵は思わずつぶやいた。
「……なんで、あんなに静かなんだべ」
海斗コーチが横で短く言う。
「体幹。あと、風への信頼だ」
寄子コーチも続ける。
「信頼っていうのは、“自分の型が崩れない”って確信のこと。
あの子たち、崩れない前提で飛んでる」
恵は唇を結ぶ。
(うちは……勝ちたい前提で飛んでる。
でも、“崩れない前提”じゃない)
そこが、差だった。
◆ 本番 ― リレハンメルの風は甘くない
試合当日。
旗が低く、ずっと同じ方向に流れているのに、
時々だけ“癖”が混じる。
一瞬で背中を押したかと思えば、すぐに手を引く。
恵はスタート台で“白風の礼”。
無音の一秒。
(怖さは同僚。
でも今日は“海外出張”だべさ)
一本目。
距離は悪くない。飛型も崩していない。
けど、北欧勢はさらにその上を行く。
空中の“余白”が違う。
二本目。
恵は踏切りでほんの少し押してしまった。
焦りじゃない。
「取りに行った」感覚が、ほんの1ミリ出た。
その1ミリが、世界では“負けの形”になる。
着地は決めた。スッ。
でも距離は伸び切らない。
電光掲示板が確定していく。
順位が灯る。
総合5位。
表彰台には届かない。
恵はヘルメットを胸に抱え、雪面を見つめた。
悔しさが腹の奥に沈む。
でも、涙は出なかった。
出る前に、理解してしまったからだ。
(世界は、うちが思ってたより静かで、強い)
◆ リレハンメルの台の下 ― 父の記憶に触れる
試合後。
恵は台の下でひとり、ジャンプ台を見上げた。
父が飛んだ場所。
雪が遺影に話しかけた、あの人の“空”。
恵は胸ポケットの鈴を握る。
「……父ちゃん。
うち、5位だったべさ」
風が通る。
旗が鳴る。
鈴は鳴らさなかった。
恵は静かに言う。
「悔しい。
でも悔しいの種類が変わったべ。
“なんで負けたかわかんない悔しさ”じゃない。
“差が見えた悔しさ”だべ」
台の線が、空へ伸びていく。
「……うち、もっと静かに強くなる。
勝ちたいんじゃない。
勝てる型を作るべ」
◆ 帰国後 ― 悔しさを“質”に変える日々
日本に戻った翌日から、恵は変わった。
量を増やすんじゃない。
“雑味”を削る。
踏切りで押さない。
空中で動かない。
着地まで待つ。
それを、体に染み込ませる。
体育館の隅で体幹。
リハビリで鍛え直した腹圧を、もう一段上げる。
ストレッチで“しなやかさ”を取り戻す。
体は硬くするんじゃない。
強く柔らかくする。
恵はノートに書いた。
北欧の強さ=静かさ
体幹=芯が折れない
メンタル=“崩れない前提”
自分=勝ちたい気持ちが先に出る(1ミリ押す)
最後に太字で書く。
「1ミリを消す」
◆ 海斗コーチとの会話 ― どうしたら世界で勝てる?
夕方のジャンプ台。
練習が終わり、空が薄い青になってきた頃。
海斗コーチが恵に言った。
「今日、何が一番悔しい?」
恵は即答できなかった。
悔しいものが多すぎる。
でも、言葉を選んで言った。
「……うち、勝ちたい気持ちが出た瞬間、
踏切りが“押し”になるべさ。
世界は、その一瞬を逃さねぇ。
うちはそこが、まだ弱い」
海斗はうなずく。
「正しい。
世界は“努力”じゃなくて“現象”で勝つ。
押したら浮かない。動いたら失速する。
ただそれだけだ」
恵が唇を噛む。
「じゃあ、どうしたら勝てるべ……?」
海斗は短く、でも重い声で言った。
「勝ちに行くな。正しい現象を起こせ。
勝ちは“結果”で、取りに行くもんじゃない。
お前がやるのは、毎回“正しく飛ぶ”だけだ」
◆ 寄子コーチの補足 ― メンタルは“気合い”じゃない
寄子コーチが横から入る。
「恵。メンタルって、気合いじゃないよ。
北欧の強さは、“心が強い”んじゃなくて、
心が余計なことをしない仕組みになってる」
恵が眉を寄せる。
「仕組み……?」
寄子は優しく言う。
「たとえばね。
試合で緊張する → それ自体は普通
でも緊張した時に“押してしまう癖”が出る → ここが問題
だから、“緊張しても癖が出ない作法”を作る。
恵の“白風の礼”は、もう仕組みになりかけてる。
次はそれを、世界仕様に磨くんだよ」
恵は小さく頷いた。
「……礼を、世界仕様に」
◆ 二人が恵に伝えた心構え
海斗コーチが言う。
「ひとつ。
風を敵にしない。
風は条件じゃない。共同作業だ」
寄子コーチが言う。
「ふたつ。
勝ちたい気持ちは持っていい。
でも、前に出すのは“作法”だけ。」
海斗が続ける。
「みっつ。
比べる相手は“昨日のお前”じゃない。
世界の現象と比べろ。
同じ条件で同じ現象が出せたか、そこだけを見る」
寄子が最後に、恵の胸ポケットを指さす。
「そして最後。
鈴はね、“気持ちを上げる道具”じゃない。
戻す道具。
心を元の位置に戻して、同じ作法を出すための合図」
恵は鈴を握る。
ちりん。
「……わかったべさ。
うち、世界で勝つために、
“勝ち”じゃなくて“正しい飛び”を積む」
目が、静かに燃える。
勝負師の目だ。
「次、北海道に戻ったら、
あの静けさに、うちの静けさを重ねるべ」
風がひとつ、台の上を滑った。
旗が鳴る。
白風の礼。
無音の一秒。
――恵の世界への準備は、ここから本当に始まった。
◆ 国内ジュニア〜海外遠征 ― “静かさ”が増えていく
帰国してからの恵は、変わった。
練習量を増やすんじゃなくて、余計なものを削る。
踏切りで押さない。空で動かない。着地まで待つ。
それを、毎日“同じ質”で出す。
国内ジュニアの大会。
最初は勝っても負けても、飛型が揺れた。
けど春を越えて、夏を越えて、冬が来るころには――
試合の空気の中で、恵の“白風の礼”がちゃんと働き始めていた。
海外遠征も、数を踏むほど“風の言語”が増えていく。
癖っ風、返し風、横風、上げ風。
どれも敵じゃなくなっていく。
順位も少しずつ上がった。
4位。
3位。
2位。
悔しさが、薄まるんじゃない。
悔しさの形が、具体的になった。
(あと1ミリ押さない)
(膝の待ちを半拍増やす)
(無音一秒を、もう少し深く)
そして迎えた――
ジュニア大会、海外シリーズ5戦目。
◆ カナダ・カルガリー ― ジュニア5戦目
カルガリーの空は、でかい。
雲が遠くて、風が速い。
そして風向きが、目まぐるしく変わる。
会場に着いた瞬間、恵は思った。
(今日は“読む日”だべさ)
胸ポケットの鈴を指で弾く。
ちりん。
観客席の旗が、右、左、また右。
それが、急に止まる。
止まったと思ったら、逆に返る。
海斗コーチがボードを見て言う。
「風、踊ってる。
押すな。待て。窓は短い」
寄子コーチが補足する。
「恵、今日は“勝ちたい”を前に出したら負けるよ。
やるのは作法だけ。
白風の礼、世界仕様で」
恵は小さくうなずいた。
「……了解だべさ。
今日は“現象”出すべ」
◆ 公式練習 ― “これだ”が近い
練習一本目、風に押されて少し浮く。
でも恵は慌てない。
二本目、風が手を引く。
それでも踏切りを押さず、空で動かさない。
着地、スッ。
(……なんだべ。
風が勝手に変わっても、うちの中が変わらねぇ)
それが、はっきり分かった。
恵は雪面を見ながら小さく言う。
「……これだべさ」
海斗コーチが短く聞き返す。
「何が?」
恵は目だけ笑って答えた。
「風が暴れても、うちが暴れねぇ感覚。
“戻す”が、間に合う」
寄子コーチが頷く。
「うん。今の恵、静かだ」
◆ 本番・1本目 ― 風が変わる。恵は変わらない
スタート台。
恵はバーに座って、呼吸を整える。
無音の一秒。
旗が、返った。
次の瞬間、戻った。
(窓、来た)
バーを押す。
カラン。
助走の雪が細く鳴る。
踏切り――押さない。
台の最後の毛一本を刈るみたいに、柔らかく離れる。
空。
風が横から触る。
普通なら“直したくなる”。
でも恵は直さない。
体幹一本のまま、風に置く。
(風が触った分、勝手に収まるべ)
谷が近づく。
膝の待ち――半拍、もう半拍。
スッ。
完璧なテレマーク。
そして距離表示が点く。
HS超え。
会場がざわめく。
ノーマルヒルで、ヒルサイズを越える一本。
スピーカーが少し震える。
「ヒルサイズオーバー!
上川 恵、トップです!」
恵は着地のまま、小さく鈴に触れた。
ちりん。
(一本目でこれ。
でも浮かれるな。今日は二本揃える日だべ)
◆ 本番・2本目 ― “風が目まぐるしいほど強い”
二本目はさらに風が荒れた。
旗が右、左、右、逆。
待てのサインが何度も出る。
他の選手が焦り始める。
踏切りで押す。
空で微調整が増える。
着地が流れる。
恵は、待った。
長く待った。
待っている間、心が揺れなかった。
“勝ちたい”が前に出なかった。
ただ、作法だけ。
白風の礼。
無音の一秒。
(窓は短い。
でも、短いなら短いで、その一拍に乗るだけだべ)
旗が一瞬、整う。
海斗コーチの手が、静かに前へ。
「今だ」
行く。
カラン。
助走がまっすぐ伸びる。
踏切り――押さない。
空中――動かない。
風がまた触る。
でも恵は“戻す”。
鈴の音が、心の中で鳴る。
ちりん。
(戻れ。戻れ。うちはうち)
谷が来る。
膝の待ち――半拍、さらに半拍。
スッ。
二本目も、決まった。
しかも――
またHS超え。
会場が一度、無音になる。
次の瞬間、爆発する。
「嘘だろ!?」
「二本揃えたぞ!」
「この風で!?」
スピーカーが叫ぶ。
「上川 恵――
ノーマルヒルで、ヒルサイズオーバーを二本!
圧巻です!」
◆ 結果 ― 他を圧倒して優勝
電光掲示板が確定する。
第1位 上川 恵
2位以下に、大きく差がついていた。
風が荒れた日ほど、差が出る。
その真ん中で、恵だけが“普通の顔”で飛んでいた。
恵はヘルメットを胸に抱えて息を吐いた。
(世界で勝てるかどうかって、
こういう“条件の日”に答えが出るんだべな)
海斗コーチが、珍しく少しだけ笑った。
「……合格だ。
これが“世界仕様”だ」
寄子コーチは目を潤ませながら言う。
「恵、今の二本はね、勝ったんじゃない。
“正しい現象”を二回出しただけ。
それが一番強い」
恵は照れくさく笑って、鈴を鳴らした。
ちりん。
「……やっと掴んだべさ。
風が目まぐるしくても、
うちの中は“ノーマル”でいられる」
◆ エピローグ ― カルガリーの夜、ノートに書く
ホテルの机。
恵はノートを開いた。
「カルガリー/風が踊る日」
・勝ちたいを前に出さない
・白風の礼=世界仕様
・窓は短い→一拍で乗る
・体幹一本=風に置く
・膝の待ち=半拍+半拍
・HS超え2本=“静かさが勝つ”
最後に大きく書いた。
「これだべ」
窓の外で、風が鳴った。
机の上の鈴が、それに追いつくようにちりんと鳴った。
カルガリーの夜は、
恵にとって初めて、
“世界で勝つ未来”が現実の匂いを持った夜だった。
◆ カルガリーの夜 ― 上川駅前カフェ「雪」へ
ホテルの部屋。
窓の外は真っ暗で、遠くの街灯が雪を照らしてる。
恵はメダルを机の上に置いて、スマホを開いた。
時差。
でも、今ならきっと――上川駅前のカフェは、ちょうど忙しい時間だべ。
恵は母・雪に電話じゃなく、メッセージを送った。
仕事中でも読めるように、短く。
めぐ:お母さん。今日、優勝できたよ。
ノーマルでHS超え、二本揃えたべさ。
送信。
既読がつくまでの数秒が、なんだか長い。
……すぐ、既読。
そして返ってきたのは、母らしい、短い言葉だった。
雪:よくやった。
いま店の裏で泣いた。
帰ってきたら、ココア一杯じゃ足りないね。
恵は思わず鼻で笑って、目元を指でこすった。
「……母ちゃん、泣くとこそこなんだべ」
続けてもう一通。
雪:そうちゃんにも報告したよ。
“見事に復活した”って。
恵、胸張って帰っておいで。
恵はスマホを胸に当てて、息を吐いた。
(うん。帰るべ。胸張って)
胸ポケットの鈴を、そっと鳴らす。
ちりん。
◆ 博多の“福男以下”の元気な双子姉妹へ ― 爆笑の返信
次は――あの二人。
博多の、騒がしい光子と優子。
恵はメダルの写真を撮って送った。
短く、上川方言で。
めぐ:カルガリー5戦目、優勝したべ。
風ぐちゃぐちゃの中で、HS超え二本。
これだって感触、掴んだべさ。
送信。
既読が一瞬でついた。
返事も一瞬だった。
光子:は?HS超え二本???
それ、ジャンプじゃなくて“上川の冬神様”やん!!
優子:めぐ!!!
もう世界の風が『お疲れさまです!』って敬語になるやつやん!!
てかHS超えって何!?
うちの心臓が先にオーバーしたっちゃけど!!!
恵「……っ、やば……(笑)」
さらに追い打ちが来る。
光子:ちなみに今のめぐ、
“相棒課・海外支部 支部長”に昇格ね。
なお給料はプリンで支給します。
優子:福男以下のうちらから言うと、
めぐはもう“福女以上”!
ただし条件:帰国したらカフェ雪でココア飲んで、
そのあと爆笑発電所に魂売ってから世界行きなさい。
恵は、声を殺すのに失敗した。
腹を抱えて笑って、ベッドに倒れる。
「な、なに言ってんだべ……っ(笑)
魂売るなって……っ」
笑いすぎて、膝が少し痛む。
でもその痛みさえ、今日は嬉しかった。
(うち、ちゃんと生きてるべ)
恵は返信した。
めぐ:魂は売らんべ。
でもプリンは受け取るべさ。
帰ったらまた報告する。
うち、世界で勝つ準備、もう始まってるべ。
すると、二人は最後にこう返してきた。
光子:よし。
世界で勝ったら“鈴三連打”動画送れ。
うちら、博多で太鼓叩くけん。
優子:めぐ、笑って飛べ。
風が怖い日は、うちら思い出して笑え。
その笑いは、最強の腹圧やけんね!!
恵は笑いながら、鈴を鳴らした。
ちりん。
(ほんとに、うちらのやり方だべさ)
◆ 帰国 ― 新千歳空港に降り立つ
飛行機のドアが開く。
ふわっと、湿った日本の冬の空気が入ってくる。
カルガリーの乾いた冷たさとは違う。
でも――懐かしい匂い。
「……ただいま、北海道」
通路を進み、到着ロビーへ。
ガラス越しに見える人の波。
その中に、すぐ分かった。
雪のコート。
上川家の祖父母の背筋。
そして、生田家の祖父母の姿。
恵の胸が、きゅっと縮む。
(みんな……来てくれたんだべ)
◆ 出迎え ― “おかえり”が重なる
恵が姿を見せた瞬間、
雪が一番先に手を振った。
雪「めぐ!!」
祖母「めぐみー!!」
祖父「よく帰ってきたな!」
生田家の祖父母も、目を潤ませて頷く。
恵はキャリーを引きながら、深く礼をした。
「……ただいま。
カルガリー、勝ってきたべさ」
雪が一歩で距離を詰めて、恵をぎゅっと抱きしめる。
コート越しでも、母の温度がわかる。
雪「ほんとに……よくやった」
恵「母ちゃん、店忙しかったべ?」
雪「忙しかったよ。
でも裏で泣く時間は作った」
恵「作るなって(笑)」
祖父が、恵の頭を軽く撫でる。
祖父「そうちゃんも喜んでるな」
恵はうなずいて、胸ポケットの鈴をそっと握った。
(父ちゃん。帰ってきたべさ)
生田家の祖母が、少し照れたように言う。
生田祖母「めぐ、顔が変わったね。
強い顔になった」
恵は照れ笑いした。
「……世界の空気、吸ってきたからな」
祖父母たちが笑う。
雪が言う。
「ほら、上川帰ろ。
駅前のカフェで、ココアじゃ足りない分――
今日は、鍋までいくよ」
恵「鍋まで!?」
祖父「勝った日は鍋だ」
祖母「いや、プリンもだよ」
恵「プリン、なんで祖母まで知ってんだべさ!」
全員が笑った。
その笑いの中で、恵の目は静かに燃えていた。
カルガリーで掴んだ“これだ”の感触は、まだ手の中にある。
(次は、狙われる側だべ。
でも、うちは“静かに強い”で行く)
鈴が小さく鳴った。
ちりん。
そして北海道の冬が、また新しいページをめくった。




