怪我
◆ 小学六年生の春 ― 伸び悩みの影
春。六年生に進級した恵は、背丈がぐっと伸びていた。去年まで着ていたジャンプスーツはつんつるてんになり、ヘルメットも窮屈に感じる。身体は成長しているのに、ジャンプの成績は逆に落ち始めていた。
「……なんで、飛べんの」
練習台から降りた恵は、スキー板を外しながらうつむいた。
タイミングを合わせても、前ほど遠くへ伸びていかない。着地も不安定で、膝に余計な負担がかかる。
後輩や同級生が次々に距離を伸ばす中、自分だけが足踏みしている気がした。
◆ 海斗のヒント
夕方の練習が終わったあと、ジャンプ台の端に立つ海斗の姿を見つけた。
北京オリンピック金メダリスト。今は後輩たちを見守る立場にある彼に、恵は思い切って声をかけた。
「海斗さん……どうしたら、また飛べるようになりますか?」
沈黙が流れた。
海斗はしばらく恵の顔を見つめ、それから視線を空へ向けた。
「なぁ恵。鳥ってさ、羽ばたく力よりも、風をどう感じるかで飛び方が変わるんだよ」
「……え?」
「お前のジャンプも同じだ。前と同じ力の出し方じゃ、変わった体には合わなくなってる。
ヒントはそこにある。……答えは、自分で探せ」
それだけ言うと、海斗は笑って肩を軽く叩いた。
恵の胸に、もやもやとした謎が残る。
◆ 寄子のまなざし
次の日、練習帰りに寄子に声をかけられた。彼女はかつてのトップ選手で、今は若い選手たちの相談役のような存在だ。
「めぐ、ちょっと顔が曇ってるね」
「……飛べないんです。体が変わって、前みたいに……」
寄子はにこっと笑うと、畑に目を向けた。
その横では雪と祖父母が、春の苗を植えている。
「めぐ、苗を植えるとき、深さが少し違うだけで育ち方が変わるんだよ。
人の体も同じ。昨日と今日で、感じ方が変わる。
だから“前と同じじゃない”ことを、怖がらなくていいの」
「……じゃあ、どうすれば?」
「それは自分で見つけるしかないね。お母さんの雪さんだって、答えを全部は教えてくれないでしょう?」
寄子は優しく手を振り、去っていった。
恵の胸に、海斗と同じ“ヒントは与えるが答えは出さない”という余韻が残った。
◆ 小さな気づき
数日後。練習の合間に、恵はふと自分の動きを観察した。
「体が重い」と感じていたのは、単に筋力が足りないのではなく、“体の使い方が変わった”からではないか。
背が伸び、重心の位置が前と違う。ならば――踏切の角度や姿勢を少し変えるべきなのかもしれない。
恵は小さく呟いた。
「……風を、感じるんだ」
海斗の言葉がよみがえる。
寄子の「怖がらなくていい」という声も、耳の奥で響いていた。
再びジャンプ台に立ち、深呼吸をひとつ。
踏切の瞬間、ほんの少し重心を意識してみる。
すると――体は以前より軽やかに、風に乗った。
「……飛べた!」
飛距離はまだ短い。それでも、久しぶりに「前に伸びる感覚」を取り戻した気がした。
着地後、膝がふらついたが、笑顔がこぼれる。
◆ 小学六年生の春 ― ケガの影(方言版)
夕焼けに照らされながら「風を感じるんだ」とつぶやいた恵は、小さな成功を胸に、翌日の練習に向かっていた。
――ようやく、つかみかけた。
心の中は少しだけ晴れやかで、空を飛ぶことがまた楽しく思えた。
◆ 不意の着地
「よし、今日もいくべ!」
ジャンプ台に立ち、板を整え、深呼吸をひとつ。
踏切。身体は以前より軽く、空中で風に押し上げられる感覚がある。
恵の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「……いける!」
だが、着地の瞬間――。
成長した身体は、まだ新しいフォームを完全に受け止めきれなかった。
わずかに重心がずれ、板が雪面に取られた。
「っ……あいたっ!」
左足首に鋭い痛みが走る。バランスを崩し、そのまま雪面に倒れ込んだ。
ザザザッと板が滑り、止まった時には膝を抱え込んでいた。
「めぐ!」
駆け寄ってきたのは光希だった。顔は真っ青だ。
「大丈夫か!?」
「……っ、いだい……足首、うごかん……」
声は震えていた。雪も急いで駆け寄り、恵の体を抱き起こす。
その瞳には、母親としての不安と、娘の涙を見つめる苦しさが滲んでいた。
◆ 動けない悔しさ
診察の結果は「捻挫と軽い靱帯の損傷」。大怪我ではないが、数週間の安静が必要だった。
スキー板を抱えたまま病院から戻ると、恵は悔しさで唇をかみしめた。
「……やっと少し飛べるようになったのに。なんで……なんで今なんさ」
ベッドの上で泣き出しそうになる。
練習に行けない。試合にも出られない。仲間はどんどん飛んでいく。
その思いが胸を締め付ける。
雪は静かに隣に座り、恵の髪を撫でた。
「めぐ、悔しいんだべな。でも体はきっと待ってくれるから。無理して飛ばなくても、また飛べる日くるべさ」
「……ほんとに、また飛べるべか?」
「当たり前だべ。めぐは風感じられる子だから」
光希も、窓際で拳を握りしめていた。
「めぐ、俺が横で練習して、ちゃんと報告すっから。絶対おいてかねぇ。だから安心して治せや」
恵は涙をこらえながら、小さくうなずいた。
◆ 海斗と寄子の言葉
後日、見舞いに来た海斗はベッドの脇で腕を組み、にやりと笑った。
「飛べなくなるんでねえかって、思ってんだべ?」
「……んだ」
「俺も同じだ。ケガでシーズン丸ごと棒に振ったこともあったべさ。
でもな、その間に“飛べねぇ時間にしか気づけねぇこと”あったんだ。
めぐも、きっと見つけられる」
寄子も続ける。
「めぐ、自分で飛ばねぇ時こそ、イメージで練習すんだよ。体動かさなくても、学べることいっぱいあるべさ」
二人とも、やはり答えは出さない。ただ、方向だけを示してくれる。
恵の胸に、じんわりと光が灯った。
◆ 小さな決意
夜。ベッドに横たわりながら、恵は心の中でつぶやいた。
――お父さん、そうちゃん。めぐ、今は飛べねぇけど……また飛ぶから。
泣きたいけど、負けたくない。
「……絶対、また飛ぶべさ」
その声はかすれていたけれど、強い芯を持っていた。
◆ 小学六年生の春 ― 恐怖と向き合う日々
◆ 痛みの夜
夜。窓の外では雪解け水が小さな川となり、かすかな音を立てて流れていた。
ベッドの上で、恵は包帯の巻かれた足首を抱え込むようにして横になっていた。じんじんとした痛みがまだ残っており、ちょっと足を動かすだけで顔が歪む。
――また、あの瞬間。
目を閉じると、脳裏に焼き付いた映像が繰り返し流れてくる。
踏切で宙に飛び出す。空を切る風が頬を撫でる。「いける!」と思った次の瞬間、雪面が迫り、足首に鋭い衝撃。転倒の痛みと、全身を走る恐怖。
「……また転んだら……もう飛べなくなるんでねぇか……」
恵は小さくつぶやき、布団をぎゅっと握った。胸の奥が冷たく固まる。飛びたいのに、怖い。飛びたいのに、足が震える。
そのとき、部屋のドアが静かに開き、雪が入ってきた。枕元の灯りをつけると、母は娘の顔を覗き込んだ。
「めぐ……眠れんのかい?」
「……うん。こわいんだ。飛んだらまた倒れるんでねぇかって……」
雪はそっとベッドに腰を下ろし、娘の手を握った。
「めぐ、怖いって思うのは当たり前だ。怖くねぇ人間なんていねぇべさ。でもな、その怖さとどう向き合うかで、次に進めるかどうかが決まるんだよ」
「……お母さん、めぐ、ほんとにまた飛べるべか」
「飛べるさ。めぐは風感じられる子だから。風は裏切らねぇ」
母の声はあたたかく、恵の目の奥に、わずかに光をともした。
◆ リハビリの時間
翌週からリハビリが始まった。
松葉杖で学校へ行き、体育は見学。友達が走り回る姿を見ては胸がざわついた。放課後は病院でストレッチや筋トレ。地味で、退屈で、そして痛みを伴う時間だった。
「うぅっ……いでぇ……」
「めぐ、無理すんな。ゆっくりでいいべさ」
理学療法士の声に頷きながらも、焦りは消えなかった。
ジャンプ台に立つ仲間たちはどんどん記録を伸ばしている。自分だけが止まっているようで、涙がにじむ。
ある日、見舞いに来た光希に思わず打ち明けた。
「……みんな飛んでんのに、めぐだけ動けん。置いてかれてる気すんだ」
光希は真剣な顔で首を振った。
「置いてかねぇ。俺が横で練習して、ぜんぶ報告すっから。お前が戻ってくるまで待ってっからな」
その言葉に、胸の重石がほんの少し軽くなった。
◆ 不安と向き合う夜
それでも夜になると、不安は押し寄せてきた。
布団に潜り込むと、あの転倒の映像がまた蘇る。
「また倒れたら……今度こそ飛べなくなるんでねぇか……」
声にならない声を押し殺し、布団の中で涙を流す日もあった。
雪はそんな娘の背中を抱きしめ、何も言わずに寄り添った。母の体温だけが、震える心をかろうじて支えてくれた。
◆ 映像解析
ある晩、雪がタブレットを持ってきた。
「めぐ、光希が練習んとき撮ってくれてた映像あるんだ。見てみるかい?」
恵は恐る恐る頷いた。
画面に映し出されたのは、自分が転倒したあの日のジャンプ。
スロー再生すると、踏切の瞬間に体が前に突っ込み、重心が崩れているのがはっきり見えた。
「……あ。ここだ……前に出すぎてんだ」
「焦って力んでたんだべな……だから着地でバランス崩したんだ」
映像を見ながら、恵は唇をかみ、拳を握った。
「……めぐ、自分でわかったんだな」
そのとき、背後で声がした。海斗だった。
「俺もな、ケガで一年棒に振ったことある。けど、飛べねぇ間に映像何百回も見て、やっと気づいたんだ。
飛んでるときより、飛べないときに学ぶことがあるんだぞ」
寄子も優しく続ける。
「めぐ、答えはいつも自分の中にある。飛べない時間も大事なんだよ。今は体を動かさなくても、心を動かして学ぶときだべさ」
二人の言葉は、静かに恵の胸に染み込んだ。
◆ 再挑戦への光
映像の中で、転倒直前の自分をもう一度見る。
胸がざわつき、手が汗ばむ。
けれど、その不安の奥から、別の声が浮かんだ。
――飛びたい。
「……また飛びてぇ」
口から漏れたその言葉に、自分でも驚いた。
恐怖はまだある。だけど、飛びたい気持ちの方が、ほんの少しだけ強くなっていた。
「お父さん、そうちゃん……めぐ、また飛ぶから。怖いけど、空に戻るから」
包帯に覆われた足首をそっと撫でながら、恵は心に誓った。
夜の窓の外、雪解け水の流れる音が少しだけ優しく聞こえた。
◆ 小学六年生の夏 ― サマージャンプ大会
◆ 再び立つ場所
夏の日差しがまぶしく照りつける中、上川のサマージャンプ大会が始まった。
緑の人工芝に水が散布され、太陽の光を受けてきらきらと光っている。
恵はスタート台に立ち、板の先を見下ろした。
人工芝の斜面は、雪よりも鮮やかでまぶしい。
だが、その光景に心は晴れず、足は固まっていた。
「……っ」
心臓が早鐘のように打つ。
足首がずきんと疼いた気がした。脳裏に、あの転倒の映像がよみがえる。
飛んだ。風を感じた。けれど――着地でバランスを崩し、倒れ込んだ痛み。
「……足が……竦む……」
手に汗が滲み、呼吸が浅くなる。後ろに並ぶ選手たちの気配が、さらに重圧をかけてきた。
◆ 海斗の言葉
観客席の下から、海斗の声が飛んだ。
「めぐーっ! お前、まだ恐ぇんだべな!」
恵ははっとして顔を向ける。
海斗は腕を組み、じっと見上げていた。
「ケガした奴はみんなそうだ。俺だって同じだったべ。
でもな、怖ぇのを消す方法なんてねぇんだよ」
恵は息をのむ。
「大事なのは、怖さを抱えたまま飛ぶことだ!
その恐怖に勝てるかどうかで、お前はこれからもっと伸びる!
今は考えすぎるな。数こなすしかねぇんだ!」
力強い言葉に、胸が震えた。
恐怖は消えない。けれど、それでも飛ぶ。
◆ 一歩目
「……めぐ、いけるべ」
自分にそうつぶやき、恵は膝を曲げ、板を踏み込んだ。
斜面に飛び出した瞬間、また恐怖がよぎった。
「倒れるんでねぇか」「痛みが戻るんでねぇか」――けれど、その声を押し殺し、風に身を任せる。
空中に浮かぶ。
足首は震えている。だが、両手を広げてバランスを取る。
「……っ!」
短い距離だった。着地もぎこちない。だが、倒れなかった。
◆ 震える笑顔
「めぐーっ! よくやったべ!」
光希の声が飛んだ。
雪も拍手しながら涙をにじませる。
「めぐ……ちゃんと飛んだ!」
恵は肩で息をしながら、震える笑顔を浮かべた。
「……まだ怖ぇ。でも……飛べた……」
観客席の海斗は小さく頷き、口の端を上げた。
「んだ、それでいい。怖さに勝った一歩目だ」
◆ 新しい始まり
恐怖はまだ消えない。
けれど、あの夏の日、恵は「恐怖を抱えながら飛ぶ」という新しい挑戦を始めたのだった。
人工芝のきらめきと、風の匂いが、その決意を確かに包み込んでいた。




