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恵の物語  作者: リンダ
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恵3歳

 父である上川層一が病に倒れ、23歳という若さで旅立っていって、3年の月日が流れた2025年夏。雪は層一とたった数ヶ月しか一緒にいられなかったが、それでも愛した人が残してくれた家と、恵の生活を守るため、上川家の母屋の離れで、層一の思い出と、彼が残したジャンプのトロフィーが残る家で暮らしていた。


〈雪・ナレーション〉

――三年も経ったんだね、そうちゃん。

あんたがいなくなった夏は、どこか音が遠く感じる。

でも、わたしは生きてるよ。恵と一緒に、ちゃんと。

この家で、あんたが残してくれた日々を、守ってる。


「恵、幼稚園行くよ。おトイレ済んだ?」


「はーい。おてても洗ったよ〜」


 そう言って両手をパーにして、雪に確認してもらう。


「おお〜、よぐできたねぇ。んだら、ブーブー乗って、行こか」


「うん! 幼稚園行くよ〜!」


〈雪・モノローグ〉

ブーブーって呼んでるこの軽は、わたしたちの相棒だ。

チャイルドシートに恵を乗せて、短い朝のドライブ。窓の外は、山も空もぜんぶ澄んでる。

……ああ、道北の空気って、なんまらきれいだわ。



 幼稚園の駐車場に着くと、恵がリュックをしょって元気に飛び降りた。


「おかあさん、ぎゅーして!」


「んだんだ、いっぱいすっから」


 しゃがみこんで抱きしめる。恵のぬくもりは、小さいけれど、どこか層一に似ている。


「いってらっしゃい、恵」


「いってきまーす!」


 門をくぐる恵の背を見送り、雪は一度目を細める。


〈雪・ナレーション〉

――恵、今日も笑ってる。あの子の笑顔が、わたしの一日を支えてくれる。



 園庭では、恵が仲良しの生野佐保のもとへ駆け寄っていた。


「さほちゃーん、すべりだいいこ!」


「いこ、いこ!」


 二人は声をあげて遊具へ向かう。そのそばには、門別光希の姿があった。

 大人びた表情の光希は、いつも恵のことを静かに見ている。佐保が手招きすると、少し照れくさそうに近づいた。


「こうきくんも、おしてね! めぐみ、こぐから!」


「……うん」


 光希は小さな手で、ブランコの背を押した。恵の笑い声が、夏空へと弾んでいった。


〈雪・ナレーション〉

――この子たちの中に、芽ばえる何かがあるのかもしれないね。

そんなふうに思えるのも、いまを大切に生きてるからなんだわ。



 その頃、雪は上川駅のすぐそばにある「カフェ雪」にいた。

 駅舎からほんの十歩ほど、小さなログハウス風の建物。観光客や地元の人がふらりと立ち寄れるように、玄関には季節の花が飾られている。


 朝の列車が駅を出ていく音を背に、雪は厨房で焼きたてのスコーンをトレイに並べていた。


 店の裏手では、両親が畑仕事をしている。雪もエプロンのまま外へ出ると、土の香りが一気に広がった。


「雪〜、ししとう採れたど〜。えんまいのも入っとるから気ぃつけな」


「ありがと〜。あとで素揚げにして、プレートに出すわ」


 畑のすぐ横には、小さなビニールハウスがあり、ミニトマトやバジル、ズッキーニが育っていた。


「今年のズッキーニ、やけに太っこいねぇ」


「水がええぐらい入ったからな。めぐみ、これ好きだったべさ」


〈雪・モノローグ〉

そうちゃん……この町で、わたしたち、ちゃんと根を張ってるよ。

駅前のこの店も、畑の野菜も、ぜんぶあんたが背中を押してくれたから。

そして、恵もね……あの子は、すこしずつ、自分の世界をひらいていってるよ。



仕事をひと段落させ、午後の穏やかな陽射しが駅前を包むころ。雪はエプロンを外し、軽自動車に乗り込んだ。

 上川駅から車で数分、町の幼稚園へ向かう。


 駐車場に車を停めると、ちょうど園舎の玄関から、恵がぱたぱたと走り出てきた。


「おかあさ〜ん!」


「おかえり〜、恵。いっぱい遊んできたんかい?」


 雪が両腕を広げると、恵は飛び込むように抱きついてきた。小さな身体はほんのり汗を含んでいて、外で元気に遊んだことがすぐに伝わる。


「うん! きょうね、さほちゃんと、こうきくんと、ずーっとおにごっこしてたんだわ!」


「おお〜、んだんだか! そったら、走り回ってたんだべさ〜」


 雪が頬を寄せると、恵は嬉しそうに笑った。その横顔が、ふと層一に似て見えて、雪の胸の奥がやわらかくなる。


「せんせー! ばいばーい!」


「恵ちゃん、また明日な〜」


「うん! またね〜!」


 小さく手を振って、恵は車に乗り込んだ。ドアが閉まる音とともに、日常がまた少し先へ進んでいく。



 カフェ雪に戻ると、夕方の光が店内の木のテーブルを金色に照らしていた。

 雪が厨房に立って後片付けをしている間、恵はカウンターの椅子にちょこんと座り、時折出入りする観光客や常連客に、にこにこと笑いかけていた。


「恵ちゃん、今日も元気だねぇ」


「うん! きょうね、ブランコ、めっちゃこいだんだわ!」


「おお〜、そりゃすごいわ。あんた、足腰強いんだねぇ〜」


 地元のおばあちゃんが笑いながら頭をなで、観光客が「かわいい看板娘だね」とカメラを構える。

 恵は照れながらも「いらっしゃいませ〜」とお辞儀して、またカウンターに戻る。


〈雪・モノローグ〉

……あの子、なんだかんだで、ここじゃすっかり人気者だわ。

わたしの顔より、恵の顔見に来てる常連さん、何人おるべかね。



 仕事を終え、もう一度ブーブーを走らせて、家に戻る。

 台所には、朝収穫したズッキーニ、トマト、ししとう。今日のメニューは、じゃがいもといんげんの味噌炒め、ししとうの素揚げ、トマトの冷やしマリネ。

 炊きたてのご飯と一緒に並べると、夏の恵みが食卓に広がる。


「いただきまーす!」


 小さな手を合わせた恵の声が、木造の天井に明るく響く。


「おかあさん、これ、じゃがいも?」


「んだんだ。朝、ばあちゃんといっしょに掘ったやつだべさ。ほっくほくでうまいべ?」


「うん! めっちゃおいしい〜!」



 食事のあとは、お風呂。母屋にある大きな湯船に、ふたりで肩まで浸かる。


「はぁ〜、きもちいねぇ……」


「おかあさんのせなか、ぬくぬくだねぇ」


「恵の手も、ぽっかぽかだわ〜。いっしょにお風呂、いっつも楽しみなんだわ」


 湯気の向こうで笑い合いながら、雪はふと思う。――この瞬間が、一番のごほうびなんだわ、と。



 夜。寝室の隅に飾られた、層一の遺影の前に立ち、ろうそくに火を灯す。


「今日も、恵といっしょにがんばったべさ。そうちゃん……聞こえてるかい?」


 恵が小さな椅子に座って、ぺこりと手を合わせた。


「おとうさん、きょうね、こうきくんとさほちゃんとあそんだの。たのしかったんだわ!」


 層一の笑顔の写真が、やさしく二人を見つめている。


〈雪・ナレーション〉

――あんたの分まで、生きてるよ。

この子といっしょに、笑って、泣いて、歩いてる。

……明日もまた、いつもの日が来る。だけど、それが、どれほど大事なものか。

わたし、忘れずにいたいんだわ――ずっと、ずっと。



夜。寝室の隅に飾られた、層一の遺影の前に立ち、ろうそくに火を灯す。


「今日も、恵といっしょにがんばったべさ。そうちゃん……聞こえてるかい?」


 恵が小さな椅子に座って、ぺこりと手を合わせた。


「おとうさん、きょうね、こうきくんとさほちゃんとあそんだの。たのしかったんだわ!」


 層一の笑顔の写真が、やさしく二人を見つめている。


「そうちゃん……おやすみなさい。明日も、見守っててね」


「おとうさん、おやすみなさい……またあしたね」


 二人の声が、やさしく、静かに夜に溶けていった。



 雪と恵は、寝室の布団をぱたんと広げ、並んでくるまった。

 外は少し肌寒くなってきた夏の夜。虫の音が遠くから聞こえてくる。


「おかあさん……きょう、たのしかったねぇ」


「んだんだ。めぐみと、こったらに笑っていられる日、ありがたいわ〜」


 ぎゅっとくっつくようにして、二人の身体が寄り添う。布団の中は、ぽかぽかとあたたかい。


「……おかあさんのにおい、すき〜」


「めぐみの手、あったけぇなぁ」


 小さな寝息が、雪の胸の上でやがて静かに落ちてゆく。

 目を閉じた雪も、そっと息を整えながら、微笑んだ。


〈雪・ナレーション〉

――おやすみ、そうちゃん。

明日も、わたしたち、ちゃんと生きるけんね。

あんたの分まで、しっかりと。


 やさしい夜が、親子の布団をすっぽり包みこんだ。


やがて迎えた、地元の盆踊り。

 駅前の広場には提灯が灯され、浴衣姿の子どもたちが太鼓の音に合わせて輪になって踊る。

 夜空には大きな花火がひとつ、またひとつと開き――短い北海道の夏は、きらきらとした余韻を残して、足早に駆け抜けていく。


「わ〜っ、すごいねぇ! おっきい花火!」


「んだんだ、めぐみ。おっきいなぁ〜。ばあちゃんもじいちゃんも、びっくりしてるわ」


 雪と手をつなぎ、見上げる恵の横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。


〈雪・ナレーション〉

――あんたも、あの空の向こうで見てるかい?

ほら、恵が花火に目を輝かせてる。……わたしたち、大丈夫だよ。



 9月も終わりを迎える頃、大雪の山並みは赤や黄に色づき始めた。

 山を見上げれば、空気は澄み、遠くの稜線がくっきりと浮かぶ。


 10月になると、ちらほらと「雪の便り」が届くようになる。

 朝の空気はひんやりとし、木々はカサカサと葉を落とし始める。


「おかあさん、けさ、さむかったねぇ」


「んだなぁ。もうストーブ出さんとならんかもしんないわ」


 洗い立てのセーターを着せながら、雪はふと層一のジャンパーに目をやる。あの人が着ていた、真冬用の厚手のやつ。――もうすぐ、その季節がやってくる。



 それでも、恵は今日も元気いっぱいだ。


「おかあさん、きょうもブーブーでいこっか!」


「いこいこ。んだら、おトイレ行って、おてて洗ってからね」


「うんっ! おかあさん、ちゃんと見ててよ〜」


「もちろんだべさ。わたし、めぐみのいちばんの応援団だからねぇ」


 きゅっとリュックを背負い、ニコニコと玄関を飛び出す恵の姿を見送りながら、雪は思う。


〈雪・ナレーション〉

――季節はめぐって、寒くなって、雪が降っても、

あの子の笑顔が、わたしの春みたいなもんなんだわ。

……また今年も、そうやって冬を越えていくんだね。


ある朝、新聞を取りに玄関先へ出た雪は、郵便受けに何かカラフルなチラシが差し込まれているのに気づいた。

 手に取ると、「スキージャンプ教室・初めてでも大丈夫!親子で体験できます!」の文字が目に飛び込んできた。


〈雪・モノローグ〉

……ジャンプ教室、だって……。

そうちゃんが、いつも言ってたな。

「ジャンプは、空と会話するようなもんだ」って――


 その瞬間、胸の奥が、すうっと吸い込まれるような感覚に包まれる。

 そして、リビングでお絵かきをしていた恵に、そっとそのチラシを見せてみた。


「めぐみ、これ見てみ? こったらの、あるんだってよ」


「……えっ、スキージャンプ!? おとうさんがやってたやつ?」


「んだんだ、お父さんが飛んでたジャンプ、これだべさ」


 恵の目がぱぁっと輝いた。


「いく! いくいくっ! やってみたい〜!」


「んだが。んでな、じいちゃんばあちゃんも誘ってさ、みんなで見にいこうか?」


「うんっ! みんなでいこ〜!」


〈雪・ナレーション〉

――そうちゃん、見てるかい?

恵がね、あんたの背中を、追いかけようとしてる。

まだちっちゃな一歩だけど……。でも、確かに始まったんだわ。



 その日の夕方、雪はさっそく電話をかけた。

 上川に住む義父母――層一の両親。

 そして、同じ町に暮らす雪の実家の両親にも、ジャンプ教室のことを伝えた。


「めぐみがな、ジャンプやってみたいんだってさ。

 あの子、そうちゃんのこと、ちゃんと覚えてるんだわ」


「……そうか。そうかぁ……」と、電話越しに聞こえた義母の声は、涙をこらえているようにも感じられた。


 そして、両家の祖父母が「そったら、行かんわけにいかんしょや」と笑いながら即答したことで、行き先はすぐに決まった。


〈雪・モノローグ〉

また、あのジャンプ台に行ける。

そうちゃんが、風と話してた場所に――

今度は、わたしたちみんなで、恵と一緒に。


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