第3話 : 偽りの祈り、血塗れの村
──霧が、深い。
山の奥、外界から隔絶されたような森を進む斎と綾姫の足元を、靄が絡みつくようにまとわりついていた。
風は止み、木々はざわめきすら忘れたように静まりかえっている。
「……ここはまるで、音が吸い込まれていくようですね」
綾姫がぽつりと呟く。斎は返事をせず、ただ前を見据えたまま口を開く。
「この先に、“祈守の里”がある。地図には載ってねぇが、仏僧のあいだじゃそこそこ知られた隠れ里だ。……だが、妙な話がある」
「妙な……?」
「ああ。“一度訪れた者は、帰らぬ”とな」
綾姫の背に、ひやりと冷たいものが走った。
やがて、霧の中から赤錆びた鳥居が姿を現す。柱はひび割れ、注連縄は朽ちて垂れ下がっていた。その様は、神域というよりも“封印”のようだった。
鳥居をくぐると、霧の帳の中に集落が浮かび上がる。だが、人の気配があるにもかかわらず──動きが、なかった。
家々の中では、村人らしき者たちが同じ方向を向いて膝を折り、まるで機械のように静かに、祈りの姿勢をとっていた。
「……不気味です。まるで、生きているのかさえ……」
「違うな。生きちゃいるが、“何かに縛られて”る」
斎の声に、綾姫は思わず身を強張らせる。霧のなかに浮かぶ祈る者たちは、もはや人というより“像”だった。形だけの、器にすぎない。
そのとき──
「おお……旅の者……」
ぬるりと背後から声がかけられた。
振り返ると、僧衣の男が立っていた。口元は笑んでいたが、その目は虚ろで、どこにも焦点がなかった。
彼の掌には──白い花が咲いていた。
「さあ……共に祈りましょう。花の祝福を……魂へと……」
その瞬間、斎の眼光が鋭くなる。
「……こいつは、“久遠華”の華……!」
同時に、村中の戸が一斉に軋みを上げて開かれた。
“祈っていた”者たちが、異様な笑みを浮かべたまま立ち上がり、手に鎌や刃を握って迫ってくる。
掌、肩、胸元──彼らの身体のあちこちから、同じ白い花が咲き乱れていた。
「……洗脳……いや、これは──寄生か」
「やはり……久遠華が……!」
「考えてる暇はねぇ。来るぞ!」
一斉に襲いかかってくる花宿りの村人たち。
斎は地を蹴ると同時に、指先で影に触れた。
「──影走」
その姿が、掻き消える。
一閃。影から現れた斎の刃が、一人の膝裏を断ち、さらに横薙ぎにもう二人を地に伏せる。殺さぬよう、急所を外しながらも確実に動きを封じる。まさに、戦場の職人だった。
「ぐっ……!」
だが数が、あまりに多い。
「このままでは、きりがありません……!」
綾姫が懐から短刀を抜き、震える手で構える。
(……彼らも……被害者なのに……)
その胸が痛む。
洗脳され、華に寄生され、意思を奪われた人々。その哀しみを思えば、刃を向けることすら、ためらわれる。
──だが。
「──あぶねぇ!」
その躊躇いを、花は見逃さなかった。
斎が飛び出し、綾姫の前に立ち塞がる。
「ここは任せろ! 堂の奥に行け! “中心”を潰せ!」
「でも──!」
「お前が止まれば、誰も助からねぇ!」
その言葉に、綾姫は唇を噛み──そして、頷いた。
走る。
霧の中、視界が揺れる。周囲では村人たちが倒れ、影が踊るように揺らめく。だが、それでも綾姫は立ち止まらなかった。
止まれば、信じたものが、嘘になってしまう。
(私は……私は、もう見逃さない)
──燃える白華城、焼け落ちる記憶。
──家族の声、消える姉の手。
それらすべてが、いま、彼女の足を動かしていた。
やがて、堂の扉を開ける。
そこにいたのは、先ほどの僧侶だった。
その背後には、奇妙な装置と──脈打つように咲く、巨大な久遠華の苗。まるで鼓動する心臓のように、ズゥン……ズゥンと鈍く鳴っていた。
僧は笑った。
「祈りこそ、救いなのです。自ら思考を手放し、魂を差し出す……それは、華に選ばれし者だけに与えられる歓喜」
──狂気だった。
綾姫は、静かに短刀を構える。
「……ならば、その祈りを──私が否定します」
薄暗い堂の中。霧の奥で、ひときわ強く燃えていたのは、少女の瞳だった。