第2話 : 影走るもの
風が、森の木立をかすかに揺らす。
月は雲に隠れ、辺りは深い闇に包まれていた。焚き火の代わりに、斎が足元に撒いた灰がほのかに燻り、煙だけが夜気を汚している。
「……もう、こんなにも暗くなったのですね」
綾姫が、肩を抱いて空を見上げる。
斎は無言で腰を下ろし、小太刀を膝に置いた。焔はない。だが、周囲の空気は妙に生温い。虫の声も風音も、どこか抑圧されたように重苦しい。
「少し休め。次の峠まで、ひと晩じゃ抜けられねぇ」
「……分かりました」
綾姫は頷き、隣に身を落ち着けた。
だが──そのとき、斎の肩がわずかに揺れる。
「……待て」
低い声だった。
綾姫が息を呑んだ、その瞬間。
ザッ──と、草を踏みしめる音が、左右と背後、三方から同時に響いた。
「囲まれてる。……三人か」
斎が立ち上がると同時に、黒装束の影が森の暗がりから滑るように現れた。仮面に包まれた顔。灯のない瞳。かすかな殺気だけが、霧のように滲んでいる。
「……また、“黒陰”の奴ら……」
綾姫が息を呑んだその瞬間、三人は一斉に動いた。
鋭く──無音に、刃が空を裂く。
「姫さん、そこを動くな!」
斎が咆哮のように叫び、姿を掻き消す。
──瞬間、風が断ち切られた。
一人目の刺客が、何が起きたかを理解する前に、首筋をなにかが掠めた。
スッ──
そのまま、重力に逆らえず崩れ落ちる。喉を穿たれた男は、声を上げる暇もなかった。
(早い……! いつの間に──)
綾姫の目には、斎の動きはまるで“消えた”ように見えた。
それは、忍術《影走り》。影と同化し、視線の死角を斬り抜ける闇走の奥義。
二人目が飛びかかってくる。今度は綾姫へ──!
「──くっ!」
その手には短刀。斜めに斬り上げられた刃が、綾姫の肩口を裂いた。
「……ッ……あああっ……!」
血が散った。
それを見て、斎の表情が明確に変わる。
怒気ではない。だが、明らかに“殺す”覚悟を帯びた無言の気配。
男は、一言も発さずに空中で身を翻す。影のように滑るような動き──だが、斎の影走はそれを上回った。
「──遅ぇよ」
瞬間、斎の小太刀が、敵の腹部を横に裂いた。
グシャッと肉が裂ける音とともに、黒装束の体が折れたように倒れる。
三人目が、刹那の隙を狙って斎の背後を取る。
斎は振り返らない。
「“影鴉”──」
その声と共に、斎の姿が消え、刃だけが真横に薙がれる。
狙いは──足首。
斎は一切の殺傷を排し、踏み込みを封じる斬撃で敵の動きを止める。
脚が切られ、男が膝から崩れ落ちたその隙に、刃が再び走る。
──無音。
だが確実に、喉を断ち切った感触が、斎の指に伝わった。
三人すべてが、地に沈む。
戦闘は、十息ほどの間だった。
「……姫さん!」
斎はすぐさま綾姫のもとへ駆け寄る。
「肩、見せろ。どれだけ深く……」
手早く肩口の布を裂く。が──
そこには、何の傷もなかった。
「……嘘だろ」
斎の目が見開かれる。
数瞬前まで、斬られ、血が流れていたはずの肌は、なめらかで、かすかなかさぶたすら残っていない。
「どうなってやがる……?」
綾姫は静かに首を振った。
「……これが、私の中にある“久遠華”の力です。
胎の内で植えられた“種子”。それが、私の血と肉に根付いている」
斎は言葉を失い、黙ったまま彼女の瞳を見た。
「私の身体は、死にません。肉が裂かれても、骨が折れても、いずれ癒える。
けれどそれは“生”ではなく、“逃れられぬ呪い”なのです」
微かに震える声に、斎の眼差しが揺れる。
「……だからこそ、知りたい。
白華を滅ぼした者たちは、なぜこの花を求めたのか。
久遠華とは何なのか──その真実を、この身に刻むために」
綾姫の声は、夜風よりも静かだったが、強さがあった。
斎は小太刀を鞘に納め、天を仰ぐ。
やがて──口元にわずかな苦笑を浮かべて、呟いた。
「……まったく、やれやれだ」
そして綾姫の方へと顔を向ける。
「いいぜ。付き合ってやる。
“久遠華”とやらの謎を暴く旅……そして、白華を滅ぼした奴らへの“返礼”にな」
──かくして、闇より来たる者と、花を背負う姫の旅が、本格的に始まった。
その果てに待つのは、祝福か、断罪か──。