第1話 : 焔の花、影の刃
──あの日、すべてが、紅に呑まれた。
夜空に浮かぶはずの月は、煤けた濃煙に覆われ、姿を消していた。
火の粉が天を焦がし、地を這うように吹き荒れる焔の海。
燃え盛る白華城が、まるで世界の終わりを告げる鐘楼のように軋んでいた。
耳の奥に残るのは、父の怒声。
母の名を叫ぶ声が、炎に呑まれて消えていく。
姉の手を、確かに掴んでいたはずなのに──
気づけば、私はひとりだった。
「……っ、はあ……っ」
荒れ果てた城下の瓦礫を踏みながら、私はあてもなく彷徨っていた。
どれほど歩いたのかも思い出せない。
足は鉛のように重く、喉は渇ききって、声すら出なかった。
けれど──涙は、もう出なかった。
泣きすぎて、心の奥まで乾ききっていたのだと思う。
世界に残された私という存在が、ただ空虚に歩いているだけだった。
崩れた柱の影に、身体を沈める。
息を吐けば、肺の底まで煤を吸い込んだ。
空を見上げても、星はどこにもなかった。
(……終わってしまったのだな)
家族も、城も、国も。
そして、私の名前さえ──この夜の炎に焼き尽くされたのだ。
胸元の銀の花飾りに、そっと指先を添える。
それは母から譲り受けた唯一の遺品。
白華家の象徴にして、“呪い”の起源でもある。
久遠華。
生命を食らい、不老を与えるという、禁忌の花。
その種子は今──私の体内で、微かに、確かに脈動している。
(この花のせいで……)
誰が悪かったのか。
もはや分からない。
ただ、この花を巡る争いの果てに、私は全てを失い、独り残されたのだ。
──そのとき。
背筋を撫でるような、冷たい気配が走る。
熱でも、風でもない。
ただ鋭く、殺意だけが肌を刺した。
(……! 殺気──!)
咄嗟に振り返る。
瓦礫の陰から、黒装束の影が音もなく迫ってくる。
顔を覆う白い仮面。
その奥、瞳だけが不気味なほど煌めいていた。
まるで感情を持たぬ人形のように。
刃が振り上げられる。
避ける時間も、力も、ない──
(ここで……終わるのだな……)
そんな諦めが脳裏を過った、まさにその瞬間。
──風が、裂けた。
鋭く、乾いた音が遅れて鼓膜を震わせる。
断ち切られた空気の向こうから、ひとりの男が現れた。
黒の外套。
無造作に束ねられた黒髪。
左手の甲に刻まれた、黒く焼け焦げた印。
何もかもを拒むような鋭い眼差し──
その男は、一瞬で距離を詰めると、寸分の狂いもなく刃を振るった。
敵の手首が、吹き飛んだ。
血が噴き出し、短剣が地に落ちて跳ねる。
だが男は微動だにしない。
「……動くな。次は首だ」
低く、底冷えするような声。
研ぎ澄まされた殺意に、空気すら凍りつく。
刺客は一瞬だけ躊躇う。
次の瞬間、背を向けて逃げようとした──が、遅い。
刹那の間に、男の小太刀が閃く。
──喉元が断たれた。
仮面の奥から一滴の声も漏れぬまま、刺客は崩れ落ちた。
私は、ただその背を見つめていた。
それは、静かで、孤独で、そしてなにより──哀しい背中だった。
「……あなたは……何者なのですか」
私の問いに、男は肩を少しだけすくめる。
「通りすがりの忍びさ。今じゃ抜け忍って呼ばれてるがな」
「……忍……」
その言葉に、思わず視線が彼の左手に吸い寄せられる。
焼き焦げたような歪な印。
それを見た瞬間、記憶の底から父の言葉が蘇る。
「決して関わってはならぬ“影”がある」
黒陰。
かつて滅んだはずの、異端の忍びの里。
影に生き、闇を操る者たち。
「さっきの刺客……あれも、黒陰の……?」
「ああ。外れ者の処理係ってとこだな。成功しても口封じ、失敗すりゃ捨て駒。そういう奴らだ」
彼はそう言って、血のついた小太刀を納めた。
そして、私を見下ろす。
「姫さん。“久遠華の器”って話……どうやら噂は本当みたいだな。今後も、似たような奴らに狙われ続けるぜ」
私は、黙って頷いた。
喉の渇きも、恐怖も、痛みすらも忘れて。
ただ、心の底からにじみ出た言葉だけが、口を突いた。
「それでも、私は──逃げたくない。もう、誰も……失いたくないのです」
男は、しばし黙って私を見つめていた。
その眼差しに、何かが揺れる。
風が吹き抜け、外套がはためいた。
そして彼は、ひとことだけ言った。
「……歩けるか」
その言葉に、私は小さく頷いた。
気づけば、手のひらが震えていた。
けれど、その背を追いたいと思った。
なぜだか分からない。ただ──
この背を見ていると、少しだけ“未来”を信じられる気がした。
──あの日。
焔に焼かれた廃墟の中で。
私は、生き延びることを選んだ。
かすかな灯火のような意志を、胸の奥で確かに感じながら。