24話:暴れん坊の貴族の令嬢
翌朝、エリオンは重いまぶたをゆっくりと開けた。視界に入ってきたのは、木製の天井と、やさしく揺れるランプの光。周囲は静かで、聞こえてくるのは自分の息遣いと、かすかに響く外の鳥の声だけだった。彼女は自分がどこにいるのかをぼんやりと考え、すぐに治療院のベッドであることに気づいた。
体を動かそうとすると、全身に痛みが走る。傷はまだ完全には癒えていないが、命に別状はないようだった。少しずつ手足を動かし、五体満足であることを確認したエリオンは、安堵の息をついた。
だが、すぐに昨夜の記憶が蘇り、彼女の心は重くなった。あの異形の獣――影の狼と呼ぶにはあまりにも恐ろしいその姿は、彼女に圧倒的な力の差を感じさせた。爪の一撃で簡単に吹き飛ばされ、何もできなかった自分。あの獣はいったい何だったのか。そして、これからどうするべきなのか――
「もっと強くなるべきなんだろうか…?」
エリオンは、自分に問いかけた。クランで前線に立つことはもう辞めたはずだ。戦いから距離を置き、穏やかな生活を選んだはずだった。しかし、昨夜の戦いで、自分が弱く無力であったことが露わになった。かつての戦士としての誇りと、平穏を求める今の自分――その間で揺れ動く心が、彼女を葛藤に追い込んでいた。
「でも…鍛える必要なんて、もうないはずなのに…」
その時、部屋の扉が静かに開き、ライゼンが姿を現した。彼の顔には疲労の色が濃く残っていたが、エリオンが意識を取り戻していることに気づくと、安堵の表情が広がった。
「エリオン…意識が戻ったんだな。よかった…本当に、よかった…」
ライゼンはベッドの傍に歩み寄り、椅子に腰を下ろした。彼の疲れた瞳が彼女を見つめている。
「私を助けてくれて、ありがとう、ライゼン…。あの獣には勝てなかったけれど、命だけは…助かった…」
ライゼンは、軽く首を横に振った。「気にするな。あの異形の獣は強力すぎた。だが、今は無理をするな。体を休めてくれ」
エリオンは微かに頷き、再び天井を見上げた。彼女の心にはまだ葛藤が渦巻いていたが、今はそれを深く考える余裕はなかった。少しでも体力を回復させなければ――
その後、ゴブリンの巣から救出された4人の捕虜についての報告がライゼンの口から伝えられた。
救出されたうちの女2人は、町の人間だった。彼女たちは1週間前、森へ木の実を採りに行ったまま行方不明になっていたが、実はゴブリンに捕らわれていたという。男1人は旅人で、王都へ向かう途中に襲われたが、その後ずっとゴブリンの巣で捕虜となっていた。そしてもう1人の女――彼女は隣の領地の貴族の娘で、馬車がゴブリンに襲われ、乗っていた者たちは全員殺されたものの、彼女だけが生き延び、捕虜として連れて行かれたのだった。
「治療院の医師が彼女たちの手当てをしてくれている。町の人たちも手を貸してくれた。少しずつでも、皆無事に回復しているよ」
ライゼンの言葉に、エリオンは少しだけ安心した。まだ解決しなければならない問題は多いが、命を繋ぎ止めたこと、それが今の唯一の救いだった。
「ありがとう…ライゼン。少し眠るわ…」
「そうしろ。俺も少し休む」
ライゼンは優しく微笑み、エリオンを見守りながら、再び部屋を静かに後にした。エリオンは疲れた瞳を閉じ、次の戦いをどう乗り越えるべきか、その答えを夢の中で探すことを願いながら、深い眠りへと落ちていった。
治療院の小さな個室には、重苦しい空気が漂っていた。そこには、隣の領地の貴族の娘、アリシア・フォン・ルディアスが横たわっていた。彼女はゴブリンに捕らわれ、辛い体験をしたにもかかわらず、治療院のスタッフを困らせることに忙しくしている。2日間の治療を受け、彼女の体は徐々に回復し始めていたが、その態度は完全に元の高慢な貴族らしいものに戻っていた。
「もっと優しくしてくれないかしら?」アリシアは、看護師が包帯を取り替えている最中に、不満そうに言った。「傷に触れるのが痛いのは当然だけれど、少しは気を遣ってほしいわ。私が誰だか、忘れているの?」
看護師は申し訳なさそうに微笑みながら、手際よく包帯を巻き直した。「申し訳ございません、アリシア様。できるだけ優しくしているつもりですが…」
アリシアはため息をつき、手を顔の前にかざした。「まったく、ここは最低ね。部屋の匂いがひどくて気が滅入るわ。どうにかして、この臭いを取り除いてくれないかしら?」
「かしこまりました。すぐに芳香剤をお持ちいたします。」看護師はそう答えると、そそくさと部屋を出て行った。だが、出た瞬間、別の声がアリシアの口から飛び出した。
「ちょっと!今すぐ戻りなさい。まだ話は終わってないのよ!」看護師はその場で振り返り、気まずそうに戻ってきた。
アリシアは腕を組みながら、苛立ちを募らせていた。「それと、この食事、何?まるで家畜にでも与えるような味ね。私が王族ではないからといって、こんな粗末な食事で我慢しろというの?」
看護師は頭を下げつつ、「申し訳ございません、アリシア様。ですが、これが治療に適した栄養価の高い食事ですので…」と弁明した。
「それは分かっているけど、少しでも美味しくできないものかしら?このベッドだって、堅くて眠れない。私は貴族なのよ、もっと快適な環境を提供してくれるべきじゃなくて?」
アリシアの文句は止まらなかった。看護師や治療師は次々と彼女の要求を満たそうとしたが、アリシアはそのたびに新たな不満を口にしていた。医師は困り果て、部屋の外で他の看護師たちとひそひそと話していた。
「どうしよう…あの方は貴族の娘ですから、あまり強く言えませんし…」
「でも、何をしても文句ばかり言うんです。まるで満足することがないみたいで…」
「こちらとしては、精一杯の対応をしているつもりですが、彼女の高飛車な態度には、正直もう疲れました…」
「まったく同感だよ。けれども、相手は貴族だ。怒らせるわけにはいかない。もっと大きな問題になるかもしれないからね」
医師たちはアリシアにどう対処すべきか悩んでいた。彼女が何かにつけて指示を出すたび、スタッフは慌ただしく動き回り、部屋に戻れば新たな指示が飛び出す。彼らはアリシアがもう少しおとなしくしてくれることを願いながら、精一杯の努力を続けるしかなかった。
部屋の中では、アリシアが再び大きな声を上げていた。
「呼んだらすぐに来なさい!私は待つのが嫌いなのよ!」
治療院の中では、スタッフたちのため息が静かに漏れ続けていた。
治療院の重厚な扉が静かに開き、そこに立っていたのは、アリシアの兄であるルディアス家の嫡男、フィリップ・フォン・ルディアスだった。彼は背が高く、精悍な顔つきに鋭い眼差しを宿し、立派な装飾が施された高貴な衣装を身にまとっている。フィリップは、妹の安否を確認するため、領地から派遣されてきた使者だった。
「アリシアの兄君が来られました」と看護師が部屋に告げると、治療師たちは緊張した表情でフィリップを迎え入れた。フィリップの瞳には妹への深い心配が滲んでおり、その足取りは決して軽やかではなかった。
「アリシアの具合はどうですか?」フィリップは冷静に尋ねたが、その声には明らかな焦燥感があった。
治療師が少し前に出て、静かに答えた。「怪我は順調に回復しております。幸いにも命に別状はございません。ただ、しばらくは安静にしていただく必要があるかと…」
フィリップは短く頷き、看護師の案内でアリシアの部屋に向かう。扉を開けた瞬間、アリシアはベッドに横たわりながらも相変わらず文句を言い続けていた。
「もう!一体いつになったらこの硬いベッドを何とかしてくれるの?食事だって少しは改善されたかと思ったら、またあんな味のしないものばかり…」
「アリシア」とフィリップの低く、落ち着いた声が響いた。彼の姿を見た瞬間、アリシアは一瞬言葉を止め、兄の存在に気づいた。
「フィリップ兄様!」アリシアの顔が驚きと喜びでぱっと明るくなったが、すぐにその表情は不満げなものに戻った。「どうしてこんなに遅かったの?私はずっとここで待っていたのに…!」
フィリップはベッドの脇に腰を下ろし、妹の手を優しく握った。「領地の状況もあって、すぐには来られなかったんだ。父上もお前のことを心配している。だが、私はこうしてお前の元に来たよ。体は大丈夫か?」
アリシアはふくれっ面をしながらも、兄の手をしっかりと握り返した。「まぁ、怪我はだいぶ良くなったけれど…ここが不便で仕方ないの。食事も、部屋の匂いも、ベッドも、全部ひどいんだから。」
フィリップは妹の愚痴に静かに耳を傾けた。彼は妹の性格をよく知っているため、多少の不満は予想していたが、無事に回復している姿を見て心底安心した。
「そうか。無事で何よりだ、アリシア。もう少しの辛抱だ。怪我が完全に治ればすぐに領地へ連れて帰る。父上もそれを願っている。」
アリシアは兄の言葉に少し心を落ち着かせた。「本当に?早く帰りたいわ…この場所、もう耐えられないもの。」
フィリップは微笑みながら頷いた。「もちろんだ。お前が元気になり次第、すぐに領地へ帰る準備をするよ。それまで、もう少しだけ我慢してくれ。」
アリシアは頷き、少しだけ表情を和らげた。彼女の元気な様子を確認できたフィリップは、次に彼女を助け出した者たちに会いに行く決意を固めた。助け出された者の中には、彼らにとって重要な存在かもしれない人物が含まれていると聞いていたからだ。
「では、また後で顔を出す。少し外の空気を吸ってくるよ。」
フィリップは妹を励ましながら立ち上がり、アリシアの部屋を後にした。彼の心には安堵と共に、次の使命へ向かう責任感が満ちていた。
フィリップはアリシアの部屋を後にし、治療院の中庭を歩きながら次の目的を考えていた。妹を助け出してくれた人物、その者がどんな人間であり、どういった意図でアリシアを救出したのかを確かめる必要がある。貴族としての立場からすれば、単に感謝を伝えるだけでは済まされない。何かしらの見返りや報酬が求められることが多いからだ。
治療院の看護師にライゼンという人物の居場所を聞いた後、フィリップは町の通りにあるデービットの食堂に向かう。そこにいたのは、妹を助け出したライゼンというネクロマンサーだった。
食堂は昼の時間帯で、醸造所ではまだエールの製造が完了していないため、人の出入りも少なく静かな空気が流れていた。ライゼンは、簡易な木のテーブルに座り、少し焦りの混じった表情で窓の外をぼんやりと見つめていた。心の中では、借金のことが頭を離れない。父デービットが抱える金貨40枚の返済期限が迫っており、今のところその支払いにあてる当てがない。お金のことを考えるたび、胸の奥で不安が増していくのを感じていた。
フィリップが静かに彼の元へ歩み寄ると、ライゼンはその気配に気づき、すっと顔を上げた。
「君がライゼンか?」フィリップは落ち着いた声で問いかけた。
「そうです」とライゼンは少し疲れた表情で答えた。彼はフィリップが誰であるかすぐに理解した。あの高貴な装い、そして妹を救出したという経緯からすれば、この人物がアリシアの兄であることは明らかだった。
フィリップはライゼンの前に座り、彼を冷静に見つめた。「妹を助けてくれたことに、まずは感謝する。アリシアは少し元気を取り戻したが、君がいなければどうなっていたかわからない。本当に感謝している。」
ライゼンは一瞬、心の中の焦りを忘れ、フィリップの言葉に穏やかに頷いた。「無事に助けられて何よりです。」
フィリップはその答えを受け取ると、少し身を乗り出して尋ねた。
「だが、私は君がどうして妹を救ったのか、そして君がどんな人物なのか知りたいんだ。君は一体何者で、なぜあの危険な場所にいたのか。」
ライゼンはしばらく沈黙した後、ゆっくりと話し始めた。
「私はネクロマンサーです。ゴブリンの巣にいた理由は、他の捕らわれた人々を救うためでした。エリオンという戦士と共に、あの巣に乗り込んだんです。結果的にアリシア様を含む4人を助け出すことができました。」
フィリップはライゼンの話を黙って聞いていた。彼の冷静な表情は、まだライゼンの本意を探ろうとしているかのようだった。「君がネクロマンサーということは理解した。だが、私の妹を助けることに対して、何か見返りを求めているのか?」
ライゼンは一瞬、金貨の返済が頭をよぎったが、彼はすぐに首を振った。「いいえ、私はアリシア様を助けたのは純粋に彼女の命を救いたかったからです。見返りを求めているわけではありません。」
フィリップはライゼンをしばらく見つめた後、頷いた。「そうか。だが、我々ルディアス家としては、君のような人物に報いることは義務だ。君が望んでいないとしても、助けてくれたことに感謝し、相応の礼をしなければならない。」
ライゼンはその言葉に戸惑いながらも、少し心が軽くなるのを感じた。金貨40枚の返済が頭から離れない彼にとって、フィリップの申し出は予想外の救いになるかもしれなかった。
「領地に招いて君を歓待することも考えている。そこで、我々ができる限りの礼を尽くすつもりだ」とフィリップは続けた。「もちろん、君がそれを望むかどうかは君次第だが。」
ライゼンはフィリップの領地に招かれることを考えながら、食堂のことが頭から離れなかった。
(父さんの食堂を留守にするのはまずいな…エールの完成時期が近いし、試飲会の日付もまだ決まっていない。もしフィリップの領地に行けば、何日も町を離れることになる。それに、借金の返済日も迫っているし…)
借金のことがライゼンの頭に重くのしかかっていた。父デービットが借りた金貨40枚を返す日がもうすぐだが、手元にその金がない。どこから工面するかはまだ決まっていない。心の中では焦りが募っていたが、今すぐに動ける手段も見つからない。
フィリップは貴族であり、恩を感じている様子だ。そこでふと、借金の肩代わりを頼めないかと頭に浮かんだ。助けた礼として、少し話を持ちかけてみれば…と思うものの、貴族に頼むのは気が引ける。
(いや、でも…もし話がうまくいけば借金を返せるだけでなく、父さんの食堂も守れるかもしれない)
ライゼンはしばらく考えた後、静かに答えた。
「ありがとうございます。そのお申し出には感謝します。ただ…今はまだ私自身の問題がいくつかありまして…すぐには決めかねます。」
一瞬、言葉が詰まり、ライゼンは自分の手をじっと見つめた。肩代わりを頼むことはずうずうしい、でもこの機会を逃したらもう後がない。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、ライゼンはゆっくりと顔を上げた。
「実は…申し上げにくいのですが…」彼の声はかすかに震えていた。「私の父が、金貨40枚の借金を抱えていまして。返済期限が迫っているんです。どうしても、その金額をすぐに用意することができなくて…」
ライゼンは申し訳なさそうにフィリップを見つめた。貴族の領主の前でこんな頼みをすることがどれほど恥ずかしいことか分かっていたが、どうしても口を閉ざすことはできなかった。
「申し訳ないのですが…」ライゼンは深く息を吸い込んで続けた。「もし、もしもお願いできるのであれば、その金貨の借金を…肩代わりしていただけないでしょうか?本当にずうずうしいお願いだとは分かっていますが、どうか…」
言い終わると、ライゼンは肩を落とし、フィリップの返答を待った。顔を真っ赤にしながら、地面を見つめていた。
フィリップはライゼンの話を聞き、静かに考え込む表情を浮かべていた。そして、目を細めてライゼンに向き直った。「あなたがルディアス家の者を助けたという話は聞いています。彼女の命を救った結果として、金貨40枚は妥当な金額だと思います。お礼としても、何ら問題はありません。」
ライゼンはその言葉に安堵の息を漏らしながらも、フィリップの考えを引き続き見極めようとしている様子に気づいた。フィリップの関心は金貨の話だけではないようだ。彼は続けた。「しかし、私の領地は現在小規模な争いを抱えています。実は、一か月前から隣国への出兵に兵力を出しており、さらなる助力が必要です。」
フィリップの視線が真剣にライゼンを見つめ、彼の能力について考慮していることが分かった。「あなたがネクロマンサーという珍しい職業に就いていることから、どれほどの力を持っているのか、ぜひ知りたいと思っています。私たちが抱える問題に対して、あなたが助力できる実力があるか、ぜひ示してほしいのです。」
ライゼンはその要望に頷き、彼はポケットから最近使っていない冒険者ライセンスを取り出し、フィリップに見せる。「これが私のA級ライセンスです。彼女を救ったのは一つの結果ですが、私の能力はそれだけではありません。あなたの領地のために力を尽くすことができますが、それは正式な依頼でしょうか?」
フィリップはライゼンのA級ライセンスを見つめた後、静かにそれを返した。彼の表情には決断の色が宿り、丁寧な口調で言葉を続けた。「ライゼン殿、あなたの力は確かに私たちの領地にとって貴重なものです。現在、私たちは小規模な争いを抱えており、隣国との緊張が高まっています。兵力が不足している状況下で、あなたの力をお借りできれば、事態は大きく改善するでしょう。」
フィリップは少し間を置き、真剣な眼差しでライゼンに依頼の内容を伝えた。「そこで、正式にあなたに依頼を申し上げます。隣国との争いにおいて、私の領地を助けるために、あなたの力を貸していただきたい。報酬は金貨20枚です。これは、貴族の娘を救った際の礼金とは別の依頼料としてお支払いします。」
その言葉を聞いたライゼンは、心の中で依頼の内容に魅力を感じた。金貨20枚は大きな額であり、父の借金返済にも十分な資金になる。しかし、彼の胸の中には別の思いが渦巻いていた。彼はフィリップの目を見つめ、真摯な表情で答えた。
「フィリップ殿、魅力的な申し出には感謝します。しかし、現状でその依頼をお受けすることはできません。理由は、今、私にとって優先しなければならないことがあるからです。エリオンの容態がまだ安定しておらず、彼女を放って領地を離れることはできません。彼女は私にとって大切な存在であり、回復するまでは傍にいることが必要だと感じています。」
フィリップはライゼンの言葉を聞き、少し驚いたようだったが、すぐに理解の表情に変わった。「そうか、エリオン殿の容態は心配ですね。事情は理解しました。無理を言って申し訳ありませんでした。彼女があなたにとって大切な存在であり、回復が第一であること、私も同意します。」
席を立とうとしたフィリップは一度沈黙し、考え込んだ後、静かにライゼンに向き直った。「ライゼン殿、エリオン殿の容態が回復するのを待つというのも、私たちとしては十分に受け入れられる提案です。争いの状況も急を要するものではないため、10日ほどの猶予があります。もしその間に彼女が元気を取り戻されたなら、その時にでも私の領地を訪ねていただければ。」
フィリップは手元から小さな十字架を取り出し、ライゼンに差し出した。それは彼の家の紋章が刻まれたもので、明らかに貴族としての正式な証であった。「こちらは、私の屋敷を訪れる際の証明としてお使いください。これを見せれば、私の領地の門を通してすぐにお迎えすることができます。」
ライゼンは一瞬、その十字架を見つめた後、丁寧に受け取った。「ありがとうございます、フィリップ殿。エリオンが回復し次第、伺わせていただきます。ご厚意に感謝します。」
フィリップは微笑んで頷き、少し疲れたような表情を浮かべながら立ち上がった。「それでは、私はこれで失礼します。どうかエリオン殿が早く良くなられますように。」
フィリップは礼儀正しく頭を下げ、屋敷に向けて帰っていった。その背中を見送りながら、ライゼンは手の中の十字架を握りしめ、深く息を吐いた。エリオンの容態が回復したら、フィリップの依頼を受けることになるかもしれない。だが、それまでに考えるべきことが山積みであることを、ライゼンは再認識していた。
フィリップが去った後、ライゼンはしばらくその場に立ち尽くしていた。手の中の十字架を見つめながら、深いため息をつく。エリオンが回復すれば、フィリップの依頼に応えることになるだろう。金貨40枚の借金も一旦は肩代わりされ、そして新たに20枚の依頼料が手に入る。それは大きな助けになるはずだが、ライゼンの胸には重苦しいものが残っていた。
彼はゆっくりと食堂に戻り、カウンターの椅子に腰を下ろす。周囲は昼の静けさに包まれ、外の通りからは時折、村人たちの話し声や足音が聞こえてくる。この食堂を、父と共に平和に営む日々。それが彼の心の片隅にずっとある小さな夢だった。
「平和に、父と一緒にこの食堂をやれる日は、いつ来るんだろうな…」ライゼンは呟いた。だが現実は、戦いや借金、責任に追われる毎日だ。貴族の娘を助けたことで再び冒険者としての役割が求められ、次々と問題が積み重なっていく。
彼は窓の外をぼんやりと眺めた。遠くに広がる田畑や、のどかな村の風景は一見平和そのものだ。しかし、その裏には争いや闘争が絶えず存在し、自分のような者に解決を求められることが多い。いつか、こんな日々から解放され、父と二人でこの場所で穏やかな時間を過ごせる日が来るのだろうか?
「それまで…どれだけ戦えばいいんだろうな…」
ライゼンは自分に問いかけるように、ただ静かにそう考えながら、カウンターに肘をついて頭を抱えた。




