双子の誘拐
うちの庭には大きな珊瑚樹が植えてあって、秋になると小さな葡萄みたいに連なった赤い実が生った。
「あたし、あれ届くよ」とてっぺんに実った赤を指差したのは、十歳になったばかりの従妹の奈央で、「あんな高いの登ったら落ちて死んじゃうよ」と泣いたのが奈央の双子の妹、理央だった。
奈央と理央は一卵性双生児だけあって、顔立ちはそっくりなのに性格は正反対で、それが顔つきにも表れていた。それに奈央は短髪で理央は長髪だったため、誰もふたりを間違えることはなかった。
「ねえ満ちゃん、あの枝とってこれたらすごいと思わない?」溌溂と奈央は笑い、「そんなの危ないよね、落ちちゃうよね、満ちゃん」と理央はへの字だった眉をさらに垂れさげた。
ふたりの従妹である私は、双子のお守りを面倒臭がっていて、「どっちでもいいよ、そんなの」と投げやりに言った。
「じゃあ枝とってきて、すごいって証明するね」と奈央は木に登っていき、理央は「奈央の馬鹿ぁ」と涙目になった。
奈央の小さくなっていく体を見あげながら、理央は私の服の裾を摘まんだ。
「満ちゃん、本当はね、分かってるの。奈央が無茶なことばっかりするのは、わたしのせいなの。わたしと似てるって言われるのが嫌で、奈央はわたしのできないことばっかりしようとしてるの」
理央の震えた声を聞きながら、私は自分の心が逆立つのを感じた。あの頃の私はその感情を苛立ちとして処理してしまったけれど、本当は多分、ふたりが羨ましかった。一人っ子で、共働きの両親をもっていた私は、一人で過ごすことが多く、認めたくなかったけれど寂しかった。だからこそ、常に分身のようにふたり寄り添う双子に嫉妬していたのだ。
囁くような声で、理央は言う。
「わたしはふたりでひとつでいいの。そういう絆があると安心する。でも奈央は違う。わたしは奈央のために、ひとりで立たなきゃいけないの」
結局、奈央は樹上から降りられなくなり、兄弟である私の父と双子の父が協力して奈央を助けた。奈央は泣きじゃくりながら、赤い実が生った枝を握り締めていた。四年前のことだった。
肌寒くなってきた放課後、私をファストフード店に呼びだした奈央は、セーラー服の襟の前で手のひらを合わせた。
「満ちゃん、お願い。あたしを誘拐して!」
「はあ?」
安っぽいシートのボックス席の向かいで、私は眉間に皺を寄せた。
西中の制服を着た奈央は、今年で確か十四歳。私より三つ下だが、馬鹿なこと言うような年齢でもない。
「何それ、意味が分からん」
「だーかーら、あたしを誘拐するんだってば」
「繰り返されても、さっぱり分からんわ」
私はジンジャーエールの入ったグラスに手を添えた。水滴で指先を冷やしながら、首を傾げる。
「何で急にそんなこと言いだした?」
「だってママ、最近あたしのことほったらかしなんだよ。いくらあたしがいい子だからって、ちょっと危機感なさすぎ。誘拐されたら流石に心配するかなって」
「いや、心配するに決まってるじゃん。わざと心配かけるなんて可哀想だよ」
「いいの。現状を打破するには、そのくらいのインパクトがいるもん。ねー、満ちゃんお願い」
長い髪をさらりと揺らし、奈央を私の顔を覗き込む。私はため息を吐き、通学鞄から携帯を取りだした。
「番号は」
短く聞くと、奈央はぱっと顔を輝かせ、母親の電話番号を諳んじた。数字を打ち込み、電話をかける。コール音が数回続き、「はい」と奈央ん家のおばさんの声が聞こえた。
「あー、もしもし。お宅の奈央さんを誘拐しました」
「は?」
警察呼ばれたらどうしよ、とか、私の番号知らんだろうけど声でバレるかもな、とか思ったが、おばさんは怪訝そうに言った。
「奈央? 誰ですか。うちにはそんな子はいません。悪質ないたずらはやめてください」
呆然と目の前の奈央を見る。きっと私の形相は酷いものだっただろうが、奈央のへたくそな笑顔も相当だった。私が通話を切ると、奈央は「はは、誘拐でも駄目だったか」と投げやりに呟く。
「どういうこと?」
「ママの中で、あたしはいないことになってるんだよ」
目を伏せた奈央の頬は、幽霊のように蒼白な色をしていた。
理央が死んだのは、二年前の夏だった。
いつも一緒にいた双子は車に撥ねられたときも一緒で、しかしすぐに目を覚ました奈央と違って、理央はそのまま永い眠りについた。
棺の中で花に囲まれた理央は、事故に遭ったとは思えぬほど綺麗な顔をしていて、それを眺める奈央の方がよっぽど死にそうな表情だった。
「あんたは絶対、髪切らないでね」
奈央はしょっちゅう理央に言っていた。
「もー、どうしてただでさえ顔が似てんのに名前まで寄せたかな」と愚痴りながら、「せめて髪型くらいは別々にしないとね」と奈央はいつもボブカットに毛先を切り揃えていた。
理央は「はいはい」と双子の姉に従い、けれどいつも艶やかな長髪を保っていたから、自分でも長い髪を気に入っていたのかもしれない。
棺に眠る理央の髪も、相変わらず美しかった。
奈央は妹の死に一粒の涙も見せず、焼かれる棺を見送った。やがて彼女は髪を伸ばすようになり、私はもう理央と間違われることがなくなったからだろうと思っていた。
でもどうやら、奈央は理央になろうとしていたようだった。
ファミレスのコーラを飲みながら、奈央は言う。
「ママはさ、理央が死んじゃったことに耐えられなかったんだと思う。理央の死をなかったことにしたんだよ。理央は死んでない。子どもも初めから一人しかいなかったって思い込んでるの。ママは、あたしのこと理央だと思ってる。ママの中で、奈央はいないことになってるんだよ」
「……どうして、誰にも言わなかったの」
「言えるわけないじゃん。妹は死んで、ママは頭おかしくなってますって? しかもパパは見て見ぬふり。恥ずかしくて、誰にも言えないよ」
奈央は必死に理央を演じていたのだ。母のために。
テーブルに奈央は突っ伏した。彼女の肘にぶつかって、コーラのグラスが傾く。慌てて手を添えた私の耳に、消え入りそうな囁きが届いた。
「理央じゃなくて、あたしが死ねばよかった」
私はグラスをテーブルに置き直した。
ずっと、双子が羨ましかった。一番の理解者である片割れの隣で生きていける二人が。
でも理央は分かっていた。均質な魂などないことを。だからこそ、「ひとりで立たなきゃいけないの」と珊瑚樹の前で言ったのだ。
いつも奈央のことを心配してばかりだった理央。彼女こそ奈央の前にいたかったはずだ。だけどここには、姉妹や友達ほど親密ではない、従姉の私しかいない。
それでもきっと、だからこそ奈央は私の前で弱音を吐いたのだ。前でも後でも隣でもなく、ねじれの位置にいる私の前で。
「行くよ」
私は奈央の腕を引いた。
「どこに?」
顔を上げた奈央の頬は濡れていた。
「誘拐なんだから、黙ってついてきて!」
さらに強く腕を引っ張ると、よろよろと奈央は立ちあがった。会計を済ませ、ファミレスを出る。私は自宅に奈央を連れ帰った。
「おかえり……って、奈央ちゃん?」
玄関に顔を出した母が、目を丸くする。
「遊びに来たの? なんだか元気ないわね、大丈夫?」
「奈央、私の部屋に連れてくからさ、なんか温かい飲み物持ってきてくれん?」
はいはい、と台所に向かう母を見送り、奈央と手を繋いで二階の自室へ向かう。ベッドの上に制服のまま並んで座り、窓から覗く珊瑚樹を見た。濃い緑の葉と、南国の珊瑚のように赤い実。遠い記憶に、自然と口元が緩んだ。
「覚えてる? 昔、奈央がうちに遊びに来たとき、木登りしてさあ、降りられなくなって、びーびー泣いてたの」
「えーやだ黒歴史じゃん、忘れてよ」
「忘れないよ。あのときの奈央と理央、好きだったもん。お互いのこと大好きなくせにさ、必死に離れようとして、可愛かった。そんなことしなくてもさ、誰もあんた等のこと間違えたりしないのにさ」
奈央の顔から表情が滑り落ちた。伝えなければいけない。彼女よりたったの三年早く生まれただけだけど、それでも片割れを亡くしてひとり戸惑っている命に、伝えなければ。
「奈央は奈央だよ。理央じゃない。間違えちゃうとしたら、あんたのお母さんは病気だ。ちゃんと治療しなきゃなんない」
プリーツスカートの上で、奈央は拳を握った。
「治療って、理央のこと思い出させるってこと? 理央の死に向き合わせるってことだよね? そんなの、ママが可哀想だよ」
「可哀想なんかじゃない。奈央のこと分からなくなってる今の方が、ずっと可哀想だよ」
奈央が不安げな瞳をこちらに向ける。理央といるときはあんなにも自信に満ち溢れていたのに、迷子になった子どもみたいだ。繋ぎとめるように、言葉をかける。
「それに、理央のふりさせられてる奈央の方が、ずっと可哀想。我慢なんか、する必要ない。しちゃ駄目だよ」
小さく唇を開き、浅く呼吸を繰り返し、奈央は言った。
「ぜんぶが辛かったわけじゃないの。鏡を見るたびにね、なんだかそこに理央がいるような気がして、少し嬉しかった。あたしだって、理央がいなくて寂しかったから」
彼女は理央を失って、初めて孤独というものを知ったのではないか、と思った。
私にとって、孤独はいつも身近にあった。例えば、残業で父の帰りが遅く、母も遅番で仕事に出てしまった夜。暗闇にふと目を覚ましてしまって、痛いほどの静寂に鼓動が響いて、全身の血管が収縮し、気が遠くなっていくような感覚。寂しさの魔物は、正常な判断力を奪っていく。けれど一生退治することもできず、なんとか格闘して飼い慣らすしかないのだ。
奈央が今、対峙している魔物との付きあい方を、教えてあげられるだろうか。
私は奈央の肩に腕を回した。
「理央がいないの、寂しいね。でも同時にね、奈央がいてくれてよかったって思うよ。生き残ってくれて嬉しい。ありがとうね」
「満ちゃん……」
奈央の声が震えた。湿った吐息を吐きだし、両手で顔を覆う。しゃくりあげる背中をさすっていると、母が蜂蜜レモンを運んできてくれた。
「あらあら奈央ちゃん、まあ大変」
「ほら、奈央。飲める? 温かいのお腹にいれたら、ほっとするよ」
奈央は両手でマグカップを掴み、立ちのぼる湯気で濡れた頬を蒸らしながら、ゆっくりと嚥下する。ぐずぐずに泣きつつも飲み終えた奈央は、手の甲で頬を拭った。
「大丈夫」
大丈夫、大丈夫、とおまじないのように奈央は呟く。夜、仕事に出た母と入れ替わりに帰ってきた父が、弟である奈央の父を呼びだした。兄弟は深夜まで話しあいを続け、私と奈央は同じ布団で眠った。
布団の中で、別の人間の鼓動や呼吸や身じろぎの音が聞こえてくるのが新鮮だった。奈央の体温で普段よりも毛布が温かく、両親と眠っていた幼い頃を思いだした。
眠りに落ちる間際、うつらうつらとした声で奈緒が言った。
「あたしさあ、髪、切ろうかな」
「……好きにしたらいいよ。納得がいくまで、ゆっくり考えてさ。時間はいっぱいあるんだし」
「うん。そうだよね。……ごめんね、変なことに巻き込んじゃって」
私は寝返りを打って、暗がりの中、奈央の背中を見た。馬鹿だなあと微笑む。
「違うでしょ。家族なんだし、これからもさ、お互いの人生を巻き込んでいこうよ」
ひひ、と奈央が肩を揺らして笑う。
「満ちゃん、恥ずかしいこと言うようになったね」
「大人になったってことよ」
「まだ高校生のくせにさ、イキってるんだ」
「中学生のくせに、偉そうなこと言って」
同じ毛布の温もりに包まれて、私たちはくふくふと笑い声を弾けさせる。どんなに体を近づけたって、私は理央の代わりにはなれないけれど、体温を分けあい笑いあっているうちは、寂しさの魔物も退屈そうにあくびを零した。