第二話 私の心の二度目の死
知らない香りで目が覚めました。
私は下着姿で誰かのマントにくるまれています。
ゆらゆらと揺れる焚き火の向こうにマントの持ち主の姿が見えました。
「気が付いたかい?」
「は、はい」
「勝手に服を脱がせて悪かった」
「いいえ、濡れた服を着ていると体に悪いですもの」
焚き火の向こうにいたのは、銀色の髪の青年でした。私より五歳ほど年上でしょうか。
この辺りの人間ではありません。
湖の向こう、北のシニストラ王国の方でしょうか。シニストラ王国は、ここデクストラ王国の友好国で、学園にもシニストラ王国から留学生が来ていました。何度かお話したこともあります。確か大公子息のネビル様。同じ国の方だからか、炎に照らされた青年の顔はネビル様に似ている気がします。
「湖に落ちた私を助けてくださったのですね」
「ああ、その……」
「……事故です。助けてくださってありがとうございます」
そう、事故です。
いくら婚約を破棄されたからと言って、辺境伯家の令嬢が湖に飛び込んで自害してはいけません。一緒に昼食を楽しむ予定だった侍女達が責められてしまいます。彼女達に悪いことをするところでした。
私は自分がいる場所を見回しました。
「ここは……」
「湖の周りの洞窟の中だ」
知っている場所でした。
あの湖の周りには、こういった洞窟がいくつかあります。
急な吹雪のとき逃げ込むようにと、辺境伯領の人間は子どものころから場所を教えられています。ここは一番シニストラ王国に近い位置にある洞窟のようですね。侍女達もすぐに探しに来るでしょう。
「そろそろ乗馬服も乾いているだろう。私は後ろを向いているから着替えるといい」
「ありがとうございます」
横たわっていた私の隣には、着ていた乗馬服が広げられて乾かされていました。
「男性と同じ意匠のもので助かったよ。ドレスなら脱がせることもできなかった」
炎と私の間には彼のものらしき剣が置かれています。
眠る私に手を出さない、出してはいないという証です。
服を脱がせて下着姿の私をマントにくるんだ後は、この剣を置いて距離を取っていたのでしょう。
「あなたのお名前をお聞きしても良いでしょうか?」
「……すまない。名前は言えないんだ。シニストラ王国のものだが、デクストラ王国に害を及ぼすためにいたのではない。信じてもらえると嬉しいのだが」
「命を助けてくださった方を疑うことはしませんわ」
密偵とは思えません。
両国の関係が友好なこともありますが、彼の装いは派手でなくても高価なものです。
おそらくシニストラ王国の貴族でしょう。貴族なら辺境伯領に忍び込むよりも、堂々と王宮を訪問したほうがデクストラ王国の内情を探れます。
「君は……」
「はい」
「この辺境伯領のご令嬢、アンリエット殿をご存じか?」
どういうことでしょう。
私を訪ねてきたのに私の顔を知らないなんてことがあるのでしょうか?
自分だと名乗るのが、なぜか気恥ずかしく感じて俯きます。
「君も貴族のご令嬢だと思ったのだが、知らないのかい?」
「あの……」
「……お嬢様ぁ……」
どこからか侍女達の声がします。
「天に恥じるおこないはしていないものの、一緒にいないほうが良いだろう。君の着替えも済んだようだし、マントと剣を焚き火越しに投げてもらえるかな?」
「は、はい。……っ」
「どうしたんだい?」
「……なんでもありません」
私と炎の間にあった剣は熱せられていて、私の指を焼きました。
洞窟を出て行く彼を見送った後で、私は火傷の残る指に唇を重ねました。
全身には、くるまれていたマントから移った彼の匂いが残っています。
なんてはしたないことでしょう。
つい先日婚約者に捨てられたところだというのに、私は新しい恋をしていました。名前も知らない方の面影が壊れた心臓を蘇らせました。むしろ前よりもうるさく鼓動を奏でています。
いいえ。ラインハルト殿下に恋していた私は湖水の中で死んだのです。新しい私が新しい恋をして、なにを恥じることがあるのでしょう。殿下は男爵令嬢のプラエドー様と正式に婚約を結び、彼女は王家に嫁ぐため子どものいない伯爵家の養女になったという噂は早馬が届けてくれました。
しばらくして現れた侍女達は婚約破棄を吹っ切った私を見て、湖に落ちたのは事故だったという話を信じてくれました。
そしてそれから一か月後、ラインハルト殿下との婚約破棄の話を聞いて私に結婚を申し込んできてくださったのは、隣国シニストラ王国の若き王ヘイゼル陛下──冷たい湖水から私を助けてくれた男性でした。
結婚前の顔合わせで私を見た彼は、困ったように苦笑しました。
やがて三か月の月日が流れ、北の辺境伯領にもさらに北のシニストラ王国にも夏の足音が聞こえるころに、私はヘイゼル陛下の元へ嫁ぐことになったのでした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……すまない」
初夜の床で、彼は言いました。
「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」
悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。