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好きでした、さようなら  作者: @豆狸
10/15

第十話 私が眠っている間に

 アンリエットの安らかな寝息が聞こえ始めたので、ヘイゼルは寝た振りを止めた。

 すぐに眠りに落ちていったのは、彼女が疲れているからだろう。

 辺境伯領で宿泊しようとしなかった理由には薄々気付いている。自分と彼女の歪んだ関係を悟られないようにだ。彼女はいつもヘイゼルのことを第一に考えてくれる。


 異母弟で従弟のネビルに莫迦なことを頼んでしまった日の記憶が蘇る。

 なんだかんだ言いながら真面目な彼は、ヘイゼルに怒りながらもその日の仕事を最後まで手伝ってくれてから飛び出して行った。


 夕暮れの中、ヘイゼルは執務室を出て裏庭に向かった。

 母クラウディアに花壇をもらったアンリエットが、そこで香草(ハーブ)を育てていることを知っていたからだ。彼女に早めに終わってもらったときは、たまに迎えに行っていた。

 ヘイゼルが名前を呼ぶと、彼女は振り向いて微笑む。


 その日はネビルに先を越されていた。

 振り向いて微笑んだアンリエットがヘイゼルではないと気づいて表情を変えたことに、驚くほど喜んでいる自分がいた。

 彼女は優しい表情でネビルが連れてきた猫の腹を撫でていた。ヘイゼルの莫迦な頼みをネビルが打ち明けても、彼女は怒ることも悲しむこともなかった。それに傷ついている自分がいることにも気づいた。


 さっき馬車の中で目覚めたときの涙はだれのことで流したものだったのだろう。

 身勝手なヘイゼルに対してだろうか。

 それとも……彼女は今も前の婚約者のラインハルト王子を愛しているのだろうか。ヘイゼルはアンリエットの気持ちを聞いたことがない。いや、彼女が望んでいることは知っていた。それはヘイゼルの愛する女性を見つけることだ。


 あの夏の夜に会った自称辺境伯令嬢は儚げで弱弱しく、見るものの庇護欲を掻き立てた。──ネビルを産んだ母の異母姉と同じように。

 母を苦しめた父のことを軽蔑していたが、親子は好みが似てしまうのかもしれない。

 彼女が亡くなったときヘイゼルはまだ幼かったけれど、その今にも消え去りそうな美貌を忘れられないでいる。


 血がつながっているだけあって顔立ちは似ているものの、母は異母姉と違って健康的だ。

 逞しく、ひとりでなんでもできる。

 幼くして国王代理となったヘイゼルを支えながら父王を看病し、国を動かした。叔父である大公とその一家の協力もあったが、ヘイゼルが即位するまでシニストラ王国を守ってきたのは母だ。


 アンリエットは、母ほど逞しそうには見えない。

 冬の終わりの湖で見つけたときは、今にも死にそうだった。

 青白い顔の少女をこの世に引き留めるため紫色になった唇から息を吹き込んだことは、彼女には告げていない。


 シニストラ王国に嫁いできたアンリエットは、おっとりした貴族令嬢だった。

 だが、ヘイゼルが真実を告げても泣きじゃくることなく受け入れたのは、芯が強い女性だからなのかもしれない。

 その上彼女は、ヘイゼルの愛した女性を探すとまで言ってくれた。すべてはもう終わったことだと、アンリエットは笑う。


 彼女を、アンリエットを愛したいと思う。

 毎夜、剣の向こうで眠る彼女の香りや寝息に、どうしようもなく体が火照る。

 用意してくれるお茶やお菓子はヘイゼルの好みを考えたものだし、仕事を補助してくれるのも助かっている。彼女がシニストラ王国に慣れて王妃としての仕事をするようになったら、離れ離れの執務室になるのが寂しいくらいだ。


 仕事を終えた夕暮れ、花壇の世話をしているアンリエットの名前を呼んで、振り向いた彼女が微笑む瞬間が好きだ。


 しかし、ヘイゼルは忘れられないのだ。

 あの儚げで弱弱しい女性を。彼女のことを守りたいのだ。

 自分から望んで妻にした本物のアンリエットのことさえ守れていない自分に、そんなことができるはずがないのに。偽物のアンリエットは、本物の名誉を穢して婚約破棄に追い込んだ罪人だというのに。


 ヘイゼルの記憶から、夏祭りで会った偽物のアンリエットのことが消え去ることはない。

 第二王子の婚約者である辺境伯令嬢を名乗る女性が夏祭りで浮かれた夜の町をひとりでうろついていたこと自体おかしいのに、ヘイゼルはそれを婚約者のラインハルト王子のせいだと思った。荒々しいと評判の婚約者との関係に疲れているのだと同情した。

 そして抱き寄せてキスをした。そのときの唇の熱さを忘れられないのだ。


 ──お前はアンリエット様を愛してるんだよ!


 ネビルの怒号が耳に蘇る。


 ──離縁して手放すのは嫌、だけど自分のくだらない思い込みも崩したくない。

 だから俺と子どもを作らせるなんて考えが出てきたんだ。

 俺なら……俺なら絶対彼女に愛されないと思ってるんだろう?

 そうだよな。俺はお前と似てる。母親が違っても兄弟なんだから当たり前だ。

 俺を見れば彼女はお前を思い出す。


 彼は憐れむような瞳でヘイゼルを見て言った。


 ──ラインハルト王子には渡したくないくせに。


 涙を流して目覚めたアンリエットがラインハルト王子の夢を見ていたのかもしれないと思ったとき、ヘイゼルの胸は締め付けられた。

 彼女を連れてデクストラ王国の夏祭りになど来るのではなかったと思っている。

 初夜に誓ったあの約束の意味を深読みしそうになってしまう。


「それでも……」


 ヘイゼルは両手で自分の顔を覆った。

 それでも彼の胸からは、あの儚げな面影が消えないのだ。

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