第一話 私の心の一度目の死
「……すまない」
初夜の床で、彼は言いました。
「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」
悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「アンリエット! 不実なお前との婚約を破棄する! 俺という婚約者がありながら、どこの馬の骨とも知らぬ男と抱き合っていたというではないか」
なにひとつ身に覚えのないことでした。
ですが、ラインハルト殿下の顔を見ればわかります。なにを言っても聞いてくださらないことは。
五歳で婚約してから十三年間、ずっと一緒に過ごしてきたのですから。
そういえば、去年の夏からラインハルト殿下の様子はおかしくなりました。
周囲の男性を惑わせて取り巻きを作っている男爵令嬢のプラエドー様……今もラインハルト殿下の隣に立っている彼女には、魅了の術を使っているのではないかという疑いがあります。儚げで弱弱しい彼女は、見るものに守りたいと思わせる美少女です。黄金の髪は柔らかく、緑色の瞳は澄んでいます。
兄君である第一王子にして王太子のジークフリード殿下に依頼されて、密かに彼女のことを探っているからだと思っていました。魅了の術はおとぎ話ですが、世の中には悪い薬などもありますからね。
男爵令嬢プラエドー様を探るつもりで魅入られて、虜になってしまったのでしょうか。
……いいえ。ラインハルト殿下の瞳にあるのは恋情でも欲望でもなく怒りです。
本当に、私が不貞を働いたと思われているのです。
私は、辺境伯令嬢に相応しいお辞儀をして、学園の卒業パーティ会場を去りました。
申し開きはないのかと背中に呼びかけられましたが、身に覚えのないことを釈明することなどできません。
心臓がギシギシと音を立てています。錆びて壊れかけの鎧のようです。錆びて壊れかけの鎧のように、私の心臓もボロボロなのでしょう。政略的な結びつきではありましたが、私はラインハルト殿下をお慕いしておりました。
ラインハルト殿下は、私が去年の夏祭りの夜に旅の男と抱き合ってキスをしていたと言います。
とんでもない話です。
その夜私は公務の後で、ジークフリード殿下の婚約者で私の親友である公爵令嬢のガートルード様とお菓子を食べながらおしゃべりをしておりました。ジークフリード殿下がお菓子のお代わりを持ってきてくださいましたし、部屋の外には近衛騎士がいらっしゃいましたが、ほかの男性とは接していません。騎士団と夜の町の見回りに行っていたラインハルト殿下ご自身が目撃されたことでもないと言います。
ですが、無実が証明されてもラインハルト殿下は疑いの目で私をご覧になりました。
なにより貴族の子女と裕福で優秀な平民の若者が集まる学園の卒業パーティで宣言された婚約破棄が覆されるはずありません。
学園の卒業式は冬の終わり。王都では春の訪れが感じられていましたが、父が治める北の辺境伯領は冬の真っ盛りです。冬の魔物と戦う父や兄、辺境伯家の騎士団の手を煩わせるわけにもいきませんので、私は侍女達とともに帰路に就きました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
十日ほど馬車に乗って、私は故郷に辿り着きました。
随分久しぶりな気がします。
第二王子の婚約者として王都でおこなわれる祭りや式典に出席していたため、長期休暇でも辺境伯領には帰っていなかったのです。王都には辺境伯の別邸もありましたが、私は王宮にお部屋をいただいて生活しておりました。公務に忙しいラインハルト殿下よりも、同じように王宮でお部屋をいただいていたガートルード様と過ごすことのほうが多かったような気がします。
私が着いた途端辺境伯領を覆っていた吹雪がやみ、父と兄、辺境伯家の騎士団達は魔物の大群を追い返しました。
春を運ぶ姫君と呼ばれるのは、とてもくすぐったい感じです。
本当は、婚約者に捨てられた惨めな娘に過ぎないのに──
家族や領民の愛に包まれても、私の心が癒えることはありませんでした。
なにをしてもラインハルト殿下のことばかり考えてしまいます。
兄君のジークフリード殿下よりも大柄で力が強い代わり、彼は頭脳のほうが劣ると言われていましたが、そんなことはありません。ただ感情が豊かなだけなのです。書類仕事の休憩時間にお茶を持っていくと、満面の笑みで迎えてくれました。学園の授業で私が失敗したときは、抱き締めて頭を撫でてくださいました。
懐かしい思い出を蘇らせていると、どうしても最後の瞬間まで思い出してしまいます。
私を憎み嫌悪したラインハルト殿下の瞳を。
私は馬上で溜息を飲み込み、背後を見ました。今日は辺境伯領にある湖のほとりで昼食を楽しもうと思ってやってきたのです。徒歩の侍女達には、悪いことをしてしまいました。まだ彼女達の姿は見えません。
目的地はわかっているのだからと思い、私は馬から降りました。
ドレスの乗馬服もありますが、今日着ているのは男性と同じ意匠のものです。
湖の水面を覗き込みます。この湖はどんなに寒い冬でも凍りません。それは、湖底に精霊の花が咲いているからだと言われています。精霊の花の種を育てて精霊を生み出すことができれば、どんな願いでも叶うのだとも言います。もちろんそれもおとぎ話です。
「……ラインハルト殿下……」
こんなことなら、夏祭りの夜ラインハルト殿下に同行すれば良かったです。
あのころの彼は私を見つめる瞳が熱を帯びていて、婚約者の領分を越えた激しいキスをなさるようになっていました。だから、怖かったのです。騎士団が一緒と言っても、殿下が命じれば姿を消すのですから。
でも、こんな今よりはいい。結婚前に早まった愚かなふたりと笑われても、彼を失うよりはマシでした。
精霊の花。
本当に花を咲かせて精霊を生み出すことができたなら、どんな願いでも叶うのでしょうか。時間を戻すことも……?
水面に手を伸ばしていた私は不意に体勢を崩しました。いいえ、本当は自分から飛び込んだのかもしれません。──精霊の花の種を求めて。凍らなくても冷たい湖水が、ボロボロになった私の心臓を止めました。




