2. そうして
「あれ? 加藤君は」
水曜日。美術室の引き戸が開く音ともに、女の子の声が背後から聞こえた。慌てて振り返ると、そこに木谷が立っていた。
「呼ばれて生徒会室へ。何か用?」
なぜかどきどきしながら、それでも平静を装って聞いてみる。木谷は首を横に振ると、僕を見てにっこりと微笑んだ。
「ちょっとね、頼まれていることあったから。それよりも、先週の絵の具つけちゃった人だよね。あの後大丈夫だった?」
覚えてくれていたんだ。
単純に、そんなことで嬉しくなる。僕は先週と同じように袖口を振ると、うなずいた。
「すぐに流したから、染みにならなかったよ」
「良かった」
もう一度彼女は微笑むと、僕を通り過ぎ窓に向かって歩いていく。そのまま窓を開けると、涼しい風が入ってきた。中途半端に横にのけられていたカーテンが、風に舞う。
「私ね、ここから見る夕日が好きだったんだ」
窓際の棚の上に腰掛けて、木谷が言う。夕日に照らされ、映える横顔。けれどその陰影からは、何か暗いものが滲んでいた。僕は何か話さなければいけない気がして、言葉を探す。
「君の夕日の絵、見たよ。毎日眺めている風景のはずなのに、こんな景色だったんだって思えて、なんか面白かった」
たどたどしい話し方に、恥ずかしくなってくる。人の造ったものにこんな風に感想を述べるなんて、しかもその当事者に面と向かって言うなんて、初めての経験だ。
木谷は返事をすることなく、ただじっと僕を見つめていた。続きを促されているようで、少しずつ焦ってくる。
「あれから加藤にお願いして、毎週あの絵を見させてもらっているんだ」
「そう、なんだ」
「あ、今まで黙っていて、ごめん! 作品があるってことは、描いた人がいるってことなんだよな。今までそういうこと思い至らなくて」
喋れば喋るほど、焦りが増してゆく。もはや自分が何を話しているかも分からなくなってきた。木谷はそんな僕を安心させるように、くすりと笑う。けれどその表情からは、先ほど感じた影が消えることはなかった。
「他の作品も、先週のあの後、初めて見たんだ。凄いね。次の絵も楽しみにしている。次はどんな」
「次は、無いの」
硬質な声に断ち切られ、僕の言葉はそこで終わってしまった。
「あの絵、気に入ったのなら、あげる」
「え? でも」
「私には、もう不要なものだから」
木谷は僕の顔を見ることなく、素早く立ち上がると小走りに去っていった。僕は戸惑ったまま彼女の出て行った引き戸を見つめるだけだ。廊下から加藤の声が聞こえる。多分すれ違ったのだろう、木谷のことを呼んでいた。
「隆志、あいつどうしたんだ?」
眉をひそめた表情で、加藤が教室に入ってくる。
「良く、分からない。次の絵も楽しみにしているって言ったら、次は無いって言って」
「そうか」
加藤は僕の近くの椅子に座ると、思い切り息を吐いた。しばらく黙り込むと、ふいにこちらを向いて話出す。
「あいつ今、休部中なんだよ。急に描けなくなったって言い出して」
「描けない?」
「あいつの絵、凄いだろ? コンクールにも出展して、何度か賞も取っているんだ。だからまわりも次第に期待するようになってさ。描くのが当たり前、凄い作品出してくるのが当たり前って、いつの間にかなってしまったんだよな。けれど夏休み、先輩があいつの作品を徹底的に酷評して。それから、描けなくなってしまった」
「妬みじゃないのか、それ」
あまりにも分かりやすすぎる話の展開に呆れて、聞いてみる。加藤はあっさりとうなずくと、肩をすくめた。
「周りがたとえ、あれはただの嫉妬だといったところでさ、一度傷付いてしまったものは無かったことに出来ないんだよ。逆に描けなくなったことで、周りが自分に対してどれだけ期待しているのか、木谷は気付いてしまった。で結局、本人からの申し出があって、二学期からずっと休部中。あの夕日の絵を描き上げてから、木谷の手は止まっている」
「ここへ来たのは?」
「俺が美術部の部長で、木谷が副部長。それとお互い美化委員っていうのを合わせて、用件押し付けてここまで呼びつけてた。絵を描かなくても、美術室に来るまで否定されたくないってのがあったし」
そこまでを語ると加藤は大きく伸びをして、「どうしたもんかなー」と呟いた。僕はさっきまで彼女が見ていた窓の外、夕日に映えるグラウンドをじっと見つめる。僕のこぼした空の色を、血と間違えた彼女。心配そうな表情。安心したように微笑む顔。目の前の夕日。絵の中の夕日。
ぎゅっと手を握り締めると、決意をして加藤に向かった。
「お願いがある。絵を教えて欲しいんだ」
加藤は一瞬何を言われたか分からない様子で僕を見返し、それから面白そうににやりと笑った。