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1. きっかけ

「あ」


 ぽたぽたと垂れる絵の具を、とっさに袖口で受け止める。そんな自分の行為に、気の抜けた呟きをもらしてしまった。見る間に鮮やかな色が白いワイシャツを染めてゆく。


「どうした隆志、って、うわ」


 美術部の部長、加藤が僕の惨状を見て眉をひそめる。


「馬鹿だなー。なんでそんなに垂れるほど、絵筆に水分含ませているんだよ。早くそれ、洗わないと」


 加藤のお説教のような忠告は、背後からのガツンという音に途切れてしまった。その机と人のぶつかる痛そうな音に、慌てて二人振り向く。けれど机にぶつかった本人はそれよりも重大な出来事にぶち当たったような表情で、僕の袖口を指差していた。


「どうしたのそれ、大丈夫?」


 見知らぬ女の子。けれどあまりにも真剣な表情に気押されて、言葉も無くこくりとうなずく。


「そんなに血が出ている。保健室に行った方が」

「……これ、絵の具をこぼしただけだから」


 なんとかそう説明すると、安心させるように袖口をひらひらと振ってみた。


「なんだ。良かった」


 そう言って、彼女が笑顔を見せる。純粋に、初めて出会う人間を心配し、大事が無かったことを喜ぶ表情。一瞬そんな彼女に見とれ、それから僕はぎくしゃくと歩き出した。


「シャツ、洗ってくる」

「水彩で良かったな。きっちり流水で洗っておけよ。すぐ染みになるから」


 加藤の妙に具体的なアドバイスを背中で聞きながら、美術室の端にある流しで袖口をすすいでいく。目の前の窓から見えるのは、グラウンド。学校の敷地を囲うフェンス。フェンス越しの街路樹は、秋だというのにまだ緑の葉を茂らせている。そしてその向こうには民家。遠くで山の稜線がぼんやりと存在を示し、空には夕日が落ちていた。


 無意識のうちに、手のひらを夕日に透かしてみる。赤く流れるのは、僕の血潮。けれどそのまま視線をずらし袖口を見てみれば、そこに飛び散るのは鮮やかな青い、青い空の色。


「どこが、血?」


 小さく自問すると、そっと後ろを振り向く。けれど彼女の姿はすでになく、加藤が本日の自主的課題、円柱とリンゴの続きをスケッチブックに写しているだけだった。


「加藤ー」

「ああ?」


 面倒くさそうに加藤が返事をする。


「今の、誰?」


 その問いに顔を上げると、加藤は目をしばたかせる。


「お前、知らないで話していたの?」


 そして愉しみをこらえるように、にやりと笑った。




◇◇◇◇◇◇◇




 僕、古川隆志が美術部に出入りするようになったのは一ヶ月前、一枚の絵に出合ってからだ。


 文化祭で展示された美術部員の絵。それに、一目で惹き込まれた。


 校舎の窓から校庭を眺めた油彩の風景画。毎日見るありきたりの景色なのに、夕日という色をまとったそれは、なぜか胸が苦しくなるような切なさを湛えていた。真っ赤に染まる世界。放課後の静寂。ふと足を止め、ため息をつく瞬間。誰にでも覚えのある、そんなひと時を呼び起こす絵。


 同じクラスの加藤が美術部の部長をやっていると知って、もう一度絵が見たいと言ってみた。以来なぜか毎週水曜日、加藤の自主練に付き合う形で美術室に顔を出している。


 教室にいるのは加藤と僕だけ。部活として決められた曜日ではなく、また文化祭というイベントも終わったせいか、他に誰もいない。加藤は好きに絵を描いて、僕も夕日の絵を見ると適当に暇を潰して、飽きると帰る。そんな中で、初めて加藤以外の生徒とこの教室で出会ったのだけれど。


「あれ、お前の目当ての絵を描いた子だよ。二年F組の木谷紗代」

「きや、さよ?」


 初めて聞く名前を間違えないように、聞き返した。A組の自分からは、F組の生徒はひどく遠い。初めて知るのも仕方なかった。


「あの子が、描いているのか」


 先ほどの慌てた表情を思い出す。自然と目線は袖口へと降りていって、そして疑問を発していた。


「なんで、血と間違えたんだろう」


 暇つぶしの一環として、気まぐれに絵筆を握った。高校に入ってからの選択授業は音楽。この一年半ですっかり絵に対する知識や常識は忘れ去り、だから加藤から与えられた画用紙にいきなり絵筆をのせてみた。その色が青だったにもかかわらず、あの反応。


「木谷のほかの作品、見てみるか?」


 自分のスケッチブックをぱたんと閉じて、加藤が立ち上がる。円柱とリンゴを準備室に戻すかたわら、加藤は何枚かのキャンバスを持ってきた。


 準備室を往復しつつ無造作に並べられる作品たち。水彩油彩を合わせて十枚ほどの絵画は、皆一様に繊細な色をまとっていた。赤、青、黄色、緑、紫、オレンジ。多種多様な色を使い分け混ぜ合わせ、世界を表現してゆく。


「凄いな」


 それしか言えず、あとはただ作品に見入るだけだ。


「木谷にとって色彩は、多分血液と同じなんだよ」


 そうつぶやくように言う加藤の声に引っかかりを感じ、思わず顔を上げて見つめた。けれど加藤は物思いにふけるように黙り込み、それ以上は何も言わない。


「加藤?」


 呼びかけるとふうっと息を吐き出し、加藤はこちらを見返した。いつもの面倒くさそうな表情だ。


「帰るか」

「あ、うん」


 なぜだかそれ以上は聞き返せず、うなずいた。



 ──そして一日置いた金曜日、木谷の姿を校舎で見かけた。


 同じクラスの女子と一緒に、話をしながら渡り廊下を歩いている。隣の友達の語る言葉に聞き入り、はじけたように笑い出し、一緒に声をそろえて何かを叫び。くるくると表情を変える彼女を、遠くからただ見つめる。


 一度認識したせいだろうか、月曜日にも彼女を見かけた。そして火曜日。彼女の姿を見かけることが出来ず、なぜかぽっかりと穴が空いたような気分になった。


 彼女のことが、気になって仕方ない。初めて会った僕の事を、怪我をしたのではないかと本気で心配していた彼女。今は僕の方が心配している。また机にぶつかっていないだろうか。転んでいないだろうか。そして、血を流していないだろうか。




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