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60. 風の試練

 彼は、こちらの顔を見てから、しばらく茫然として。

 それから、ゆっくりと口を開いた。


「はじめまして、だよな。俺はシマドっていうんだ。君は?」

「ユシド。ユシド・ウーフといいます」

「ウーフ……それって」

「200年後の、あなたの子孫です」

「………」


 彼は、シマド様は、僕の顔やら服装やら、あちこちをじっと見ていた。

 しばらくそうしてから、ようやく言葉を受け入れてくれたのか、こちらに向けて破顔一笑する。


「おおお……こんなことが起こるとは! 俺の子孫!! ハハ、さすがに興奮しちゃうな」


 ここまで喜んでもらえると、僕もさらに嬉しくなってしまう。ひそかに憧れていたシマド様と会えて、言葉をかわせて……。


「ユシドよ。君に会えて、俺は嬉しい。こんなにうれしいものだとは思わなかったよ。子どもや孫なんて、縁のない話だと思っていたのに……」


 シマド様は感慨深そうにつぶやき、そして、こちらに右手を差しだしてきた。


「勇者としてここまで来てくれて、ありがとう。返礼に、君の修行相手をさせてくれ」


 多くの戦いを乗り越えてきただろう彼の掌は、今の自分にはとても大きく見えて、これが大人の手なんだと思った。


「願ってもないことです……! よろしくお願いします!!」


 手を握り返す。互いの力が伝わると、大人だと思った彼はしかし、どこか年若い少年のように、にっと笑った。




「……と。この神殿でできることはこんなもんだ。必要なら他の“風の勇者”と交代してもいいぜ」

「い、いえ! せっかくシマド様に教えてもらえるのに、そんな。ぜひあなたに、師事させてください」

「へへ、そう言ってくれると嬉しいよ」


 勇者の神殿では、修行者に最も相性のいい人格を呼び出して、訓練相手としてつけてくれるそうだ。その気になれば、記録された過去の風の勇者の、その全員に教えを請うことも可能だという。

 あまりに魅力的な話だけど、それは後々のことでいい。僕がいま教えを受けるべきは、同じ魔法剣士だったというシマド様以外にありえないと思う。


「しかし、そのシマド様っていうのは居心地悪いな。シマドでいいよ」

「えっ? あっ、でも」

「ただの田舎者の剣士だぞ? 友人はみんな気安く呼ぶ。お前はどうなんだ?」


 じろっとこちらを眺めてくるご先祖様。いや、友人だなんて、恐れ多いにも程があるのだけど。


「え、と。……シマド?」

「おう」


 にっと笑い、彼はおもむろに、握った右手をつき出してきた。

 自分の拳を、それに合わせる。互いに小突き合わせると、魔力で形成されているはずの彼の拳は、固く、確かな響きを返してきた。

 それで、シマドという人の実在性を強く感じて、身体の芯が震えた。


「さて。まずはどうしようかな。……なあ、ユシド」

「はい」

「ちょっと技、見せてみろよ。剣を使うんだろ」


 いよいよ修練が始まる。僕は頷き、腰元に携えていた魔剣を抜き放った。


「おおお~、テルマハ!」


 と、そこに笑みを浮かべたシマドが近寄ってくる。

 そうか、この剣は元々、彼の所有物だ。剣の中に宿る風魔テルマハの魂を知っているのは当然だ。


「あれ、でも……」


 見れば、シマド様もまた、同じ意匠の剣を腰に下げている。それは……?


「ん? ……ああ、こいつは俺と同じで、中身のない偽物さ。服のついでに再現された棒きれだろうよ。……な、ユシド。ちょっと触らして」

「ええ」


 風魔の剣を手渡そうとする。テルマハの魂と意思疎通するには、手で触れているとやりやすい。

 ところが。シマドが触れようとすると、剣は突然、強風を発生させ、彼の手を弾いた。


「うお! なんだ、怒ってんのか? シマドの偽物だからダメ~みたいな感じ? なんてな」

「す、すみません。気難しい人で……気難しい馬?」

「ああ、いい、いい。今の主を気に入ってるのさ。ユシド、お前はすごいな」


 憧れていた本物の勇者からそう言われると、やはり嬉しくなってしまう。

 だが、手の中の剣は、口がついているのなら思い切り反論していることだろう。あまり機嫌を損ねないよう、気を引き締めねば。


 シマドが距離を取る。こちらを静かに眺める彼の目は、剣を握った僕の手元に向けられている。

 良いところを見せようなどと思うと、緊張する。息を整え、いつも通りの自分を思い出し、魔力を起こして身体に巡らせる。循環しだした魔力は、自分の身体の一部になりつつある剣にも、滞りなく流れ込む。

 風を纏う刃。目の前の空間に存在しない敵をイメージ。上段から剣を振り下ろしつつ、魔力を解放する。


「風神剣!」


 強風が目の前の空気を荒らす。何度も使ってきた、ミーファから教わった魔法剣の、最も基本的な技だ。

 疲れてもいないのに息をひとつ吐き、僕は剣を下ろした。

 そして。この場の師であるシマドの顔色をうかがう。

 彼は……。

 少し、驚いていた。


「……いや、驚いたな。俺は技まで家に残していたのか? 魔法剣なんて難しくも珍しくもないとはいえ、個人のクセをああも細かいところまで再現できるものかね」


 シマドの言葉を聞くに、今の技が彼のものと非常に似ていて、驚いているようだ。魔法剣は誰が使っても似たような技に行きつくと思っていたのだが、違うんだろうか?


「いえ、これはウーフの人間ではなく、幼馴染の子に教えてもらったものです」

「何? どんなやつだ」

「シロノトの領主……雷の勇者の家の子で、多くのことを知っていました」

「……ふーん? 『風神剣』っていう、若いときの勢いで考えた技の名前も?」

「え、ええ」

「自分では気に入ってるけど、後世に遺ってるのは恥ずかしいなあ……」


 技の詳細も応用方法も、根幹の部分はぜんぶ幼いミーファから教わったものだ。風神剣というのが、かつてのシマドの技だというのも、彼女から聞いた覚えがある。

 ………。

 僕の家に、シマドの使っていた技の記録まではなかった。

 領主であるイユの家に、かつてシロノトから出た勇者の記録が眠っているのはおかしいことではないと思うけど。一般的に考えると、シマドの記録はウーフの家に残っているべきだと思う。

 ……少しだけ。

 違和感を覚えた。


「まあいいや」


 シマドの声が、意識を現在に引き戻した。

 彼は腰の剣を抜き放ち、その刀身を眺めている。一度、二度と振って空を斬ると、彼は僕に視線を向けてきた。


「じゃ、戦うか。俺と」

「え?」


 戦う。

 僕が、彼と?


「何かおかしいか? 強くなりに来たんだろ。力を鍛えるためにも、まずはお前の腕を見せろ」


 数秒の間、呆けてしまって。それから言葉を理解して、僕は震えた。


「なに、びびった?」

「……いいえ!」


 かの風の勇者、シマドと刃を交え、力を測ってもらえる。叩きあげてもらえる。

 多くの人から戦い方を学んできたけれど、今回のこれは特別。夢に見るような出来事だと言っていい。

 剣の柄を握り締め、歓喜の震えを抑える。僕はいつもの要領で剣を構え、魔力を流した。

 対面を睨む。シマドは笑っていた。

 剣の構え方は、同じだった。




「く……!」


 剣戟の応酬では相手を打ち崩すことができず、距離を取る。シマドはこちらを追ってくることはなかったが、その目が、僕の動きのすべてを、追い捕らえているのがわかった。

 剣に乗った風を研ぎ澄ませる。互いに魔法剣士である以上、ここはまだ攻撃圏内の中。小休止はない。


「風神剣・断!」


 斬撃が風の刃となって飛ぶ。刃の魔法は風属性の攻撃では代表的なものだが、鋭い刃物を振るう魔法剣士との相性は特にいい。魔物の肉体を両断するこの技は、原則として人間相手に使うものではない。切断はヒトにとって致命的な傷となるからだ。

 そんな、恐ろしい刃を向けられた彼は。

 無造作な仕草で、僕のものとそっくりなその剣を、一振りした。


「風神剣・断」


 全く同じ技。

 二つの太刀風がぶつかる。威力が全く同じならば、ふたつの魔力攻撃は干渉しあって、互いに消滅するだろう。

 しかしそうはならなかった。シマドの刃は……適当な魔力行使に見えた技は、僕の風を打ち破ってなお、猛然と突き進んでくる。斬撃の軌跡を象った風は、使い慣れたそれより鋭く、より強固なものであると、受ける前からわかった。

 剣でそれを受け、逸らす。耳にでも当たれば見事に斬り飛ばされていただろうと思って、どっと汗が出る。

 だめだ。自分の身体が汗を出したことに気付くようでは、戦いに集中できていない。没頭しなければ。

 距離を保っていることを確認しつつ、別の型に入る。弓をうつ構えのように剣を持つ右腕を引き絞り、刺突の狙いをつける。


「風神剣――……」

「――穿」


 水平方向に伸びる竜巻の槍。

 それが放たれたのは、しかし。僕の剣からではなかった。


「っ!?」


 同じ技を、先出しされた。

 出遅れた僕の魔法は、刃のほんの先で彼の風を迎え撃つ。

 彼の魔法剣はあまりに重く、鋭かった。加速しきっていないこちらの風神剣では、簡単に相殺しきれない。放出する魔力をさらに後乗せしなければならなかった。

 それに加え、身体に纏う魔力障壁にも意識を割き、僕は自分を守ることに専念した。


「はぁ、はぁ」


 息が上がり始めた。対して、シマドはそんな様子を微塵も見せない。

 ……幾度かの攻防を経て感じたのは、僕と彼とで、魔力や身体能力にはそれほど差がないということ。魔法剣を抜きにした剣術の技量も、驚くほどの開きはない。

 だけど、押し負ける。

 こちらだけが消耗させられる。

 この力の差が、どこから生まれているのか。ありきたりな答えだが、それはたぶん、“経験”だろう。僕と彼が、ここまで歩んできた道のりの違い。

 だから、同じ技で押し切られる。向こうのほうが洗練されているんだ。


「つまらんな」

「え……」


 こちらの様子をうかがっていたシマドは、おもむろに剣を下ろす。

 失望した、ととれる一言に、心臓がすくみあがる。


「ああ、違う違う。悲しい顔するなって。俺の考えた技で勝負したら、俺の方が勝つのは当たり前だろ?」


 だからさ、と彼は言い、好戦的に笑う。


「お前だけの技を見せろよ、ユシド。ご先祖様の物真似だけで、ここまで来たんじゃないだろ? 動きを見れば分かる」


 自分だけの技。

 そうだ。ミーファに教わった剣だけで、これまでの戦いを越えてきたわけじゃない。それを土台にして、多くのことを試みたからこそ、自分はいまここに立っているんだ。

 剣を、鞘に仕舞う。

 柄と鞘に手を添え、腰を落とす。魔力を内側で循環させつつ、僕は彼をにらんだ。


「へえ……」


 シマドが剣を構える。僕たちは数秒、膠着状態になった。


「しっ!」


 あからさまな“待ち”の姿勢から、近接範囲のカウンター狙いだと読んだのだろう。シマドは先ほどのように、離れた距離から鎌風を飛ばしてきた。

 だが、この抜刀術の使い方は、今は2種類ある。


「風神剣・抜!」


 中距離攻撃。

 溜め込んだ風の魔力を乗せて、うんと伸ばした刃で斬る。攻撃範囲を伸ばすほど斬撃が届くのは遅れてしまうが、特別なタメを必要とする分、威力は基本の魔法剣に勝る。

 解き放った僕の風はシマドの斬撃を弾き、彼自身へと迫っていた。


「いいね、真似しよ」

「なっ!?」


 素早い動きで、シマドは剣を鞘に仕舞った。

 腰を深く落とし、剣を再度抜き放つ。これは……!

 果たして、形を持った風が、向こうからも伸びてきた。それは僕のものとぶつかり、身体を押すほどの風圧を巻き起こした。

 あんな一瞬で、同じものをぶつけてくるなんて……! いくら単純な発想の技だからって!


「おおッ!」

「!!」


 こちらがひるんだ隙に、凄まじい勢いでシマドが迫ってくる。剣から放出した風を推進力に使って、宙を滑るように飛んでくる!

 僕は再度、剣を鞘に仕舞う。

 この抜刀術の真価は、やはり高速のカウンターだ。ここが絶好の使いどころ!


「は!!」


 刃を解放する直前。

 スローになった時間の中で。彼が、僕に向かって、にっと笑うのを見た。

 シマドが視界から離脱していく。僕が剣を放つ刹那の寸前に、上に飛んだのだ。

 この動き、どこかで。

 猛烈な勢いで解き放たれた刃が、しかし虚しく空を斬る。だが、僕には何故か、彼の次の動きが予想できた。

 ――後ろにまわって、背中を攻撃してくる。

 だから僕は、この勢いのまま半回転して、背後を斬った。

 やはり、シマドの姿はそこにあった。


「え!?」


 たしかに斬りつけた彼の姿が、ぶわりと消えた。手ごたえもなかった。

 これは、風の魔力で作った、身代わり……!?


「実は後ろじゃなくて上でした。ご先祖パンチ」

「いたっ!?」


 空から声がして、そちらを向く前に、頭のてっぺんにガツンと痛み。

 尻もちをついて、僕は目を回してしまった。

 ………。

 また、一敗。


「あー、ユシド、お前は素直だな。性格が戦い方に出てるよ」


 宙から降りてきたシマドは、剣で肩を叩きながら僕に語りかける。僕と違って、息のひとつもあがってない。


「でも、殺し合いってのは、ズルした方が勝つんだぜ」


 そう言われて、顔を上げると。

 シマドが。10人以上のシマドが、僕に剣を向けていた。

 風で作り上げた身代わり。いや、単なる囮じゃなくて、攻撃力のある精巧な分身だ。もし斬りつけられれば怪我を負うに違いないという、迫力があった。

 彼は剣士としてだけでなく。魔導師としても一流なんだ……!


「気になる技があったら勝手に盗めよ。もちろん、今の自分にある技を磨きあげてもいい。ひたすらやってみよう。いくらでも付き合うぜ」


 師が、手を差し伸べてくれる。僕は彼の大きい手を取り、立ち上がる。


「さ、もっと気張れ。俺の子孫なんだろ? こんなオッサン、乗り越えていけよ。……期待してる」

「……はい!」


 互いの距離をあけたら、また剣を構える。

 彼との戦いは、僕を必ず強くしてくれる。そんな確信があった。




「……それで、そのシークって女の子は、仲間内ではお湯の勇者って呼ばれちゃってて」

「ブハハ、なにそれ、ケッサク」


 修練の合間。食事や睡眠をとって、身体を休める時間。

 噴水装置の縁の部分に、僕は腰を落ち着けていた。顔を上げるとシマド様が、行儀悪く寝そべる姿勢のままふよふよと空中に浮き、こちらを見下ろしている。

 シマドは僕に、これまでの旅の話を語らせた。話をせがむ様子は、失礼だけど、寝物語を要求する幼子のようで、そんな一面が敬うべきご先祖様にあったことは、なんだか意外だった。

 でもどうしてか。シマドと言葉を交わすのは、楽しい。彼の隣は居心地がいいんだ。うんと年上の話しづらいおじいさん、ではなく、長年の友人のような。年上の兄弟のような。

 それと。

 笑う顔とか、話す雰囲気とか……、

 僕なんかよりも。違う誰かに、似ている気がする。


「おーい? なんだ、人の顔をじろじろと見て。まさか、じじいが思ってたより美青年で、惚れたか?」

「え、あ、いやあの。すいません」

「はは、冗談だよ。お前のほうが顔はかっこいいさ。どこかで美形の血でも入ったのかね?」


 彼が空中から降りてくる。そして、何の遠慮もなしに、ぐっと僕に近寄り、顔を覗き込んできた。

 近。


「ちょ、っ……」

「なるほど、瞳の色は少し違うかもな。お前のほうが風の才能はありそうな彩度だ」


 そう言うシマドの眼の色は、僕のものより暗い。どんな色のほうが魔力の素質がある、とか、わからないので、なんとも言えない。

 シマドはまたふわりと浮き、適当な位置へと行ってしまう。気まぐれな人だと思った。

 ……至近距離で見つめられたせいか、心臓の動きが早い。この動悸の感じは、ミーファが何かしら不意打ちをしかけてきたときに似てる。

 いやなんだそれ。同性の人相手に、なんで動揺してるんだ。どうしたんだ僕は……!?

 不思議な魅力というか、雰囲気のある人だな……。


「しかし楽しいな、きみの話は。旅ってのはやっぱり、人数が多くて、歳は十代くらいが楽しいのかもしれない。ああいや、一人旅もあれはあれで良いものだけどさ。……でもお前は、最初から雷の勇者が仲間なんだっけ?」

「はい。魔法剣を教えてくれた、幼馴染です」

「心強いねえ。雷使いのやつらって、なんかほら。攻撃力すごいしな」

「それはもう。そんな子が師匠として、ずっとついてきてくれているわけですから」

「それは素晴らしいや。……ところで、ユシドよ」


 今度は横から声がした。地面に降りて、僕と同じように噴水のフチに腰かけたのだろう。


「お前の話。やたらそのミーファって幼馴染の名前が出てくるけど……」


 隣にいるシマド様を見る。


「好きなの?」

「……な……」


 なんか、にやにやしていた。


「おやあ図星かい。おっと照れるなよ、俺も恥ずかしくなる。同じ勇者に恋するなんて、まあ青臭いったらないね」


 シマドは僕を煽る。なんだってみんな人の色恋沙汰をこう……大人ってやつは、まったく。


「な、おっさんに教えなよ、そのミーファちゃんとの、これまでの色々なイベントをさァ。旅の各地で女の子にモテモテ・恋愛百戦錬磨のシマドさんが、好感度判定してやる」

「は、はあ……」

「なにさ。かわいい末裔がさらに後世に血を残していけるのか気になるだろー、俺にだけは教えろよ、全部吐き出しちまえよ、それまで寝かさんぞ」

「わかりましたよ、もう」


 話せば話すほど、超然としたご先祖さまのイメージが崩れていく。若者の話にずいぶん興味津々なようだ。

 ……ミーファとの、いろいろなことか。

 ええと。

 その、本当にいろいろあった。例えば、以前に影の国の地底城で、闇魔の霧に身体を乗っ取られそうになったとき、ミーファは僕に……、


「えっと、あの。こないだ……チューされました」


 彼女は僕に意識がなかったと思っているかもしれないけど、実は鮮明に覚えている。ミーファの綺麗な顔が限界まで近付いてきて、睫毛の長さまでちゃんとわかって……熱い息遣いと、柔らかい感触が……


「な……何ぃ!? チューだと……!?」


 シマド様は。

 心底たまげた様子で、狼狽しだした。


「あ、ありえねえ……破廉恥かよ。進みすぎだ、最近の若者」


 あれ、恋愛百戦錬磨のはずでは。


「な、どうやってその状況に持ち込むもんなの? 意外と積極的だよなお前」

「いえ、向こうから」

「はあっ!? マジか。そのミーファちゃんとやら、きみのことがよっぽど好きらしいな。両想いなんじゃないの」

「い、いえ、それは……」


 たしかに……自惚れと願望が多分に混じるけど……想いが通じ合っているように思える瞬間は、ある。

 だけどミーファはまだ。僕にはっきりと、答えを返しては、いない。

 ……まあ、ご先祖さまに見栄を張りたくてチューしたとか言ったけど、あれは僕を救うためのことだし。両想いも何もない。


「真面目にアドバイスしてやろうか」


 ばかばかしい虚勢を告白する前に、そんな一言が耳に届く。

 シマドは僕をみて、優しく笑っていた。


「これから先、勇者の旅はもう終わりだと感じているかもしれないが……きみの人生はまだ続く。トラブルもまた、だ。だからさ」


 まるで自分のことを思い返しているように、僕には見えない遠くを見ながら、彼は言う。


「何があっても後悔しないように、想いは告げておけ」


 きっとこの人は。後悔しているのだろうなと、思った。

 ……まあそれはそれとして。


「あ、それはもう、やりました」

「は?」


 バルイーマの闘技大会でミーファに勝ったとき、彼女に想いを告白したことを話した。


「何? もう? なんだよ。さっきのかっこいいアドバイスを返せよ……」

「すいません」

「ユシド、おじいちゃんはお前の貞操観念が心配だよ。軽薄じゃない? チューとか告白とか、そういうのは10年ぐらい一緒にいてからさあ……」

「そ、そうですかね」


 軽薄かな……。初めて言われた。認めたくない。シマド様が物凄く奥手な人だっていう可能性もあるのでは。


「まあ。なら良かったよ。俺は……仲間の雷の勇者には、自分の気持ちを言えなかったからさ。そうだ、たぶん、死ぬまで言わなかった」


 ……雷の勇者に。やっぱり、後悔があったんだ。

 自分のことのように思えて、彼の言葉は胸を打ってくる。向こうも、僕の話に自分を重ねてくれていたのだろう。

 いやでも、散々こちらをからかっておいて、自分も仲間に恋してたのかこの人。

 あれ? でも……、


「僕の代まで家が続いているということは、誰かと添い遂げたのではないのですか? 家系図では……すみません、お相手の名前は、覚えていませんが」

「んー。この俺はあくまで、聖地での儀式を終えてから、再度この神殿に立ち寄ったときの俺だけど……恋人なんかいた記憶はないな。この先、長生きは無理だし……そうだなあ。想像だけど、地元に帰ってすぐ、あの厳しい領主サマの命で誰かと子作りでもしたんじゃないの。

 お互い言葉を交わしたこともない、勇者の子を残せ、なんて時代遅れの使命を背負わされた、可哀想な誰かとさ」

「………」

「と、すまん、悪いな……。お前の婆さんの婆さんかもしれない人のこと、悪く言ってしまった」

「いえ」


 今の話を聞いて誰かを思うとしたら、僕はあなたのことが気にかかる。今のはひどく、寂しそうな顔に見えた。それでいて、まだ見ぬ誰かを憐れむような。

 彼の言葉を反芻し、自分の中に刻んでいく。彼の話すことをしっかり記録にまとめて、家に持ち帰って。そしてさらに、家にある記録と情報を合わせて、シマドの足跡や人生をちゃんと知りたい。

 勇者としての旅を終えたあと、彼はどうしたのか。

 ……「この先、長生きは無理」? それって……。


「あの、シマド……」

「もういいだろ俺の話なんて。おっさんが自分語りなんかして悪かったな。ユシドの話の方が、100倍楽しいよ」


 そう話を切って、彼は腰を上げた。


「もうちょっとしたら、修行を再開しよう。そうしたらまた、きみの物語を聞かせてほしい」


 首肯する。

 けれどその代わり、あなたのことも聞きたいと、僕はせがんだ。

 なんだか嫌そうにしていたけど、こっちのわがままも聞いてほしい。あなたは僕の、兄で、父で、祖父で、師で……友人、なのだから。




 あれからずいぶん経った。

 魔力の精緻な扱い方、出力の上げ方、剣への乗せ方。ここに来る前と今の自分では、レベルが違うと思う。

 シマドとの削り合いが、急速に自分の力を高めてくれた。


「ここまでやれるようになれば、聖地でトチることはない。お前はもうここを出てもいいが……最後に、俺が使っていた“技”をひとつ、教えたいんだ」


 技……。魔法剣とは違うもの?

 それが最後まで彼と僕の間にあった実力差の正体だろうか。それを伝授してもらえるというのなら、これほどありがたいことはない。


「だが、それは過去の勇者が編み出した、風の奥義のひとつ。“試練”を乗り越えて掴めるものだ。お前は、それに挑むことができるか?」


 言葉にするまでもない。僕は視線に意思を込めて、小さく頷いた。


「本当に? どんなことが起きても?」


 彼らしくなく、神妙な雰囲気で、曖昧な物言いで勿体ぶる。

 ……どうしてか、ひどく不安になった。風の勇者を名乗るなら、ここで去るなんて選択肢はありえないのに。

 逃げてもいいと、彼の目が言っている気がする。


「……やらせてください、試練を」


 弱気を振り払って、言葉を絞り出す。そうだ、どんな試練だか知らないが、たとえ命の危機に瀕したとしても、僕は挑むべきだ。

 シマドのことを知ったからこそ、そう思う。彼の後を継ぐのなら、後ろへ逃げるのではなく、前に進まなければ。


 僕の返答を聞いたシマドは、わかった、と小さくつぶやいて。

 どこか、あらぬ方を向いて。

 誰かに呼びかけた。


「だとさ」

「……え?」


 彼が見ている方向にあるのは、神殿の出入り口だけ。そしてそれを通行できるのは、風の勇者だけだ。僕ひとりだけ。

 けれど。

 そこから、誰かの足音がした。

 ゆっくりとやってくる人影。

 その誰かは……僕にとっては。一番よく、知っているはずのひとだった。


「ミーファ?」


 少女は僕に目を向けながら、シマドの元へと歩いていく。

 表情は平坦なもので、何も言ってはくれない。

 ……いや、ミーファがここにいるはずはない。彼女は雷の勇者だ。風の神殿に入ることはできない。

 試練のために現れた、幻だろうか。


「……幻じゃないよ、ユシド」

「え?」


 聴き慣れた綺麗な声が、語りかけてくる。

 彼女は、首に提げた指輪を握り締めて、消えそうに儚い笑顔で、僕を見ていた。

 歩みを途中で変えて、こちらに近づいてきて。細い腕を伸ばしてくる。

 ミーファは装備を外した左手で、僕の頬に触れた。

 その温度と感触は、たしかに、とても幻とは思えない……。


「ミーファ……?」


 僕が瞬きをすると、彼女はまた、平静な面持ちに戻っていた。

 踵を返して、再びシマドへと近づいていく。

 並んだ二人は向かい合い、互いを見ていた。


「いいんだな?」

「ああ……」

「はは。不思議な気分だ」

「オレもさ」

「……人間、変われば変わるものだ……」

「そうかな?」

「そうさ」


 風が吹いた。

 シマドの身体が翠色に輝き、彼の肉体は徐々にほどけて、魔力の風に戻っていく。

 そしてその風は、静かに目を閉じたミーファを取り巻いていった。


 そうして、そこには。

 ひとりの少女以外、誰もいなくなった。

 彼女は、左手に現れた、翠色に輝く剣の紋章を見せ、僕に鋭い視線を向ける。


「ミーファ・イユは、普通の少女じゃない。生まれたときから、過去に生きたある人間の、記憶と魂を持っている」


 彼女は自分の名前を、まるで他人の名のように口にする。

 ……目の前で起きていることが、理解出来なくて。いや、理解してしまいそうになって、頭の裏が、強く殴られたように痺れる。

 そして。強く吹いていた風が、突然止んだ。


()の初めの名は、シマド。シマド・ウーフ」


 真実を告げる声が、静かに届いた。


「我が子孫、ユシド。風の試練を受け、継承者である証を立てよ」


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