37. 掃除屋さん生活
朝。生徒達が集まり、学校としての始業時間が来る前に、職員である大人達にもやることはいろいろとある。
教師たちは朝の連絡会。あるいは職員会議。生徒たちの一日のスケジュールを円滑に導くためには、そういうことがかかせない。
しかし学園で働く大人は、なにも“先生”だけではない。王宮から派遣された役人である事務職員たち。食堂で働く料理人や従業員たち。
そして、僕たちのような清掃員ないしは用務員。どれもこの学園に欠かせない人員だという。
同じ場所で働いてはいても、それぞれ雇用のされ方は違う。だから一日の始まりは、教師達とは別に各々の所属する組織で集まって、朝礼なんてことをするわけだ。
「ということだから、みんなも新人にいろいろ教えてやってくれ」
清掃会社の幹部であり、ここの人たちから親方と呼ばれている方が、集まった何人かに向かって号令をかける。僕と同じ作業着に身を包んだ彼らは、それぞれが優しく声をかけてくれたあと、やがて各々の持ち場へと散らばっていった。
「じゃあ僕らも行こうか、ウーフ君。親方、失礼します」
そう声をかけてくれたのは、自分よりも年上の若い男性だ。
彼……ニヌファさんは、僕の教育を担当してくれる先輩である。物腰が柔らかく、優しそうで、とても印象がいい。わからないことを聞きやすい雰囲気を持つ目上の人というのは、きっとものすごく頼りになるだろう。
ちなみに、ここらでは珍しい黒い瞳と黒髪だ。ファミリーネームはサザンクロスというらしい。ニヌファ・サザンクロス。
親方にあいさつをしてニヌファさんの後へ続き、小道具の入ったバケツやモップを手に、清掃会社にあてがわれた用務員舎から出る。
僕たちがこの時間に担当する清掃場所へ向かう道すがら、横に並んだニヌファさんは、小声で話しかけてきた。
「イフナから話は聞いているよ。スケジュールを調整して色んなところを回れるようにするから、そのときに校内を調べるといい。もちろん、俺のほうからも、怪しいものを感じたら君やイフナに報せるよ」
「ご協力、感謝します」
「いや。感謝するのはこっちのほうさ。王都の誰だって、知ればこんな事件は早く解決したいはずだ」
ニヌファさんは、イフナさんの友人である。ふたりの間にある縁をたどり、僕が王立学園の内側を動くことができるわけだ。
このような仕事にはもっとふさわしい人間もいたはず。貴重な機会を自分に回してもらったからには、些細な違和感も見逃さないようにしたい。
「生徒がいる平日は、あまり好きに動くのは難しいだろう。僕らのシフトも動かしづらいし。うちの社員が大勢出動する学園の休養日なんかに、しっかり見回りができるといいね」
「はい」
「とにかく敷地が広いから、長丁場になると思うよ。掃除も調べ物も、コツコツやっていこう」
「ご指導、よろしくお願いします!」
「おう。いやあ、この仕事って王都の若者には人気がないから、君みたいな子がいるといい気分だね」
「人手不足ですか?」
「そう。観光地としても有名なこの街では、景観を保つためにも、需要のある商売のはずなんだけどね。王宮にだってツテがあるちゃんとした会社だし、次世代が入ってこないのはもったいない」
うーんなるほど。どの職業の人も、同じような悩みを持っているものだな。家業でないきちんとした会社でも、後継者や次世代には困っているらしい。たしかに、ニヌファさんがあの中で一番若そうなくらいだったし。
そういった会話をしながら、生徒の邪魔にならないルートを移動していく。
さあ、お仕事を頑張ろう。
朝の業務を終え、昼休憩の時間。学園の中は講義から解放された学生たちによって、健やかな活気を帯びてくる。
たとえばさっき通った廊下は、今朝通ったときには閑散としていたはずだが、昼には若者たちの往来や立ち話によって、にぎやかな空間に変貌していた。
さて。学生たちと同じように、僕たちもまた昼休みの時間だ。聞くところによると、ほとんどの社員は休憩時間を学園のものとはずらすようだが、理由はこの喧噪を見ればわかる。
学園内に食堂のたぐいは3軒ほど存在するらしい。そしてそのどれもが、昼休憩の時間には戦場となる。販売所から伸びる人の列を見ると、まるで祭りの様相である。これが毎日の光景だというのだから、田舎者には驚きだ。
そんな学生たちが押し掛ける前にここへ来ていた僕たちは、今は大勢の学生たちでごった返す食堂の端に、二人分の席を確保することに成功していた。そして僕はニヌファさんから、なんと一食ご馳走してもらっている。
「ユシド君、ちゃんと真面目にやってくれるんだね。飲み込みも早いし、本当にうちに就職したら? なんてな」
「はは……。その、旅を終えたら、考えてみます」
働き方について褒め言葉を頂いたものの、本来の目的のほうは進展がない。清掃のノウハウを学びながら、よこしまな気配や痕跡がないか気にかけていたつもりだが、初日から大的中とはいかなかった。たしかに、長い話になりそうだ。
ただ、ひとつ分かったことがある。
この王立学園には、生徒を守るためだろうか、王都を囲む結界とは別の破邪結界が施されている。魔物の気配などかけらほどもなく、彼らが侵入できるとはとても思えない。
やはり、人が起こしている事件なのだろうか。
席につけなかった学生さんには申し訳ない気持ちを抱えつつ、この後の用事のために、そのままニヌファさんとの会話で時間をつぶしていると、ひときわ騒がしい集団が近所にやってきた。学生とはどうやら群れる習性があるようだけど、この集団はその中でもさらに人数の密度が高い。
中心には、一人の女生徒がいた。
その顔を見て、僕は彼女たちのいる離れた席に向かって、耳を澄ませる。風の魔力を使い、喧噪をかきわけて音を集める。
「ミーファさんはこの国に来るのは初めてなの?」
「いいえ、一度だけ立ち寄ったことはあります」
「ねえっ、ナキワ地方ってどんなところ!?」
「のどかな田舎の多い国です。静かでいいところですわ」
「あの、その……お慕いしている殿方はいますか?」
「うふふ」
「いるの?」
「ホホホ」
突然学園にやってきた彼女が物珍しいのだろう。金髪の少女……ミーファは、おそらくクラスメイトとなる学生たちから、怒涛の質問攻めにあっていた。
うまく猫をかぶっているようだが、だんだんと飽きて返答がおざなりになっていくのが僕にはわかる。
猫をかぶっている、とは表現したけれど、思えば彼女はご家族の前でもあの態度だったようだし、ああいうキャラクターを演じるのは特に苦ではないのだろう。……それを考えると、普段のミーファが本当に本当の彼女なのかは、僕にもわかっていないのかもしれない。
とりとめもないことを考えながら向こうを観察していると、一瞬、紫の瞳と視線があった。薄く笑ったミーファは、学生たちと会話をしながらおもむろに髪を耳にかけ、翠の耳飾りを僕に見えるようにしてきた。
そのわざとらしい仕草は、その、少し煽情的で、どきりとした。意図を深読みしてしまう。
まあ、久しぶりに僕をからかってくるくらいだから、機嫌がいいのだろう。僕が想いを一方的に告げた日からこういうことはあまりなかったから、なんか、よかった。いや決してあの子に弄ばれるのが好きなわけではないけど。
しばらく、ミーファが生徒たちにちやほやされるのを遠くから眺めるという、割とぴりぴりする時間を過ごし、昼休みは終わりに向かっていく。ぞろぞろと生徒たちが出ていく中、あの子と言葉を交わすことなく、食堂から出ていく華奢な背中を見送った。
「さ、食堂の清掃といこうか。これも大事な仕事だ」
ニヌファさんに返事をして、席を立つ。
午後の業務も頑張ろう。
時刻は日も沈んだ夜。いつものように仲間たちで食事をとろうと、僕たちは宿の食堂に集まっていた。
「ブハハハハ!! たまには若者らちに混ざってお勉強すうのも、だかだか楽じいのら!!!」
「ごめん、なんて?」
これである。
今は学生の身分のくせに景気よく酒精を身体に入れたミーファは、清楚な青い学生服のまま、顔を真っ赤にして馬鹿笑いしていた。遠くの国から留学してきた深窓のご令嬢は一体どこへ行ってしまったのやら。ご学友たちに今の姿を見せてみたい。
近頃のミーファは明るくて、なにやら機嫌がいいように思う。マリンさんたちとのパーティーがうまくいっているからだろうか。今日は久しぶりに、僕のすぐ隣の席に座ってくれている。だから、彼女がいる側の頬が熱い。
ごまかすように、話題をふってみる。
「そういえばミーファさん。その……やっぱり、モテモテだったじゃん」
「ああ? あんだっで!?」
「ミーファさん、学校ではどんな感じだったんですか」
「それはもう、おしとやかに振る舞っていて、見事に周りの子たちに溶け込んでいたし、お昼休憩の時間にはたくさんの生徒に囲まれていたよ」
「むーん、さすがです」
今隣にいる酒くさい人を見ると、いずれボロを出すんじゃないかなとは思ってしまうのだが。
「まあね! 顔が良いから」
「自分でそんなこと言うのかよ」
「んんう、ダメかあ? ほら、よく見なさいお」
ずい、と顔を寄せてくるミーファに、思わずたじろぐ。
長いまつ毛で飾られた紫水晶の瞳は深い色をしていて、何度見てもそのたびに吸い込まれそうなる。白い頬にはお酒を飲んだせいか朱がさして、頬紅をしているみたいだった。言葉も出ないまま思わず見とれていると、チークの色がどんどん紅さを増していく。
「………なにみてんら、バカモンがああーーーっっ!!!」
「理不尽!?」
突如ミーファは僕の顔面を狙い、握りこぶしを繰り出してきた。とんでもない横暴である。
避けると追撃が飛んでくる。僕は必死になって何度も攻撃をかわし続けた。殴られるいわれはない。
不毛な攻防を演じたのち、やがて彼女は、息を切らしながらぐでっと机にもたれかかった。顔がパン生地のようにもっちりと机に乗っている。酔っているとはいえ、ここまで行儀が悪くなることはあまりない。楽しいとは言っていたが、本当のところは慣れない一日を過ごして疲れているのかも。
「ユシド、ほら、これ、学園でもずっと持ってるから、ユシド、ほら……」
うわごとのような口調でしゃべるミーファは、胸元からあの指輪を引っ張り出して見せてきた。
何を考えて今見せてきたのかはわからないけど、ええと、その。それなら、よかったです。
「わかった、わかったよ。ありがとう、ミーファ」
「ふへへ……」
満足そうに薄ら笑ったあと、彼女は眼を閉じた。そのまま動かなくなる。
……寝たのである。あまりに突然だったので、おかしくて吹き出しそうになる。口元に耳を近づけると、かわいらしい寝息が聞こえてきて、少し癒された。
しかしね。かわいらしいのは今だけのことだ。
「シーク。これだけ酔ったときのミーファのいびきは、すごいよ」
「ああ。この俺が地震と間違えるほどだ」
「ええっ!?」
シークに安らかな眠りがあらんことを……。
学園に来てから、数日が経つ。清掃業者としてのスケジュールや業務については掴めてきたため、暇を見つけて手広くいろんな場所を見て回ろうと思っている。
仲間であるミーファが調査しづらい、つまりは学生が入ることのできない、職員室であるとか用務員舎などには目をつけているのだが、叩けど未だ埃は出てこない。叩き方が弱いのか、それとも、やはり学園はこの事件と関係がないのか……。
予定通り、南校舎の教室をひとつ、清掃し終わった。教えられたとおりに決められた手順をこなすと、なかなかに見栄えのいい教室が出来上がる。学生たちがここでいい学びを得られるなら働いた甲斐があるものだ。
さて。時刻を確認すると、次の予定まで時間がある。
もちろん、そうなるように仕事を頑張ったのだ。捻出したこの隙間の時間は、まだ行ったことのない場所を見て回るチャンスだ。
僕はモップを担ぎ、バケツを手に下げ、学生たちの邪魔をしない筋道を考えつつ、歩き出した。
「……そういえば」
視線の先には、お城やお金持ちの屋敷くらいでしか見られないだろう、一度に何人かが通れそうな幅の広い階段がある。
王立学園はなんと3階まである建物であり、加えて敷地も広く、行き来のためかそこら中にこのような階段がある。こんな建造物はお城かダンジョンくらいのものだ。最初は本当に迷ったし、実は密かにマッピングをしている。学生たちはこの迷宮のような環境に身を置くことで、自然とダンジョン探索の技術を身に着けているに違いない……。
ともかく。
目の前の階段は、下だけでなく、上にも続いている。ここは最上階の3階であるはずなのに、おかしなことだ。おそらく屋根上、あるいはバルコニーのようなものがこの先にあると見た。
試しに行ってみよう。掃除道具さえ持っていれば、誰にとがめられても言い訳はきく。
階段を上がる。
やがて現れた扉。『危険につき、学生は立ち入り禁止』と書いた札が貼られている。それを押し開ける。隙間からは、陽光がさしてきていた。
扉の先は、まさしくバルコニーのような空間があった。
飾りも何もなく、ただ空が近いだけの場所だけど、風が涼しくて開放感がある。なるほど、ここは建物の屋上だ。転落防止のためか、端の方には柵がとりつけてある。
そして。
柵に寄りかかるようにして、人影がひとつ。
「誰……?」
青い学生服。どうやら、先客がいたようだ。少し都合が悪い。
しかし何も言わずに無視するのもよろしくない。声の届く距離まで近づき、小さく頭を下げてあいさつをした。
「こんにちは。ただの掃除屋です。少し、ここを点検しても?」
「……承知しました。今、出ていきます」
「ああいえ。こちらはすぐ済みますから、そこにいて」
その女生徒は、プラチナブロンドの髪とブルーの瞳が印象に残る色で、あと顔がかなり美人だった。王立学園のお嬢様はレベルが高い。
しかし表情を窺うに、どうやら先ほどまで涙を流していたようだった。目のあたりが腫れている。今は授業中のはずだが、彼ら彼女らにも心の悩みやら何やらあるということだろう。
これを放っておくなど我ながら非情だが、突然知らないやつにお悩み相談などできまいし、卑しい身分でわたくしに近づくなんて!とか思われるのも嫌だし、あまりお邪魔をしないようにしよう。僕が解決できるトラブルなど、ギルドの掲示板に載せられる範囲の話くらいだ。勉学に勤しむ学生さんとは関係がない。
柵や物陰など、損耗や汚れを見ているふりをしながら、魔力の気配などが残されていないかを探ってみる。
瞳を閉じ、第六感を最大限に開いてみる。……だめだ、何の異常も感じられない。ここも他の場所と同じだ。
正確には、人を襲う魔物がまとうような、淀みのある魔力、か。そういったものがまったく見られない。
……まったく見られない? それはむしろ、清浄すぎる。学園独自の結界に覆われているにしてもだ。人間の魔力にだって、そういった要素が少しは混ざるはずなのに――
「あの」
「うわっ!」
感覚を鋭敏にしているところに、いきなり後ろから声をかけられた。
「驚かせてすみません。あの……初めてお見かけするのですが、清掃会社の方ですか?」
「え? あ、ああ。ついこの間、配属されまして」
「本当に?」
「ええ。……あの、なにか?」
「はっ!!!」
「どほぉうっ!?」
気付くと、僕は清掃道具のバケツの中身をぶちまけ、地面にひっくり返っていた。
女の子に、腹をぶん殴られたのである。同時に、全身を何かの波が通り抜けるような感覚がした。
「いっ……たく、ない……? なんだ?」
「……す、すみません!!」
綺麗な顔をして横暴を働いたその女の子は、今度は謝ってきた。
「その、もしかしたら、人間に化けた魔物かも、って思って……本当に、すみません」
「!」
腹をさすりながら話を流していると、聞き逃せないワードが出てきた。
少し、彼女のことを聞いてみよう。
突然いわれのない暴行をはたらかれたことをダシに、事情をしつこくたずねてみると、興味深い話を聞くことができた。
ものすごく躊躇してきたあと、彼女は申し訳なさそうな顔をして語り始めたのだ。
「近頃の王都では、優れた魔力を持つ人間が、何者かにかどわかされているのです。ご存知、でしたか?」
「……いえ」
「それで、その。わたくしが一人でいるときに襲ってくるような人は、怪しい者と思い……」
襲ってないんですけど。
「本当にごめんなさい。ひとりでいれば犯人が釣れると思っていたから、ついに来たと勘違いしてしまって……焦りで、早とちりを」
なるほど。囮作戦はミーファも今まさにやっているところだ。しかしただの一学生が、なぜそんなことを。
「どうしてそんな危険なことを?」
「許せないから」
少女の顔が、険しく、赤く、怒りに染まったのがわかった。
「何者の仕業か知らないけど、姉さまをさらったヤツは絶対に許さない。この拳で全身を砕いて、処刑するわ」
声が震えている。怒りだけではなく、悲しみの感情がこもっているように思えた。……多分、姉のことを思って、さっきまでここで泣いていたんだろう。
そうか。事件は一般に知られていないとはいえ、こうして被害者の家族は存在するんだ。
「誰かの陰謀かもしれませんね、敵対国のスパイとか。あるいは……魔物、とか」
「……あなたには、打撃と同時に破邪の魔力を流しました。何の異常もないなら、魔物の類ではないはず。短絡的なことをして、本当に申し訳ありません」
「ああ、いえ。なるほど、そんな方法が……」
だからいきなり殴りかかってきたのか。もっといい方法なかったのかな、結界とかさ。
探りを入れるように、しらじらしく会話に乗り続ける。
「しかしそんな事件があるのなら、王政府も動いているでしょう。安全な場所に身をひそめ、解決を待った方がいいのでは?」
「……聞き飽きたわ、そんなこと」
自分としてはまともな意見を言ったつもりだが、どうも癇に障ってしまったらしい。
彼女は踵を返し、屋上の入口へと向かって歩き出した。結果として、邪魔をしてしまったみたいだ。
「今日はすみませんでした。あなたも、どうかお気を付けください」
最後にもう一度頭を下げ、少女は去っていった。
同時に、学生たちの時間割を告げる大きな鐘の音が鳴る。向かいの校舎の屋上からだ。
自分も仕事に行かなければ。
次の、そのまた次の日。
例によって余暇時間を作ることができた。今日は、北校舎の屋上を見てみよう。
意気込み、この前のように階段を昇って、ドアを開ける。そこには――
「あ」
「え? あなたは……」
またか。さてはこの子、よく学校をさぼっているな。あんな事情ならとやかくは言えないが、教師から注意されたりはしないのだろうか。
柵に寄りかかっていたのは、長く美しい金髪の少女だ。お淑やかに見えるのに突然拳を振るってくるあたりが、誰かに似ている。
「あー、すみません。少し、点検しても?」
「ええ」
おかしな縁ができてしまったが、やることは決まっている。
前回のように妙な痕跡がないか、調べて回る。柵や石畳には、とくに異常はない。
少し離れたところに目を向けると、このバルコニーから歩いて進入できるように建設された、細い塔のようなものがある。そのてっぺんには、大きな釣り鐘があった。学園の時刻を告げるものだ。
調べてみたものの、やはり異常はない。特定の時刻になると作動するような、魔法術とからくりを組み合わせた仕掛けが施されているが、これは正常な仕掛けだろう。
学園を描いたマップに、ひとつチェックをつける。北校舎の屋上にも、異常は見られなかった。
「ねえ。あなた、よその国の人でしょ」
「うわっ」
また突然、かのご令嬢が話しかけてきた。しかも鋭い。もしや僕を疑っているのか?
「はい。……なぜわかったんです?」
「さあ? なぜでしょう。ふふ」
少女は釣り鐘塔の陰に移動して、僕を手招きした。今日は機嫌がいいな。
「ね、掃除屋さん。……お願いが、あるのですけど」
少女は伏し目がちになりながらも、こちらをチラチラと伺い始める。たっぷり間を開けたあと、意を決したように口を開いた。
「2度も会ったのだし、縁だと思って。あなたの国のお話、とか、聞かせてくれませんか?」
「は、はあ。でも仕事が……」
「少しだけ。だめかしら。……たまには、全部後回しにして、休んでみたくて」
眉尻を下げて、こちらを見てくる。
……ここの学生たちは育ちが良いから、仕事を持ち出せば引き下がると思ったのだけど。意外とわがままな人のようだ。
まあ、気晴らしだと思って、彼女のおさぼりに付き合ってもいいか。
自分だけじゃなく、この子の気晴らしにもなればいいな。
「い、いえ。撤回いたします。今のは聞かなかったことにしてください。私としたことが、愚かなことを」
「じゃあ、少し話をしましょうか」
「え?」
僕は日陰に座り、少女の顔を見上げた。彼女のことは何も知らないけど、誰だって息抜きは必要だ。
やがておそるおそるといった様子で、彼女が隣に腰掛ける。そちらから提案してきたはずなのに、変な感じだ。
ゆっくりと、時間が過ぎていく。
……要望通り、生まれた町の話をした。彼女は王都から出たことがないようで、なんでもない田舎の話を興味深そうに聞いていた。
聞き上手を相手にしているせいで、やがて話はこれまで旅をしてきた様々な街にまで飛びかける。これ以上は止まらなくなりそうなところで、頭上の鐘が揺れ、僕たちの耳をおそろしく震わせた。
耳を塞ぎながら、つい、顔を見合わせて笑ってしまった。
「では、僕はもう行きます。あなたは?」
「もう少しここにいます。……あの、ちょっと待って」
清掃用具を手に出て行こうとするところを、呼び止められる。
「もし良ければ、明日も、ここに来てもらえますか? お昼休み、とか」
「え? ううーん」
自分の予定を思い返しながら様子をうかがうと、彼女は少し期待するような目でこちらを見ている。ただの清掃員の話がそんなに面白かったのだろうか。
そうだな。昼休憩を食堂でなくここで済ませる、という時間の使い方なら、校内の調査に影響は出ないだろうか。
さらわれたという彼女の姉のことも、何かヒントが無いか、いずれ彼女の口から聞いてみたいし。
「いいですよ、昼休憩の時間なら。あなたも、あまりさぼっちゃだめですよ」
そう返すと、彼女は嬉しそうにした。
よほど他国の話に飢えているのか、なんなのか。
それとも。大切な身内をさらわれて、心に穴が空いているのか。
「じゃあ、また明日。掃除屋さん」
「さようなら、学生さん」
はにかんで見せる顔は、どうにも健気な印象だった。
そういえば、まだ名前を知らない。
名前を知らなくても、こうやって仲良くなれるものなんだなと、思った。
夜。
すっかりなじんだ宿屋の人たちは、いつも決まった時間に食事の用意をしてくれる。ただ待つのも退屈なので、ほんの少し手伝った。
ティーダさん、シークが帰ってきて席に着き、談笑や1日の報告会をする。そうして日も沈んだ頃になると、ようやくミーファがやってきた。
学生服ではなく、見慣れた戦闘装束だ。学生として過ごしたあと、マリンさんたちと一仕事終えてきたのだろう。かなりハードな毎日だと思う。
席はあちこち空いている。どこに座るのか少し気になってどきどきしていると、彼女は僕の隣に腰掛けた。嬉しかった。金の髪が揺れて、良いにおいがする。
「お疲れさま。ええと、今日はどうする? お酒は」
「……飲む」
「飲むかー」
飲むのかー。
シークの顔色が一瞬、だいぶ悪くなったのを、僕は見逃さなかった。レストインピース。
夕食の時間が始まる。報告によれば、各々、事件について有力な情報は得られていないらしい。このままいくと、ティーダさん達が調査に行った聖人教会の方はシロということになるか。
それぞれの情報を交換し合い、やがて関係のない気楽な話題になる。教会勤めの騎士さんの剣技がすごかった、みたいな話を、シークとティーダさんが楽しそうに話していた。
相槌を打っていると、突然、左の耳が熱くなる。
ミーファが、小声で話しかけてきたからだ。
「……お前さ。学園の女生徒と、仲良く話していただろう」
「えっ」
どきっと、してしまった。なんか、悪いことをとがめられたような気分と、ミーファの吐息の熱で、心臓が、こう。
「なんで知ってるの?」
「教室を移動する途中で見えたんだよ。屋上にいたな?」
悪魔のような視力……!
いや、いや。別にやましいことはない。見られたことがなんだというのか。
「そ、それがどうかした?」
「ふうん。いや、別に」
ミーファは目を細めて僕を見たあと、そのまま視線を手元のカップに移した。
それをおもむろに持ち上げ……一気に傾ける。
「あ!! そんな勢いよく飲んだら、倒れるよ! 身体に毒なんだから」
「………」
頬を紅くした彼女は、ぐい、と僕に顔を突き出してきた。近すぎて、心臓が破裂しそうになる。なんだ、どうしたんだ、今日は。ミーファの行動が読めない。ついこの前もこんなことあったな。
ミーファはそのまま頭を僕の耳元に持ってきて、僕にしか聞こえない声で、囁いた。
「……キミが同じくらいの歳の女の子と仲良くしていると、あまり穏やかな気分ではいられない」
「そ、それって……」
「せいぜい見えないところでやれ、ばか」
そう言って、ミーファは。
そのまま、僕に寄りかかってきた。
「うわっ、ちょ、ちょ……あの……!」
「……すー、すー」
「ええ?」
そして寝た。
「はっ!? ちょっと談笑してる間にとんでもないことになってる」
「ゆ、ユシドさん。大胆すぎます」
「ち、ちが……重……」
「ごごごごごご!!」
「ひっ!? お、重くないっす」
耳元で地鳴りのようないびきを聞かされ、思わず謝罪してしまった。半笑いのティーダさんとシークに助けを求める。
結局いつかのように、僕が彼女をおぶっていって、部屋で寝かせてあげた。着替えさせてあげた方がいいのだろうが、それはシークに任せよう。
寝つきが良いのは、やっぱり疲れているってことなのかな。なるべく普段は気遣おう。




