26. 火魔テリオモウイ
燃える触手が、闘技場に集まった人々を襲う。
デイジーは席から立ち上がり、熱気と恐怖に汗を流しながらも逃げ道を探す。
デイジーの身体には、戦士たちのような豊富な魔力などありはしない。だがそんな少女にも例外なく、卑しい悪魔の手が伸びていく。
「はっ!!」
「お、おかみさん。ありがとう」
デイジーに迫る鞭を、オリトリ亭の女主人の放った拳圧が消し去る。
彼女は男性や少女を背に守り、腕や足の振りで触手を断ち切っていく。
だが、その元手となっている炎の怪腕には、大きなダメージを与えられてはいない。時が経つにつれ、徐々に触手はその数を増やし、懲りずに周辺の人々を食らおうと蠢いていた。
「ふん。現役のときならこれくらいの炎、どうってことなかったんだけどねえ」
「おかみさん、危ない!!」
「……! あんた! デイジーちゃんを!」
脅威を認めた触手が、束になって女性に襲い掛かる。彼女は背後のふたりを庇い、前へ出て身を強張らせた。
「雷神剣」
透き通る声が、かすかに空気を揺らす。
デイジーは思わず耳を澄ませる。しかしすぐに、雷鳴がとどろき、彼女の耳を脅かした。
耳を押さえ、涙目になりながら、それでも少女はその姿を見て、勇気が沸き上がるのを感じた。
炎の腕が金色の剣に切り裂かれる。それをやったのは、闘技大会の闘士で、どこかのお嬢様で、外からやって来た旅人。そして、デイジーの友人だ。
「ミーファちゃん! 助かったよ」
「ありがとうねミーファちゃん。そうやって戦っていると、私の若い頃に似てるわよ」
「何を言うんだおまえ。……おまえの方が、ミーファちゃんよりさらに、美人だったよ」
「あんた……」
「あのー、はやく逃げてほしいんですけど」
剣を鞘に収めたミーファは、人々に避難を促した。デイジーが辺りを見渡してみれば、他の腕もあらかた消えている。深刻な火事になる前にここを去るべきだ。
客席の出口へと向かう人の波に混ざろうとして、デイジーはあることに気付く。……彼女は、避難しないのだろうか?
「ミーファさん! 一緒に逃げないの!?」
「私は少し、やることがありますから」
その目は闘技場の中心にいる、炎の魔人に向けられている。デイジーにはあれが何者なのか分からなかったが、人々を恐怖に陥れる存在であることは、今まさに理解させられたところだ。
そんな相手に、自分の愛すべき友人は、立ち向かうというのだろうか。
危険だ。止めるべきだ。そう、思った。
「……ミーファさん!」
少女が、デイジーを見る。
「どうか、無事で帰って来て!」
「もちろん」
ミーファは、なんでもないことだというふうに、穏やかにデイジーに微笑んだ。
そのまま大きく跳び、燃え上がる炎の中心――武闘台へと飛び込んでいく。
少女はそれを見守る。帰ってきたらきっとねぎらってあげよう、そう心に決め、その無事を祈った。
燃える炎の悪魔と、目が合う。
紅く光る瞳は邪気にまみれていて、さらに魔人とともにある闘士ロピカもまた、全く同じ目をしている。
なるほど、彼女は火の勇者などではない。強力な魔物が、人間に化けて潜んでいたというわけか。
魔物の侵入を防ぐ結界が張られているような都市だからといって油断し、その可能性に思い至らなかったオレは、何年戦っていても未熟者だということだ。
そのせいで、ひとりの少女が、あんな目に遭っている。
腰の剣に手を当てる。
アーサーは、まだ生きているだろうか。試合を見ていたが、あの巨体の中に吸収されていった時点では、まだ余力があったはずだ。あれほどの魔力を持つ子だ、魔物の体内でも、魔法障壁で身を守ることはできるはず。意識と、抗う意思があれば、だが。
ならばオレのやるべきことは決まっている。あの魔人の腹を掻っ捌き、アーサーの救出を試みる。
……あの魔物のことは、何も知らない。だが、対峙したアーサーの怒り狂った様子や、会場の人間に魔の手を向けたその所業からいって、ろくなやつではないだろう。
『お前はなんだ? 勇者だというのは真実か?』
人間と言葉を交わす、知性のある魔物。
その事実は、相手が友好にわかりあえる存在であるなどということは、保証しない。
「興味があるというなら、答えよう」
『ない。お前は次の食事だ』
「ああ、そう」
魔物の様子を観察する。燃え上がる身体は、アーサーと戦っていたときより火の勢いが強い。口ぶりやこれまでの行動からしておそらく、アーサーや人々の魔力を取り込み、自分の糧としているのだ。
また、あの体表はアーサーの大剣をも簡単には通さなかった。おそらく、纏っている炎が魔法障壁の役割を果たしているのだろう。属性の特徴を伴って可視化されるほどの障壁となると、それなりに厄介だ。
だが、負けてやる気など、毛ほどもない。
「ならば、お前は何だ? 魔物か?」
右手を剣の柄にかけ、やつの周囲をゆっくりと歩く。
アーサーにつけられた傷や消耗した魔力は、すっかり回復しているように見える。そうなると防御力も復活しているはずだ。どの程度の加減具合なら、やつの腹をうまく切り裂けるだろうか。
魔物はオレの言葉に、興奮したような声で返してきた。
『我が名はテリオモウイ! 七つ魔の一にして、偽りの民である貴様ら人間を葬るもの』
「なに?」
……ということは、“火魔”か。だとすれば、一匹の魔物に過ぎない個体が、あれほどの強大な力を持っているのも頷ける。人間と会話し、固有の名前を口にするような知性を持っているのもそうだ。まあ、その知性を、どうやらやつは下らないことに使っていそうだが。
またしても七魔の一体。此度の人生では、この短い期間で二度も遭遇したことになる。不運なことだ。
鞘に添えた手の方にも、力がこもる。
だがこの火魔には、大して脅威など感じない。あの巨大な地魔イガシキと比べれば、常識的な範囲の内にいる相手だ。
正面から向き合ったときのプレッシャーは、風魔テルマハにも格段に劣るだろう。
そして、当然……“あいつ”にも。
「なあイガシキ。彼、きみのお友達らしいな」
『……はあ? 冗談はよせ、人間食いなどゲテモノ趣味にも程がある。まともじゃないね。大体あんな新参と同列に並べるな、格が違うわ』
鉄が叩かれて響く音のような不思議な声で、イガシキがまくしたてる。今日は機嫌が悪そうだ。気が合うね。
だけどなあ。小娘の腰に収まったちっさい鞘が、何を吠えているんだか。今の聞かれてたら、笑われると思うよ?
『バハハハハ!!! なんだ貴様は、まさか、人間に飼われているのか? 正気か!? ウッハハハハ!! 滑稽の極み!』
ほら。爆笑されてます。
『殺そう』
「まともじゃないね、って、魔物にまともも何もあるのか?」
『あるとも。人間と比べればな』
ゆっくりと抜き放った鋼の剣には、いつになく魔力がよく通る。もしかすると力を貸してくれているのかもしれない。
オレは金色に光る切っ先を、火魔の本体に向ける。一足で踏み込める距離だ。
さて。
やるか。
全身の気力を充実させ、頭の回転速度を最大にする。脚に纏わせた雷と風が、前に出ようとするオレを助け、地を蹴る足をさらに押し出す。そうすれば、敵の懐までは、瞬きの間にたどり着く。
火魔の眼前で急制動をかけると、接地した足がバチバチと放電した。この緩急をつけた接近に、初見の敵は対応できていない。剣に纏わせた輝きが、魔人の間抜けな顔を下から照らす。
「ぜえあッ!!」
雷の刃が閃く。オレはアーサーが先の試合で付けていた傷を思い出し、それをなぞるように、やつの腰から肩に向けて斬りあげた。
『ぬうっ!? 貴様ッ』
……浅い! 威力をセーブしすぎたようだ。
やはり腹の中にアーサーが囚われているというのが厄介だ。彼女を傷つけてしまいやしないか、不安で剣速が鈍る。
だが、炎の衣にどの程度の防御力があるか、ひとつ確かめることができた。二撃目はもっと精度をあげて……!
「!? なにっ!?」
背後から、何者かに組み付かれる。
オレよりやや背の高い華奢な女性、闘士ロピカだ。魔人の方が本体だろうと思って無視していたが、それぞれ違う動きができるのか。
だがどうしたことか、大して強い拘束力ではない。見た目通りの人間らしい膂力だ。オレの筋力でも脱出できるはず。
足が浮いてしまう前に力を振り絞り、彼女を撥ね退ける。魔人と挟み撃ちにされないよう立ち位置に気を配りつつ、オレはロピカを睨みつける。レベルの高い敵に立ち向かうとき、こういう邪魔者が一番厄介だ。先に切り捨ててしまおう。
剣の届く間合いに踏み込む。鈍く光る鋼の刃が、彼女を両断しようと迫る。
『いいのか。それはアーサーの母親の身体だ』
――斬りつけようとした剣を、咄嗟に止めた。
魔人が術を放つ。火炎がオレを飲み込み、視界は紅蓮で埋め尽くされた。
腕で顔を、とくに鼻と口を庇う。障壁を身に纏っていても、息苦しく、気が狂うほど熱い。オレはたまらず大きく退き、火術の攻撃範囲から逃れた。
「ゲホッ、ゴホ!」
他の七魔より格下だと侮るのを訂正はしないが、さすがに火の魔物の頂点だ。まともに食らえばひとたまりもない。
石畳すら焦がし焼き砕くほどの威力は、それ自体は障壁で軽減することはできる。しかしあの呼吸を阻害してくる性質が、人間にとっては厳しい。やつはまるで、火事を具現化したような存在だ。
まずいな。アーサーは、本当に無事でいるだろうか。敵に消化されてしまう以前に、呼吸困難で死にかねない。
一刻も早く助けなければ。
やや痛む喉を気にしつつ、体勢を立て直す。あちらから攻め込んでくる気配はない。
浅い呼吸をしながら真っ直ぐに立ち、相手を見やる。
……時間がないから、敵に向かって悠長に質問などはしないが。今あいつは、気になることを口にした。闘士ロピカをさして、アーサーの母親の身体だ、と。
それが真実なら。火魔が彼女の母親の身体を乗っ取り、操っているのだとしたら。試合でのアーサーの態度や戦い方に、説明がつく。
剣を強く握りしめる。どうやらあの魔物は、想像を超える性悪のようだ。これ以上は声も聞きたくはない。
剣を手に、再度駆けだす。景色が高速で後ろへ流れていくその中で、炎の魔人の正面を庇うように、ロピカの身体が前に出たのを見た。
盾に使う気か。――ふざけている。
途中で進む方向を修正。大きく外れた方角に向かって、最初のように魔力を用いて爆発的に加速する。オレは大回りの軌道をとりながらも、魔人の背後へと回ることに成功した。そのまま剣に魔力を込め、背中を斬りにかかる。
だが。
オレが剣を振りかぶるのと同時。いや、それより先に。炎の巨躯がこちらへ振り返りながら、その大きな腕を振り回していた。
「がっ――!?」
硬く、重い衝撃。他のことに例えようのない暴力に吹き飛ばされ、オレの目の中で、周りの景色がめちゃくちゃになる。
無様に地面へ転がり、ほこりまみれになり、うつ伏せになって自分のいる地面を見つめる。……赤い色の液体。口からの血だ。
内臓にダメージがあったらしく、気付けば自分は腹を手で押さえていた。これでも咄嗟に後ろへ跳び、威力を軽減させたはず。このミーファとしての身体は、昔の自分より少しヤワだ。
集中し、治癒の魔法術を使う。
今世では回避に重きを置く戦い方を心掛けているのだが、それはオレがあまり頑丈ではないためである。そこに手痛いカウンターを頂くと、魔法障壁があってもこのざま、ということだ。いい経験になったよまったく。
……けれど、ひとつ。仕事はしたぞ。
接近した際に敵に仕込んだ魔法術を、いま発動させる。ロピカにまとわりつくようにあったかすかな魔力の煌めきが、スパークして光量を増し、瞬く間に強固な拘束錠を形成した。それがロピカの手に、足に、かせとして噛みついていく。
ロピカの四肢を締めあげているこの電光は、ある性質を持っている。両手首のそれ同士、両足のそれ同士が強い力で引き寄せ合い、接着し、対象が身動きをとれなくするのだ。
術が上手く決まり、バランスを崩したロピカの身体が地面に倒れ伏す。それを炎の魔人は、退屈そうな目で見下ろしていた。
やつの顔面には人間と共通するパーツは目以外になく、したがって表情というものも読み取りづらい。だがそれでも何を考えているかは大体想像がつく。アーサーの母親をあざけり、貶めるようなことだろう。人間をおもちゃかエサとしか考えていない醜悪な怪物だ。
しかしこれでやつは人質の盾を失った。これ以上卑劣なことをしでかされる前に、アーサーを助けたいものだが。
「ミーファ様、伏せてくださいまし!」
「!!」
聞こえた声に従い、身を屈める。
「アクア・イグニッションッ!!」
アーサーの攻撃術にも迫る勢いの水流が、オレの頭上を越え、炎の魔人へ殺到する。
燃え盛る炎に勝り得る強力な水術は……しかし、魔人の呼び出した、厚い炎の壁によって防がれた。
惜しいな、かなり有効な攻撃だったはずだ。今やつが呼び出し水と打ち消し合わせたその障壁は、常に身体に纏っている炎と比較しても、いっそう強力なものだったように思える。水が炎の鎧の防御力を上回っていたことの証明だ。
彼女がああして、こちらへ大声で呼びかけてくるような真面目な性格じゃなければ、魔物が守りを固める間もなく一撃を入れられていたかもしれない。不意打ちは有用な手段の一つだ。
だが、彼女が真面目な子でなければ、こうして助力に来てくれることはなかっただろう。
「ミーファ様、ご無事でしたか?」
重厚なからくりの剣を手にし、少女――ルビーは、オレに並び立つ。
そして、もうひとり。
「すまんな、もっと早く駆けつけたかったんだが」
鉄の鳴る足音。鎧で身を固めた騎士が、ゆっくりと近寄ってくる。駆けつけたかったという割に、動きは悠長なものだ。だがその物腰には強者の余裕があり、彼の確かな力を感じさせた。
ユシドを散々殴打してくれた神速の剣士。イフナが、得物を掴んで静かに立つ。
「バルイーマの人々は、このルビー・デ・エフニが守ります!」
「仕事に戻ろう。今は民のために、この剣を振るう」
闘技大会に集った闘士たちの、頂点を争う高みにいたふたり。それが今となりにいることの、なんと頼もしいことか。
オレ達勇者にとっては、恐ろしい魔物から人を守るのは当たり前のことだ。それが使命であり、義務だと思っている。苦に感じたことはない。
だが彼らは、身を守る強い魔力もなく、名もなき人々の代表として、見返りもないのにここに立っている。オレが彼らの立場なら、こんな危険に立ち向かったりはしない。だから心底から、二人のことを尊敬できた。
背筋を伸ばし、彼らに見合う自分になれるように、しゃんと立つ。
……魔物はそれを、つまらなさそうに眺めていた。
『なんだ、貴様らか。闘士どもには上物を期待していたのだが、こうも魔力の気配がうすい奴らばかり勝ち上がってくるとはな。期待外れだったよ』
火魔がぺらぺらと、不愉快なことを話す。
瞬間、背骨が身の危険を訴えてくる。ルビーの身体が強張り、イフナが剣に手をかけたのがわかった。
ふたりの戦闘勘が正しいことを示すかのように、直後、魔人が火炎を放つ。オレ達三人をまとめて焼き払おうとする強力な攻撃だ。範囲も広く、回避はもうできない。オレはともかく、魔力障壁の弱い二人には致命的だ。
……だけど。きっと、大丈夫。
目の前にもうひとり、誰かが降り立った。
見慣れた背中は、いつからこんなに広く見えるようになったのだろう。師の前に出るなんて生意気なものだが、それに頼もしさを感じてしまうことは、もう、認めざるを得ないだろう。
――ユシドはその翠色に輝く剣で、巨大な火炎をふたつに切り裂いた。
「みんな、平気?」
「ユシド様! カッコイイです!」
「そ、そう?」
「……ええい、見つめあうな」
「いででで!!」
無邪気にユシドに近寄り、目を輝かせてほめたたえるルビー。オレはユシドの耳を引っ張り、二人を引き離した。まったく、敵の目の前で遊ぶんじゃない。少し見直したらこれだ。
とはいえ、あれほどの術をあっさり切り裂くとは。思い返せば地魔の強力な魔力攻撃も弾いていたが、あのときよりさらに太刀筋にぶれがない。戦いの最中でなければオレも褒めてやりたいくらいだ。
「人々の避難は済んだのか?」
「うん。あとはアーサーを……」
「皆、散開しろッ!!」
「きゃあっ!?」
イフナの声に反応し、その場から離れる。すでに魔物の手からは、巨大な火球が投げ放たれていた。
その際、ルビーの腹をかかえ、肩に抱き上げながら地面を蹴った。彼女の反応速度では、若干逃げ遅れてしまっただろう。
……い、意外と重い。彼女自身は華奢な体つきだから、手にしている剣のせいだろうか。もしくは見た目に反して、必要な筋肉が細い身体に詰まっているのかもしれない。
背後では、さっきまでオレ達がいた場所から大きな火柱が上がっている。魔物が放った火球が炸裂したのだ。
風を切って走り、火魔の斜め後方でブレーキをかけ、ルビーを下ろす。彼女は律儀に頭を下げようとしてきたが、それは今はいい。
オレは雷を纏わせた剣で、やつの首を狙う。金色の輝きとともに振るう刃は、光の残像を軌跡としてルビーの目に残しているだろう。
閃きが、魔人に吸い込まれていく。
『無駄なことを』
だが、不快な手ごたえと共に、振り抜こうとした腕が止まった。火魔の太い腕部がオレの刃を防いでいる。背後から狙ってもこのように対応されるというのは、さっき学んだ。
だから、素直にそこを離れた。
『ぬうっ……!』
魔人は両腕を使い、自分の身体を庇う。目にも止まらぬ剣閃の嵐が、やつの全身を襲っているからだ。
闘士イフナの高速斬撃は、間近で見ると迫力が違う。オレの戦闘速度など足下にも及ばないだろう。
また、間髪入れずに連携を繋げてきたのも見事だ。戦闘経験の豊富さがうかがえる。ユシドは格上相手に、よくぞ真っ向から立ち向かったものだな。
オレは魔力を練り、周りのメンバーの位置を確かめながら、火魔への攻撃のタイミングを計る。
そうだ。今戦えるのは4人。ユシド以外との連携は万全ではないが、イフナもルビーもひとかどの戦士。やつにとっては脅威となるはずだ。
力を極めた魔物は孤独になる。火魔にとって、己以外のすべては、魔力を高めるための糧に過ぎないはずだ。
そんなあいつに、人間の強さを見せてやろう。災いを前に、互いに刃を交えただけの相手とこうして共に立ち向かうことのできる、彼らの気高い心を。
ユシドの魔法剣やルビーの砲撃の間を縫い、イフナと共に何度も斬りつけながら、やつの炎の硬度を確かめていく。
やはり生半な攻撃では通じない。魔法術の補助などがない、通常の武器による攻撃は、ほぼ受け付けないだろうといえるほどの障壁だ。イフナのような手練れの剣であればある程度は効いているようだが、このまま戦えば、倒しきる前に彼の剣が壊れてしまうかもしれない。
『人間どもが……!! このオレにたてつきおって!!』
そろそろだ。火魔の声や動きに、怒りの感情が見えてきた。余裕が無くなってきているとも言い換えられる。
それはオレ達にとって好機であり……しかし、危機でもある。
『オオオオオオッ!!!』
闘技大会の客席を守ってきた、あの大障壁を破るほどの力。ここまでやつはそれほどの技を見せていない。だから、真の力を隠しているのはわかっていた。
魔人の咆哮に、空気が揺れている。それだけじゃない。闘技場を取り巻く熱気が、明らかに、急激に上昇しつつあった。ただでさえ火事が広がりかねない温度だったが、ここまでくるといよいよ本能が危険を訴えてくる。あまりに濃密な火の魔力の波動が、世界に影響を及ぼしているんだ。
火魔の燃える身体が、ごうごうと勢いを増している。
やがてやつの全身が、赤く発光しだした。まるで炎をそこに、凝縮しているかのように。
ルビーとイフナの位置を確認し、ユシドに目配せをする。
――広範囲への攻撃が、来る!
爆発、という言葉がある。それは知識として持っているし、口にして使ってもいるが。実際にその意味に最も近い現象は、もしかするとこれかもしれない。
魔力を溜め込んだやつの身体は、ほんの一瞬、より大きく膨れ上がった。
そして……。
全てを壊滅させる紅蓮の嵐が、オレ達を襲う。
耳がおかしくなってしまいそうな音。落雷のそれにも劣らない轟音は、備わったエネルギーもやはり、匹敵するものがあるのだろう。
ルビーを背後に守り、オレは普段身に纏っている魔法障壁を、意識して全開にする。前方にそれを集中し、防御の体勢をとった。
不甲斐ないことだが、守勢はあまり得意ではない。雷の魔力で形成したバリアは、硬度こそあるものの、壁として扱うにはどうにも薄く心もとない。これでも大方の魔物相手ならば十分な守りなのだが、ことが七魔相手とあっては――、
「ぐううっ!」
「ミーファ様!」
ルビーの悲痛な声には、たぶん、色んな想いの中に、己を情けなく思っているような気持ちが入っていた。そしてそれは、オレも同じことだ。
予想していた以上の苛烈な技だ! 爆発の衝撃と、暴風じみた火炎の勢いに、障壁がひび割れ始めている。果たして耐え凌ぐことができるかどうか。
オレが負けるのは構わないが、それで背後のルビーを守りきれなければ、きっと来世まで悔やむことになる。それにこれほどの広範囲攻撃。闘技場の外は、街は、人々は無事だろうか。
余計なことを考えて、またひとつ、ひびが深くなる。
爆発は瞬間のものだと思っていたが、敵はまだ魔力を放出し続けている。時間が経つほどにオレの障壁は亀裂だらけになり、踏ん張る手足もとうに限界を超えている。
やつはこれで終わらせるつもりなんだ。このままでは……!
「っ!? これは!」
ついに、障壁が砕け散る。だがオレ達を襲う熱波の衝撃は、まだやってこない。
前方を守るように、分厚い石の壁が、地面からせりあがるようにして現れたからだ。
ティーダの魔法術! オレの障壁よりも断然硬い。ようやく来てくれたか!
安堵で力が抜け、倒れそうになる身体を、ルビーが支えてくれた。土盾の裏で息を整え、攻撃の終わりを待つ。これほどの力の放出だ、凌げば絶対に隙ができる。
だがしかし。終わりは、予想とは違った形で訪れた。
ルビーに身体を預けながらそのときを待っていると。地面、つまり武闘台が、突如白色の光を放ち始めた。
よく観察すると、白色の光は武闘台のところどころから出ている。光の軌跡を追うと、どうやらそれは、魔力で描かれたまじないの文様だ。
描かれた術式には一部、覚えがある。これは破邪の結界だ。それも非常に強力なもの。武闘台のすべてを覆うほどの結界が、そこら中に刻まれている。
『なんだ、この不快な光は!?』
「みんなーっ! 今がチャンスだ!!」
壁を揺らす爆風がおさまり、ティーダの声がした。
ルビーと顔を見合わせ、オレ達はそこから飛び出す。
まず視界に入ってきたのは、ティーダと火魔の姿だ。魔人が身体に纏った炎は、今やか細いものであり、ところどころ黒い筋肉のような部分が見えている。炎がやつの鎧だったのならば、あの黒いものが地肌だろうか。ティーダはやや離れた場所で、槍を地面に突き立てている。どうやら巨大な破邪結界は、彼の仕業だ。
地面を蹴り、好機に高揚する心を活力に変え、突進する。
あれほど消耗させられた直後だというのに、身体が軽く感じる。もしかすると、結界の効力だろうか。
オレ達よりも魔物に近い場所にいたユシドとイフナが、やつに攻撃を加えた。魔物が苦しみもがいているさまから、明確にダメージを受けていることがわかる。
視界の横を、水流の砲撃が駆けていく。ルビーの技が、敵の正面の防御を打ち崩した。
ここだ!
「しゃああッ!!」
魔人の胴体を、斜め一閃にぶった切る。
今度は手ごたえがあった。中のアーサーを助け出す!
『グオオオッ!?』
「うっ!? くそっ!!」
まるで血しぶきのように、魔人の傷口から火炎がほとばしる。
どこまでもこいつは! 厄介な構造をしやがって……!
「ミーファちゃん、下がれ!」
声のした背後へと退く。魔人はめちゃくちゃに太い腕を振り回し、狂乱していた。あれではアーサーを体内から引き出せない。
結界を維持しているティーダを中心に、みんなが集まってくる。やつは消えかけの火だ、もう少しで倒せるはずなんだ。
「落ち着いて丁寧に攻めよう。破邪の光の効果で、性格良いやつは若干調子がよくなって、性格悪いやつは微妙に気だるくなるはずだ。このまま弱るのを待ってもいい」
「だが、アーサーの体力がもつか……」
「だからこそ冷静に、さ。……結界発動に時間がかかり過ぎたのは、反省してるけど」
ティーダの言葉に従い、落ち着いて思考を回す。
……こういうのはどうだ。今ならば、総出の魔法術でやつを拘束するのは容易のはず。動きを止めさえすれば、体内のアーサーに手が届く。
オレは提案をすっ飛ばし、やつに手のひらを向けて、雷の魔力を集中させ始めた。意図はすぐにみんなに伝わるだろう。
対象を見つめ、先に斬りつけた際のものが残っているだろう、敵の周囲に散った雷属性魔力を操作する。既に放出したものを再び操るのは、魔法剣士には得意ではない分野だが、この状況ならば問題なくこなせる。一瞬でも動きを止めれば、ティーダかユシドが重ね掛けをしてくれるはずだ。
腕と足、首と胴に注目する。空間に縫い留めるタイプの拘束錠を形成するため、集中力を高めていく。
「……ん?」
やつの胴につけた、大きな切り傷の中に。
青い光が、瞬いていた。
『ギャアアアアアウ!!??』
魔人の苦しみ方が変わった。思わず、術の行使を中止してしまう。一体何事だ。
炎の怪物はまるで生き物のように、悲痛に叫び、天を仰ぎ、己の傷跡を掻きむしった。そこからは先ほどのように、火炎の血潮がおびただしく噴き出している。
……いや、違う。やつの傷口を押し広げるように、怒涛の勢いで出ているのは……水だ。赤い炎がいつからか、青く輝く凄烈な魔力に、変わっている。
つい、苦笑してしまった。
まさか、いよいよ助け出そうという直前に、自分から出てくるとはな。
『アガ……き、さ、まあああッ!! ゴアッ!?』
水流によって派手に開いた傷口から、細い腕がひとつ。
魔人が動きを止めたのを認め、オレはやつに、いや、彼女の元にいち早く駆け寄る。
そのまま腕を掴み、思い切り引いた。
ローブ姿の少女が、魔人の腹から転がり出てくる。服はところどころがボロボロに焦げ、顔も煤だらけでせき込んでいる。
肩を貸して後ろへ退きつつ、呼吸の様子を耳で確かめる。せきと浅い呼吸を繰り返したあとは、深く息を吸って空気を取り込んでいて、肺がやられた様子はない。呼吸器は心配ないか。
「あれ、みなさ、おそろい、ですね。試合は、終わっちゃった、ですか」
「アーサーがあいつに食われたから、みんなで助けに来たんだよ」
「……そうか。お腹の中で大暴れするつもりだったんですけど、失敗しちゃいました。えへへ……」
アーサーはみんなに囲まれると、やや衰弱した様子ではあるものの、笑顔を見せた。眼球などにも損傷はない。
しばらく彼女とともに膝をついていたが、やがてアーサーは、自分の足ですっくと立ってみせた。みんなの顔に笑みが浮かぶ。
強い子だ。燃え盛る炎の血が駆け巡るあの魔人の中で、反抗の意思を損なわずに耐えていたとは。根性のあるやつは、好きだ。
オレもまた立ち上がり、戦いの舞台へと向き直る。呻き、苦しむ魔人を見て、並び立つアーサーに声をかけた。
「あとはあいつを倒すだけだ。……アーサー、どうする?」
「え?」
「母親の仇なんだろう。ひとりで復讐を完遂するか?」
その顔を見る。少女の赤、青、二色のひとみが、オレをそこに映している。
アーサーが旅の誘いを断った理由。彼女がやらねばならないこと。それが何なのかは、すでにもう、察するに余りある。あの火魔テリオモウイの存在が、この子の半生を苦しい戦いに引き込んだのだろう。
想いを汲むならば、とどめは彼女が刺すべきだ。だから、どうするか聞いた。
「……そうですね。あいつには、この手で、決着をつけさせてください」
そう言ってアーサーは、オレから視線を外す。少女のひとみの中には、今日この日まで、あの炎の魔物しか映っていなかったはずだ。
だが。その目は今、ここに集った闘士たち、全員に向けられた。
「だけど。最後の一押しに、みんなの力を借りたい」
「……よく言った!」
それを口にできたのなら、アーサーはもう、孤独じゃない。
本人はまだ気付いていないだろう。何気なく、この場の空気に合わせてそんなことを言ったのかもしれない。でも、君が口にしたことは、とても尊いことだ。
アーサーには、心の内を少しでも分かち合える、オレたちという仲間がいる。ここにきた二人の闘士もまた、事情を知らずとも、共に並び立ってくれている。だから、頼っていいんだ。彼女の人生ではきっと、それができなかった。
アーサーには心がある。本当の彼女と、まだまだ、もっと仲良くなりたい。
ならばあとは、あの子を縛り付ける鎖を解くだけだ。
各々が武器を構える。アーサーの剣は、彼女の手元にはない。代わりに、祈るように、己の胸に手を当てていた。
決別のときだ。
のたうつように苦しんでいた炎の魔人は、溜め込んだ魔力を消費し、ようやく身体の傷を回復させつつあった。巨躯に力を漲らせ、敵対者を滅ぼすべく燃え盛る。
しかし、再び身に纏い始めた炎の衣は、最初に見せていたものよりも火勢が弱い。魔人が狡猾に意図して振る舞っているのでなければ、勇者たちが彼を打倒するまであと一息、といったさまだ。
しかしその、吹き消す一息の直前にこそ。小さな火は、最後のあらがいを見せる。
『娘ぇ……ッ!! そうまでしてオレに抗うかッ!! これまで通り、新しい居場所など消し去ってくれる!』
魔人の吐き出した轟炎が、戦士たちに迫る。
全盛の威力ではなくとも、常人であれば骨まで焼き尽くすほどの炎だ。これを防ぎきる盾など、いかな名工にも簡単には造りだせない。
だが。
石造りの舞台が高速で隆起し、大きな壁を形成する。それは魔の炎をも遮り、悪意ある攻撃に対し、決して崩れることはない。
地の勇者。彼の操る大地の力には、仲間を守るという揺るぎない意志が宿っているからだ。
「俺はいま、ちょっと動きたくない。ので、みんなでボコボコにしてきな」
槍の石突で、男が地を叩く。
それと同時に、炎の魔人は地面から現れた石の蛇によって、巨大な腕や胴を絡めとられ、その場に縫い付けられた。
とはいえ、火魔は魔物の頂点に立つ存在のひとつ。燃える炎を血液とし、流動するマグマを肉とする怪物だ。この程度の拘束では、封じられるのはほんの少しの時間のみ。
たった、それだけの時間。
それだけの時間があれば、ここに集った闘士たちは、誰もが前に飛び出すだろう。
「皆さま! 新技を披露します、見ていてくださいまし!」
ルビーは機械の剣を握り締め、高らかに宣言する。
分厚い刃と持ち手の間にあるスロットに、カートリッジを装填。機体に充填した魔力は主の命令を待ち、解放のときに向けて熱く震えている。
少女は重厚な鉄塊を軽く持ち上げ、切っ先を標的に向ける。そしてその指先で、トリガーを引いた。
「フォース・バースト!!」
放出された光の帯は、4色。
水・雷・地・風の魔力が、魔人へと襲い掛かる。
これはルビーが、先の対戦相手との試合を振り返り、一日かけて開発した新たな機能である。5色の魔力砲撃に比べて威力では劣るものの、相手の強力な一属性をぶつけられたとき結合が解けてしまう、という問題点の解決を目指したものだ。
課題を見つければ、即解決に動く。これがルビーという少女の強さであり、彼女が見込んだ社員たちの力だ。この魔砲の光は、人間の団結と、叡智の証である。
砲撃が魔人へと炸裂する。多属性の魔力は怪物の身体を蹂躙し、炎の衣を弱めていく。
カラフルな爆発を背に、ルビーはあらぬ方向を向いて、ドヤ顔をした。
「お求めは、ルビー武具工房まで……!」
火魔が呻き、埃の中で身じろぐ。
衝撃は彼に大きなダメージを与えたが、同時に土の拘束も崩れた。体勢を立て直し、回復と反撃を企図しているところに――、
鉄の足音が、聴こえる。
「最近の若者は技が派手でいいなあ。……さて」
魔人は声のする方に向かい、炎の腕を大きく伸ばす。
しかしそれは何も掴めはせず。鉄の足音は、すぐそばに移動していた。
「手足はもういらんだろう」
言葉と共に、何かが閃いた。
光だ。魔人が知覚出来たのは、なにかが光ったということだけだ。だが、魔力の気配はしなかった。
次いで、キン、という硬質な音。これはイフナが、刀を鞘に収めるときの、鍔鳴りである。
試合用の刃を潰した武器は、人目に晒してしまうこともある。だが、陽光あるいは月光にきらめく、彼の白刃を目に留めた者は、少なくともこの世にはいない。
ゆえに、神速の剣。
――人を食らう炎の腕が、巨躯を支える炎の脚が、無残に斬り落とされた。
「あー、これ以上は剣が刃こぼれしてしまう。高級品なのに。……少年、次よろしく」
「はいッ!!」
地に這いつくばり、強い屈辱の中、魔人が見上げる視界には。
巨大な竜巻が、天高く昇っていた。
「ううおおおおおっ!!」
しかし竜巻は、だんだんとその規模を小さくしていく。次第に風は止み、終いには無風となった。
静かな世界の中、魔人は気付く。先ほどの暴風はすべて、少年の剣の中に封じられているのだと。
翠色に輝く刃を見て、魔人は同朋の気配を感じ取った。
「風神剣――!!!」
ただそこにあるだけだったはずの竜巻は、今やその暴力のすべてで、少年の向けた剣の先を薙ぎ払っていく。
嵐が炎を飲み込む。……しかし、風というものは、ときに火を起こす助けとなる。同程度の魔力がこめられた風が火を攻撃しても、煽るばかりで、より大きな炎に飲み込まれることになるだろう。
だが、火の勢いを極端に上回る突風ならば、その限りではない。ユシドの風には、火属性の最上級に位置する魔人の炎を、吹き飛ばすほどの威力があった。
それは彼が、風を担う勇者であることの何よりの証明だ。頂点に位置する者同士の戦いにおいて、属性の相性が、常識の通りになるとは決まっていない。
緋色の衣が、剥がされていく。
「ミーファ!」
「……雷神剣――」
嵐に伴い、雷が目をさます。
何度も何度も斬りかかってきた金色の少女の姿を見て、火魔は怒りの中に冷静さを見出した。
手足を失い、鎧をあらかた失っても、火魔は生き延びようとしていた。少女の攻撃をしのぎ、残存魔力で肉体を再生し、逃亡を選ぶ。彼には人間以上の寿命がある。この場を後にし、長く身をひそめれば、それはつまり、勝ちだ。
あれの剣は何度も防いだ。炎の守りが無ければ難しいが、攻撃を見極めれば、その箇所に鎧を集中させ、防ぐことは可能だ。
火魔の自信や根拠は、実のところ、正しかった。彼らが交えてきた火も雷も、所詮は魔法術で生み出した偽りのもの。そこに秘められたものの威力は、魔力の多寡で決まってしまう。そしてミーファの魔力だけでは、火魔テリオモウイの強大な炎に立ち向かうには、あとわずかに足りなかった。
ここまでの戦いでは、そうだった。
しかし――
『……バカ、な。貴様は、人間、なのか?』
天より振り来る雷の熱量は。地を這いつくばる魔物のつくりだした炎などとは、比べ物になるだろうか。
「――紫電一閃」
これまで人々に火の災いを与え、あらゆるものを燃やしてきた悪魔にとって、己の身体を焼き尽くされることは、初めての経験だった。
紫光のいばらが、魔人の肉を侵していく。炎の鎧が守ってきた筋肉はひび割れ、広がりゆく傷は熱く猛り狂う。そのあまりの痛苦に彼は、“身体が燃えるようだ”と思った。
「終わりだ。……アーサー」
さげすむように魔人を見下ろしてきた少女は、ゆっくりと視界から去っていく。
おぼろげな世界で、最後に彼に立ちはだかる人間は。これまで彼がその生を弄んできた、黒髪の少女。
……否。正確ではない。
『なんだ、その姿は……?』
魔人の目が捉える少女の身体は、異常に体温が低い。人間の平均より随分と下だった。
火魔は視界を切り替える。人間のように、世界そのものの色彩を見通す目だ。
そして目の当たりにする。……少女の黒髪と、二色の瞳は。すべてが、海のように深い青へと変化していた。
「メイルストロム」
『な……』
瞬間。魔人の身体の、大部分が削がれていった。
先の戦士共に食らったどの攻撃も、彼の魔力を、鎧を、すべてを削り取っていった。しかしこの術は、火魔の命そのものを削っている。
悲鳴すら上げられない致命の一撃。アーサーが放った水術は、彼女のこれまでの生の中で、最も強大な威力が凝縮されている。
さらなる力の覚醒に、少女の左手の紋章が、強く輝いていた。
『おお、お、おおお……』
もはや消し炭のような姿に貶められた魔人は、弱々しく這いずりまわり、舞台に煤の跡を残していく。
それでも火魔はまだ、生存をあきらめてはいなかった。炎のように燃える執念は、やがて彼を、ひとつの逃げ道へ導く。
醜い灰が風に舞い、その女性へとまとわりつく。鼻や口、あらゆる部分から体内へと侵入し、彼女を傀儡のように動かした。……激しい戦いの中ですでに、雷の拘束は、解けていた。
ロピカが身体を起こし、力が足りず動かない足を引きずり、後ずさる。
アーサーは周りの制止を聞かず、ゆっくりと歩いていく。彼女へ近づき、その顔を見下ろした。
「シーク……オ母さンを助けテ……」
人が悲哀しているような表情をつくり、ロピカの身体は懇願した。
この期に及んで見え透いた命乞いに、その場の誰もが表情を歪ませた。身を強張らせ、警戒して敵を睨む。
ただひとり。アーサーを……シークを除いて。
「おかあさん」
地面を這う母に、少女は身を屈め、その身体を抱き寄せた。
死人の低い体温が、シークを冷たく拒絶する。それでもその肩を、強く抱きしめる。
「あったかいね」
そんな、嘘を言った。しかしシークにとっては、真実だ。
母の肩に首を乗せ、目を閉じ、微笑む。
失ったものを取り戻したかのように、シークは、あの頃の少女に戻って、泣いていた。
『バカが、のこのこやって来おって!! 次は貴様に乗り移ってくれる!!』
母親の口を使い、魔性がさえずる。あれほど憎んでいた敵の最期だというのに、何も感じなかった。彼はもう、終わっている。
だからこれは、母と父を送るための炎だ。
シークの髪が、再び変化する。たゆたう水を象徴する青の髪と瞳は、聖なる炎を宿す、赤へと。
火柱が、噴き上がった。
『ギャアアアアアアア!!! なぜ、炎の術に、このオレが――!!??』
「おかあさん。……おやすみなさい」
破邪の灼熱が、シークの腕の中で眠る、ロピカの遺体を葬る。その身体は炎に巻かれ、灰も残さずに空へと消えていく。その魂が、父のいる空へと無事たどり着けるようにと、シークは祈った。
これが、遺された子として、最愛の母にしてやれること。
ただの少女は、当たり前にしたかった家族の弔いを、今、ようやく終えることができたのだった。
「ティーダさん、お疲れさまでした。まさか実戦の最中に、あんな大規模な破邪結界を展開できるなんて」
「昨日の修復作業のうちからトラブルに備えて、舞台の下に術式を描いて仕込んでたんだよ。せこせこと」
「本当ですか!? それはそれで先読みがすごい……」
男二人は疲れ果て、舞台に腰掛けながら空を眺めて雑談をしている。
イフナとルビーは住民への説明や各方面への対応に出ていったというのに、うちの連中ときたら暢気なものだ。まあ、オレもその辺は全然だめだけど。
彼らは魔力の多さでは我々に及ばないものの、人々を守るという点においては、勇者すら上回るバイタリティがあると言っていいだろう。とくにルビーなどユシドとそう変わらない歳だろうに、本当に尊敬できるやつらだ。
「……そういえば、イガシキ。お前、腹とか壊さないの?」
『別に。無論、美味とはいかないが』
鞘に向かって話しかける。こいつはさっき、アーサーが火魔を倒したあとに、なんとこっそり炎の魔力を食っていたのである。むろん、火魔が振るっていた炎をだ。おかげで闘技場の火事はいつの間にか収まっていたが。
人間食って高めた魔力だろう、それ。食っていいものか?
「お前も火魔みたいに、人間を殺して魔力を強くしたことはあるのか?」
『一回か二回はある』
「ふうん……」
そういえば火魔とのやりとりを思い返してみると、人間食いは好かなそうな言い方をしていたな。
うちの鞘はまだ“まとも”かもしれない。このまま暴走したりしないように、うまくつきあいたいものだ。
休憩終わり。
武闘台の縁から立ち上がり、誰かに祈りを捧げていたアーサーの元へと歩く。
……親の仇を討って、センチメンタルになっているところだろう。今すぐに勧誘、というのも、気が引けるな。
「……アーサー。その、お疲れさま」
「僕たちの仲間になりませんかっ」
「おーいー!」
いつの間にかそこにいたユシドが、空気を読まずに突貫していった。
お前そんなやつだっけ? さすがにアーサーが可哀想だろう。
「その話のこと、ちょうど考えていました」
アーサーは立ち上がり、オレ達に向き直ってくれた。
むむむ……。ときにはずばりと本題に入ることもありなのか。
しかし、彼女はやはり浮かない顔だ。何かまだ、オレ達の仲間になれない理由が、あるのだろうか。
静かに、少女が語り始める。
「ヤツを倒すのに、協力してくれたのには感謝します。勇者として人を救う旅というのにも、関心はあります。
だけど……誰かと一緒に旅をすることは、できない。不幸を呼び寄せるんです。わたしがいなければ、人々がやつの恐怖にさらされることも無かった。火魔のせいだけではなくて、きっとそういう運命があるんです」
どうやらアーサーの心には、まだ魔物の影が残っている。
気持ちは、わからないでもない。強すぎる力は良くないことを呼び寄せるものだ。それは、ここにいる誰もが理解している。
勇者ならその気持ちも分かち合える、とオレは思う。だがアーサーの力は、オレたちをも上回っているかもしれない。なら、彼女のことを本当に理解しきることは、難しいのかもしれない。
だけどな。
悪いがそんなことは、もう知らん。
「アーサー。君の力は、誰かを、君自身を不幸にするようなモノじゃない」
「でも……」
口答えを手で制する。
君の悩みなんて、意外と、勇者なら誰もが通るものかもしれないよ。それはこれからの旅の中で、アーサー自身が知っていけばいい。
ともかく。オレは絶対に君を仲間にしたいんだ。何故なら……
「男連中にはこの凄さはわからんだろうが――」
「ん?」
「君のふたつの魔力があれば! 大量のお湯を! 瞬時に沸かし! 桶になるものさえあれば、いつでも風呂に入ることができる……!」
「ええ……」
アーサーが不満そうな顔をする。
女子だろ! この幸せがわからんのか!? 呼び寄せる不幸なんか差し引いて余りあるだろ!
オレは予選のとき、彼女との試合で見抜いていたのだ。放出した水を火の魔力で沸かす力を、彼女が持っていることに。
すなわち、お湯の勇者。
彼女の力は人を幸せにするだけじゃない、不幸を消すことも出来るはずだ。
「忘れもしないあの日……野営続きで清潔にできず、ユシドに『ちょっとにおうね』といわれた日には、オレは心の涙を流したよ」
「ええ!? ご、ごめんミーファ……」
おっさんは体臭を気にするのだ。お前も将来大変なことになるんだぞ。今から気をつけろ。ティーダなど言わずもがなだ。
「ぷふっ」
「あ! わらったなアーサー! 真剣な話だぞ」
アーサーはオレに怒られ、ひとしきり笑いをこらえるように震えていた。そのさまは小動物みたいで、愛らしいものだ。
ほら。やっぱり、笑顔はきっと可愛いと、思ってたんだ。
「……まあその……これからは目的もないですし……面白い人たち、みたいなので……」
アーサーはオレとユシドの顔を見る。
そして、それよりやや長い時間、ティーダの顔を見た。
「ひとつお願いがあります。アーサーは父から継いだ名ですが、ファーストネームは別にあるんです。仲間に入れてくれるというなら……これからは、父と母が呼んでくれた本当の名前で、誰かに呼んでもらいたい」
アーサーは。少女は、花の咲くような笑顔で笑う。
「シーク・アーサー・マンゴーパインです。どうか、シークと呼んでください」
オレも嬉しくなって、笑う。
新しい仲間は、強くて、可愛くて、素敵な女の子だと、思った。
「……ところで。すっかり勝手に勇者だと決めつけていたけど、シークはなんの勇者なのかな。火? 水?」
「お湯の勇者だろ」
「えっ、なんですかそれ!? 私は……」
少女が左右のグローブを外す。
「おお!?」
「こんなこともあるのか……」
「いいね、目的まで一気に縮まったんじゃないか」
右手と左手。それぞれに、赤と青の紋章が、刻まれていた。




