25. 舞台は炎上する
アーサーはゆっくりと、戦いの舞台への階段を歩く。
闘技大会・本戦第5試合。それはいわゆる準決勝戦であり、これを勝ち抜いたものは、いよいよ玉座を賭けた一戦に挑むこととなる
残り3回の試合に向け、観客たちの興奮も最高潮に達していた。ここまで勝ち上がってきた闘士には、人々の惜しみない激励の声が浴びせられる。
しかしその声も、徐々にアーサーの耳には入らなくなる。彼女は一段昇るごとに、己の内から不要な情報をそぎ落としていった。そうして、残すべき闘志だけを、鋭く研ぎ澄ませていく。
やがて舞台へ上がった少女の目には、観客たちの声や姿は追い出され、生涯をかけて憎むべき敵の姿だけが、ただひとつ映っていた。
闘士ロピカ。長い黒髪と紅い瞳、そして端正な顔立ち。それはフードを目深に被り人には見せることのない、アーサーの素顔とよく似ている。ふたりの身体が、血という強い絆で繋がっているからだ。
だが、その肉体の中身は、いまでは違うものにすり替わっている。
アーサーは激情にかられつつ、頭の中は怨敵を葬る算段でいっぱいだった。衆人環視の中であることなどはもう、関係がない。アーサーが今日まで生き抜いてきた理由は、目の前の敵を消滅せしめんがためだ。その後のことは、考えていない。
そのはずだ。
そう自分に言い聞かせ、合理的に戦いの準備に専念しようとするアーサーの脳裏を、しかし、ノイズのように“その後のこと”がよぎる。
復讐を終えたあと。一緒に行こうと、言ってくれた人たちが、いた。
「お友達には話さなかったようね。偉いわ、シーク」
「なに?」
ロピカが口を開く。まるで心の内を読まれたかのような言葉に、アーサーの思考が止まる。
そして戦慄した。――なぜ、それを、こいつが知っているのか。
「ずっとあなたを見守っていたもの。ずっと、ね」
ロピカは優しく微笑む。それはアーサーに、在りし日の母をはっきりと思い出させた。
家族しか知らないはずのその慈愛に満ちた表情を、母の中に巣食った悪魔がさせている。そのことに、絶望の感情が頭をもたげてくる。
そして。続く言葉は、幼いアーサーの心にとって、あまりにも大きすぎる悪意だった。
「あの頃からずっとそう。村の老人に引き取られたときも、孤児院に入ったときも。そのたびに、あなたの居場所を焼いてあげたわ」
「……え?」
ロピカの言葉が、アーサーに染み込んでいく。
アーサーのこれまでの数年。つらく、くるしかった。炎の魔力のせいで温かい場所にいられないことは、10にも満たない年齢の少女にとって過酷な生き方だった。だがそれは、自分で選んだことだと思っていた。
違う。
すべてあの日から、目の前の魔物が仕組んだことだった。アーサーがこうなるまでの長い年月など、この魔物にとっては、食事の出来上がりを待つ楽しいひとときに過ぎなかったのだ。
目の前が、灰のように、真っ白になっていく。
「…………そん、な」
「そうだ。次は新しいお友達を燃やしましょう! あなたに安らぎなんていらないわ。強い怒りだけあればいい」
「あの人たち、を?」
火の魔物はどこまでも、その汚らわしい炎で、大事なものを奪っていく。アーサーが死ぬまで、ずっとだ。
力が抜けていく脚。暗い水中に沈められていくような感覚に、全身が重くなる。しかもその水中はあまりに熱くて、全身を熱病に侵されたかのようだ。
ひとりはもう嫌だ。熱の日は誰かに、顔に冷たいタオルをあててほしかった。
誰かの顔が浮かぶ。
「あの人を、燃やす?」
アーサーの表情が変わる。
少女は手を強く握りしめ、倒れないように踏みとどまった。
思い描くのは、父の言葉に抱いた夢と、それが現実になったように現れた3人の大人たち。彼らもまた、アーサーのこれまでのように、魔物の悪意にただ塗りつぶされてしまうような存在だろうか?
きっと、ちがう。
「あの人たちは勇者だ。お前なんかに、易々と燃やせるものか」
「……勇者だと?」
そしてきっと、自分もそうありたい。力を持ち過ぎた化け物ではなく、誰かを救う勇者になりたい。優しかった父と母のように。
アーサーは剣を掴み、正面に構えた。それは最初の内は、尊敬していた父の姿を拙く真似たものだったが、今では確かな力が宿っている。
磨いてきた力は、悪鬼の腹を満たすためなどではない。打ち倒し、前に進むためだ。
アーサーは、心を決めた。
「貴様を倒す。父と母の魂は、返してもらう」
「ふん。……何、父親? ……ああ、水の」
魔物はいつの間にか、母親のふりをやめていた。
しかしそれは、その邪気に満ちた魂を、取り繕わないということだ。
母の端正な顔立ちが、悪意に歪む。
「返すも何も、あんなものを取り込んでも毒だからな。身体も魂も、灰にしてその辺に捨てたよ」
「っ―――」
アーサーの思考が飛ぶ。
気付けばすでに、大剣を握った手を、振り抜いていた。
うまく狙いをつけられなかったそれは、わずかに立ち位置をずらしたロピカには当たらず、地面を激しく割り砕く。
それが、戦いの始まりとなった。
「くく、母親にそっくりだな。男を殺したとき、そうやって激昂してきたよ。普段の私ってあんなに穏やかなのにね?」
アーサーは何度も剣を振る。もうこれ以上その言葉は耳に入れたくはなかった。母の声まで使って激情を煽られては、頭の中に冷静な自分を置いたとしても、心はもう止まれない。
大味な剣戟に対し、魔物は身をひるがえしてかわしていく。まるで人間のように。人間の動作を真似て、それが滑稽だと、あざけるかのように。
「そのロピカも、部屋ですやすや眠るお前を殺すと言ったら、みじめに跪いてきたがな」
「貴様あああーーーっ!!!」
怒りを乗せた大剣がさらに振るわれ……そして、止められる。
ロピカの背後から、立ち上がるように炎の魔人があらわれ、その強靭な腕で刃を阻んでいた。
アーサーは、その紅い目だけが爛々と光っている魔人の容貌を認め、幼い頃の記憶を呼び起こした。
『その怒りの炎だ! それを食うために、これまでお前を生かしてきた!!』
母の顔が狂喜にまみれ、魔人が手を伸ばしてくる。
それを見たアーサーは、即座に状況を理解し、身を引いた。簡単に取り込まれてしまっては両親の無念を晴らせない。そう思ったからだ。
怒りに歯を食いしばりながらも、アーサーは勝つための算段に取り組もうとつとめた。
……おそらく、あれが“本体”だ。あの日、厚いローブの下にいた火の怪物。自分の身を食らうために、本性を晒したのだろう。ならばあれを攻撃すれば。母の遺体を、傷つけずに済む。
そんなアーサーの見当は、正解ではあった。
だが。相手が本性を晒したということは、つまり、その本当の力を見せるということでもあるだろう。
「ああああっ!!」
アーサーは左腕に魔力を集中させ、解き放った。
大海嘯のごとき怒涛の青。予選でミーファに放ったものとは比較にならない力が秘められており、さらにそれを一体に向けて範囲を絞っている。
魔力はもはや波の形ではなく、間欠泉のような巨大な柱となっていた。
『は。水の魔力など、捨ててしまえばいいものを』
「!?」
水が押しとどめられている。ロピカの前に出た魔人の腕から、火柱が噴き上がり、アーサーの魔法術と拮抗していた。
『ちょうどよい。その水が枯れるまで絞り出してから、お前を食らうとしよう』
魔力をゆるめず放出しつつ、アーサーは内心歯噛みした。
水流に、火で対抗するなど。あの凄まじい高熱を発揮するために、あの魔物はどれほどの力を蓄えてきたのか。
……そのために、どれほどの人間を手にかけてきたのか。
ぎり、と怒りを噛みしめる。身体を熱く、しかし腹の内は冷ますことを意識し、アーサーは、次の行動をしかけた。
『ち……小賢しく立ち回る』
水の放出が終わる。辺りは2種の魔力のぶつかり合いによって発生した、高温の蒸気が霧のように立ち込め、魔物の視界をおぼろげな景色にしていた。
目くらましからの奇襲。それは人間同士の戦いでは大いに有効であり、先に相手を捉えた方は有利に立ち回れるだろう。この場合、先に霧中へと身をくらませたアーサーが、攻勢をかけようとしている。
しかし。アーサーの相手は、人間ではない。
炎の魔人は、その独自の感覚器官を鋭敏に稼働させ、人間とは異なるビジョンを捉えていた。
高温の霧に紛れて視え難いが、たしかにそれとは温度の異なる活動体が、迂回しつつ急速に接近してくる。
そうして人体を色彩で認識した魔人は、背後から近づいてくる小さな体温の塊に向かって、腕をふるった。
『……!?』
触れたそれはあっけなく、手ごたえもなく、崩れた。
魔人は自分が手にかけたものの正体を悟る。それは水の魔法術を使い、矮躯の少女にみせかけた虚影であった。
ならば、本物は?
(とった……!)
アーサーはこのような搦め手を使った経験は、これまでにほとんどない。必要がなかったからだ。
しかし己の魔力をもってしても圧倒できない敵が現れたとき、どう対抗するべきか。それを考えたとき、アーサーは経験の中から、誰かの戦いを取り入れた。
そして今、その成果として、魔人の後ろから致命の刃を振りかぶっている。
「せえっ!!」
咄嗟に振り返った魔人の肩に、巨大な刃が落とされた。
どうやら腕部ほどの硬度はない。好機を感じ取ったアーサーは力を振り絞り、やがてその気勢は、魔人の炎の身体を斬るに至る。
『グオオ……ッ! きさま、このような』
「まだだッ!!」
苦しげに呻いてはいるが、まだ魔人には声を返す余裕がある。切り裂いたのは表皮、あるいは衣といえる部分だけだ。それを認めたアーサーは、追撃を仕掛ける。
燃え盛る傷口からのぞく、赤いマグマの血肉。そこに左手を押し当て、力を流し込む。青い、水の力を。
『ギアアアアアッッ!!??』
耳をつんざく醜い悲鳴に、アーサーは手ごたえを覚えた。
これまでとは反応が違う。魔物としての肉体に、ダメージを与えることに成功していた。
このまま終わらせようと必死に張り付くアーサー。しかしそこに、思いがけない反撃があった。
魔人の身体が激しく炎上し、至近距離にいるアーサーを火に巻く。炎に対する障壁をまとい、しばらく耐えていたアーサーだが、尽きないそれに根負けし、身を引いてしまった。
『アアアア……オオ……ッ!』
だがダメージは与えたはず。そう思いつつ、アーサーは瞬時に体勢を立て直した。敵が身体からわずかに黒煙を巻き上げ、苦悶の声をもらす今、攻撃を止めるのは悪手。
アーサーはふたたび接近しようとし――それを、思いとどまる。
敵の苦しむ様子が騙りで、自身を取り込むための罠であることを警戒し、中遠距離の位置から、魔人へと手をかざした。
「ハイドロレイ」
水の魔法術が、動きを止めた魔人に、何度も叩きこまれる。何度も、魔力の限り、敵が消え失せるまで。
魔法術による、嵐のような怒涛の攻め。それこそが、アーサーの最も得意とする戦い方だ。
「はあっ、はあ」
長い攻勢が終わり、武闘台上は静かになる。
魔物相手に息が上がることなど、アーサーには久しくなかったことだった。
しかし、だからこそ。その成果は、確かだ。
魔人の身体は火の勢いを弱め、それによって赤熱色だった体表は、纏っていた炎のその下の、黒く焦げたような皮膚をさらしていた。あれならば、大剣を弾くほどの硬い炎をまとうエネルギーは、もう残っていないかもしれない。
アーサーは横に突き立てていた剣を掴み、肩にかついだ。ゆっくりと、膝をついてうなだれた母の身体と、魔人へと近づいていく。
……十中八九、誘いだろう。いくら自分が強くなったからといって、こうも容易く討ち取れる存在ではない。この程度なら、父と母が負けるはずはなかった。
だが、あえて近づく。あのまま術で攻撃するべきなのだろうが、魔人の首は、父の剣で刎ねるものと決めている。
幾通りもの予測を立てながら、アーサーは歩く。
そうして、たどり着く。アーサーは重い大剣を片腕で持ち上げ、高く掲げた。
魔人の首に向かって、断頭の刃が振り落される。
「シーク……お願い、お母さんを助けて」
「っ……」
そこに、母が割って入った。
ただ、それだけで。少女の剣は、いとも簡単に止められてしまった。
……わかっていた。魂の腐った魔物が、このような手を使ってくることは、事前に想定していた。対応策も考えてある。はっきり言って、あまりに粗末なやり口だ。姑息で、小癪で、猛り狂う炎の魔人のやることにしては、あまりに矮小な手口だ。
ただ。
結局、アーサーの身体は、動いてはくれなかった。誰かの愛情を求めていた少女は、この土壇場で、その手で母に別れを告げることが、できなかった。
それだけのことだ。
母の口の端が吊り上がり、弓のように曲がる。そこから目を逸らすように、アーサーはまぶたを閉じた。
死から蘇るかのように、ふたたび身体を炎上させた魔物が、アーサーの腕を掴む。
剣が手の中から落ち、がらんと重い音を鳴らした。
『さあ。ようやくだ。オレとひとつになろう。世界を焼き尽くそう』
強く手を引かれると、アーサーの身体が、魔人の大柄な身体の中に沈んでいく。魔人が少女を、肉体ごと取り込んでいるのだ。
当初、魔物はアーサーを殺し、魂を食らって身体を乗り換えるつもりだったが、予想以上に力をつけていたアーサーに苦戦し、咄嗟に方針を変えたのだった。取り込まれた肉体は魔人の体内で魂と共に消化され、力となる。肉体を乗っ取ることはできなくなるが、人間を食らうにはより手っ取り早い方法だった。
魔物はアーサーの奮闘に業を煮やしてこの手段を選んだものの、抵抗もなく沈んでいく少女を見て、失策だと感じていた。これほどまでに動きを奪えるのならば、焦らず当初の予定通り、先に肉体を殺すべきだった。
とはいえ、吐き出すというわけにもいかない。これでまた力を増すことができるのだから、その礼に、美味しく、丁寧に、食い殺してあげよう。
魔人はやがて巨体の中にアーサーを取り込み終えると、満足そうに天を仰いだ。
連動して、ロピカの身体が同じ動きをする。娘の殺害に加担したその身体は、心から嬉しそうに微笑んでいた。それはロピカの肉体に、怒り、涙を流すための本来の魂はどこにも残っておらず、魔物の手足となってしまっていることの証左だった。
『……ん? 消耗し過ぎたか。取り込むのに時間がかかる……』
腹をさするような仕草をした魔人は、おもむろに周りを見渡した。
彼が見ているのは、武闘台を円く囲む人々。闘技大会の観客たちだった。
魔人の魂が発する命令を受け、ロピカの身体は舌なめずりをする。
『ならば主菜の前に、おやつでも楽しませてもらおうか』
魔人が身を縮めると、急激に魔力の濃度が高まる。その異様なさまは、結界越しに見守っていた人々を不安にさせた。闘士アーサーはどうなってしまったのか? 試合はこれで終わりなのか?
誰かが呟いた言葉は、的を射ていた。試合はもう終わっている。
これから起こることは、ルールに守られた高潔な戦いなどでは、ないからだ。
『オオオオッ!!』
魔人は身体の大きさを増していき、そこから突如、4本の火柱を噴出させた。
火柱は四方に伸び、武闘台を囲む防護結界に到達する。あまりの臨場感に、人々は汗をかく。
「お、おい。あれ……」
火柱には確かなカタチがあり、結界に張り付いたそれはまるで、巨大な手のひらのように広げられていた。
やがて誰かが、結界に、あるはずのないひびを見つけた。
誰もが目を疑う。これはバルイーマの手練れの魔導師たちが長い時間をかけて編み上げた、最高硬度の魔法障壁だ。内側でいかなる激闘が繰り広げられようとも、ほころぶことなどあり得ない。あっては、いけないはずだったのに。
そしてあっけなく。今日まで人々の、単なる観客としての立場を守ってきた大結界は、薄氷のように、割れた。
「う、うわああああっ!?」
「いやあっ!? 何よこれ!!」
燃える腕は客席に届き、火が人々を脅かす。
逃げ惑う者たち。それを逃がすまいと、柱のような火の腕からさらに細い触手が伸び、人々の足や腕に取りついた。
巻き込まれた彼らは火傷を負ってはいるものの、幸いにも死者はまだいない。それはこの腕が、人々に秘められたわずかな魔力を食らっているからだ。
つまりこれは、幸いなどではない。わずかののち、魔力が尽きた人々は、肉体を焼き尽くされる運命である。
彼らは一人残らず紅蓮のかいなに囲まれ、ここからは逃げられない。
アーサーが魔人に取り込まれて、ほんの数十秒。
人々の心のよりどころであった伝統ある闘技場は、地獄になった。
魔人は地獄を見て、安堵のような感情を得ていた。
彼にとってはこの光景こそが己のいるべき場所で、人間の世界に潜り込んだときから、ずっとこの瞬間を我慢していたからだ。
我慢に我慢を重ねた末にある悦楽の、なんたる美味か。そして魔物は、人々の魔力だけではなく、絶望の感情をも食い物にしていた。
地獄の中心で、魔人の魂の響きが伝播したロピカが、頬を赤く染める。その様子はあまりに妖艶で、とてもこの世のものとはいえない。
魔人が笑う。人々の悲鳴と協奏曲を奏でるように、彼の哄笑が、世界を包んでいく。
それを、切り裂くものがあった。
『何? なんだ、これは』
4つの触腕からくる、魔人への食事の供給が、途切れる。
炎の柱は既に消え失せていた。ひとつは突風に吹き散らされた。ひとつは刃によって悉く切り刻まれた。ひとつは五色の魔力の光によって消し飛ばされた。
そしてひとつは、雷鳴によって砕かれた。
炎上する武闘台に、ひとりの少女が降り立つ。
見事な金の髪と、宝石のように紫紺に光る瞳を見て、魔物はまた舌なめずりをした。
『おや、決勝戦はまだ先だったはず。何か用かな、人間』
「大した用事じゃない。お前を斬りに来ただけだ、魔物」
魔力のあらわれである髪と瞳の輝きは、極上の餌の証である。
否。金色の髪と紫電の瞳は、雷を担う者の証明である。
魔人のうちに囚われた少女を想い、ミーファは炎と対峙する。
少女が悪しき火に取り込まれるまで、あと――、




