白鵲の巣
首元で揺れる石の僅かな重みを感じながら、白い大地を、降り積もった花弁もどきを踏みしめる。
鞘の体感では出発からかなりの時間が経過していた。
「これはどこに向かっているんですか?」
「散歩」と称され始まった運動は、その実会話のない大真面目な「歩行」だった。最初は景色を見て楽しんでいた鞘だったが、次第に無言の彼女に不安を募らせるようになり、息が詰まるような時間に耐え切れず開口するに至ったのだった。
「着いてくれば分かるよ」
さりとて彼女は鞘になど見向きもせずに当然のことを当然のように告げる。
そうでしょうけども。
「景色でも楽しんでいてよ。あ、それとも君、話がしたいのかい?」
「いえ、あの」
そんな言い方ではまるでこちらが心底会話を希求しているようで受け入れ難い。反応にも困る。
言い淀んでいると、「君はあまり会話を好まないのかと思っていたよ。配慮に欠けたね」とようやく彼女の視線と出会った。
「いいえ、そんなことは」
「何を話そうか。
ああそういえば、まだ私の名前を教えていなかったね。私は『久遠』。『久しく遠い』と書いて久遠だよ」
クトオ?
一方的な話題提供の中に、軽やかに疑問を詰め込まれる。
「クオンとは読まないんですね」
「面白い名前でしょ。まあ、鞘君の好きなように呼べばいいよ。呼び方なんていちいち気にしないし」
「分かり、ました。……ちなみに、俺の名前を知っているのは」
どうしてですか?
最後まで口に出すことはできなかったが、これは彼女――久遠に最初に呼名された時から気になっていたことだ。問う声が硬くなっていないかと緊張してしまう。
「朧に聞いたんだよ」
それ以外に何があると言わんばかりの返答に、「ですよね」と乾いた笑みで返す。
それは予想されて然るべき答えであり、実際予想していたものでもあったのだが、なぜか腑に落ちない。彼女に「鞘君」と呼ばれる度、指先のささくれのような――放置しておけば何ら問題はないのに放置するには気持ち悪い――引っかかりを覚えてしまう。
何と言うのか……聞き慣れないその声がこちらの名前を呼び慣れているように感じる。初対面なのだからそんなわけはないはずなのに。
「きっと朧さんが俺を運んでくださったんですよね。ご面倒をおかけしてしまって……あの、俺はどれくらい寝ていたんですか?」
一度始まったキャッチボールが途切れてしまうと落ち着かなくて、気になっていたこと「その二」を切り出す。
「約丸一日」
言葉が出なかった。
「君が白鵲の巣に来たのは昨日の午前中。ここでいう午前中だから、表だと十六時頃なのかな? ここは時間の流れが表とは微妙に違うんだよ。
……あれ? 『表』が君の住んでる所だっていうことは、たしか昨日朧から聞いていたよね?」
「……はい」
その言い方に再度違和感。かろうじて頷く。
朧狐と彼女の関係性がどのようなものなのかは見当もつかないが、話しぶりからして親しくしていることが察せられる。
鞘が寝ている内に二人の間で情報共有が行われていたと考えれば、先程の言葉は自然な言い回しなのかもしれない。どうしても「私も聞いていたけど、君も聞いていたよね」と暗に言われているように聞こえてしまうのだとしても。
自分の勘繰りが過ぎるだけなのでは。
思う反面、目の前の彼女への不信感はちりつも式に増していく一方だ。
それでも、そうだとしても、
怪しかろうと問わずにはいられない。
とりあえず、さしあたり、やはり彼女は訊いたことには応えてくれる人だと思うのだ。
よって、気になっていたこと「その三」。
「……『ハクジャクノス』ってどんな字を書くんですか? あまりにも聞き慣れないので、イメージできなくて」
「何なんですか?」と率直に訊けなかったのは、確信に迫るのが怖かったからだ。
「ああ、『白い鵲の巣』で『白鵲の巣』だよ」
「白い鵲……」
告げられた字を脳内で並べる。
白い鵲。
鵲。
鵲と言われて何を想像するか。
少なくとも鞘は、鵲に白色の羽が生えていることをわざわざ強調して伝えようとは思わない。そもそも日常的に鵲に触れる機会がない。故に関心もほとんど湧かなかった。どんな鳥なのか、その姿を明確に思い描くことができない。
一方で、「白」と言われて真っ先に結び付くのは今やこの世界だろう。この世界の色はとても印象的だ。印象的なだけでなく、読んで字のごとく、この世界にとって「白」は全てである。
「真っ白なんだってさ」
「え?」
不意に落とされた一言。
詳解というよりも独白に近いそれ。
「白鵲の巣の主である神――『白鵲』は真っ白な神様なんだってさ。だからこの世界も真っ白。どこもかしこも何もかも。彼の神の心象を象徴するに相応しいといえばそうなんだろうけど」
神様。
昨日耳にしたばかりの名詞に鞘の歩みが止まる。
にわかには信じ難い、されど意味合いとしては正しい、当たり前のことに気付いてしまったから。
「巣」があるのは何故か。それは「巣」を作ったものがいるからだ。
では、「巣」を作ったものはどこにいるのか。もちろん、作った「巣」にいるに決まっている。
離れ行く久遠の背中へ困惑に満ちた眼差しを向ける。
彼女も足を止めこちらを顧みた。
「聞き慣れない言葉だったね。でも本当のことだし、時間をかけて受け入れてもらう他ないかな」
「鞘君」と、彼女の形良い唇が楽し気に紡ぎ出す。その少し上で何の感情も映さない瞳が僅かに細められるのを、鞘はただ見ていることしかできない。
「君が迷い込んでしまったのは神『白鵲』のお家。君の住む表の世界では古い物語でしかない存在の腹の中だ」
「はい、到着」
目的地に着いたらしい。
が、今まで歩いて来た道なき道とこの場所の違いが分からない。
訝しんで辺りを見回していると、隣からのんびりと「おー、やってるねー」と言葉が零れ落ちる。
「見てごらん」
隣に並び前を真直ぐに見つめても山や空が美しいばかりだったが、
キィンッ!
金属がぶつかり合うような鋭い音が響いた。
反射的に顔が下向く。
そこで初めて自分が立つのは結構な高さの丘だったのだと分かった。丘というべきなのか、ちょっとした崖というべきなのか、その違いは定かではないため言及を控えよう。
何故そんなどうでもいいことに思考を割いたのかといえば、それはひとえに、眼下の状況が何一つ理解に及ばなかったためである。
丘の十メートル程下にある平地には、複数の人影があった。
「子ども」と呼ぶには成熟した、しかし「大人」と呼ぶには未熟な容姿。間を取って「少年少女」と称するのが妥当に思える背格好の五人組。胴着に袴という装いには首を傾げたくなるが、幼さの残る笑声には眩しさすら感じる。
その中には、悠然と立つ朧狐の姿もあった。
「もう一本!」
黒髪を結った少年が急にそんなことを叫びだす。
何が?
訝しんでいると、他の少年たちに見守られながら、当該少年と朧狐が向かい合う。一定の距離を取り、互いの視線が交錯した。
「あの、彼らはなにを」
鞘が久遠へ問うより早く。