有彩を呼ぶ
ゆっくりと瞼を押し上げる。
と、次いで。額を滑った汗が目に入ってしまった。鋭い痛みに見舞われ涙がこれでもかと言わんばかりに溢れ出す。寝起き早々、地味に災難である。
しばし目元を押さえ痛みの波が引くのを待った。
その間に幾度も瞬き、最後の涙が睫毛を離れたところで天井を眺める。
は?
そこで漸く違いに気付いた。
いかにもここは和室であると主張するのは板張りの天井。自分の住むアパートの白い壁紙ではない。
上体を起こす。これまたいつものベッドではなく、やわらかな布団に寝かされていた。
周囲を見回せば、広くもなく、かといって狭くもない部屋――自室の八畳リビングに比べれば広大と言って差し支えない――の中で鞘は机に囲まれていた。正面の扉に対しコの字型になるよう並んだいくつもの長机。学校行事でしか出番のなさそうな折り畳み式のそれら。その丁度、正に「コ」の字の中に布団が敷かれていたのだ。
畳部屋に長机の鈍色の足は不格好に思えてならないが、四つ足が深く沈み込んでいることから、どうやらこれで通常運転らしいと推察する。
木の匂い。
畳の匂い。
他人の家の匂い。
心地よい静寂。
知らない空気ではあるが、一呼吸ごとに身体に馴染むそれは決して不快なものではなかった。
むしろ安堵してしまう。
なんだか変な感じだな。
……いや、和んでる場合じゃないだろう。
胸中で頭を振ると背中が冷えて肩が震える。そういえば汗をかいていたのだった。
私服が肌にぺったりと貼り付いている。温もりがあるうちはあまり気にならなかったが、冷めると途端に気持ち悪く感じてしまう。
恐らく、夢見が良くなかった。
脳裏を過った思考に首を傾げる。
夢なんて大抵そんなものだが、今日も今日とて何も覚えてはいなかった。にも拘わらず夢見の善し悪しだけは覚えているなんて、都合がいいのやら悪いのやら。忘れている以上どうとも判断できないのがもどかしい。
吸い込んだ息がため息となって肺が空になる。
その時。
「じゃーん!」
目の前の扉が勢いよく開いた。
元気いっぱいといった様子で、一人の女性が入室する。
「わあ!?」
驚きのあまり素っ頓狂な声を上げる鞘。
「あはは! 良い反応」と目を細めた彼女は喜ばし気だ。
突飛な出来事に心臓がばっくばっくと騒がしくなったが、そんな中でも取り敢えず、相手が人の姿をしていることだけは念のため確認した。
彼女は片眼鏡やチョーカーといった特徴的なアイテムで目元首元を飾っていた。
先程の勢いがまだ残っているのか、肩から零れたポニーテールの毛先が未だにふらふらと揺れている。花浅葱色のそれは春の温もりを思わせるようでも、冬の底冷えを思わせるようでもあった。染めたにしては不自然なほど自然な色合いであるところがそう思わせる要因の一つなのかもしれない。
「早起きだね。よく眠れ……はしなかったようだけど。夢見が悪かったものとお見受けする。体調悪くない? 大丈夫?」
挨拶など素っ飛ばしてこちらに歩み寄る彼女。その口調は初対面にも拘わらず大分砕けていた。
相反して、体を拭くタオルや着替え一式を揃えてくれていたという所には病人にそうするような配慮が感じられる。「よければ使って」と手渡されたそれらには、日の下に晒したような温もりがあった。
「……夢見が悪いってなぜ言い切るんですか?」
礼を述べるべき口から先に転がり落ちたのは疑問だ。しまったと思ってももう遅い。
「観察と直感だよ」
彼女は平坦に答える。
「君の目の下に薄っすらと隈が出来ているし、君自身寝汗でぐっしょりしているし。これだけでも十分な睡眠がとれるような状態とは思えないだろう。では眠りが十分でなかった理由とはなんだろうと考えると、これはいろいろな可能性が考えられるから一概には何とも。ストレス、体調の変化、体内時計の狂い……。でも、発汗のことを考えると体調面か夢見のどちらかが採用されるかと思ってね。
まあただの推測だから、当たりはずれはどうでもいいんだ」
「な、なるほど?」
「うん」
にっこりと笑みを深める彼女を称賛すべきか怪しむべきか、気持ちがぱっくり二つに割れる。なんて思慮深いんだとも言えそうで、しかしこの短時間の内にそんなことを考えていたなんてと一線引いてしまいそうでもあった。
というか、一線引いても問題ないのではないか。あれこれ言っておきながら最後は「どうでもいい」でまとめた人だ。質問に素直に答えてくれるあたり、悪い人ではないんだろうけど。
……本当に?
そこまで考えて、鞘は一度思考を放棄することに決めた。寝起きで頭がぼけているのかもしれない。難しいことはあまり考えたくない気分だった。
「それとなくちゃんと警戒しているということは、気を失ってしまう前の出来事もしっかり覚えているということかな?」
投じられた爆弾にぎくりとする。少々の後ろめたさと緊張で、再び汗が吹き出してしまいそうだった。
彼女を一目見た時、まさか人外ではあるまいなとほんの一瞬疑ったことがばれたのかと思って。
「ああ、まあ。いろいろありましたね」
覚えている。わりとはっきりと。だからこその「ほんの一瞬」だった。
思考放棄など許してもらえそうにない。彼女の言葉を皮切りに、自身の脳は記憶を再生しようと広大に広がる領域へ手を伸ばそうとしている。
けれど彼女は。
「だめだよ、鞘君」
「へ?」
鞘の口の前に、その開口を咎めるように細い指先を寄せた。
「私は『気を失ってしまう前の出来事』と言っただけで、何についての出来事なのかは触れなかったじゃないか」
「はあ」
「なのに君、朧や彼が祓った妖のことを思い浮かべようとしただろう」
「は、え、そりゃあ」
まあ、そうですけど。
それの何がだめなのか。
そして「ハラッタ」とは何用語なのか。
「これからはそういう曖昧な言葉には気をつけた方がいい。日本語のいい所でもあるんだけどね、隙を見せると付け込まれることだってあるんだから。この世界では特に。それが危険に直結することだってあるからもっともっと警戒するようにね」
「……」
言われていることの一割も理解できない。
一方、語った彼女は言いたいことを言えて満足したのか、扉の方へと歩き出してしまう。
「着替えたら出ておいで。朝食はまだだから、ちょっと散歩しよう」
扉を開けると、まず廊下が見えた。板張りの道が足元を横切っている。
「どれどれ」
扉の影から彼女がひょいと顔を覗かせる。「うぉ」と俯き加減に片足を後退させた鞘の姿を見て、大して興味なさそうに「おー」と声を上げた。
「なかなか似合っているじゃないか」
その言葉に一気に顔が熱くなる。照れているのではない。羞恥心。その一言に尽きた。
「この着方のよく分からない、そしてどことなくコスプレじみた服で、俺はどこに連れていかれるんですか」
顔ごと視線を逸らしてやっと声を絞り出す。体を冷やしたり熱したりと、忙しないこと甚だしい。
渡された着替えはシンプルだが見慣れないものだった。長袖のタートルネックにスキニーと靴下。これだけだったならば何の違和感もなかったが、何故かもう一つ。不思議な上着もセットで置かれていたのだ。
和風……なのだと思われるそれは何かの漫画で目にしたことがあるような気もするし、大学の図書館で立ち読みした資料集にあった「狩衣」に似ていなくもないような、気もする。
用意してもらった身なので一応着てはみたものの、自分が着るべき服でないことは明白である。
「コスプレとは失礼な。ちゃんと専属の洋裁師に依頼して良い布で作ってもらったものだよ。作り手の趣味がふんだんに盛り込まれていることは否めないけれど。
君と似た背格好の子がいて、これはその子に借りたんだ。後で会うだろうからお礼を言ってね」
言いながら無遠慮に、しかしこちらに不快感を与えない手際で、彼女は鞘の首元を彩る紐を丁寧に結んだ。あ、そうするものだったのかと納得しかけて「そうじゃないだろう」と心中己を叱りつける。
「じゃ、行こうか」
恥じ入る鞘などお構いなしで彼女は背を向けた。
慌てて後を追い、鞘は初めて見知らぬ部屋の外に出た。
長い廊下が真直ぐ続く。
左手側には障子戸が、右手側には雨戸が並んでいる。どちらも、特に雨戸の方は壁だと言われても肯定してしまいそうなほど隙間なくぴったりと閉ざされていた。
「この辺だったかな」
言って、彼女は通路の半分ほどの所で足を止める。
鞘もそれに倣うと、
「びっくりしてくれたまえ、鞘君」
髪をさらりとなびかせて、彼女はいっそ豪快に、そして軽快に、雨戸を一気に押し開けた。一枚が動けば自動的に隣り合う一枚、また一枚と次々に薄闇が晴れていく。
そうして段階的に外側の景色が、空気が、情報が鞘の中に雪崩れ込んだ。
「っ! 赤い……!」
口を衝いたのは単純な形容詞。
まるで雪原のように一色の白を纏っていたはずの世界が、今は目の覚めるような赤を湛えていた。
ただの赤ではない。韓紅に黄丹、一斤染、薄色、山吹色――そういった色が重なり、混じり合い、濃淡を付け溶け合って生まれた「赤」である。燃えるように、綻ぶようにやさしい朝の色。
感嘆の声が溢れる。
圧倒されてしまった。
深い呼吸を繰り返し、肺が心地よい冷気に満たされた所で気づいた。
実際に色付いているのは空だけで、大地はその色を映しとっているだけなのだということに。
「花弁もどき、止んでる」
今空から降ってきたらさぞ絵になるだろうに。
残念がっていると、隣の彼女が盛大に噴き出した。
「あれをそんな風に呼んでいるのかい? 怖いもの知らずだな君は」
「え? あれって何か大変なものなんですか?」
触れて観察することは叶わなかったが、桜の花弁のようなあれは、その実桜の花弁よりも繊細で儚げで。一目見た時から綺麗だと思っていたのだが。
「いいよ、いいんだ。君は他人の言葉よりも君の感覚を一番信じてあげるべきだ。……あ、これも私の言葉だから、君の考えに合わないと思ったら聞き流してくれて構わないよ」
いや、どっちなんだ一体。
脳内でツッコミを入れつつ、似たようなことを朧狐にも言われたことをふと思い出す。
もっと自分の感覚を信じなさい、と。
それってどういうことなんだろう。
考えていると、彼女が縁側の下から鞘の見慣れた、且つ履き慣れた靴を取り出した。自身はさっさとブーツに足を潜らせて、こっちにも履くよう促してくる。
「あと大事なのがこれ。肌身離さず持っていて。首から下げるのがいいと思うよ」
靴を履き終えると彼女から唐突に、どういうわけか首飾りを手渡される。
怪訝に思ったのはそれをちゃんと見るまでのことだった。
「なんですか、これ」
それは細い紐に青い石が飾られたシンプルなもの。だが、その石の輝きは目にしたことのない色彩に彩られている。海、空、夜……。そんな言葉で頭が埋め尽くされるものの、どれも違うと最後は否定に蹴散らされた。
「お守りだよ」
彼女は自身の首元から、同じように紐で結ばれた青を引っ張り出す。
「これがないと誰もこの世界を歩けないんだ。ないと死んじゃう必須アイテムって感じかな」
「死ぬって」
スケールがでか過ぎる。発言に現実味が全く感じられなかった。
「冗談だと思うなら捨ててくれて構わないよ。私はそれを君に渡すようにと朧から頼まれただけだからね」
「とにかく渡した、と」。確認するように呟き、彼女は朝の景色へ颯爽と歩みを進める。
その足音を聞きながら、鞘はもう一度石を観察する。
ゲームじゃあるまいし。と考えかけたものの、朧狐の名前を出されてしまうと一笑に付すことはできなかった。
なにせ命の恩人である。
夢みたいな世界で非現実的な体験をして、自分は冗談みたいな恰好をしてその夢みたいな世界を歩こうとしている。――なんてふざけた話も、朧狐の名前を聞くとそれら全てが事実として肌に刻まれていくような気がした。
だから、何が何だか分からなかろうと、鞘が案内人――推定――の彼女の言葉に従うのは当然のことだった。