流星に目を焼かれ
風音を聞いて鞘は目を覚ました。
硬い地面の感触を背に感じながら数回瞬く。
視界に飛び込んでくるのは白一色。
白い空から、白い雪が降ってくる。
冬なんだから雪も降るだろう。
そう考えかけて、しかし首を傾げたくなった。
どうして外に寝転がっているんだ。
夢でも見ているんだろうか。
いつから。
だって幸城さんとカフェに行って……。
現在に至るまでの記憶を辿ろうとすると、空に一際大きく光を放つものを認める。
目を細めてその正体を確認しようとした時。
突如、風が強く吹きつけた。悲鳴を思わせる高音が大音量で鳴り響く。無色の塊が様々な方向から鞘の全身を叩き始めた。
鞘は反射的に固く目を閉じる。仰向けからうつ伏せになり腕で頭を包み込んだ。
頭蓋の中まで真っ白になってしまいそうだったが、時間が経過するにつれ次第に脳が自身を言葉で彩り始める。
明るい。
痛い。
夜だったのに。
カフェは?
天候不良?
どこだここ。
何が起こっているんだ。
刹那的時間の中で混乱が加速する。
同時に、五感が収集した情報を糧に冷静な部分が目覚めていった。
薄らと瞼を押し上げ、瞬きで視界をクリアにすると眉を顰めたくなった。
対面したのは白い……地面だった。雪山にでもいるのかと疑いたくなるほどの、陽の下で目にすれば眩しさに目を細めていただろう純白。
地に着いた腕や肘が僅かにそこに沈み込んでいる。純白の表層には雪――否、花弁のようなものが降り積もっている。指先で触れてみると、花弁もどきは触れている感触すら碌に感じさせぬまま霧散してしまう。
不意に風が凪ぐ。
嘘みたいな静寂など気にもとめず、新たな花弁もどきが優雅に地面に降り立った。
鞘は辺りを警戒しながら立ち上がる。風に冷やされた衣服が肌にぴったりとくっついて背筋が震えあがった。
両腕を擦りながら顔を上げて。
「うわあ……!」
感嘆の声が溢れ出す。
目に飛び込んできたのは、「銀世界」と呼ぶに相応しい光景だった。
白銀色の地面。
白銀色の空。
遠近に関わらず、陰影以外に色の差分が認められない、余分なものが一切存在しない景色。
空を見上げると、先と変わらず遥か遠くで雲を背景に光を放つものがある。やはり遠目のため、それも強い光に輪郭を隠されてしまっているため形すら認めることが叶わない。分かったのはそれが上空に留まり、円を描くように踊っているということだけだ。
「綺麗」
茫然と呟く。それ以外の言葉が見つからなかった。
見惚れてしまうほどに、どこなのかも分からないこの場所は美しかった。
顔が熱くなり、肺の奥に熱が滲む。大きな鼓動が全身に強く響き渡った。
柄にもなく感動していた。思わず飛び跳ねたくなるような喜びが目の前の世界をより眩しく鮮やかなものとして映していた。
と。
「お前にはそう見えるんだ?」
背後から一つ、声が。
鞘の肩が大きく震える上がる。頭の天辺から氷水を被せられたようだ。体に力を込めても節々が軋むだけで、上手く振り返ることができない。
この時になって漸く思い出した。
カフェで変な壁を見つけたこと。
恐らく壁の中に引きずり込まれたこと。
壁の中で何かに遭遇したこと。
その後どうなったのかは分からない。
だから、
さっきの「白いの」が追いかけて来た。
そう考え、感動から打って変わり恐怖で心臓が騒ぎ出す。
どうしよう。
呼吸が浅くなっていく。
さっきは勢いで、なんか、あれ? 何したんだっけ? 何もしなかったんだっけ? 体、動かない。え、逃げられない? 走らなきゃ。とにかくどこかに。
汗がこめかみを滑る頃、鞘の焦燥を知らないだろう相手は遠慮なく接近し、この世の終わりと嘆く顔を覗き込んできた。
なんとか悲鳴を飲み込めたのは、相手にちゃんと顔があったからだ。
意外と小柄。何が意外なのかも判然としないまま、自身の視野に侵入した人物にそんなことを思った。
相手は鞘よりも頭一つ分は小さな少年だったのだ。
「怖い目にでも遭ったか? それとも体調悪いとか?」
凛として落ち着きのある声が、澄んだ湖面のような翡翠の瞳が、心配そうに尋ねてくる。
陽光を思わせる金糸の髪。明度の高い肌に幼さを残した中性的な容貌。その人物は、本で見た妖精や精霊だと言われても納得できてしまいそうな姿をしていた。
出会ったことのない色彩にしばし茫然とし、次に心配されたことに驚く。
少年は「ああ」と察した様子でその場でくるりと回ってみせた。
「ほら、武器とか持ってないから。お前に危害を加えようなんて思ってない。ちょっとは安心する?」
彼は和と中華が融合したような、これまた不思議な装いの袖や上着を捲って無害を主張する。
鞘が反応できずにいると「これ可愛いだろう? 今日もらった折り紙のステゴサウルス」等と言って、何故か懐から折り紙を取り出して主張をさらに続けてくる。
飄々としながらもこちらの警戒心を和らげようと懸命な様子に、思わず笑みを零してしまった。
すると何が嬉しかったのか。少年は白い歯を見せてにまっと笑う。それだけで彼の神聖さが削がれ人間味が色濃く表れる。幼さが際立ち人懐っこそうな印象を与えてくる。
「さて、緊張解れてきたっぽいし名前教えてもらっていい?」
「燦条、鞘と言います」
「燦条鞘。ほーん、なんかかっこいい。あ、下の名前で呼んでいい?」
「はい。……えっと、あなたは?」
「俺は『朧狐』」
「ん? きつね?」
「朧狐。朧豆腐の『朧』に『狐』で朧狐」
「それは、名前なんですか?」
「役職名みたいなものかな。長ったらしいから『朧』でいいよ」
「は、はあ。じゃあ朧さんで」
「さんって、なんか痒いな。まあいいや。
で、鞘はなんでここにいるんだ?」
そう訊かれることは予想していたが、いざ訊かれるとなんと返せばいいものかとしどろもどろになってしまう。どもりにどもりを重ねなんとか説明しようと試みるも、非日常を言葉にするのは存外に難しい。
「場所変えて落ち着いて話すか。なっ?」
言葉を尽くしたが、最後は気づかわし気な彼にそんな提案をされた。
鞘はそれに弱々しく頷く他ない。
「家で茶でも飲んでゆっくり話そう。ちょっと歩くけど我慢な」
「家? が、あるんですか?」
「え、俺こんな更地で寝てるように見えてんの? ショックなんだけど」
「そうではなく! 見る限り真っ白なのでピンと来なかったんです。
というか、今更なんですけどここってどこなんですか? 相馬って雪深くないですよね? 空に何か光ってるのあるし、そもそもここ、あまり寒くないですし。……もしかして全部夢なのかなー、なんて」
もし今見ているものが夢だとしたら、早く起きて幸城に合流しなければならない。随分待たせてしまったがこれから夕飯を食べ、自分の住む部屋に帰らなければならないのだから。
しかし朧狐は言う。
「夢じゃないぞ?」
心底不思議そうな顔で鞘の思考を切り落とす。
「やっぱりまだ混乱してるっぽいな。ここはお前がいた世界――『表』とは全く異なる世界だよ。相馬じゃないし、降ってるのは雪じゃない。寒くないのも当然だ。もっと自分の感覚を信じなさい」
言い切って、彼は鞘の胸をノックするように軽く叩いた。
「おもて? いや、よく分かりませんけど……でも、じゃあここはどこなんですか? 異なる世界? とかいきなり言われても」
「この世界の名は『白鵲の巣』」
その名を耳にした瞬間、鞘の心臓がドクリと大きく鼓動した。
「そして俺はこの世界の管理人」
「ハクジャクノ、ス」
呟き、胸元を押さえながら眉を顰める。トツトツと普段より早歩きする拍動を、布を通して指先に感じる。
なんだろう。
一瞬、違和感なのか既知感なのか、それに近いもどかしい感覚があった。が、あっさりと見失った。惜しくないと言えば嘘になる。けれど惜しいとも言い難い、何とも形容しがたい感情に胸が満たされた。
そうして自身の内に注意を傾けていたため、この時の鞘は気付くことができなかった。
俊敏な動きでもって、朧狐が鞘の背後に体を滑らせたことを。
気付いた時には、彼の腕は既に振るわれていたことを。
突として、走行中の電車が急ブレーキをかけたようなけたたましい音が鼓膜をガンガンと殴りつけた。
鞘は反射的に腕で頭を覆い体を纏める。噛み締めた歯の隙間から言葉にならない奇怪な音の羅列が飛び出した。だがそれは先客によって見事に掻き消されてしまったため、記憶と身体感覚にのみ履歴が残される。
轟音は二拍の間強烈な存在感を放ち、ふっと消えた。
「長引くかなー? 俺この後炬太刀と遊ぶ約束してるんだけどなー」
呆けていると、そんな台詞が頭上からのんびりと落とされる。
火花の爆ぜるような輝き感じ、視線を持ち上げる。
朧狐の右手には長々と尾を伸ばした流星が握られていた。否、流星を思わせる白光だ。
徐々に輪郭が明瞭になっていく。
光が凝縮され形を成すと、それは一刀の刃となった。刀に類似した武器となったのだ。所々が歪んだそれは、しかしこの世界そのものを写したように冷めたく異質で美しい。
不意に、鞘は先まではなかった悪臭に顔をしかめた。上体を捻りながら臭いの発生源を探す。
「ひっ!」
息を呑んだ。
驚愕と恐怖が綯い交ぜになって体が凍り付く。
それから目を逸らすことができない。
少し離れた所にそれはあった。
砕けた白色の骨と牙。
球体に沿って光を乗せた不気味なほど虹彩の澄んだ一つ目。
辺りに撒かれた赤黒い贓物と血液。
原型は分からないが、恐ろしいほどに美しい断面を晒しているそれが殺されたものであることは明白だった。
朧狐が斬ったのだと、遅れて理解が追いつく。
「大丈夫か?」
声をかけられてぞっとした。
視界の中央に朧狐の左手が迫っている。
原形すら留めない骸の様が脳内を埋め尽くす。
「っ!」
鞘は瞼をきつく閉じ、瞬時に身を固くした。
僅かばかりの静寂。
瞼の向こう側でくすっと笑う気配がする。
そろそろと目を開けると、眼前で翡翠の瞳が瞬いた。
「何もかも全部怖いよな。でも大丈夫だ」
朧狐は幼子に語り掛けるように相好を崩したかと思うと、次いで一変。片頬を強気にくっと持ち上げる。
「お前の身の安全は管理人・朧狐が保証する。さあ行くぞ。舌は嚙まないよう気を付けて」
言うや否や、彼は鞘の体をいとも容易く担ぎ上げ鋭敏に地を蹴り付けた。
は?
鞘の意志など関係なしに大地が遠ざかっていく。飛翔と共に謎の骸が小さくなって――
次の瞬間、骸を目がけ濁流のような勢いで黒い影が降り注いだ。
目を剥く。
叫びが喉を突き抜けた。
「うわああぁぁああ!」
「あ、そっちで叫ぶ?」
「なっ、あれは、何が……!」
「その問いはあれが何なのかってこと? それとも、今あいつらが何やってんのかってこと?」
「どっちもで、ぎっ」
「ありゃ、今のは痛い。忠告しただろう」
絶叫と温和な声との掛け合いは、鞘が舌を噛んだことで強制的に中断された。
口元を両手で押さえつけ、しかめ面で鋭い痛みにじっと耐える。滲んだ涙が体の揺れに合わせて目尻を離れていくと、額にぶつかり弾けた。下降が始まったのだ。
二人分の重さは落下と共に高さの分だけ加速し地表を目指す。ごおお、という低い風の唸りが徐々に強さを増していく。
鞘は強烈な衝撃に身構え、着地の時を待った。「死ぬ」と思いながら。
だが朧狐はやわらかく地に降り立つ。そのまま白い大地を颯爽と駆け抜けていく。
「あれらは妖。最初に俺が一匹斬って、その残骸を他の妖達が喰いに来たんだよ」
「きっ……、妖って、え、妖怪のことですか!? あれが!?」
「そう、あれが。あれに限った話ではないけど」
「いや、そんな。っ、そんなもの、現実にい、いるわけないじゃないですか!」
「そう言われましても。じゃあ後ろのあれは?」
「そんなこと言われても俺には……!」
言いかけて、目の端で何かを捉えた。
視線を投げて凍り付く。
「なんかこっちに来てます」
朧狐に斬られた最初の一匹に群がった「妖」の軍勢。それが黒く巨大な岩石のように身を寄せ合い、こちらに猛進して来ていた。蠢く黒は、しかし目を凝らすと各個体で形も色も異なっているのが分かる。殺気を滾らせた何対もの目に射抜かれ、鞘は爪で胃を引っかかれたような不快感と悪心を覚えた。
軍勢から迸る虫が鳴くような音は、鳴き声なのだろうか。幾重にも重なったそれは、痛いくらいに鼓膜を刺激することに留まらず、脳を乱暴に揺さぶられているような錯覚をももたらした。平衡感覚が狂ったのか、鞘の視界では時折像が二つ三つとぶれて映る。
「随分飢えてるな。それじゃ、振り落されるなよ」
朧狐の言葉を咀嚼するより早く、加速が始まった。
どこにこんな力があるのだろう。
彼の声は明日の遠足にわくわくしている子どものように無邪気で、疲労を一切感じさせない。
一方その背中にしがみつく鞘は、乗りたくなかったジェットコースターに無理矢理乗せられたような心境で絶叫する。
担がれてしばらくすると、二人まとめて大きな影に呑み込まれた。
今度は何だと辺りを見回すと、周囲には背の高い、白く太い柱のような物が林立していた。
「ここらでいいか。鞘はその辺の木の後ろにでも隠れてろ」
鞘を丁寧に下ろし、朧狐は今まで走って来た方向に向き直る。
鞘は彼の放った言葉の中にさり気なく存在した名詞を探し首を巡らせた。
回答は探すまでもなく聳え立っていた。柱だと思っていたものの足元に落葉を見つけ、その巨体に所々捲れた樹皮を認め、血管を模した枝の存在を知り、その先に空を押し上げる巨大な樹冠が構えている。鞘の記憶の中には決して存在しないそれは、純白の樹木だった。
「ここは本当に、違う世界なんだ」
茫然と呟いていると、節足動物を思わせる乾いた足音の大合唱が急接近してくる。はっとして音の方を見ると、禍々しい漆黒の軍勢が押し寄せ、朧狐の白い背中が呑まれてしまっていた。
「ちょっと!」
短く叫んだ。
刹那。
一閃。
軍勢が二つに裂けた。
裂け目の中心には、鞭のように腕をしならせ剣を振るう彼が在る。
斬られた妖が裂傷を起点に結晶と化していく。
彼が次の一歩を大きく踏み出すと、それを合図に結晶は砕け霧散した。
一瞬の出来事だった。そして、彼は鞘が目にした一瞬を繰り返し踊る。地を蹴り、宙を舞い、敵を薙ぎ払っていく。
「すごい」
鞘は立ち尽くし、その様子をただ見守っていた。
けれど突然、鞘を囲うように幾つもの氷柱が高く伸び上る。
肩を縮こまらせていると頭上から微細な音と共に結晶の欠片が降った。
見れば、氷柱の切っ先には結晶化した妖が突き刺さっているではないか。その霧散と同時に氷柱に罅が生じると、パンッと乾いた音を立てて無色の刃は崩れ去ってしまう。
「もうちょい離れててくれると嬉しい!」
「すみません!」
戦闘中の朧狐に遠くから呼びかけられ、慌てて樹木の影に身を隠す。幹に寄りかかると、体がずるずると地に吸い寄せられた。
心音が速いテンポで重く全身を叩いている。彼がいなければ頭から食べられていたかもしれない。頭部の抉れた自分の姿を想像してしまい、堪えていた悪心が一層強くなる。
何なんだここは。
既に答えは得ているが、そう考えずにはいられなかった。
「この世界の名は『白鵲の巣』」。
脳裏に蘇る朧狐の声を反芻する。「ス」って「巣」? 鳥の巣ってこと? それとも他の「ス」?
見えるもの全てが真白の世界。
いるはずのない妖が存在する世界。
朧狐の管理する世界。
なんで――
「なんでいきなり、こんな所に」
夢と言われた方がよっぽど説得力がある。だが、近くに響く戦闘の音色はあまりにも非現実的でありながら生々しく、身を震わせる恐怖は紛れもなく本物だった。感情だけではない。五感さえも、何度疑っても祈っても、これが現実だと声を揃えてくる。
「最悪だ」
頭を抱え、小さく縮こまり、鞘は力なく呟くことしかできなかった。
やがて、静寂は訪れた。
小さな靴音がゆっくりと近づいてくる。
「終わったー。怪我ないか?」
傍に来た朧狐は息一つ乱すことなく笑顔で問いかける。その手に剣はなかったが、それを気にする余裕は今の鞘にはない。
「朧さんのお陰で傷一つ付き……、うっ」
にこやかな彼を見て緊張が途切れると、胃から上って来るものを抑えることができなかった。眩暈と不快感で上体が傾ぎ、白い大地を吐物で汚してしまう。
「全部吐きな、楽になる」
背中をさすりながら、彼は白い袖で躊躇なく鞘の口元を拭っていく。
申し訳なくなり返事をしようとするも、体が重く力が入らない。強烈に眠かった。目蓋が下がり始めると、彼が樹木に上体を寄りかからせてくれる。
「運んでやるから寝ていいぞ。ここは表とは創りが違う。居るだけで身体に負担がかかるし、何より見たくない物たくさん見ただろうし。……えーと、お疲れ様」
心配の色が滲む声に、鞘の胸がちくりと痛んだ。状況が状況だったとはいえ、彼が自分に危害を加えるだろうと疑ってしまったことが今になって胸につかえたのだ。
謝らないと。思って口を開こうとした時、しかし別の思考に主導権を攫われてしまう。
次に目覚めた時、また彼に会うことはできるのだろうか。
「あの」
それだけは訊かねばと、睡魔に抗い声を絞り出す。だがその先が続かない。もう体力は限界だった。瞼がどんどん重くなっていく。
「大丈夫」
瞳が完全に隠されようとした時、朧狐が囁いた。
「約束は守る。安心して眠るといい」
違う。そうじゃなくて。
顰められた声が楽しそうに弾むのを聞いて、鞘の思考は眠りに埋没していった。