海中
「?」
何か、音を耳にしたような気がした。
なんだ?
――……。
また聞こえた。
風鈴みたいな、でもそうじゃない音。
トイレを出て廊下の左右を確認する。
左側には女子トイレ、右側手前には短い通路があり、幸城の待つ座席スペースに繋がっている。そしてその奥には、さらに長く廊下が続いていた。
――……、……。
音の方に視線を投じる。
奥だ。
それが分かると大して迷いもせずに。
誘われるように。
引き寄せられるように。
ゆっくりと足が前に進んでいく。
通路の前を通り過ぎ、その先へ。
もっと先へ。
鞘が足を止めたのは、「倉庫 関係者以外立ち入り禁止」と赤字の太いゴシック体で書かれた扉の前だった。バイト先でも見慣れた、傷と錆に覆われた鉄製の扉だ。
――……リ……ン。
小さいが先程よりも明瞭に音を聞き取ることができる。
けれどまだ遠い。
「関係者以外立ち入り禁止」。
視線でもう一度その文字をなぞり、その上でドアノブに左手を伸ばす。
金属に指先が触れようとして、
バチンッ!
「った!」
電気が爆ぜるような鋭い音とともに指に痺れが走った。一瞬の強烈な一撃に、二拍遅れてやっとひりつくような痛みを感じられるようになる。
なに、今の。
手とドアノブを交互に見る。次第に指先が紅潮し、控えめだがとくとくとしっかり脈打ち始めた。
頭上に疑問符を浮かべながら再度ドアノブに手を伸ばす。
じぃん、と衝撃の余韻が残る手で恐る恐る。
僅かに躊躇して、掴んだ。
今度は何事もなくドアノブを回すことができた。
「お、お邪魔しま……す」
軋んだ音をたてて扉を開くと、そこには何もなかった。
何もない部屋があり、しかしあまりの暗さに何も捉えることができない。
瞬きの間にそう捉えたのは本当にそう見たためか。
それとも脳が現実を拒絶していたのかは分からなかった。
「え、これ」
違った。
部屋ではない。
壁だ。
鞘の目前に、切り取った夜闇をすっぽり嵌めたような壁があった。
予期せぬ事態に目を見張る。
建築ミス?
最初に思い浮かんだのがそれだった。何らかのミスで扉の内側から布で覆ったベニヤ板を……、どんなミスだよ。それ前にテレビで見た家庭内別居をしようとした夫婦の話と混ざってないか。
「なんで塞いでるんだろ」
首を傾げ何気なく手を伸ばしてみる。
直後、指先に予想外の感触があった。
同時に壁が揺らめく。
まるで水面のように波紋を広げて。
「水――」
最後まで言い切る前に。
ちゃぷ。
鞘の姿が壁の前から消えた。
扉がひとりでに閉じていく。
夜闇が完全に隠される前に。
――……リ……ン。
最後に一つ、音が奏でられた。
目を開くと、視界は黒く塗り潰されていた。
夜?
水の中?
なんで?
茫然としながら辺りを見回す。
何もないのか、何も見えないのか、自分が目を開けてさえいないのか。「黒」以外の何も捉えることができない。
地に足が着いている感覚がなく、空中を浮遊しているかのように体が軽い。
本当に水の中にいるみたいだ。そう思いかけて、「なんでこうなった」「結局どこだ」と急に現実的な思考が現れる。
壁を見つけて、触って、そしたら。
そしたらどうした?
出来事を振り返ってはっとする。
何かが自分の腕を掴んだのではなかったか。
……ン、ッタノ。
耳元で音がした。
今度のそれには風鈴のような冷涼な響きがない。
「ナンデワスレチャッタノ?」
低く、重く、おどろおどろしいそれは声だ。
背後を顧みる。
視線が合った。
真っ白な何かと目が合った。
「ドウシテ?」
問いを重ねる「白」が鞘の頭を乱暴に掴み上げる。
鞘は手足をばたつかせ、それから距離を取ろうと必死に藻掻く。しかし四肢は空を切るばかりでどれだけ動かしても体はその場を動かない。
髪に絡んだ指に力が籠められる。頬に小さな爪が食い込み、痛みに顔を歪ませた。
白い手を引き剥がそうと手を掛けて。
手!?
初めて眼前の「白」が人の形をしていることに気付いた。
自身よりも小さな姿、握った細い指、細い手首。相手は子どもだ。子どもの形をしている。
「ワスレタクナカッタノニ」
先程とは違い子どもは高い声で、恨みがましく言葉を放つ。
目と思しき場所に空いた黒い空洞から同色の何かが溢れ溶け出していた。
「サイゴハドウナッタノ?」
「なっ」
子どもの片手が首に回った。
指圧で気道が圧迫される。
思うように声が出ない。
息ができない。
「ナンデカクスノ?」
「知らなっ……! こ、の!」
体を丸めて足を衝き出す。子どもを蹴ったつもりだったが足裏に衝撃が伝わらない。
苦しい……!
肺に重い痛みが蓄積する。
目の前の光景が霞んでいく。
「コノママジャ……」
子どもが鞘の顔を覗き込んだ。
「オレガ、キエチャウ」
「白」にぽっかりと空いた空洞が、狭まる視界に迫り来る。
「タスケテヨ」
吞み込まれる!
咄嗟に。
「知ら、ぁい……てばっ!」
空洞に向けて左手を突き出した。
と、「白」に触れた指先から眩い光が爆ぜる。
「白」は静かだった。
ほろほろと姿が崩れていく。
「アノヒトハ……」
光は「白」を掻き消し、さらに光量を強めていった。
鞘の視界が白く塗り潰され――