見目を裏切る
時折コンビニや道の駅で寄り道をしながら、二時間程度の時間をかけて二人は目的のカフェに到着した。
降車した鞘の全身を冷風の壁がどっと押す。
甲高い風音の隙間から重々しい波音が耳に届いた。
音の方に視線を投じる。
伸びていく道路の向こうに堤防が見えた。そのさらに向こうには海があるのだろう。
まだ十六時過ぎだというのに既に帳が降りている。雲に覆われた空には月も星もない。視界を照らすのはカフェの窓から洩れる照明のみだった。
二人は寒さに急かされるようにして入店した。
外との寒暖差で足元から頭頂にかけて震えが駆け抜ける。指先に呼気を吹きかけ温めるも、すぐに熱が引いてしまうため余計に冷気が際立った。
それを心底残念に思いながら両手を擦り合わせていると、突如、温かいおしぼりで指先を包み込まれる。
「こちらをどうぞお客様。外は寒かったですよね」
声をかけてきたのは鞘よりも随分と身長の低い、ついでにテンションも随分と低そうな少年だった。ワイシャツに黒ベストという服装やこちらを「お客様」と呼ぶところを見るに店員であることは間違いなさそうだが、アルバイトにしても些か幼すぎやしないか。他の店員の子ども、とかだろうか。
違和感を無理矢理見送ろうとしている間にも、少年は職務を全うしようと歩を進める。
「太桜はいるかな? メールで今頃に着くって連絡はしていたんだけど」
おしぼりを受け取った幸城が尋ねると、少年は興味なさげに「あー」と鳴いた。もしくは呻った。
「あいつ……、店長はただ今席を外しております。すぐに戻るとのことですので、少々お待ちください」
「そうなんだ? 分かりました」
「すみません。
お席にご案内します。こちらです」
少年に案内され、鞘と幸城は四人掛けのテーブル席に着いた。その際、このカフェの仕組みについてざっと説明が入る。
曰く、昼はカフェとして、夜はバーとしての顔を持っている。
曰く、今の時間はカフェからバーへ切り替わる準備時間である。
曰く、今鞘と幸城が入店できているのは店長の指示によるものである、とのこと。
それを受けて幸城が、
「安心した。潰れる一歩手前なのかと思った」
なんて言って笑うものだから正面に座した鞘は気が気ではなかった。
だが少年は「なんとか持ちこたえてますね」と動じた様子なく言う。
「水はご自由に向こうからどうぞ。それでは、注文が決まりましたらお呼びください」
メニューを置き、少年はにこりともせずに踵を返す。
その小さな背中がスタッフルームに入り完全に見えなくなったのを確認して。
「幸城さん、さっきのはさすがに失礼なのでは……」
「いや、冗談のつもりだったんだけどあんな真顔で受け答えされるとまるで俺がくだらないこと言ってるみたいで居た堪れない」
二人で顔を見合わせ、こそこそと声を潜める。
「お友達の方に言うならまだしもあんな小さい店員さんに言わなくても」
「ねぇ、それよりさ」。先とは打って変わって、幸城は神妙な顔になる。
「あの子『あいつ』って言ってたよね?」
「まあ、その、言ってましたね」
肯定していいものか一瞬迷うも、事実なのだから仕方ない。
「言ってたよね。聞き間違いじゃないよね。えー、店長なめられてんのかな? 実は上手くやれてないのかな。うわーちょっと心配になってきた。でもちょっと面白いかもしれない」
「どっちなんですか」
目を細め珍しく悪い笑みを浮かべる幸城に思わずつっこむ。すると彼はその「店長」を頭に思い浮かべたのだろう。昔を懐かしむように目を細めた。
「どっちもかな。いや、なんでもいいんだけどさ。上手く行き過ぎても人生つまらないと思うし、上手く行かなさ過ぎても嫌じゃん。だからたまには失敗しろ、もっとしろみたいなことを今日会う奴に対しては考えてしまうんだ。多分あっちも似たようなこと考えてると思うし。
でも鞘君はやさしいから友達に対してこんな失礼なことは考えなさそうだよね。お互いを思いやれるような人間関係とか築いてそう」
だめだ。嫌味じゃないとは思うけど、嫌味に聞こえてしまう。
トイレの手洗い場で鏡を睨みつけながら、鞘は負の思考を振り払おうと奮闘していた。
先ほどかけられたばかりの幸城からの言葉が、そして店長を「あいつ」呼ばわりしつつもしっかりと留守を守っている少年の姿が脳裏を過る。
それが過ぎ去ると、最近かけられた中で最悪の言葉が耳裏でまた息を吹き返した。
「君が地でその色なのは分かった。今は個人が尊重される時代だから、別に髪や目の色で君を責めたりはしないさ。でもね――」
ゆっくりと、丸まった背中を真っ直ぐに伸ばしていく。
鏡の中の自分と目を合わせる。
そこには、浮かない表情で突っ立っている自身の姿がはっきりと映り込んでいた。
そう。
鮮明に映し出されていた。
顔や首の半分に可笑しな模様を乗せた、白髪青眼の青年の姿が、はっきりと。
「協調性がいらなくなったわけじゃない。私はこれまで髪が茶色い人の面接も何人も担当してきた。中には君のようにそのままで来た人もいたがね、ほとんどの人は他の就活生と平等に評価してもらおうとわざわざ黒く染めて来たり、事前に『染めて行った方がいいですか』と連絡をくれていたよ。でも君はそうしなかった。そこが私は不思議なんだ。なぜ周囲と合わせる努力をしなかったんだ。自分が悪目立ちするとは思わなかったのか。みんな純粋に能力で勝負しようと懸命に努力して面接に臨んでいるというのに、君からは自分を受け入れてもらおう、受け入れてもらいたいという気持ちを感じない。自分で在ろうとすることは立派だがね、譲歩することだって社会で生きていくためには必要なことだよ」
長ったらしい。
内心で悪態をつきつつ、二週間ほど前の面接採用試験で言われたことを一字一句違えず覚えているのもいかがなものかと苛立ちをより募らせる。
遠回しな物言いでねちっこく突っかかってくる人だったが、さすがは社会人と言うべきなのか。顔の痣には一切触れてこなかった。老眼鏡を通した訝し気な視線は自分の首から上を特に重点的に、全身を値踏みするように彷徨ってはいたが。
……人間関係は見た目でも大きく左右される、と思う。
見目のいい者の周りには同類やそれに憧れる者が集まるが、見目の異様な者の周りには人が集まることなど基本的にはない。怖いもの見たさや、一人でいる自分を馬鹿にするために稀に人が集まることはあったが、幸運なことに皆最後は恐怖に顔を歪めて逃げて行った。
譲歩なんて腐るほどしてきた。
面接の日に間に合うよう事前に髪を黒く染めたし、カラコンだって両目に仕込んだ。なんならドラッグストアでBBクリームを買って、痣を隠せないかと顔から首にかけて塗ってみたりもした。
譲れるものを譲れる限り差し出そうと、自分なりにできることをしたつもりだった。
だけど予想通り、黒く染めたつもりの髪には上手く色が入らず、カラコンは目の渇きばかりが気になってしまい、挙句の果てにBBクリームは汗をかくと落ちて白いシャツの首周りを肌色に汚した。もう台無しというか、その「台」すら作り上げることができないという散々な結果に終わった。
でもそれでよかったのかもしれない。
同じ大学の人とも面接被ったりしたし、今更取り繕ってるとか、なんか恥ずかしいし。馬鹿らしいし。
それに。
「なんで俺が、誰かのためにこそこそしてやんなきゃいけないんだ」
呟いて、はっとした。
慌てて周囲を見回す。
誰もいない。そのことに酷く安堵した。
以前、バイト先のロッカールームで今のような言葉を零したことがあった。
その時は偶然、よりにもよって休憩に入ったバイトリーダーに声を拾われてしまったのだ。
「あんたさ、何で誰もあんたの髪のこととか触れないと思ってるの? 店長がみんなに言ってあんたのこと守ってくれてるからだよ? 直接あんたにクレームつける客もいるけどさ、電話でだって何件も来てるの。ここは常連がお年寄りでしょ。田舎って言えばそうなんだし、若者の身嗜みとか気になるんだよ。こそこそしろとは言わないけど、もうちょっと店に合わせてくれない? 仕事はできるんだからさ」
よく通る女声はしっかりと頭に刻み込まれている。
もともとさほど高くもなかった気持ちがみるみる沈み、過去の想起に蝕まれていく。
受け入れがたい言葉に、受け入れがたい現実に浸食されていく。
……ふう。
意識して、腹式呼吸を繰り返した。
切り替えろ。
この後幸城さんとご飯を食べるんだぞ。あの人は適当そうで聡い所があるから、顔に出したら絶対余計なことを訊いてくる。
はあ、と最後に肺を空にしたその時。
――……、……。