失われた祈りたち
プレゼント選びに思いの外多くの時間を費やしてしまったため、昼食はコンビニで買って済ませることになった。各々が選んだものを車内で手早く食べ終えると、幸城は相馬市にあるというカフェへ向けて車を走らせ始める。
ここまでの道のりと同様、ここから先も鞘はただ乗せられていくだけだ。車内では特にやることもない。
車窓をさらさらと流れていく景色。
車の走行音。
暖房で管理された心地よい車内温度。
その全てが脳内の睡魔を育み、瞼を重くしていく。
船を漕いでしまわないよう首を持ち上げると、狭まった視野で鮮やかな青空を捉えた。
こういう色何て言うんだっけ。昔教えてもらったな。……ウォーターブルーだったっけ。
眠りに片足を突っ込みつつ遠い記憶を手繰り寄せていると、
「いい天気だね」
幸城が大きな口をパカッと開いた。
その一言で鞘が覚醒したのは、不覚にも着眼点が重なってしまったことによる形容しがたい感情からだ。
「そうですね」
運転をする彼の横でのんびりうたた寝しかけたなど悟られたくはない。素知らぬ顔で平坦に返す。
幸城は、「天気の神様が味方してくれたのかな? 俺日頃の行いがいいから」と感慨深そうに頷いてみせた。
「……幸城さん、神様とか信じてるんですか?」
他にもつっこみ所はあったが。
「神様」。
この奇怪な名詞を拾わないわけにはいかない。
鞘は珍獣を見る目で隣を凝視した。
「信じてるよ? どうして?」
質問に質問を返し彼はけろっとしている。鞘の言葉の方こそが心底不思議だと言わんばかりだ。
鞘は目を瞬かせた。自分こそがおかしいんだなと錯覚してしまいそうになって、しかしそんなわけがないと遅れて心が異を唱える。
「一応、信仰って暗黙の了解みたいな感じで禁止されてるじゃないですか。随分昔から」
一瞬の沈黙。
幸城がぎょっと目を剥いた。
「え、鞘君。よくそんな社会の教科書でもちらっと取り上げられる程度のこと知ってるね」
「『世界の宗教』とか『戦後の日本』とか、そういう所ではわりと触れましたよ? 結構前には遷宮や天皇即位とかもありましたし」
「いやでも、世界史・日本史のほんの一・二頁の話でしょ?」
「そうではありますけど」
鞘はうろ覚えの知識の欠片を掻き集める。自身の記憶に間違いはないだろうかと、僅かな不安を抱きながら。
古代より人々は「神」の存在を信じ、畏れ、敬ってきた。その起源は現在に至っても不明とされているものの、神々には名があり、系譜なども古事記や日本書紀といった神話に記された。
人々は数多の神々を「八百万の神々」と言い表し、万物に宿るものと考えた。
変事の有無に関わらず祈りを捧げ、社殿を設け、家の中にまで神棚を設置するなど、神という存在は生活の中にも馴染み深い存在であった。
神々は人の目に映ることはなくとも、常にどこからか人々の暮らしを見守ってくださっているのだと、第二次世界大戦終戦前の人々には固く信じられていたのだ。
しかし終戦後、古来より日本と共に歩んできた神への信仰は人々の中から呆気なく消えることとなる。そこには敗戦という厳然たる事実と、連合国軍最高司令官総司令部――GHQが日本政府に対して発した覚書、通称「神道指令」の存在が大きく関わっているという。
「信仰が無くなって禁止もされているのに、どうしてそんな堂々と『信じてる』とか言うんですか? 変な目で見られますよ」
「もしかして自分でも調べたんだ? うわ、やっぱ勉強ってのはこうあるべきですよ奥さん」
「誰ですか。はぐらかさないでください」
「ふざけたけどはぐらかしてはないよ。本当に心からの賛辞さ。でもそうだな、その質問には何て答えたらいいかな」
幸城はしばし黙考する。
鞘は身を乗り出して彼の返答を待った。途中でそのことに気付き、若干の気恥ずかしさを覚えるとなるべく自然に背凭れに身を任せる体勢に戻る。
幸城にしては随分言葉を選んでいるなと思い始めた時、漸く答えは訪れた。
「その暗黙の了解も、文化の一つだと思うんだ」
「文化、ですか?」
訝しさに眉を顰める。
「鞘君は知ってるみたいだから少し細かい話をするとね。確かに、信仰自体は暗黙の了解で禁止されている。まあ、それ以前に今の時代は『信仰? 何それやばーい』の世界だから、個人的には禁止以前に『信仰』という言葉自体煙たがられてるって印象は受けるけどね。
でもさ、暗黙の了解ってことは厳格に禁止されているわけではないんだよ。神道指令でも、信仰の自由は認められている。本当は信仰も禁止したかったみたいだけど、日本が一つの国になる前からお付き合いしてきた思想だよ? そりゃ生活にも馴染むでしょ。馴染むを超えて、もはや生活そのものと言っても過言ではないだろうね。そんなものを取ってしまったら日本人のルーツそのものが失われることになる。
だからなのか何なのかは当時の人間にしか分からないけど、結果的にはGHQにも信仰の自由を奪うことはできなかった」
「信仰の自由は認められている……だったら、どうして暗黙の了解があるんですか?」
今度ははっきりと身を乗り出して尋ねる。先の気恥ずかしさはもうない。好奇心と高揚感が競り合っていた。
「ここから先は本当に俺の想像の話になってしまうんだけど、それでもいいかな?」
「大丈夫です」
困ったような表情で笑う幸城に食い気味に頷く。彼の笑みは僅かに深みを増した。
「俺はね、怒りがあったんじゃないかと思うんだ。神々に対する人々の怒りが」
「ん?」
怒り?
頓珍漢な答えに鞘の思考は停止する。
胸中で幸城の言葉を反芻する。自身が理解できるよう良い落とし所を探すべく、微妙に言葉を変えてみる。
神々に対する人々の怒り。
神という概念に対する人々の怒り。
存在しないモノに対する怒り。
思想に対する人々の怒り。
古い物語に対する人々の怒り。
「……すみません。ちょっと俺には理解に及ばないと言いますか」
「ごめんごめん。でも自分で言っといてなんだけど、こればっかりは俺にも理解不能だよ。
さっきも言ったけど、今は日本人が『信仰』っていうと『狂信者』みたいなイメージが一般的なんじゃないかと思うんだけどさ、それは戦中がそうだったからなんじゃないか、と言われているんだ。戦前はもっと穏やかに、わざわざ『信じてます』とか言う必要がないくらい人々は自然に神に敬意を払っていたそうだよ。俺の感覚もそれに近いと思う。
昔から『神頼み』って言葉があるんだけどさ、戦中の人々の中で劇的に、強烈にそれが高まったのかもしれない。だけど日本は敗戦した。人々の必死の祈りを神は受け入れなかったと捉えた人もいたんじゃないかな。
そしてその約四ヶ月後に神道指令が出された。人々が古くから信じてきたものの立ち位置を外国人が変えた。それを日本政府が受け入れた。変えられるものなのか、変えていいものなのかと、人々にとってはショックだったと思うし、変えられるものなんだという認識も同時に与えたと思う。
加えて敗因だ。祈りだなんだという部分を除いて現実的に考えてみれば、兵力も武力も戦略も日本は負けていた。いくら祈っても、物理的な問題や戦況は天変地異でも起こらない限り変わるはずもない。
人々はそこではっとしたのかもしれないね。重要なのは目に見える世界だけなんだって。だから神道指令を受け入れた政府に則って、神々を特別視することをやめた。何なら決別を考えた人もいたと思う。各地で神社への放火事件が相次いだらしいから。
でもそういう事件が多発する中でも、信仰を捨てきれずに祈りを捧げる人はいた。戦前・戦中より数は減っただろう。けど、いたんだ。そういう人達が目の前で祈ってたら、神社燃やすくらい怒ってる人達はいい気がしないよね。当然ぶつかる。なんなら一方的な暴力になる。数が少ない方を多勢に無勢で消しにかかる。
すると、信仰を続けることを選んだ人々は、まるで江戸時代の隠れキリシタンみたいに堂々と『信仰してます』とは言えなくなる。
……そんなこともあったから、暗黙の了解なんてものがありつつも、ルーツや文化を守っていくために今も神社が文化遺産として保存されているんじゃないかと思うんだ」
穏和な声音で語り終えると、幸城は「あ、右右―」と言ってウインカーを出し緩やかにハンドルを回す。右に曲がり切った時、横目で鞘を見て「どうかな?」なんて笑った。
その声で鞘は身体が強張っていたことに気付く。意識して上体の力を抜き、自然な振る舞いに見えるよう深く息を吸う。そっと吐く。首の付け根や背筋に鈍痛がじわじわと広がった。
「君の期待した答えというか、知りたかったことは知れたかな?」
「……はい。ありがとうございます」
自分でも驚くほどに声が硬い。先の高揚感はどこへいってしまったのか。車内は暖房で温められているというのに、いつの間にか拳の中に巻き込んだ指先は冷水に浸されたように冷たくなっていた。
「俺、いくつか神様とか信仰に関わる本を読みました。けど難しくて、あまり理解できなくて、……別世界の話みたいにぼんやりと思うばっかりで、幸城さんみたいに考えたことなんてありませんでした。神様に、人間に対して怒るみたいに怒りを向けるなんて考えたこともなかった」
「いやさー、その自分から本を読むってことがすごいんだよ。
鞘君が言ってたように、結構前に天皇即位があったから一時は神道がニュースでも取り上げられたけど、やっぱり扱いとしては『古代に記された伝承』とか、『旧時代の思想』って感じだったからね。神社に足を運ぶ若者もあの時は増加したけど、純粋に参拝をしに来たというよりは『お守りと言うグッズを買い求めに来た』とか『物珍しいから来た』って感じだったし。
あ、そういう考えを否定する気は更々ないよ? どんな考え方だって基本的にはありだと思うさ。だけど『知りたいな』とか『不思議だな』って思って実際に知識に手を伸ばせる人はそういないと思う。だから君をすごいと言っているんだよ」
「俺は別にすごくないです。純粋に『知りたい』と思って調べたわけでもないですし」
「あれ、そうなんだ? じゃあどうして調べようと思ったんだい?」
その問こそ、純粋に知りたいと思っての問ではないだろうか。幸城という男には「純粋」という言葉がよく似合っていると鞘は時々思う。
「……なんとなくです」
助手席の窓から外の景色を眺める。
田園の間に作られた二車線道路上。そこを走るフィットの中から見る空は、何てことないただのくすんだ水色をしていた。