灯文のもう一回
「み、深罅のあほんだらぁ!」
夕食中。深罅のとある発言をきっかけに燈火は激怒した。キッと眉を吊り上げ、あまりの激情に滲み出る涙を隠すこともせず諸悪の根源たる青年の胸ぐらを掴み上げる。何ならそのまま彼を持ち上げ、踵と畳を強制的に引き剥がしてしまった。
「ぐえっ」。色彩豊かな食卓に降ったあまりにも場違いな呻きを皮切りに。
東雲は「こぉら、燈火。めっ!」と飼い猫を叱るような制止の声を上げ、
壱喜、暁、颯汰は即座に二人の間に割って入り、
小春は「喧嘩だ喧嘩だー!」「やっちゃえやっちゃえ」と盛り上がる双子を「お止めなさい」と嗜め、
静寂は、何故か彼の傍らに控えていた水入りのバケツに手を伸ばした。
あわや大惨事かと空気が緊迫した半瞬後。
「あ。すまん、力加減を間違えた」
「醤油とソース間違えた」とでも言うように。へらっと口端を持ち上げ、燈火がぱっと手を放す。随分と脅し染みた言動だが、これで彼女は本気で謝っているのだと、鞘は後になって知った。
深罅が踏鞴を踏むのと同時、ピンと張った糸が緩むように居間に安堵の温もりが広がる。
何もできなかったが、目撃者の一人として鞘もほっと胸を撫で下ろした。仮眠から覚めたばかりで未だ紗が掛かった思考ではあったが、どうやら危機察知能力は正常に働いているらしい。
白米を口に運びながら、我関せずと机下で丸くなっている炎猫を見やる。
仮眠前に外に連れ出され、燈火・東雲を含めたメンバーで様々喋ったことは覚えている。しかし妙に身体が軽かったり、気分がふわふわと落ち着かないのは何故だろう。まさか知らぬ間にアニマルセラピーでも受けていたのだろうか。
席を立った者が自席へ着席するのをぼぉっと眺めている間にも、深罅は野犬の如く目を剥いて吠え立てる。
「クソばばあ! てめ、殺す気か!?」
「いやいや本当にすまんて。腕はこの前ぽっきり折れたのが先日くっついたばかりでな。まだ感覚が戻っておらんのだ」
「力弱まるんなら分かるがより強力になるってのはどんな理屈なんだ!?」
「ええい、そんなことより酒だ! 今日の分が出せんというのは一体どういう了見か!」
「てめぇが昼間っから飲み散らかしたからだっつーの!」
「それはどうもすみませんでした新しく買ってくれたって良いではないか」
「ちったぁ言い方を考えた上で気持ち籠めろや! つーか金が絡むことは数江に直接交渉しろ!」
「直接はならん! 数江は弱すぎる故。間違って祓ってしまったらどうするつもりだ! 私に責任なんぞ取れるわけなかろう」
「そう思うならもっと俺に丁寧に接するべきだよな? そうだよな? ああ?」
「孫に丁寧に……。ん、え、なんだ深罅、おばあちゃんに甘やかされたかったのか? 駄賃でもやろうか?」
「気味悪ぃことぬかすんじゃねぇボケっ」
「もう、燈火も深罅も食事中に『クソ』だの『ボケ』だの止めてくれないかなぁ?」
ついに痺れを切らして――というよりは下手くそを強調した明らかにおちょくりの意図駄々洩れの口調で東雲も参戦しだした。
「甘いもんに見境のねぇあんたにも言いたいことが山ほどあるんだがよ。なあクソじじいこと東雲様よぉ。あんだけあったプリンのほとんどを腹に納めるとは何事だ? あ?」
「くれるって言ったじゃないか」
「『おかわり』と聞いたら普通は一つを想定するもんだろうが!」
「いつもいいように丸め込まれてるんだからもう少し人を疑うことを覚えようよ。いやあ、若いってあれだね。なんだっけ。そう、『ピュア』だ!」
「『いいこと言った!』みてぇな顔すんじゃねぇよ!」
こんな調子で。
怪我や看病を理由にこの場に参加できない者も在りつつ、ある意味宴会さながらに盛り上がった食事時は幕を閉じた。
余談だが、終始心から幸せそうにとろけた笑みを浮かべていたのは小春ただ一人であった。
食後の時間をそれぞれが和やかに過ごしていると。
邸全体が、
世界そのものが揺れた。
居間にいた住人たちは一斉に身を低くし、警戒心とともに揺れが治まるのを待とうとした。きっと他の部屋でも同じようにしていることだろう。
「ありゃ?」
「おや、来たようだな」
だが炬太刀、炬盾と戯れていた老人組は逸早く状況を理解したようで。「あらよっこいしょ」と立ち上がると、燈火が邸全体へ届くよう声を張り上げる。
「皆、よく聞け! 虚飾の神のお出ましである! 数は三柱、妖も多数! こう聞くと恐ろしいだろうが、我らが出る故心配はいらぬ! 結界も問題ない! まああれだ、適当にゆっくり休んでいろ!」
呵々と笑って玄関から出て行こうとする彼女らに、鞘はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
強いとは聞いていたがいいのか。こんなにもあっさりとしていて。ちょっくら出かけてくるみたいな感じで、いいのか。
「ちょっと待てや!」
茫然とする鞘の横を、二人を見送ろうと集まった住人達の隙間を駆けて行ったのは壱喜だ。
「俺も行く!」
「馬鹿なのかお前」
当然のようにブーツに足を潜らせようとした彼の肩を燈火は押し返す。その手に力はあまり込められていないように見えた。
だが壱喜はバランスを崩し、背中からその場に倒れる。
「きゃっ!」「壱喜!」。突然のことに驚きを隠せない人々の声が上がる。
彼の傍に寄ろうとする影をやんわりと片手で制するのは東雲だ。
「は?」
何が起こったのか分からなかったのだろう。疑問符で喉を震わせた壱喜の視線は、この状況を作り出した燈火へ向かう。
「いつまでそうして寝ているつもりだ。腹を踏んでほしいという意思表示か?」
彼女の浮かべる笑みは常と変わらない。じゃれつく愛猫を可愛がる飼い主を彷彿とさせる慈愛がその瞳には宿っている。ただ言葉は大変物騒だ。
はっとした様子で跳ね起きる壱喜だったがやや遅かった。宣言通り、「そらっ」という掛け声とともに燈火に腹を踏まれ、再度床に横転――叩きつけられて――しまう。
どん! 重量を感じさせる音に、その場にいる何人かの肩が跳ね上がる。
な、なんで!?
鞘もまた目の前の事態を呑み込めない。組手かとも思ったが、そんな雰囲気でもない。固唾を呑んで、両者のやり取りを見守る他なかった。
「ぐっ、ばあちゃん!」
困惑と非難の混じった壱喜の声がびりびりと空気を震わせる。
「……壱喜、お前今万全な状態だと胸を張って言い切ることができるか?」
若葉の瞳の静かな問いかけ。
彼は咄嗟に返すことができない。
迷う時間は二拍。「でも!」と言い募ろうとする声がした。
けれど。
「先の戦いでお前は見事な活躍っぷりだったと聞く。それは褒めよう。よくやった。だがそれは相応に消耗したということ。もっと自分を顧みろ。見てみい。暁も颯汰も今は前に出ようとしないのだぞ。だというのにお前は何故進み出る」
「俺は、強くなるために……!」
「場数だけ踏めば強くなれると思い上がっている限りお前は弱っちい子どものままだ。強くなるだと? お前の姿勢はむしろ強さの探求を放棄しているようにしか見えん」
「な」
壱喜が瞠目し、不自然な間が生まれた次の瞬間。
「ん、だと!」
語気に怒りを込め、燈火の細足を剥がそうと少年は力の限り暴れ出す。でもそれがどうにもうまくいかない。
「侮辱されたと思ったか? 事実と私の感想だ」
「こんの! っ、俺と戦え! 撤回しろよ!」
「阿呆め。お前では私の遊び相手にはなれん。今は休め。もしくは――」
刹那の思案を挿み、彼女の顔が悪童のそれに様変わりする。
彼女は壱喜を踏みつけたまま身を屈め、右手人差し指・中指で彼の額をとんと軽く突く。
途端、その動きがぴたりと止まった。石にでもなったように、暴れた状態で時が止まったかのようにぴくりとも動けなくなってしまった。
首から下以外は。
「……くっそ!」
悔しさに歯噛みし鋭い眼光で燈火を睨み付けるも、動けなければそれも様にならない。
「これを破れたら来ても良い」
漸く足をどけてそう告げると、燈火はぱっと表情を明るくする。
彼女の表情が明るくなると、東雲のそれも同様のものとなった。
「では、行って来まーす!」
冷や汗と共に事の成り行きを見守った一同へ向けて、二人は元気に手を振り「きゃー!」だの「ひゃー!」だの言いながら外へと出て行った。
「い、行ってらっしゃいませー……」。気まずさに声を萎ませながらも小さく手を振り返したのはやはり小春だけだった。
老人組がいなくなった家中は水を打ったように静まり返る。
数秒の間、誰もが無言を貫きその場を動けずにいた。
けれど次第に各々がやるべきことを思い出し散っていく。
動けない壱喜を残して。
鞘は立ちすくんだまま、彼から目を離すことができなかった。こんな風にあっさりと、完膚なきまでにやられる彼の姿を初めて見た。全力を出し切りぼろぼろになった姿は先日見たばかりだが、それでも彼は「強い」という印象を持っていたから。というか、実際に強いことは間違いないと思う。燈火がそれを凌いでいたというだけだ。
壱喜といえば強気で、仲間思いで、来たばかりの鞘にもやさしくしてくれて、真直ぐで。
そして。
そう。
そして、燈火の言うようにまだ子どもだ。
なのにあんなにも必死に強くなりたいと訴える。
一体何が、こうも彼を突き動かしているのだろうか。
……ダメだ。気が利いたこと言える気がしない。
何か考えあって残ったわけではなく、なんとなく足が場を離れようとしなかっただけだ。できることがあるのなら勿論そうしたいが、このままここに立っていても彼の気を害するだけのように思えた。
足先をそっと居間に向けた時。
「鞘兄」
消えてしまいそうなほどの声量で名前を呼ばれた。
あまりにも小さな呼名だったため、誰がどこから呼んだのかさえ分からず辺りを見回す。
でもこの呼び方は多分――
台所や居間を結ぶ廊下の方へ視線を投じる。と、奥にある曲がり角から半身を出す炬太刀の姿を認めた。何やら真剣な表情でこちらを手招きしている。
横目に壱喜を捉えるもそれは瞬きの間のこと。
後ろ髪引かれる思いもあったが、なるべく足音を殺して炬太刀のもとへ向かった。
「どうしたの?」
虚飾の神が来たと聞いて不安になったのだろうか。だとしたら安心させてやりたくて、鞘は長身を折り畳んで問いかける。それで自分も安心したかったのかもしれない。
しかし近くで目にする炬太刀の顔は不安を訴えるものではなかった。緊張しているというか、興奮しているというか。「遊んで!」と無邪気に笑う時とも違うこれはどんな顔なんだと、見ていて首を傾げたくなる。
「妖とか来たでしょ?」
「? うん」
「だからね、今がいいんだってさ!」
「うん?」
「こっち来て!」
成り立たない短い会話の末、待ちきれないとばかりに鞘の手をがっちり掴まえた炬太刀はある場所目がけて一目散に駆け出した。
炬太刀の足を踏んでしまわないよう気をつけながら辿り着いたのは、灯文の部屋の前だ。
「え、と?」
戸惑う鞘を置き去りに、炬太刀はトコトコと両手で扉をノックする。
「お姉ちゃーん。炬盾ー。準備できたー?」
返答はない。
しかし中では動き回っているのか、小さく物音がする。
しばしの時を待ち、扉は人が通れる最低限の範囲で開かれる。
先に出て来たのは炬盾だ。
鞘を見るなり容赦なく舌打ちをお見舞いしてくる辺り徹底している。割と毎回ショックなのでそろそろ辞めてもらえたらそれだけで嬉しいのだが、道のりは長い気しかしない。
次いで、扉の隙間をすり抜けて灯文が現れる。
「……え?」
鞘の頭上に疑問符が浮かんだ。
灯文は、やけに気合の入った服装をしていた。
肩の出るデザインの、袖に石榴色のリボンがあしらわれた、純白のワンピース。
同色のリボンが編み込まれた紫がかった長髪。
潤んだ黄金の瞳の周りには、それをより強調するように化粧が施されている。
何事かと思い彷徨う鞘の目は、彼女の手足の爪に光るネイルにも気づいてしまった。
な、何事?
可愛らしい。
可愛らしいが何事だ。
女性雑誌など手にする機会がないので疎いことは自覚しているが、今の灯文は鈍感な鞘から見ても読者モデルか何かかと思えるほどには仕上がっていた。颯汰と喧嘩をする際の獰猛さは形を顰め、ただただ清楚で華奢な、守ってあげたくなるような儚さを纏う女の子になっていた。
え、本当に何事?
今日は記念日とか誕生日とか、そういう日だったりするの?
動揺を隠せず「え、あの、え」と異音を発していると炬盾に弁慶の泣き所を強く蹴られる。痛みに半泣きで蹲ることになったが、今ばかりは彼の行動に何を思うこともできなかった。
「お、……私は」
意を決した、という様子で灯文が口を開く。
「俺」って言おうとしたのかなと頭の隅で考えながら、鞘は彼女と視線を並べ続く言葉を待った。
彼女の強気に吊り上がった目が、それと反して怯えたように薄膜を張っている。加えてぽたぽたと頬や首筋を滑るものも気になった。廊下は薄暗かったが、目が慣れてくると僅かな光の中で彼女が顔を真っ赤に染め上げ、尋常じゃない程に発汗していることに気付いた。呼吸は浅く、うまく息を吐き出せていないように見える。
「灯文さん、具合が悪いんですか? 満理先生のところに」
「違うっ」
鞘の言葉で自身の状態を知ったのだろう。灯文ははっとして、予め握り締めていたハンカチを首筋や額に押し当てる。落ち着いた動作に見えるが相当恥ずかしいはずだ。「こんなはずじゃ」「メイクが」といった呟きが時折鼓膜を震わせる。
わ、分かる。
現状の理解は困難だが、発汗に困る灯文の姿には自身の経験として覚えがあった。
人を避けて生きて来た。
だから人と向き合う必要のある場面は、敵に向き合わなければならない時間は苦痛で、自分のことすらコントロールすることができなかった。
「落ち着いたら、また呼んでください」
視線も時には刃物だ。
思って、鞘は背を向けようとした。
気遣いのつもりだったのだ。
だが。
「待って!」
それを止めたのは灯文本人だった。
震える指先が、鞘の服の端を必死に掴んでいる。
「め、面倒な奴って思うだろうけど、……ちょっと、待ってほしい。落ち着くから」
浅い呼吸のせいか、彼女の声は不自然に上擦っている。息苦しさが伝わり、鞘の喉元も重くなりそうだった。
「別にそんなこと思ってないですよ。俺は緊張した時、見られ続けるともっと緊張するので、灯文さんもそうだったらつらいかもと思っただけで」
「あ、……そうなんだ。それは、その、ありがとう」
鞘の言葉が意外だったのか。灯文は驚きを隠せない様子で目を見開き、聞こえるか聞こえないかといった声量で感謝の言葉を告げてくる。
「鞘兄あれだ! えーと、『気が利く』だー!」
「ふぅん、真っ当な判断能力くらいはなんとか持ってるんだね」
「お、温度差が激しい」
鞘を挿む形で立つ双子が一生懸命に首を巡らせる。片や賛辞、片や侮辱というなんとも反応し難い組み合わせだったが、どういうわけか灯文には響くものがあったらしい。「ふっ、ふふ」と彼女の唇から吐息が零れる音がした。
「お姉ちゃん、どうする?」
炬太刀が心配そうに彼女の手を取り小さな手でもにもにと揉んでいる。
灯文は思い切り息を吸って、同等の勢いで吐き出す。
「ありがとう。言う」
そうして双子の髪を流れに沿ってやさしく撫でた。
潤んでいた彼女の瞳は揺らぐことをやめ、出会ったばかりの頃の真直ぐな眼差しが帰ってくる。
「鞘」
芯のある声に呼ばれ、鞘も再び彼女へ向き直った。
「これから一緒に暮らしていくにあたって、言っておきたいこと……知っておいてほしいことがあるんだ」
鞘は艶めく満月の中に自分の姿を見た。
「俺は人間と妖を親に持つ半妖なんだ」
半妖……本で読みました。
「なら、話は早い。半妖ってさ、必ずしもみんな人間みたいな見た目をしてるわけじゃないんだ。妖みたいな見た目の奴も、人間みたいなのも、そうじゃないのもいる。……俺はそうじゃない方。中途半端なの」
どこにでもいる女の子に見えます。
「そ、そう? ありがとう。きっとそれは頭領のお陰。頭領が能力の使い方を教えてくれて、だから今はこうして人間っぽく振舞えてるし、戦うこともできてるんだ。
なんだけど……。
あの日はそれが、上手くできなくて……」
あの日?
「鞘が星海に襲われた日」
ああ。
「あの日も俺はいつもみたいに戦おうと思って、颯汰と一緒に家を守ってた。だけど、俺、鞘が家の中にいると思って、戦えなかった」
え?
「鞘は結局外にいたんだけど、俺は家の中にいるもんだと思ってたの」
? はい。
「窓から、外にいる俺の姿が視えるんじゃないかと思ったら、戦えなくなってたの。だから颯汰も無理するしかなかったし、先生が……静寂先生があんな怪我を」
……あの、俺、灯文さんに何かしてしまいましたか?
「何も。
鞘は何もしてない。
俺が、勝手に怖がったんだ。鞘に怖がられることを怖がって、戦えなかったんだ」
怖がる? 俺が、灯文さんをですか?
「鞘に限らず。俺をよく知らない人は大体俺を怖がるよ。気持ち悪いって、思うよ。だって、最初は他のみんなもびっくりしてたし。……みんな今は慣れてくれたけど、鞘は来たばかりだし、怖がるって思ったんだ」
……。
「でも、そんなこと、俺がずっと怖がってたら戦闘に参加できないし、それじゃ俺が困るんだ。だからもう、直接視てもらうしかないって思って」
それで呼んだんですね。
その服は?
「こ、これは気合い入れるために着ただけ。どうなっても俺が受け止められるように」
……俺、灯文さんを拒絶すると思われてるんでしょうか?
「そうなるかもって思ってる。驚くのは確定だとして、……怖くなってもう俺に近付かなくなるかも。でもその時はそれで、いいんだ。俺のこと、気持ち悪いと思ったらはっきりそう言ってくれていい。なるべく関わらないようにするくらいはできる、と思う。だけど一緒に暮らしてるんだし、仲良くっていうのが難しくても、その、助け合っていけたら……。いや、どんなに気持ち悪くても、表に戻るまでの間は我慢してほしいんだ。俺は鞘に危害は加えない。でも、感じ方って人それぞれだから、鞘が俺を怖がっても仕方ないっていうか」
……灯文さんの考えは分かりました。分かった上で訊きますが、何か、要望はありませんか?
「要望? そんなこと……考えてなかった。なんだろう」
何でもいいですよ。
「そう? そっか。……なんでもいいのか。
だったら、二つ」
『俺』のこと、ちゃんと見て。
それから――
逃げないで。
涙交じりの声が、祈るように想いを紡いだ。
言下。
彼女の皮膚に幾筋もの切れ目が入る。
切れ目は一つ一つが笑みを浮かべる人間の口を象るように歪み、その口内からはぬるりと”紅”が顔を出す。てらてらと光を弾く、幾つもの真っ赤な「蛇」。頭は人間のそれと同等かそれ以上か。目はなく、その表皮はつるりとしてつかえるものがなさそうだ。生えそろった血色の牙をどこか喜色の滲む表情で、見せびらかすように顎を開く八匹の蛇が顕現した。
灯文を中心に置いたその姿は、まるで一匹の蜘蛛のようだ。
鞘は声を失った。
得体の知れないものに心臓を撫でられているようで動けない。
服の下では皮膚が粟立ち、膝が笑ってしまいそうだった。
濃い血の匂いが、鼻腔から容赦なく肺に飛び込んでくる。
逃げるな。
足が一歩後退しそうになるのを必死にその場に縫い留める。
硬く閉じてしまいたくなる瞼を、奥歯を噛み締めてかっと見開いた。
見ろ。
よく視ろ。
目を逸らすな。
蛇のようなそれには見覚えがあった。
灯文の部屋で休む星海のそばにいた、あの赤い蛇だ。
まさかあれが灯文の一部だったなんて――
「怖い、よな」
揺れる声に鼓膜を打たれてはっとする。
蛇ではなく、灯文を見る。俯く彼女の前髪が顔のほとんどを隠してしまっていた。
どんな表情をしている。
どんな気持ちでそこにいる。
灯文さん。
せめて名前を呼んであげたい。
けれど鞘にはそれすらうまくできない。
灯文から放たれるプレッシャーを受け、鞘の身体は本能的な恐怖に支配されてしまっていた。
彼女の両手が顔を覆い隠そうとする。
違う。
泣かせたいわけではなかった。
不安にさせたいわけではなかった。
できることなら安心してほしくて。
ばちーんっ!
唐突に、灯文が自らの頬を両手で挟むように打った。
派手な音がした。誰がどう聴いても全力の打撃だったと口を揃えるに違いない。
次の瞬間。
「鞘!」
迷いのない声で呼んで、彼女は笑った。
頬を真っ赤に染めて。
口角をくっと上げて。
強気に眉を吊り上げて。
そして。
「いいんだ。ありがとう!」
堂々と胸を張るその姿を目にした途端。
鞘の思考は真っ白に塗り潰される。
ばちーんっ!
「えぇ!?」
「鞘兄!?」
「……馬鹿だね」
三者三様の反応が鞘の耳に入ってくる。
自分でも馬鹿だなと思う。
今この場で誰よりも恐怖を抱き、誰よりも勇気を振り絞り、誰よりも困難に立ち向かおうとしているのは灯文だ。
俺じゃない。
頬にくっついた両手をゆっくりと剥がす。熱く痺れるような痛みが、体に圧し掛かるものをほんの少し散らしてくれたような気がした。
「鞘? あの、大丈夫か? 結構ほっぺ赤いぞ? 冷やすか?」
覗くようにして様子を伺ってくる灯文の瞳にはやさしい光が宿っている。
単純にすごいと思った。
だからこちらも、心配に感じたことを問いかける。
「あの」
「は、はいっ」
「痛くないんですか?」
「……は?」
黄金色の目が丸くなる。狐につままれたように、ぽかんとした顔になった。
「血の匂いがするので。それ、出してるの痛くないのかなって。痛くないなら別にそのままでいいんですけど、痛いなら引っ込めた方がいいのかと」
「あー、いや、……痛くはないから、問題ない」
「そうですか。ならいいです」
「あはは」
渇いた女声が途切れた。
一拍の間が空いて。
「いや! 良くない! そこじゃないだろ!」
堪らないと言わんばかりに灯文が困惑の声を上げた。
彼女の心境が影響しているのか、蛇たちも何やら忙しなく動き回っている。
「え?」
「だから、っ、なんか他に言うことがあるだろ! 怖いだろこんな見た目で! キモいだろエイリアンみたいで!」
「エイリアンって。そりゃ、驚きはしました。怖いとも、正直思いました。でも、俺灯文さん自身のことは怖くないですよ。むしろこうして話してくれたことがすごいと思います。尊敬します!」
鞘が言い切ってみせると、やはり灯文は訳が分かっていない顔でぽかんとする。金魚のように口をぱくぱくさせているのがなんだか面白い。
「そん、け、……ない! ないない! そんなことは絶対有り得ない!」
「大否定された!? 本当ですって!」
「ない!」
灯文がぶん! と首を振ると蛇達もあわあわと身を捩る。その様は、彼女の心境が影響しているどころか彼女の気持ちそのまんまといった感じに見えた。
すると彼女を押しのけて双子が鞘の前に躍り出る。その顔はなんだか今までを遥かに凌ぐ明るさで、自慢気で、こちらが少し引いてしまうほどのものだった。
特に炬盾。今に至るまで光ることのなかった瞳が、どことなく輝いている。その豹変っぷりが、申し訳ないが鞘にはとてつもなく恐ろしく思えた。
「あのね鞘兄! 灯文すっごく強いんだよ!」
「ちょ、炬太刀! 何言ってんだ!」
「こいつら結構伸びるから、敵を噛んだり遠くに飛ばしたりして戦うんだ」
「炬盾も!? 何解説してるんだよ!」
「でも別にここから食べたりはしないから、安心してね! 可愛いんだよ!」
「こいつらはあくまで灯文の筋肉みたいなもので捕食器官はないんだ。だから殺傷能力がある怪力筋肉だと思ってもらって差し支えな……」
「や、やめろ! そんな身も蓋もない言い方するんじゃないっ!」
「あとね!」
「まだあるんだ」
「やめろっつってんだろ――!!」
困惑する灯文の叫び声が邸全体を震わせる。
彼女は知らない。
その声を耳にした誰もが、思わずくすっと笑ってしまったことを。
「そうだ。俺、灯文さんに嫌なこと言わせちゃいましたよね。朧さんのことで」
四人揃ってマグカップを傾けながら、ふと思い出して話題を振った。
カップの中身は甘いココア。何故かこれまた恐ろしく上機嫌の深罅がわざわざ持ってきてくれたのだが、理由は何も告げられていない。鞘を除く三人には何か思い当たることがあったのか、ハイタッチしたりガミガミと何事かを言い合ったりとなんだか楽しそうだった。
廊下で体育座りをする灯文――蛇は既に体内に戻されている――は少し考えた後、「ああ、あれか」と呟く。
そう、あれだ。
――頭領はこの世界が閉じるのと一緒に死ぬ。
――『朧狐』としての役目を全うして死ぬんだ。
あの時の冷めた彼女の声、影のある顔が鞘の中で鮮明に思い出される。
灯文の視線は一度、追いかけっこを始めた双子に向いた。けれどすぐに手の中のカップに落とされ、グロスで艶めく唇を薄く開くとココアを口内へ招いた。
「別に。そういう話になってるのは事実だし。頭領も受け入れていらっしゃる。遅かれ早かれ耳に入ることでもあっただろうから、謝ってもらうことではないかな」
「そうだとしても、傷つけてしまったと思いまして。……すみませんでした」
「まあ、そりゃ傷つきはするだろ。俺、まだ受け入れたわけじゃないし。頭領が死ぬなんて話、嫌だなって思うし」
どぉん、と。
遥か彼方から轟く破壊音が、自然と注意を外へと引き寄せる。
鞘も、灯文も。
きっとこの音を耳にする誰もが、なかなか帰らない管理人を、燈火を、東雲を、彼らの無事を祈っている。
鞘が外の世界に思い馳せていると。
隣で、マグカップがぐいっと煽られた。
「だからさ」
空になったそれを床に着地させ、灯文は勢いよく立ち上がる。
「俺は信じない」
簡潔な言葉は、至極当然と言わんばかりの響きを伴って放たれた。
「え?」
急に準備運動を始めた彼女を、鞘は縋る様に見上げる。
「いや、だから『信じない』って言ってるの。嫌だもん。それに、絶対そうなるとも限らないだろ。未来の話だし、もしかしたらを期待しても誰も怒らないだろ」
「いや、そうですけど」
「……少し前まではこうやってはっきり口にするの、ちょっと躊躇ってたんだ。けど、俺が『絶対』って思ってることってそうじゃないのかもって思えたから、『信じない』ってこれからは言うの」
「そう決めたの」と締めくくる彼女の耳はやや赤い。
きっと今の発言にも勇気が要ったのだろうなと鞘は想像する。
すごい。
何度も思う。
本当に灯文さんはすごい。
ここで生きる人々は本当にすごい。
彼らにとっての日常が、その営みの姿勢があまりに過酷で、けれど眩しくて、力強い。
多くのことに気付かされる。
教えられる。
救われる。
勿論傷つけてしまうことも傷つけられることもあるけれど、それでも、燻ぶっていた心に火が灯っていくのがはっきりと分かる。
「そう、ですよね」
確かめるように呟く。
「何か言ったか?」。灯文が首を傾げた。
鞘もココアを一気に煽る。
カップを置いて立ち上がり。
「灯文さん、ありがとうございます!」
「え!?」
突然己の手を取り早口で、しかもやたらはきはきと物言う鞘に灯文はぎょっと目を剥いた。
そんな彼女に構うことなく鞘は続ける。
「なんかずっともやもやしてて、でもその正体が分かりました!」
「は!?」
「嫌なものは嫌なんですよね。そうでした。当然でした!」
「な、なんだよ」
「俺、朧さんの所に行ってきます」
「は」
「話をしてきます」
「いや、今は虚飾の神が」
「今言いたくなったので! じゃ!」
「え、ちょっと!?」
言いたいことだけ言うと、長身は玄関の方へと消えてしまった。「壱喜君、ちょっと外行って来ます!」「はあ!? 鞘! おい戻れ!」なんてやり取りも聞こえてくる始末だ。
「え……。鞘って結構馬鹿だったりする?」
幾つもの疑問符を頭上に生成する灯文を肯定するのは彼女の弟である。
「自分で飲んだ物の片付けもできないんだから馬鹿なんじゃない?」
「違うよ。頭いい馬鹿だよ」
「いいんだよ。どの道馬鹿なんだから」
「ふはっ。せめてどっちかは庇ってやれって。辛辣な弟だな」
灯文は双子に視線を合わせるべくしゃがみ込み、わしゃわしゃと小さな頭を掻き回していく。
「きゃー!」と喜ぶのはいつだって炬太刀で、声も無く静かに喜ぶのはいつだって炬盾。
いつだって傍で支えてくれる、どこに出しても恥ずかしくない自慢の弟達。
さっきだって。
「あ」
思い出したら、急に涙腺が緩んでしまった。視界がぐにゃりと歪み出す。
やばいやばいと一人慌てていると、小さな二つの温もりが灯文をそっと包んでくれた。腕に額をぐりぐり擦り付けられてしまうと、胸中でぶわっと膨らむ感情の存在を無視できなくなってしまう。
これは本気でやばい。
「泣く! ちょっと離れて! 泣く! んぐっ、な、泣かない!」
「ちょー頑張ってたね、お姉ちゃん! お疲れ様!」
「別にいいじゃん。家族なんだし。変顔されたって今は笑わないであげる」
「そこ! 言い方! ……もう! もうもうもう!」
「うるさっ」
仕方ないだろう。騒いでないと耐えられないんだ。
なんていい弟達なんだろうと思う一方で、なんて酷い弟達なんだろうとも思ってしまう。
姉には姉の矜持というものがある。弟の前でくらい「頼れるお姉ちゃん」でいたいと思っているのに、その弟が甘やかし上手とは一体どういうことだ。
でも何だかんだ言って結局そこに甘えてしまうのは、自分こそ姉としてどうなのだろうか。
ああ、もう涙が落ちる。
「こ、怖かったよぉ。よかったけど、よかったんだけど怖かった。でも未だに信じられないっていうか、あいつ何なんだよぉ。未知の存在だよ、宇宙人だよ、いい奴だよぉ」
「おー、よしよし」
「鞘兄ちゃんとしてたね! 灯文のこと『すごい』って言ってたの嬉しい!」
高く跳ねる声を聴きながら、化粧が崩れることも気にせず盛大に泣いた。しゃくり上げる度に双子のどちらかが背中やら頭やらを撫でてくれるのに心震えて、それもあってさらに涙が誘われてしまうのだが「やめろ」なんて言えるはずもない。
すんすん鼻を鳴らし、涙を拭いながら灯文は誓う。
これからだ。
俺だって誰かを守ってみせる。
炬盾も炬太刀も、母さんもみんなも、守ってみせる。
俺はここから、もう一度始めていくんだ。
頭領とだって、対等になってみせる。
アイラインがすっかり落ちた頃、炬盾がおもむろに口を開いた。
「準備運動してたし、行くんでしょ。いつまでも泣いてらんないよ」
「うぁっ。それ絶対年上が年下に言う台詞。俺が言いたかった」
「本気で悔しがらないでよ」
「灯文、また泣きそうだね」
「うぅ~」
再び潤みそうな目元に「泣くな泣くな!」と念じながら、ゆぅるりと少女は立ち上がる。
憂いは晴れた。再戦だ。
「頭領によろしくね」
「『帰って来てね』って伝えてね!」
「……分かったよ」
丸まった背中をピンと伸ばす。胸を張って、顎を引く。
どんなに醜かろうと関係ない。
「すごい」って言われたんだ。
「尊敬する」って言われたんだ。
その事実がこんなに嬉しい。
だったらせめてかっこよく在れ。
「炬盾も炬太刀も大好き! 行って来ます!」
「見て、炬太刀。灯文の耳真っ赤だ」
「本当だー! 僕も灯文だーい好き!」
「~~……!! 行って来ますっ!」
慌ただしく走り出した姉を、双子の弟はにこにこしながら見送った。
ここまで読んでくださりありがとうございます。灯文の活躍を描けたことは本当に嬉しく、彼女のこれからを応援したい気持ちでいっぱいです。
自分なりに納得できる形で更新することを最優先に考えているので更新自体はゆっくりですが、楽しみながら進めていきたいと思います。
最後に、この度主人公である燦条鞘のイメージソングを作りました。今後も様々な形で創作の世界を表現していけたらと思いますのでよろしくお願いいたします(以下、リンクになりますが上手くとべるか分かりません。いろいろいじってみたいと思います)。
https://youtu.be/GXZYaiXWtVw?si=g8M4nOFC3gOtB8Kj




