縁
俺の所為だ。
全部俺の所為だ。
遮光カーテンで無理矢理夜を呼び込んだ一室にて。
ベッドの上。
その隅にて。
灯文は膝を抱えがたがたと震えていた。
怯えを孕んだ、しかしそれ以上の悔恨に彩られたか細い声が、途切れることなく空に吐き出されていく。
俺が弱いから静寂先生が怪我しちゃった。
俺が役に立たなかったから颯汰が無茶するしかなかった。
壱喜も心波留もいっぱい怪我してた。
……頭領も、呆れちゃったかな。
もう大丈夫って思ってたのに。
大事な時期なのに。
俺はどうしてこんなにダメなの。
こんなんじゃ表に行っても役に立てない。
お姉ちゃんなんてできない。
母さんを守れない。
お母さんに、会いに行けない。
――そこまで考えてはっとする。
細い糸で締め上げられるような痛みが胸の辺りに纏わりつく。
自分の言葉で傷ついた。
馬鹿みたいだ。
眉間に刻まれた皺が深くなる。
大粒の涙に目が焼かれているようだった。
ひくりと、一度しゃくり上げたその時。
……ヒフミ。
慣れ親しんだ温もりが複数。
灯文をすっぽり覆うように体に巻き付いてきた。
声なき声が、内緒話でもするように囁く。
大丈夫ダヨ。
怖イモノハ食ベチャエバイインダヨ。
颯汰ガイジメタノ?
星海ハ悪イコトシタンデショ?
鞘ガイナケレバヨカッタノカナ?
許セナイネ。ミンナ邪魔ダネ。
引キ裂ケバイイ。
食ベチャエバイイ。
「だめっ! ちがうの! 全部俺が悪いの、黙ってて! みんな黙ってて!」
長髪が頬を叩くほど大きく頭を振る。
脳内に響く声をどうにか手懐けようと、宥めようと必死で反論する。
不意に下がった視線の先。
彼女の心は容易く折られた。
今この部屋には灯文一人ではなかった。
ベッドのそばには布団が敷かれ、そこには星海が横たわっていたのだ。
夜目の効く灯文には、力なく横たわる少女の姿がはっきりと見て取れた。
静かにしなければ、などと思う余裕もない。一晩中脳を、肉を、内臓を、皮膚を醜く這った思いが猛毒となって再び全身に回り出す。
星海はなんて。
なんて美しい見目をしているのだろう。
場違いだ。
今はそんなことを考えている場合ではない。
分かっている。
分かっていても、肌を掻きむしりたくなるような劣等感や嫉妬心を止められない。
羨ましい。
羨ましい。
白く、見るからにやわらかな肌も、紫紺の瞳も。
小さな手も、足も、桜色の爪も。
陽の下で光を弾く胡桃色の長い髪も。
可憐な少女が身に宿す、過ぎるほどに清らかな力も。
愛されるために生まれてきたような容姿、能力、その全てが羨ましい。
星海だけじゃない。
心波留だってそうだ。
どうしてみんなあんなに可愛いの。
その上賢いなんてずるい。
強いなんてずるい。
なんで俺だけ醜いの。
お母さん。
頭領。
俺はどうして。
膨らんだ雫が頬を離れ、音を立てて膝上で弾ける。
「どうしたらいいのっ」
音にもならない叫びは誰にも存在を悟られることなく死んでいく。
――はずだった。
しかし。
ノックは響いた。
のどかだなあ、と。
鞘は白鵲の巣に来てから見慣れつつある、終わりなく広がる白銀凍土を眺めながらふうと息を吐いた。
ぴりりとした眼の痛みを和らげようと瞬きを繰り返していると、隣から「そうだ鞘君、プリン食べようよ」などとのんびりまったり声をかけられる。
「ああ、どうも」
ぼやけた視界に突如、湯飲み茶わんに納まった黄色の物体が現れる。「大丈夫? 落とさないでね」と言われて初めて、自分の手がそれを持っていることを知った。
「落としたりしたら君が深罅君に殺されちゃうからね。大事にお食べ」
そんな最後通告のようなことを告げられ、脳が一気に覚醒する。
「現実!? え、これ深罅さんが作ったんですか!? 何で湯飲み!?」
「カップが足りなかったらしくてね、『えー、いいなー』ってしつこくねちっこく彼の周りをぐるぐる回っていたらいくつか譲ってくれたんだ。やさしいよね。後でお代わりもねだっちゃおう。何個お代わりしようかなー」
戦々恐々としながら両手で湯飲みをしっかと掴まえている鞘の前。流れるように伝えられる経緯と共に銀色のスプーンが差し出された。
取り敢えずはそれを受け取り、錆びた金属のようなぎこちなさで横を見やる。
人一人分の空きを挿んだその先――つまりすぐ隣――に、ご機嫌そうに笑みを浮かべる老人が胡座をかいていた。純白の狩衣を身に纏い、片手には湯飲みプリン。和洋入り乱れる組み合わせのはずなのだが、なぜだか違和感が全くない。背景音に鶯の鳴き声を推薦したいほどに、平和で平穏で平安でのどやかな光景だった。
「……ど、どなたですか?」
けれど何かただならぬものを感じ、硬い声音で尋ねる。
老人は肩を掠める髪を揺らし、プリンを一匙分掬い上げた。
尾花色。
プリンよりも明るい老人の頭髪はススキを思い起こさせる。
「私は東雲。ただの非力なおじいちゃんだよ。普段は寝てばかりいてね、君が巣に来たばかりの時は起きていたんだけど、その後すーぐ寝てしまってすっかり挨拶が遅くなってしまったんだ。申し訳なかったね」
言い終えると、東雲はスプーンをぱくっと口内に招き入れる。至極ご満悦の様子で「美味しいから鞘君も食べなよ」と勧めてくる。
この人が「東雲様」。
脳裏に「燈火様」「東雲様」と興奮気味に語る小春の姿が過った。ついにご対面できましたよと、内心で勝手に報告を入れておく。
「いえ、むしろお騒がせしてしまってすみません。一応、しばらく住まわせていただくことになったのですが、大丈夫でしょうか……?」
「ありゃ、丁寧な良い子だ。好感が持てる」
「え」
「住むって話は朧と燈火と私の三人で決めたことだから問題ないよ。聞かなかった? 老人組がうんたらかんたら」
「? ……あー、そう言えば」
鞘へというより、住人達へ向けた説明にそのようなものがあった気がする。
「だろう? だからいいんだよ。我が家だと思って好きにくつろぐといい。ほら、ここにいる炎榮みたいに」
いえいえそれはちょっとと丁重にお断り申し上げるより早く、
「エンエイ?」
その名詞が、これでもかと言わんばかりに鞘の関心を引いた。引きに引いた。
「燈火」「東雲」に並び、時折耳にするもののご本人との対面までは果たせていない人物の一人。たしかその人の名がそうだったはずだ。
訝し気に眉を顰める鞘へ、東雲は「そうそうこれこれ」と自身の背後から火の玉を摘まみ上げる。
メラメラと燃え盛る炎を眼前に晒され、鞘の口はぱかっと勝手に開いてしまった。
「これが炎榮だよ」
晴れ晴れとした笑顔が爽やかに言い切る。
と、なんと炎が鋭い眼光で鞘を睨み付けてきたではないか。
ばっちり出会ってしまった視線に若干の恐怖を覚えつつ、だがそうすることであることに気付いた。
「もしかして、火達磨にゃんこ?」
ぽそっと呟く。
刹那。
火達磨にゃんここと「炎榮」が鞘の顔目がけて凄まじい勢いで飛びついてきた。
突然のことに度肝を抜かれた鞘は、ざくざくと容赦なく皮膚に埋まろうとする爪をどうにか剥がそうと、自分でも解読困難な奇声を上げ応戦を試みる。
だが一人でどうにかできるわけもなく、結局は大爆笑で腹痛を訴えていた東雲に猫を剥がしてもらった。
首根っこを掴まれ宙ぶらりんになってなお、炎榮は「キシャー」と威嚇のために牙を剥く。
「何が『火達磨にゃんこ』じゃ! 無礼者めが! 貴様決して許さぬぞ!」
否、これは怒りを露わにするというやつのようだった。
さて、慌てふためきはせよ、燦条鞘は苦々しいバイト生活におけるクレーム対応の経験から学んでいたことがあった。
相手の言葉にむやみやたらと反論してはいけない。むしろ最初こそ「ごもっともです」とその斜め上から災害のように降ってくる主張を受け入れるべきなのだ。例え相手が火達磨になった猫だろうとも。
「え! えぇ!? あ、と。……意外といい声してますね? 可愛くはないけどギャップがあるというか」
しまった。
動揺が勝った。
一見したところ、炎榮という猫は火達磨になった一般的なサイズのそれではあったが、声は恐ろしく低かった。テノールとバリトンボイスの間といったところだろうか。その感想を、鞘は訳も分からず率直に伝えてしまっただけだった。
お分かりだろうか、火に油を注ぐようなこの愚行を。
まず東雲が豪快に噴き出し、それがショックだったのか炎榮もさらに怒気を強めた。「貴様ー!!」と声量を上げて再び鞘に飛び掛かろうとしているのだろうが、なにぶん東雲によって捕獲済みなので四肢だけがちょいちょいと宙を掻き回すだけなのだ。
その様には鞘も笑いを堪えることができず、失礼を承知で喉を震わせた。
頬には幾筋かの長い爪痕が残った。
なお、鞘に渡されていたプリンは東雲がしっかり守ってくれていた。
「炎榮が俺達を運んだって……それは大きさ的に無理なのでは」
「貴様、人間の分際で我が能力を疑おうというのか」
「いや、俺資料はいろいろ読ませてもらったけど、表面上のことしかほとんど知らないんだよ?」
「ちゃんと信じたいから時間がほしいかな」。言いながら、炎に指を埋めるように炎榮の耳裏を掻いてやる。すると、猫はあっけなく喉を鳴らした。ちょろい。いただきもののプリンを献上せよとの横暴極まりない要求はあったものの、それにしてもちょろい。だが成人男性を思わせる低音の持ち主なので可愛くはない。なんとも複雑な心境である。
どうやらこの火達磨猫が身に纏う炎は神聖なものらしく、彼が邪悪と判じたもののみを焼き払い、そうでないものにとってはただひたすらに無害なのだとか。
無害どころかむしろご利益があるのだからありがたくマッサージに勤しめ、とは言われたものの一言で言うと「解せぬ」に尽きる。
加えて、先程から炎榮は「我が貴様らを運んでやったのだ。ありがたく思え」とさらなる主張を続けている。こんな小さな体で変な意地を張るなと返してやりたかったが、確実に引っかき傷を増やすので我慢した。
「そもそもなんで俺をここに連れて来たんだ? 多分壱喜君の部屋にいたんだけど」
耳を掻く手はそのままに、左手を炎榮の顎下に潜らせて同様に動かす。余程気持ちがいいのか、猫は完全に脱力している。
「あー、それなんだけどね」
一人と一匹のやり取りをにこやかに見守っていた東雲が引き継ぐように口を開く。
「鞘君を外に連れ出そうって言い始めたのはそもそも燈火なんだよ」
「え、そうなんですか」
意外な展開に目を瞠る。会ったこともないのに、一体なぜだ。
鞘の心情を察したのか、東雲は「直接話を聞いたらいいよ」と笑みを深めた。
続けて、
「ほーら、戻って来た」。
言下。
突如、鞘達の前に竜巻が出現した。
大地に積もる花弁もどきの群れが一斉に風に巻き込まれ、真白の柱となってそこに顕現する。
事態を呑み込めずに固まっている鞘。
それを横目に東雲は「もう、乱暴なんだから」と呆れ顔で零し、炎榮は止まってしまった鞘の手を文句ありげにけりけりする。
はっとして炎榮へ向き直るも、手が動かないのならば用はないと言わんばかりに猫は手をすり抜けて行ってしまった。
風が霧散する。
舞い上がった花弁もどきがはらはらと空から降った。
それを受け止める影は二つ。
一つは朧狐。
もう一つは、女性だった。東雲と同じ白い狩衣を身に纏っているのも物珍しかったが、それ以上に鞘の視線を掴んで離さなかったのは彼女の髪――残風に揺れる鮮明な色彩、京緋色の長髪だった。
あの人が、トウカ。
「こら、二人ともー」
東雲は拳を掲げてやんわりと声を張り上げる。
「燈火も朧も遅いよ。どこまで行ってきたの? いや、言われても分からないけどさ」
不満たらたらといった体でありながらどこかほわんほわんしている東雲にいち早く反応を示したのは燈火だった。彼女は東雲に駆け寄り、細い肩を力強く捕らえると勢いよく様々な方向に振り回し始める。
「聞け東雲! せっかくこの私が目覚めたというのに朧と来たら! 何度遊べと言っても逃げ回るばかりで一向にこちらの言い分を聞きやしない! 起きている間に己の力量を確かめたいという私の願いが悉く跳ね退けられているんだぞ! 地の果てまで追いかけずどこまで追えというのだ!」
「地の果てまでで結構だよ。むしろそこまで行くことが問題だよ。朧と遊ぶのが楽しいのは分かるけどねー、仕事の邪魔をするより手伝ってあげた方がいいんじゃないかと私は思うけどねー」
「お前っ! 東雲! 裏切ったな!? 新入りが見ているからか!? いい子ちゃんぶりおって!」
感情がより高ぶったのか、東雲をあっちこっちに振り回す燈火の力が心なしか増したように見える。鞘はしわに塗れた細首の耐久力ばかりが気になって仕方ない。
「あ、あの」
だからつい、出過ぎた真似とは思いつつ声をかけてしまった。
「あ?」
燈火の動きがぴたりと止まる。
二対の視線が白髪の青年を真直ぐに射抜いた。
鞘の肩が小さく跳ね上がる。注目されるなんて、できることなら御免被りたいのだ。つい、癖で視線を下向けてしまう。
「な、仲がよろしいのはいいことだと思うのですが、その、あまり揺らすとどこか傷めてしまわれるんじゃないかと……思いまして……」
後ろに行くにつれ言葉がどんどん萎んでいく。
黙ってればよかったかも。
つぅと一筋、冷や汗が頬を伝い落ちる。
というか部外者なんだから黙ってればよかった。
ほら、俺、いろいろ分からないし。
鞘の思考に影が被さろうとした時。
凜とした声に「おい」と投げやりに呼ばれてしまう。
嫌な予感はしたものの、無視を決め込む度胸などあるはずもなく。
鞘はおずおずと顔を上げた。
そして息を呑むことになった。
眼前に燈火の顔が迫っていたのだ。
光を弾く張りのある健康的な色合いの肌。
朝露に濡れた若葉色の瞳がゆっくりと瞬く。
次いで鞘の鼻腔を痺れさせたのは、――顔を歪めたくなるほどの酒気だった。
「酔って、ます?」
鼻呼吸から口呼吸へ切り替えて借問する。
燈火は恐ろしく整った顔で獰猛に牙を剥いた。彼女の鋭い犬歯が得物を定めた喜びに光っている。
「なんだ、お前やさしいなあ。もしや……私の孫になりたいのか?」
「は?」
孫?
自信に満ち溢れた、あまりにも突拍子のない問いかけだった。
「そろそろ酔いが回ってきたかな? 鞘君、燈火は飲兵衛なんだ。ついさっきも飲んだからね、絡むよー。振り払う事も許さぬ圧で絡むよー。
あ、でも鞘君いい子だし私も孫にしたいな」
燈火の後方、「いいね、それ!」とキメ顔の東雲がパチンッと指を鳴らした。
頭上に疑問符が無限生成されていくのはさすがに鞘の所為ではないだろう。
「ここに住む奴らはみな私達の孫みたいなものでな、お前もどうだ、孫にならんか? というかする。もうなった」
高笑いして「なったなった!」と繰り返す燈火は、なるほど、正真正銘の酔っ払いだった。鞘のやわこくもなんともない頬を揉みほぐすなど重症中の重症。医者の手を借りねばならないレベルに達していることを確信し、鞘は青い顔で満理の所在について思い馳せる。
「いや、孫って言われましても……、東雲さんが言うのはともかく燈火さんは俺と同い年くらいに見えますし」
「齢二百超えの超絶美人で可愛いおばあちゃんを掴まえて何を言っとるんだお前は」
「いや、二百歳超えはちょっと設定盛り過ぎなんじゃ」
そろそろ飲兵衛が本気を出してきたか。当たり障りなく適当に宥めて水を大量に飲ませねば。
思って、鞘が邸に帰ることを提案しようとした時。
「あ、それ本当だよ? なんならこの東雲おじいちゃんも二百歳超えてるんだよね! 細かい数字はもう忘れちゃったけど」
爆弾は落とされた。
ポップコーンが弾けるような軽快さで大爆発を起こした。
は?
酔っ払いの戯言や妄想の類ではなく?
美女と老人からの冗談染みたとんでもない告白を受け、
一秒間、
鞘の思考は真っ白に塗り潰されながらも、健気なことに高速で回り続けた。
ここは白鵲の巣だし、燃える猫がいて壱喜君達のような特殊な能力を持った人間も確かに存在するわけだから、二百歳を超えるおじいちゃんと女性がいてもおかしくは……、おかしくは……。
いや、おかしいだろ。
「っ、朧さん!」
無事キャパオーバーを迎えた鞘は涙目で陽光色を探した。
今まで会話に全く参戦してこなかった朧狐は、鞘と大分距離の開いた所で炎榮と戯れているようだった。駆ける猫を素早く捕まえ、きゃっきゃと声を弾ませながら地に転がる。猫が燃えてさえいなければ大変微笑ましい光景だったが今はとにかく速やかに、スマートに助けてほしかった。
鞘の視線に込められた願いは寸分たがわず汲み取られたようで。
「それ本当!」
彼は文句の付けようがない完璧な笑顔でもって応えてくれた。
ふて寝してしまおうか。
もともとの寝不足に加えて酔っ払いの相手までしていてはさすがに体力が持ちそうにない。
鞘の視界の隅、炎榮が主人を遊びに誘う犬のように朧狐を呼んでいる。そしてこちらからさらに距離を取るように走り出してしまった。
せめて近くにいてよ。
小さくなっていく背中に手を伸ばそうとすると。
不意に。
「いくら書物を漁ろうと無駄だ。朧狐のことは朧狐にしか分からんよ」
湖面を僅かに揺らす風のように、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうなほど小さく細い声が耳元で囁いた。
鞘は動けない。
動くことを考えることもできない。
ただ言葉を受け取る以外にできることが何もなかった。
若葉の瞳が、言外に「黙して聞け」と語りかけているから。
「疑問は直接当人へ尋ねよ。その方がお前も安眠できよう。ただし、引き際は心得ておけ。踏み込むも逃げ出すもお前が選ぶ。それによって何が起ころうと、お前が選んだ結果だ。選んだ責任は死んでも果たせよ」
京緋色が音も無く離れていく。
燈火はいたずら好きの子どもように無邪気に笑うと、「混ざってくる!」と言い残し疾風の如く駆けて行ってしまった。あっという間に朧狐に追いついた彼女がタックルをかます。弾丸でも受け止めたような勢いで地に倒れ込む二人の上に炎榮も乗っかりだして最早何がしたいのか分からない。あはは! と響く声は楽しそうで、傍から見ているこちらが眩しさを覚えてしまうほどだ。
「自由なおばあちゃんでごめんね」
御年二百超えの老人にしては張りのある男声に、今更ながら驚く。
「いいえ、そんなことは……、おばあちゃん……いや、そ、そ、そんなことは……」
言葉を重ねるにつれ形を保てなくなっていく。鞘の眉間には意図せず二本の線が引かれていた。
東雲は大変愉快そうに手を叩いて笑う。
「眉が八の字になっているよ。私と燈火の見目に差があるのもきっと混乱を招いているんだよね。紛らわしくてすまないね」
「いえいえ! 謝っていただく必要はありませんし、あの、むしろこちらこそ不快な思いをさせたようでしたら大変申し訳なく……!」
「いいんだよ。邸の子達もみーんな最初は驚いていたし。今思い返しても面白い反応だったなー」
「は、はあ」
”最初”を思い出しているのか、東雲は薄い肩を小さく震わせる。しかし深みにはまってしまったのか、次第に大きくなり咳にまで進化していったそれに、慌てふためいた鞘は必死に背中を擦ってやった。
咳が落ち着いた頃、彼は「さすがに死ぬかと思ったー」などと呑気に言い放ち、懲りずに再び肩を震わせ始めたものだから鞘は気が気じゃない。正直、隣にいるのが恐ろしかった。
「それで?」
「はい?」
「君は朧に何を訊くべきで、でもどうしてそれを躊躇っているんだろうね?」
つい三拍前、肋骨骨折の危機に瀕していた時と何ら変わらぬ空気の携えられた問だった。さして重要性のない世間話でもするような手軽さ。
なぜそれを、と瞠目しかけて、それよりも先に思い至る。壱喜の部屋で燈火らしき人物を見かけたような気がしたことに。恐らく、燈火と東雲は鞘が調べものをしていたことを状況からか他人伝いからか、察したか知るかしたのだろう。
そのように予想したところで、「鞘君、不満そうなんだよね」とさらに言葉がやって来る。
「あれだけたくさんの書物に目を通せば少しくらい達成感があってもいいと思うんだけど、君はずっと不満そうだ。知りたいことを知ることが出来なかったんだね」
やはり鞘の考えた通りのようだった。彼の指摘には少し戸惑ってしまうが。
「……そうです」
「鞘君は白鵲と縁があるらしいし、だったら燈火が言ったように朧に直接尋ねるのが手っ取り早いよ。
けれど、朧が目の前にいても鞘君あまり動く気なさそうだったし?」
「それでさっきの疑問に戻るわけ」。
東雲からは鞘の応えを促すような雰囲気は一切ない。鞘が「問い」と捉えたものを「疑問」と表明していることにもそういう理由があるのかもしれなかった。
どのような選択も許されていることが分かる。
だから鞘自身の選択で口を開いた。
「白鵲に、会いたかったんです。でも、朧さんから死んだと聞きました。そしたら今度は朧さんが死ぬと聞いて、なんで、そうなっちゃうんだろうと思っていたら本を読んでいたというか」
「えげつない量読んでたよね。ちょっと引いてしまったよ。病んでしまったかと思った」
「そこまでですか」
こちらは途切れそうな言葉を必死につないだというのに。
あまりに明け透けな東雲の言が、鞘の心にさくっと刃物を突き立てた。
「でも燈火さんにも言われた通り、もう直接訊くしかないですよね。
勉強にはなったので、あの時間だってどの道俺には必要でしたけど」
「本には熱心になれるのに、直接行くのは嫌なのかい?」
「嫌じゃないですよ。これは、ちょっとよく分からなくて、……上手く言い表すことができないんです」
知らずにはいられない。そんな思いが、衝動が、背中を強く押して引き返すことを許さないような。押されているのではなく、無理矢理水底に連れ去られそうになっているような。どちらとも言えない、目的を置き去りにした感覚だけがこの身を行動に走らせている。
けれどその陰に何かが潜んでいて、「行くな」と囁く。
そんな気がするのだが、それについて考えようとすると頭がぼぉっとするのだ。靄がかかるというのか。靄をかけられるというのか。
なんだか酷く、だるくなる。
「まあね、いろいろ情報量が多いもの」。
隣から響く声との距離が開いていく。
あれ?
おかしいな。
「でもそうだなー。何でもかんでも答えを急ぐ必要はないけれど、朧が死ぬのは本当なのだから、言いたいことは遠慮せず、言いたい時に、言える時に伝えるといいよ」。
大事な話をしているのに。
助言を授ける教師を彷彿とさせる声が小さくなっていく。
世界が歪み、ぐらぐらと不安定に揺れる。
異常事態を前に東雲の姿を探した。
急に帳が下ろされ夜がやって来たようで、自らの手足すら見失ってしまう。
「ちなみに」、と。
トンネル内で繰り返し反響するように、最早誰のものなのかも判別がつかなくなってしまった音がかろうじて言葉として耳に届く。
「私は白鵲の死を完全には信じていないよ。直接視たわけではないからね」。
ああ、そうだ。
白鵲。
もう二度と、その存在を忘れるわけにはいかないのだ。
「鞘君?」
隣でぐらぐらと揺れ始めた頭。それを支える上体が傾いだことに気付き、東雲は素早くその背を受け止めた。鞘をゆっくりと地に横たえ、ざっと状態を確認する。
鞘は眠っていた。否、強制的に眠りに落とされていた。浅くやや速い呼吸、苦し気に歪む表情、瞼の下で運動する眼球。もしかすると夢を、もしくは限りなく夢に近いものを見ているのかもしれない。
「この子の虚の作り手は随分と執念深いね」
異変を察して戻って来た友人たちの気配を背後に感じ、東雲は滔々と語りかける。
「星海の一件か、それとも巣に来た時からか。虚の揺らぎを感じたんだろう。今必死にほつれを修復しようと躍起になっている。世界の壁を超えて来るとは恐れ入ったが、もう少しこの子のことを考えてやるべきかな。こんな横暴を続けていたら鞘君は廃人まっしぐらだ」
燦条鞘の中に根付いている「虚」とは、記憶を封じるための檻を指す。特定の条件を満たす記憶を消してしまうのではなく、記憶の持ち主に知られぬよう隠すのだ。そうすることで記憶の持ち主の人格を守ることを目的とする技術である。
感覚としては、古い記憶を思い出そうにも思い出せない、けれどそれを不快とは捉えず「仕方ない」と諦めることができることと酷く似ている。深追いする気を湧かせず、よって違和感も覚えさせない。というのが完成された虚であり理想と言える。
もし記憶の持ち主が不自然な記憶の欠落に勘づいてしまえば……、脳が不和を解消しようと虚を暴こうとしたり、虚に従い不和の方をなかったことにしたり、情報を処理しきれずにそのまま死んでしまったり、と現在に至るまでに実に様々な反応が認められている。虚は作り出すことも、扱うことも、除去することも困難を極めるからこそ、おいそれと作り出されて良いものではないのだ。
それなのに。
「こんな雑然としたみすぼらしい虚なんぞ視たことがない。これを作った人間はずぶの素人だな。もしかすると初めて作った力作かもしれん。嫌だねえ、他人の頭をいじる前に自分の頭をほじくり回せばよかったものを」
「反吐が出る」。
べえ、と不味いものでも食べたような顔で舌を出す燈火の目には極彩色の帯が、その中に巣食う黒が視えていた。明確な形すら持たない、脆さばかりに気を取られてしまうようなそれ。
虚は作られた当人が気づかないからこそ一等美しくなければならない。醜いものを掘り返すことに人は躊躇しないが、美しければ別だ。仮に虚の存在に気付かれたとしても「壊したくない」と、虚そのものを壊れ物よろしく触れることも憚られるほど大事にしてもらうことが、当人自身を守ることに結び付きやすいのである。
「鞘は守られてなどおらん。これは拷問道具だ」
そう結論付けて、彼女は脳内で素早く報復の策を張り巡らせる。
相手が誰であろうとやられたらやり返す。無抵抗の子どもをいたぶられることほど気に食わないことはない。
「燈火、君の趣味に鞘君が賛同したら実行するんだよ? 勝手にやっちゃ駄目なんだからね? 相手が相手なんだから。
さて朧、いいよね?」
「ああ、やってくれ」
お伺いを立てると、東雲の友であり白鵲の巣の管理人でもある少年は間髪入れずに頷いた。
「うん。それじゃ、縁切りしようねー」
東雲は鞘の額に片手をかざす。目を閉じ、鞘の中に巣食う霊力を、その流れを注視する。
そこで初めて、虚を形成する霊力と同色のものが彼をすっぽり包んでいることを知った。より具体的に言えば、血管や神経に蔦の如く張り巡らされているのだ。
「あらら、……日頃から食べ物に何か仕込まれてたかな?」
「鞘は一人暮らしだった。親や親しい者から食品類が送られてきても不自然ではないだろう。もともと視えない側だったのだし、気付かず口から含んでいたのかも」
東雲の疑問に朧狐が淡々と答える。その横では燈火が「ゲボじゃ、ゲボ」と最近使い慣れてしまった言葉を躊躇なく放っている。
「なら先にそっちを綺麗さっぱり掃除しないと。
炎榮、彼を焼いてくれるかい? あ、虚は焼いちゃダメだよ。虚以外の、彼と彼を守るものじゃない霊力を焼いてほしいんだ」
東雲が言い切る前に。
ふっ。と火に炙られた猫が鞘の傍に寄り一息吹きかける。
鞘の全身を拘束する霊力が瞬く間に消えた。
「注文が多い」
「だってやってくれるって分かっているんだもの」
ふてぶてしい態度で鼻を鳴らす炎榮を朧狐が抱き上げる。頭を撫で、労をねぎらってやる。
猫は喉を鳴らし、今までにない高い声でそれらしく鳴いた。
さて、準備は整った。
呼吸を整え、東雲は拍手を打つ。
これは門出である。檻に閉じ込められた一人の青年が、今日、やっとのことで檻の先の荒野を己が意志で歩きだすことを許されるのだ。その道のりは危険そのものだが、相応の自由を得られるとともに、相応に心躍る日々を送ることができる。
生きることができる。
そんな日々が、今始まろうとしていた。
「鞘君、よき人生を。
はい、ではみなさん! 燦条鞘君の閉ざされた世界に新たな光が降り注ぐことを祝して、ご唱和ください。せーの!」
「えんがちょー」
喜色に満ちた東雲の声に、かったるそうな他一同の声が続いた。
「もっと楽しそうに言ってよ。済んだからいいけど」
ここまで読んでいただきありがとうございます。文章が進むにつれ、それぞれのキャラクターの姿が恋しくなってきました。その内挿絵の方も更新出来たらと思います。
彼らといろんなことができたらと常々思っているので、何ができるか楽しく悩みながら次の話も書いていきたいと思います。




