怪物のお目覚め
迫り来る熱い蒸気に息を止める。
これから固まりプリンへと進化を遂げる黄色の液体が注がれたカップ数個。それらをなるべく隙間が均等になるよう、蒸し器の上段へ慎重に並べていった。
布巾を撒いた蓋で蒸気もろともカップを閉じ込め、深罅はやっと呼吸を再開する。蒸気に撫でられた箇所から一気に熱が奪われ、一度大きく身震いした。
ちらと、右腕に巻き付く時計を見やる。
きっかり一分強火と。
ここからは火加減との勝負だった。一番の難所である。
その理由は料理人の技術の問題とかではなく、単純な機材不調にあった。
眼前で仕事に精を出しているのは家庭用グリル付き二口コンロなのだが……、何が問題かというとこのコンロ、つまみの言うことを聞かないのである。
これを表の主婦や主夫の皆々様にお伝えすると恐らく開口一番に「はあ?」と阿呆を見る目で吐き捨てられることだろう。
深罅も言った。カチカチと鳴いておきながら点火できなかった時。つまみを強火方向に回したにも関わらず炎がどんどん萎んでいった時。「はあ?」と呻るように言った。額に青筋を添えて。
今でもその現象の原因は謎だが、朧狐の見解では「運び込む時に巣の神気が掠ったのかも」とのことだった。おのれ、白鵲の巣。
とはいえ巣にばかり非があるあるとも言い難かった。そもそも表からの転居の際、「中古で良ければ二口コンロを譲ってくれる人がいるぞ」と朧狐に節約を勧めたのは深罅だったのだ。健康体であることを確認した上での判断だったが、偶然にも巣への移動後すぐに経年劣化による不調が表れたとも言えなくはない。
それを思うと、今日も今日とて火を見る目が鋭利に尖らざるを得ず。
ちなみに、火加減を調整する際の心強い相棒はチャッカマンである。
よし、あとは十分弱め。
火の大きさを監視しつつ洗い物でもと袖を捲くる。
「随分悩んでおられましたね」
調理場とは反対側に設けられた掘り炬燵のそばにて、読書に勤しんでいた静寂から声がかかった。
深罅は火を一瞥。青い背丈が増減していないことを確認し、声を追って首を巡らせる。
いつの間にか静寂は読書を終えていたようだった。紙のカバーを纏った文芸書――彼の片手にはすっぽりと収まってしまうサイズだ――が微笑する彼の隣に友人の如く鎮座している。読了したのだろう。深罅にはとても真似できない速読技術だ。
眉間に薄っすらと皺を寄せ、尊敬する人生の大先輩からの問いかけにきっぱりと答える。
「正直迷いました。でもレンジより蒸し器の方が手間はかかれど美味いんで」
「楽しみにしててください」。得意げに張った胸の前で腕を組み、若者はドヤ顔で決めた。
妙な間が二人の距離を僅かに遠ざけた、ように感じられた。
「……深罅君の料理がいつも美味しいのは、慣れたことと無下にせず丁寧に作っていただいているからなんですね」
気のせいだったらしい。
静寂の唇が三日月に伸び上がるのを受け、いろいろと考えるのを止めた。
「お褒めに預かり光栄です。俺が拘りたいだけなんで、さすがにあいつらにはレンジでもいいとは伝えますけど」
「君がより良いと思う方法を伝えてくださったら、それが最善だと思いますよ。
それもそうなんですけどね」
「はい?」
「いえ、それを作るまでに随分悩んでいらっしゃったように見えたものですから」
やはり気のせいではなかったらしい。
そっちかい。内心でやわく突っ込みつつ再度火に目を落とす。消えようとしていたためチャッカマンで気合を入れ直してやった。
「そら悩みますよ」
この先を言おうか言うまいか、逡巡は瞬きの間だった。
「家ん中空気重いわ、みんな怪我して帰ってくるわ、安全なとこに移れと言われれば『帰らないから!』とかどっかのクソ真面目な大馬鹿野郎がほざくわ、めちゃくちゃ過ぎて呆れてますよ俺は。
前から思ってましたけど、この家ヤバ過ぎなんですよ。何なんですかね。血が騒ぐんですかね。戦闘民族なんですかね」
「深罅君」
「あ、すみません。戦闘民族でしたね。
いやね、俺だって『こんな有事にプリンなんぞ作ってる場合か』と思いましたよ。でも隣に戦闘民族がいるんです。治療だなんだとそれに付き合ってくださる方がいるんです。だったら一時でも各々を戦場から降ろして腹やら別腹やらを満たしてやるのが俺の仕事で唯一できることでしょう!? 今はそれが固めのプリンなんです! 文句は誰にも言わせねぇ! 予算内だっつのあのクソ事務員!」
深罅の脳裏を冷めた表情の事務員が過る。奴は事あるごとに白々しく言うのだ。「どうせ味なんぞ変わっても誰も気付かんだろうて」「この食品・調味料に拘る理由が分からん。安くしろ」云々。ふざけてんのか。ああ本気でしたねこの野郎。
沸々と湧き上がる怒りは徐々に言葉の速度と熱量を上げていった。
が、それは不意に止む。
フゥ――――。
深呼吸を二回。
「すみません、つい」
怒気を収めぺこっと頭を下げる。
静寂は何事もなかったように首を横に振った。
「気持ちは溜めない方がいいですから」。彼は訳知り顔でそう言う。
なんと落ち着き払った、大人然りとした返答だろう。深罅も同意する。気持ちは溜めない方がいいに決まっている。
ただ、それを今わざわざ自分に言うということはつまり、不満の一切合切を受け止めるサンドバックになりますよという申告だろうか。
何でもいいか。
改めて、考えることをやめた。
火を見る。
チャッカマンで点火する。
口を開く。
「今回ばかりは旦那のことも怒ってるんですよ、俺」
「おや、それはそれは面目ないですね」
若造の思考などお見通しだったのだろうか。静寂はただ静かだ。
「足。治るんでしょうね?」
静寂の左足は現在包帯でぐるぐる巻きな上、頑強に固定されている。
戦闘において通常彼は補欠要員だが、先の戦いでは出番があった。そこでひどい傷を負ったのだ。
だというのに。
だというのにあろうことか。
この巨人、着物で足が隠れやすいことをいいことに、昨日まで怪我の事実を隠して皆に接していたというのだから始末に負えない。今朝、颯汰から報告を受けた深罅が満理に相談し、「どんな恰好でも重症だって分かればいいな」という彼女の一言で全てが決したのだった。今や静寂が一歩動けば「座ってて!」と誰かが駆け寄って来るシステムが構築されつつある。
「ごめんなさいっ……! 静寂先生、ごめんなさい! 俺が、うまくできなくて……ごめんなさいっ」
膝上の肉を派手に喰い千切られた静寂を邸内へ連れ帰ったのは灯文だった。普段強気な彼女の血を吐くような悲痛な叫びがまだ耳にこびり付いている。
あの後、深罅は満理の指示の下止血に取り掛かることになったため彼女とは会えていない。分かるのは、食事も受け付けず部屋に閉じこもっているということだけだ。いまいち状況が読めないが、星海と一緒にいるらしい。それはそれで大丈夫なのか?
「満理さんのお力を借りてなんとか治しますよ。とはいえ、もとより形の悪い足です。治ってもみなさんのお役に立てるかどうか」
直後、深罅は大男に詰め寄っていた。
「役に立つかどうかじゃねぇ。治ったらみんな笑って終わりなんだよ。勘違いしてっとしばくぞ」
もっと大声で捲し立てたくなるかと思ったが。
ねめつけてしまうかと思ったが。
案外低い声が出ていることに、頭の中が冴えていることに、静寂を見上げつつ深罅は驚いていた。
だがこればかりは譲れない。年長者の言だからと一歩引いてしまえば後悔が残る。こういう時の直感には何が何でも従おうと決めていた。
刹那的時間。世界は確かに沈黙したが、それは想定外の形であっけなく終わる。
「ええ。ええ、そうでしたね。はっはっは!」
静寂の相好が一気に崩れた。彼にしては珍しく大声を上げて笑い出すものだから、深罅も目を白黒させて固まってしまう。
「な、なんすか急に」
「いえ、頭領にも似たようなことを言われましたので。……と言ってもあの子はいつも通り、感情を波立たせることはせず、もっとやんわりと表現してくれましたが」
「悪うございましたね。俺は凡人なんで」
「凡人だなんて失礼な。深罅君にはいい所がたくさんありますよ」
「そういう話じゃなくてですね」
「私もあの子を叱ってしまいましたし……」
「そっすか。って、旦那が!? 朧を!? 叱れるんですか!?」
驚愕のあまり目を剥く深罅に、静寂はこほんと一つ咳払い。大変気まずそうに応じてくれた。
「叱りますとも。最近あまりにも帰らないから『帰りなさい』と」
「うわぁ、旦那。だからちょっとへこんでんだ」
この人、息子を叱って自己嫌悪に陥っちゃってんだ。
つい先ほど目の前の男に詰め寄った自分に若干呆れる。間違った選択ではなかったが、なんというか、必ずしも必要な選択でもなかったのかもしれない。無駄に踊らされた気分である。思わず数歩後退ってしまった。
「分不相応なことをした自覚はありますからね。ちょっと心臓に悪かったといいますか、はい。
ですが、これから表への帰還を目指す中で鞘さんも来てくだいました。先の件で各々傷も負って、きっとみなさんは安心を求めていると思うんです。より多くの時間を頭領と一緒に過ごしたいはずです。頭領のお考えも理解できますが、顔を見せて声をかけてくださるだけで嬉しいかと」
朗笑する彼の言葉の中、突如登場した人物の名前に深罅は眉を顰める。
あいつはあいつで苦労人だよな。
一般の出のただの学生が、たった数日前に急遽見知らぬ環境に放り込まれたのだ。同じ一般人としては多少同情してしまう。
同時に、物理的にも精神的にも打たれ弱そうなので、自分とは生き方が大分違うのだろうと予想してもいた。ああいうタイプとは正直関わりにくい。出してもいないこちらのメッセージを勝手に受け止め、勝手に傷つくタイプなのではないか。というのが鞘への第一印象だった。
過去形である。
今は違う。
不意に思い出されるのは昨晩のこと。
深罅は知っていた。
正しくは、偶然居合わせ目撃しまった。
夜も更けた頃、鞘は静寂の自室へ謝罪をしに来ていたのだ。深罅が部屋前の廊下を通った時、畳に額がくっついてしまいそうなほどに低頭する背中は涙声とともに揺れていた。
何が起こっているのかは分からなかった。その時は深罅にも替えのタオルの準備、ゴミの回収や掃除など仕事が山積みだったし、そもそもわざわざ足を止めて盗み聞きするような趣味も持ち合わせてはいない。ただ通り過ぎて終わりだ。
だがそれだけでも合点がいった。奴にも何かしら通したい筋があるらしい。
壱喜が奴を気に掛ける理由に、小指の先ほどだが触れたような気がした。大分厄介なことに、星海に目を付けられてしまったという点も関係はしているのだろうが。
心波留がびーびー泣いてんのもあいつは聞いてたんだろうし、ありゃ朧とも話したいんかね。
はあ。
がしがしと頭を掻き、深罅は肺を空にした。
「うちのはみんなめんどくせぇっすわ」
「深罅君のそういうところ、本当に頼もしいですね」
「何のこと――」
その時。
スパ――――――ン!!
台所の出入り口であるガラス引き戸が破壊一歩手前の勢いで開かれた。
けたたましい音に肩を震わせる両名の眼前。
怪物は現れた。
視界の真ん中で花火の光が躍る。
次いで、こちらのペースを伺うような慎重さで口元に鈍色が近づいてきた。
『はい、最後の一口』
「あ」
雛鳥よろしくぱかっと口を開け、心波留は擦り下ろしリンゴを口内へ迎え入れる。僅かに形の残る果肉を舌で潰し、嚥下。
……しようとするのだがそれがなかなかに苦しい。まるで粒の大きな錠剤を呑んでいるかのようで、喉の違和感にリンゴの如く赤い顔が思い切り歪んだ。
『大丈夫?』
「……っ、だいじょうぶ。ありがとう」
鮮やかな光で描かれる文字。その問いかけに返すと、左隣から労わる様に背をさすられる。
やさしいなあ。
頭をぐつぐつと煮込む熱と、反して体を氷の如く凍てつかせる悪寒に苛まれながら、親鳥よろしく匙を手にしていた暁に心癒される。
昨日と大して状況は変わっていない。なんとか上体は起こせるようになったが、動きの鈍い上にあちこちが痛む体を抱き締めベッドでうんうん呻るばかりの時間を過ごしている。けれど今だけは、憧れの猫カフェにでもいるような心地である。行ったことはないが。
『全部食べれたのえらい』
そう記し、空の器をほんのり笑顔で見せてくる彼のなんと尊いことか。
朧に、暁の爪の垢、煎じて飲ませてやりたいくらいね。
横になるのを手伝ってもらいながらそんなことを考えていると、未だ霞む視界で暁の眉が困ったように下げられた。
はたと思い至る。口にしてしまったらしい。
『朧には朧のやるべきことがある』
「……うん」
光る文字に声ごと首肯する。
『心波留のこと、心配してると思う』
「うん」
そうだといいな。
布団をかけてもらいながら、そんなことを考えてしまう自分を恥じた。
子どものように甘えるつもりはない。確かにそう思っているにも関わらず、薄膜を破るとそこに在る気持ちは本来在るべきものとは違うのだ。不調のためか、常よりもそのことがはっきりと心に現れてしまう。
『これからはもっと会わない日が増えると思う』
「……」
『でも、俺も会いたい』
『話したいよ』
驚いて心波留は、しかし目を見開けるほどの力が湧いてこない。
そうか、暁も。
「暁も、会いたいのね。そっか。そうよね。みんな会いたいわよね。今度一緒に文句言ってやらなくちゃ。怪我人だらけなんだから、見舞いくらい……来なさいよ……」
震えた声音はだんだん小さくなっていき、ついには途切れ、寝息に変わった。
心波留の額に滲む汗をタオルでそっと拭い、暁は出入り口である襖を見やった。
足音を殺してゆっくりと近づく。その際、デスクに突っ伏して仮眠をとっている満理と小春に会釈することも忘れない。寝ずの番で心波留を看ていてくれた二人だ。自分たちのミスで起こしてしまうわけにはいかない。
『どうして入って来ないんだ』
音もなく襖を開き、ばっちり目が合った人物へ向けて文字を放つ。
「こっぱずかしい話の気配がしたんだよ」
『なんだそれ』
仏頂面で声を潜める壱喜に呆れて肩をすくめる。彼にはよく「朧も暁も平気でこっぱずかしいこと言うから」なんてことを指摘されるがそんなことはないと思う。我々としては普通に会話をしているだけなのだ。というか、そんなこと言ったら壱喜だってよく爆弾を投下しているではないか。
「炎榮の奴、やっと捕まったと思ったら不機嫌でやんの」
『でもお湯沸かしてくれたんだな』
「まあな。でもタオル足りねぇかも」
壱喜が小脇に抱える湯たんぽは既にタオルでぐるぐる巻きだった。
「ん」と差し出されたそれに暁も触れてみる。
少しの間そうしていて悟った。
『本当に不機嫌だったんだな』
湯たんぽを手放し、熱を振り払うように軽く振る。掌はやや赤くなっていた。見れば壱喜の手も、暁のものよりやや濃い赤を帯びている。「タオル足りねぇかも」ではない。足りねぇ。
幸い今の医務室にはタオルやシーツが普段以上に集められている。二人はあーだこーだと話し合い、最後はタオルをもう三枚撒いた上で心波留の布団にそれを入れてやった。
『壱喜も休んだ方がいい』
『満理先生と小春さんが起きるまで、俺ここで看てるから』
壁際に並ぶパイプ椅子の一つに腰かける。すると当然のように壱喜もそれに続くものだから、暁は眉を顰めて文字を飛ばした。
「十分休んでるだろ。筋トレも何もしてない。……このやり取り何回目だよ」
『それだけ壱喜が頑固ってことだ』
「うっせーよ。ってか暁こそ休めよ。虚飾の神が来たらお前出なきゃだろ」
『どうだろう』
『今は負傷者が多いし、家で待機することになるかも』
「あー、そうか」
会話が途切れると――壱喜が黙ってしまうと――沈黙が空を支配する。
声を発せられない暁は主に筆談でコミュニケーションを図る。紙を持ち歩くと手が塞がってしまうため、霊力を対象の目前へ飛ばし文字を記すという、単純な手法を採用している。
聴覚は正常に機能しているため会話に困ることがほとんどないけれど、傍から見れば片方が一方的に話しているようで違和感ある絵面となっていることだろう。視えざる者には特に。
表に帰るにあたって、少しずつ本物の筆談にも慣れていかねばならないのだが、忙しさを理由に未だ取り組めずにいた。
ちょっとやってみようか。
紙とペンを探すべく、デスクの方へ視線を投じる。
と。
「暁は、星海が鞘を殺そうとした理由……知ってんの?」
不意にそんなことを問われた。
暁は壱喜を見た。
常に相対する者を真っ直ぐに射貫く彼の瞳は、しかし一向にこちらを見ようとしない。
ずっと考えているのだろう。
ずっと悩んでいるのだろう。
思って、こっそり嘆息する。
星海もそうだけど、お前はお前で焦ってるんだな。
『もしかしてこれかも』
『って思う理由に見当はつく』
『けど、直接本人から聞いたわけじゃないから本当のところは分からない』
『それを前提にした上でだけど』
『発言から察するに朧絡みなのは間違いないと思う』
はあ。
隣から大きなため息が放たれた。
「……愛が重くないか」
げんなりとした顔で壱喜は呟く。
『そうか?』と首を傾げる。
『俺は少し理解できるかもしれない』
「は?」
ぶんっと音が鳴りそうな勢いで壱喜の顔がこちらを向く。「信じらんねぇ」と訴えかける瞳には見慣れた光が宿っていた。
思ったよりも元気そうな幼馴染みの様子に安堵したのは内緒だ。
『大切な誰かを救うため、守るために邪魔な奴を排除する』
『俺たちにとっては簡単なことだ』
『それで満足いく結果が得られるなら俺はやってしまうかもしれない』
「おい、お前な」
精一杯声を潜めて抗議しようとする壱喜を、『でも』と遮る。
『朧だったらそんなことはしない』
『選択肢にすら入れないだろう』
『そんなことをしなくてもいい解決方法を探し、見つけ次第躊躇なく実行する』
『朧はとても強いから』
その強さが、完全性が、彼の欠点でもあるのだけれど。
内心で付け足すと、ついそこに思い馳せたくなってしまう。しかし現状、自分はそれを解決するだけの力も資格も持ち合わせていない。考えても無駄なことは早めに思考からばっさり切り捨てた方がいい。
『誰かを排除しないと望んだ結果を得られないっていうのは、弱さを証明しているだけなのかもしれない』
『俺も星海も、きっと弱いんだ』
『だから壱喜と心波留が正しいことをしているのを見ると、自分もこうならないと、って思える』
『つまりね』
『鞘さんが何者なのかは分からないけど』
『二人が守った人だから、まずは知る努力から始めてみようと思う』
『もし次があるなら、俺も守る側になるよ』
伝えたい事を一通り送り終えると、再び訪れるのは静寂だ。
だが今度は何かが違った。
どこからか微かに音が聞こえてくる。……ような気がした。
誰かの話し声?
まあ、家に人はいるわけだしおかしいことではない、けど。
なんだか嫌な予感がするな。
あまりにも小さいそれに気を取られていたせいで、暁はすっかり気づくのが遅れてしまった。
隣席から怒気が迸っていることに。
壱喜の眉間にくっきりと線が刻まれていることに。
あれ? 怒らせた?
予想外の彼の反応に暁は片頬を引き攣らせる。
『待った』
『場所を変えよう』
休んでいる三人を思い提案するも、壱喜は今にも食って掛かってきそうな雰囲気だ。
きっと自分が言葉選びを間違えたに違いない。さてどうしたものか。
困り顔の暁がこの状況を切り抜ける最適解を捻り出そうとしていた時のことだった。
スパ――――――ン!!
医務室の出入り口である襖がやたら派手な音をたてて開かれた。なんなら強烈な衝撃を受け、一枚は枠から外れ転倒してしまった。
「ん、なんだい!?」
「ひっ!? 朝ですか!?」
もう騒がしいどころの話ではない。せっかく仮眠をとっていた満理と小春が飛び起きてしまった。心波留だって眠りを妨げられたかもしれない。
他者への配慮が著しく欠けた蛮行に、暁と壱喜はすぐさま駆けだす。
「うっせーな! 誰だよ! 静かにしやがれ!」
こんな状況でも壱喜は小声で懸命に吠える。
そんな彼を前に、怪物はにぃと嗤った。
【虚飾の神――神殺し――】
退魔を生業とする人々はそれを問題視し、対策を検討した。
最初は、再び神に名を与え、その存在を祀ることで新たな一柱の神とすることが試された。
これこそが人と神との共栄関係を守りつつ、問題を排除するための最も効率的な方法と考えられていた。
しかし、穢れに身を堕としたことで、人でいうところの人格や精神を失った神は、意思疎通はおろか近づくことすら困難を極めた。まるで獣の魂を得た炎のように荒れ狂う神々を鎮めようと、多くの人間が凄惨な死を遂げた。
憎悪や敵対心が信仰を上回るのは、誰にも止めようがなかったことだろう。
いつしか、退魔を生業とする者たちは堕ちた神へ「虚飾の神」なる呼称を宛がうようになった。
「神」を信仰しつつ、堕ちた際は然るべき方法で対処することを決したのだ。
退魔師の中でも陰陽師は、虚飾の神の発生を確認後、速やかに“神殺し”を決行するという明確な方針を議決した。
”神殺し”とは、文字通り人の手で神を殺す禁忌の行為。行った者には「死」、「魂の消失」、「人格の消失」といった重篤な呪いが降りかかる捨て身の攻撃手段であった。
推奨されるものではないが、誰かがやらねば多くの命が犠牲になってしまう。
強い霊力を持ち、術の扱いに長けた若い陰陽師から、大義を盾に“神殺し”へ向かわされた。
選定された執行者が旅立つ前には、葬儀を兼ねた祝いの宴が開かれた。“神殺し”の執行者として選定されることは、強者として認められた栄誉の証であるためだ。
だが、死に行くことが前提とされた命がけの儀式であるにも関わらず、“神殺し”の成功は約束されたものではなかった。むしろ、限りなく不可能に近い行いであった。
それでもこれが今でも続けられているのは、生贄としての役割も担うからなのではと考える者もいるという。だが最も濃厚な説としては、誰もわざわざ口にしたりはしないが、他に成す術がなかったからだ。
同じ失敗を繰り返せば、選りすぐりの強者をただ火に投げ入れることがどれだけ無駄なことなのか、誰もが理解し始める。命をより有益に使うための術を、陰陽師らは独自に探し始めた。
“神殺し”の方法は日夜研磨されているという。様々な研究が進められているとのことだが、その詳細は不明である。
勉強はともかく、読書は好きな方だ。
妖。
半妖。
見鬼。
霊力。
神。
虚飾の神。
陰陽寮。
叢咲。
白鵲の巣。
狐。
蛇。
エトセトラ。
えとせとら。
薄闇の中、デスクライトだけが痛いほどに眩しく光を放っていた。
鞘は昨日から壱喜の部屋に籠り、彼が用意してくれた様々な資料を片っ端から漁らせてもらっていた。
机を使って構わないとか、布団ここに置くから使えよとか、時折声をかけてもらった記憶はあるのだが自分はそれにどう返したのだったか。もし失礼があったようなら謝らなければならない。
頭の隅でそんなことを考えながらも、口を吐くのは「ない」「なんでだ」といった焦燥の滲む言葉ばかり。
ずっと探しているのに。
これだけの資料があるのに。
デスクチェアに腰かけながらくるりくるりと回る。
床に築き上げた資料の山々を見下ろす。
ない。
これだけ探しているのに、「朧狐」に関連する資料が一切ない。
不自然なほどになにもない。
壱喜は、彼の持つ資料を全て鞘に貸し与えてくれた。
自習室にあるという共用の資料もいくつか持ってきて、「読みたかったら読め」と夜の内にデスクに置いていってくれたのだ。
あれ? となると彼は昨夜どこで休んだのだろう。
いや、それはまあ後にして。
意図的に資料の内容を選別されたわけではないと思われる。
目を通した資料には不自然な傷や切り取られた跡もなかった。
これだけ綺麗に情報が抜けているということは、最初から資料が存在しないと考えた方が自然なのではないか。
でもそんなことがあり得るのか。
「朧狐」は「白鵲の巣の管理人」だぞ。
今までに得た情報を整理してみると、より不自然さが際立ってくる。
白鵲の巣の存在が認められたのは二百年ほど前のこと。
そこからどれくらい間が空いてのことかは分からないが、白鵲の巣・白鵲の顕現に関わったとされる「蛇」は封印措置が取られ、「蛇」と縄張りを争っていたという「狐」は人に使役され白鵲の巣を人とともに守る役目を得た。
恐らく、この「狐」とそれを使役した人間が「朧狐」に関わる何か――もしくは「朧狐」の先駆けなのだろうと予想される。
だが、そう考えれば考えるほど、情報がないのはなおさらおかしい。
何故なら、「蛇」の封印、「狐」の使役には「陰陽寮」と呼ばれる組織が深く関与していることが記されている。
陰陽寮とは、古くから存在する退魔を生業とする組織らしい。時に妖を祓い、時に神と人との関係を調整する役割も果たしていたという。
そういった陰陽寮の役割、手元にある資料がどの視点から記述されているのかという点から推察するに、「狐」は陰陽寮の人間が使役したと考えるのが自然なように思う。
それが正しい場合、組織としてある一部の記録を完全に省こうとするのは何故だ。
これがよく刑事ドラマなんかで見られる、過去に不都合なことがあり葬り去られた事件だというのならまだ納得がいく。過去の痕跡が残っていた場合、いつか痛い所を突かれる可能性があるため記録は破棄される。または、意図的に残さないようにするだろう。
しかし白鵲の巣は今なお存在している。妖を祓う場として、虚飾の神を葬る場として機能している。それでも敢えて何の記録も残さないのは一体何故だ。
「……狐の使役者は陰陽寮の人間じゃない。先駆けは個人であり組織の人間じゃない。これなら記録を残すかは狐の使役者・先駆けに一任される。加えて、外部の組織が記録を残すのは不自然ということになる。けど……」
これは今手元にある情報から都合よく組み上げたシナリオに過ぎない。
歴史が長い分、壱喜個人や邸で保有している資料はごくごく一部でと考えると考えるのが妥当だ。
圧倒的に足りない。
知識が足りない。
資料が足りない。
足りない?
もし足りたら、俺は何がしたいんだ?
「……誰か、まだ見てないようなの持ってないかな」
立ち上がり、出入り口を目指して歩き出す。それだけで体のあちこちからパキパキバキバキと怪しい音が弾けた。同じ姿勢で座り続けたせいか、背中や腰の筋肉が吊ったように痛む。
手足も痺れているし、末端が冷え感覚が遠い。暗い中で長時間ライト一つを頼りにしていたことも悪かったのか、ちょっとした動きで視界の端から中央にかけて墨が水に滲むように暗くなっていく。像がいくつか重なって見える。よろよろと歩みを進めてみるものの、どういうわけか短いはずの距離がなかなか縮まらない。むしろ扉が小さくなっていくようにさえ思える。
もしかしてこれヤバいやつなのでは。
大分遅れて危険信号が薄っすら灯り始めた時。
目の前の扉が開き、三人の颯汰が慌てた様子で何事かを訴え始めた。
「……っす! ……がきます!」
あ、多分これ一人なんだ。
彼の口の動きをぼんやりと追いかける。
分からない。怒っているようにも困っているようにも焦っているようにも見えるが、どれも当てはまりそうで分からない。迷惑をかけていることは確実なので懇切丁寧に謝罪申し上げたいところではあるのだが、うまく言葉が出てこない。
急に、颯汰の姿が眼前から消えた。
入れ替わるように鞘の視界を支配したのは、鮮やかな京緋色。
目の前が真っ暗になる。
冷たくなった手が、温もりに包まれた。
「――呆れた。
お前、こんなところにいたのか」
ここまで読んでくださりありがとうございます。更新が随分と遅くなってしまいましたが、無事新章に入れたことを嬉しく思います。どうせ後でどこかしら直すことになると思うので、その辺のことは未来の自分に託そうと思います。頑張りたまえ。次回の更新もなるべく早めにできるよう、自分の気分と話し合って進めて行こうと思います。ではまた次のお話で。




