不馴れな瞳
「……」
「ひと段落ついたかな。んあ? 鞘君?」
い、今のは……?
驚愕のあまり固まっていると、久遠がひょこりと顔を覗き込んできた。眼前でひらひらと手を振られるが、すぐには応じられそうにない。
朧狐の能力が凄まじく、それが夢や幻などではなく現実の出来事であることは何となく、かろうじて飲み込めつつあった。しかし彼だけでなく他にも不思議な力を使う人間がいるだなんて。
というかこの世界、どれくらいの人がいるんだろうか。
何故彼らはあんな風に戦っているのだろう。
あの能力は何なんだろう。
思考が竜巻並みの渦を巻き始める。が、元より悩むことに意味はなく、鞘に求められる判断は事実受け入れの可否二択だ。
そのためには涼しい顔をしている現地住民に現状の説明を願う他ない。
「さっきのは、あの」
震える声で言えたのはそれだけだったが彼女には十分だったようだ。
「ああ、朝のじゃれ合い?」
なんのことでしょうか。
「武器を使った殺伐としたじゃれ合いなんて初耳です。……なんか、出て来てましたよね。急に、空中から」
「あれは壱喜君の……、朧と手合わせしてた子の霊力を武器に変換したものだよ。すごいでしょ」
「レイリョク? 変換?」
またよく分からない専門用語が出て来た。いっそ頭を抱えてしまいたいが、悲しいかな、抱えてどうなる問題でもないことは分かり切っている。
「君も見たと思うけど、昨日朧が妖と戦ってたでしょ? 他の子もおんなじ。妖とかその他諸々と戦えるよう日々自分の力を磨いているのさ」
「んんん?」
「それが壱喜君たちの場合霊力操作なんだよ」
「レイリョク、ソウサ? レイリョク?」
「君が聞いたことのある言葉だとー……霊能力とかが近いのかな? 表って神様は馬鹿にするけど幽霊とかは面白半分に信じてる人が結構いるでしょ? そういう不可視のものに触れる力をここでは『霊力』と呼んでいるのさ。ざっくり言うとだけどね。
霊力は、人間誰しも生まれながらに多少は持っているんだ。けど普通に生きているとその存在を感じることは滅多にない。存在を知らないまま生涯を終える人の方が圧倒的に多いだろう。それがあることを自覚して、訓練を重ねて、その量を増やしていくことでさっきの黒髪君がやったようなことも可能になるというわけ」
「へ、へぇ? えー……」
だめだ、全く意味が分からない。
ついに鞘は頭を抱えた。受け入れ可否の前段階で躓いてしまっている。同じ説明をもう一度聞いたとしても「ファンタジーだなー」で流せる自信しかない。
鞘からすれば、幽霊の存在を面白可笑しくも受け入れられて、妖や神の存在を受け入れ難いことには明確な線引きがある。
幽霊は実在した生き物や人間の魂や思念なのかもしれないが、妖は、神は、空想上の存在でしかない。古くから語り継がれた特別な物語。触れるだの倒すだの切るだの戦うだのする対象ではない。そもそも実在しないのだから。
だから「彼らはそういうものと戦ってます」といきなり紹介されたところで「ああそうですか」などと合点がいくわけもない。
「でも君は昨日、白鵲の巣に迷い込んで妖を見たし、朧の力に助けられて危機を脱したよね?」
知らず、思考が声を得てしまっていたらしい。
久遠の眼差しが「君の主張は当然だ」とでも言うように細められる。そして、それはそれとして事実はこうだと冷静に並べてくる。
「君は今もこうしてここに立っているじゃないか。ここまで歩いて来た。景色を見て『綺麗だ』と感銘を受け、宙を舞う物体に『花弁もどき』と仮名まで付けた」
「それは……」
「君の意見に反論したいわけじゃないけど、どうして幽霊を見たことのない君が、幽霊はどうやらいるらしいと面白半分にも信じることができて、一方で同じように今まで見たことのない妖や神を『お伽話だから実在し得ない』と言い切ることができるんだろう。妖に至っては実際その目で見ているのに。そしてここは神の心象世界なのに」
「……」
「幽霊には除霊という対抗手段が用いられることがある。妖や神にだって対抗手段がある。ただそれだけの話なんだよ」
「それだけ……」
首肯する彼女へ返す言葉が見つからない。
それだけ。これを「それだけ」と言うのなら、随分と壮大な「それだけ」ということになる。そのことをこの人は分かっているのだろうか。……いや、分かる分からないではなく、最早これは文化の違いと言って差し支えないように思えた。
「時間をかけて受け入れてもらう他ないかな」という彼女の言葉の真意を垣間見た、かもしれない瞬間であった。
「私の言葉でうんうん悩むなら気が済むまで朧に訊いてみたら?
おーい、朧ー!」
「ちょっ!?」
止める間もなく久遠が下方へ呼びかける。彼女の声は大きく響き渡り、しっかりと余韻を残した上で消えた。
もちろん、その消失を待たずして朧狐やイチキといった面々は上を向く。そうなれば自然と、呼びかけた久遠本人だけでなく鞘にも視線が注がれるわけで。
「おはよう久遠!
鞘、起きたんだな!」
朧狐に快活に呼びかけられ必要以上に大きく肩が震えた。人懐こい笑顔で手を振る姿に、安堵とやはり現実だったかという若干の落胆が入り混じる。
「ど、どうも……」
カチコチと音が鳴ってしまいそうな関節を懸命に動かし、手を振り返そうとして――
息が止まる。
少年少女は皆痛いほどに冷たい、まるで親の仇でも見るような鋭い目をこちらに向けていた。
頭が真っ白に塗り潰される。
視線の逃げ道すら封じられてしまった。
「え、と」
吐き出すようにして出した声。それが彼らの耳に届いたかは定かではないが、どちらにせよ凍結した空気は変わらない。彼らは微動だにせず、一様に鞘の――異物の動向を伺っているようだった。
一触即発。鞘が何かしでかそうものなら即時命さえ獲られてしまいそうな状況の中に、やんわりと。
「さ、朝稽古はここまで。そろそろ朝食だろ?」
のほほんとした声が溶け出す。
それだけで冷めきった場に温もりが戻った。
朧狐から発された言葉をきっかけに。
「今日は甘い卵が出るって聞いてるぞ。よかったな、壱喜」
「……いや、なんで俺だけに話振るんだよ」
「壱喜が甘党だからじゃない? よかったわね」
「甘党まではいかねーよ。ちょっと甘いの好きなだけで」
「よかったっすね、壱喜。いつかお子様ランチ食べに行きましょ」
「甘党どこ行った? いらねーよ。量が足りねーよ」
「恥ずかしがるなって。旗立ててもらおうぜ、弟のも合わせて三本な」
「んじゃお前の弟とお前が食えや。んだてめーら喧嘩売ってんな? どうせお子様って言いたいんだろ。あ? 買った上で勝つぞ」
「じゃあ喧嘩、じゃなくて勝負しましょうか。内容、家までランニング。壱喜、一着じゃなかったら卵もらうから」
「やんねーよ、俺が一番だからな!」
「あ! フライング! 卵は放棄とみなしますからね!
頭領、お先に失礼します!」
「ありがとうございました!」
「朧もちゃんと来なさいよ!」
あっという間に談笑が始まって。
あっという間に話がまとまって。
あっという間に少年たちは走り去っていった。
朧狐を一人残して。
否、彼が一人残ったというべきか。
「私も先に行くね」
呆気にとられていると久遠もまた走り出す。「ランニングとか久しぶりー」と間延びした声が言うが、鞘にできることは黙って揺れるポニーテールを見送るくらいのことである。
遠ざかる複数の足音に耳を澄ませていると。
「すまないな」
突として、隣からそんな言葉が投げかけられる。
凛とした声音が誰のものなのかは分かっていた。出会いの衝撃が強すぎて耳がその音をすっかり覚えてしまっている。何よりこの場には人間が二人しかいない。
彼を見れば、翡翠の瞳と出会う。二度目の邂逅でこんなことを思うのも変な話だが、相変わらず人とは一線を画する色彩と、それこそが彼であるとこちらに思わせる存在感がある。
朧狐は困ったような申し訳ないような顔で、それでも口元には笑みを湛えて続けた。
「表から人が来ることなんて滅多になくて、みんな来客に慣れてないんだ。不快な思いをさせたかもしれないけど悪気はなくて。許してほしい」
低頭しようとする彼。
鞘は慌てて制した。
慌てていたから、
だから咄嗟に――。
「え、いや、許すも何も慣れてるので……!」
「ん?」
「な、慣れてますから、大丈夫です」
ぎこちない笑みを浮かべた裏、猛烈な後悔に見舞われてしまう。やっちまったと叫び出したい気分だった。「慣れている」と言う言葉に嘘偽りは一切ないが、それはただ思うに留め別の返しをすべきだったのだ。
絶対空気悪くなる。
経験則からそう身構えていたが、
「慣れてるって?」
「え?」
予想に反し、彼はきょとんとした顔で首を傾げた。しかも「何に慣れているんだ?」とご丁寧に問を重ねてくる始末だ。
それ訊くの?
わからいでか。
純粋無垢を体言するような姿勢に毒気を抜かれてしまったが、感情の抜けた鞘の心に次いで生じたのは苛立ちだった。怒りとまでは言わないけれど、擦れるような痛みと熱とが胸を焦がした。
「だから、こんな、……こんな見た目ですから別に、気持ち悪いとかそういうのは慣れているというか」
わざわざこんなことを説明している自分はさぞ滑稽で惨めなことだろう。
そう思うと同時に、わざわざこんなことを説明させている彼には一生分かるまいと、握った拳の内に爪を立てる。
案の定、朧狐は眉を顰めていかにも不思議そうだ。
「? あいつらはお前のことを気持ち悪いだなんて思ってないと思うぞ」
「でもすごい見てました」
「それは来客に慣れてないから」
「それだけではないと思いますけど」
食い気味に言葉を被せてしまい、この感情をどう処理しようかと本気で考え始めた時。
「来客に慣れてないから敵味方の判断に迷っているんだと思う」
「……は?」
大真面目に言い切られ、唖然とする。
敵味方?
その言を咀嚼するのにしばしの時間を欲する程度には、想定外の返答だった。
開いた口が塞がらない。比喩ではなく、本気で。
「鞘は自分のこと、気持ち悪いと思うのか?」
微笑みと共に朧狐が問いかけてくる。
途端、鞘は耳まで赤く染め心底恥じ入った。全身の毛穴から汗がぶわっと噴き出す。
「自意識過剰」の文字が脳内を爆速で飛び交う。
何言ってんだろう!
何考えてんだろう!
さっき自分で思ったばかりじゃないか! ここは文化が違うと!
昨日まで生活していた世界では、鞘は疎まれやすい見目として周囲に認知されていた。それを自身でも十二分に理解していた。
しかし思い返してみれば、初めて朧狐に出会った時も、久遠と言葉を交わした時も、鞘の見目に二人が触れることはなかった。気にするような素振りすらありはしなかった。何より、両者ともに髪色の異質さで言えば鞘とどっこいどっこいだ。特に久遠。
「どうしたっ。気分悪いのか?」
朧狐は鞘の変化に目ざとく気づいたらしい。目を瞠って様子を伺ってくる。
その気遣いがひたすら申し訳ない。体温上昇、上限突破待ったなしだ。
「いや、そうじゃなくて……! すみません! 彼らがそう思ってるんじゃないかとっ! 髪とか目とか肌とか! 普通じゃないじゃないですか! 変だから睨まれたんじゃないかって勝手に……!」
「綺麗だと思うけど、何か駄目なのか?」
「ストレートに過ぎる! 駄目というか何というか……、本当にすみません、忘れてください!」
馬鹿みたいだ。
というか馬鹿だ。
恩人相手に何てことを。
俯いてあーだこーだと独り言ちる。
こうしている間にも朧狐は疑問符を浮かべているんだろうか。その可能性を考えるとより気まずさが増していく。顔は依然赤いが、先を思う気持ちとしては真っ黒だ。
「鞘」
不意に。
「鞘は自分の色が嫌い?」
鞘の顔をそっと覗き込んで、彼が尋ねてくる。
え、どう答えたらいいんだそれ。
自身の靴先を見下ろしながら最適解を模索する。「好き」でも「嫌い」でもちょっとした問題発言のような気がする。当たり障りない返答が妥当であり適切に違いない。
渇き切った口中で無いに等しい生唾を飲み下す。咽なかった自分へ称賛を送りたかった。
「こういうのは、俺がどうって話ではなくて」
「……」
「ここでは分かりませんが、その、表? ではいろいろあって……」
「……」
「いろいろ……ありまして」
眼前からの応えが一切ない。
無言の訴えとはこのことか。
何か言ってくれてもいいでしょ!
鞘は心中、声を大にして叫んだ。
「もう!」
その勢いのまま顔を上げる。
言ってやろうと思った。自分が白鵲の巣について知らないように、朧狐がいかに鞘の住んでいた世界のことを知らないか、具体例を挙げて懇切丁寧に説明申し上げる他ないと踏んだのだ。
けれど彼を見て思考は止まる。
鞘は彼の沈黙を”訴え”だと思っていたが、どうやら違うらしい。
彼には何の訴えもなさそうだった。
その瞳から読み取れる感情は透明で、唇は緩やかなカーブを描くのみ。
朧狐はただ静かに待っているようだった。
何を思うでもなく、鞘の返答を一途に待ち続けている。
「……きらいでは、ないです」
造形の話ではない。色の話だ。
自身によく言い聞かせ、呟く。
「そう」
朧狐は短く言ってその顔を綻ばせた。やわらかな、喜びに満ちた笑みで、大変満足気に歩きだす。
「時間を取らせて悪かった。ぼちぼち家に戻ろう」
「……はい」
鞘も遅れて後に続く。子どもの屁理屈を窘められたようで若干居心地が悪い。
けれどもう気持ちはなだらかに落ち着いていたし、何なら足取りも行きより随分と軽くなっていた。




